高等学校世界史B/インドの古典文明

気候編集

インドの東南の気候は、雨季と乾季のある、モンスーン気候である。モンスーン(monsoon)とは季節風のこと。現代のヒンドゥー教の神に雷神インドラがいるのは、つまりインドの気候では雷雨が起こるということである。

インドの北部と南部で気候が違う。北部は乾燥しており、雨季と乾季の差が、はっきりしている。南部は、年間をつうじて温暖である。

古代のインドの農業では、インダス川の流域では、乾燥した気候であり、小麦が主要な農産物であった。 いっぽう、ガンジス川の流域では、湿潤な気候であり、稲やヒエ・アワが主要な農産物であった。

古代インドの民族も、北インドを中心としたアーリア系と、南インドを中心としたドラヴィダ系とに分かれる。

インダス文明編集

インドでは、青銅器をつくれるインダス文明が、紀元前2500〜紀元前2300年ごろに起きた。民族については、ドラヴィダ人がインダス文明を作ったと考えられてるが、まだ学術的には不明である。

 
モエンジョ=ダーロの遺跡(いせき)。 世界遺産になっている。

遺跡では、下水道や浴場などの公共施設もそなえ、レンガ造りの建物のある、モエンジョ=ダーロという都市を作っている。遺跡には、モエンジョ=ダーロのほかにも、ハラッパーなどの遺跡がある。 遺跡には、穀物倉庫や沐浴場(もくよくじょう)などがあった。

インダス文明の遺跡からは、青銅器や土器が出土している。インダス文字が使われていた。インダス文字は、現代でもまだ解読されていない。

 
様々なインダス式印章。牛をモチーフとしたものが多い。インダス文字が刻まれている。

宗教については、印章や像などから、牛を神性視する信仰があったり、のちのヒンドゥー教のシヴァ神の原型と思われる像があったり、また聖樹や地母神などを崇拝していたと考えられる。

インダス文明は1800年ごろから衰退した。インダス文明の衰退の原因は不明であるが、森林伐採などの環境破壊説や、洪水説、気候の変化説などがある。


アーリア人編集

紀元前1500年に、北方の中央アジアのアーリア人(Aryans)が、カイバル峠を超えてインドに侵入し、インドのパンシャーブ地方を征服した。先住民は奴隷として支配される。アーリア人は、インダス川上流のパンジャーブ地方に定住して、農耕社会を築いた。

宗教について、アーリア人は、雷や火、太陽などの自然力を神として崇拝していた。それらの宗教知識をまとめた、インド最古の古典が、「ヴェーダ」である。『リグ=ヴェーダ』(Regveda)は、ヴェーダのうちの賛歌集である。

前1000年ごろ、アーリア人は、ガンジス川に進出する。また、同じく前1000年ごろ、青銅器から鉄器文明へと変わる。

この前1000年ごろから、支配者たちは身分制度を作り、神官のバラモンと呼ばれる階級を頂点とする身分制度を作った。この身分制度が、のちにインドの伝統的な身分制度のカーストにつながる。(※ 後世に、いわゆる「バラモン教」といわれるのは、このころの風習など。近代のイギリス人が「バラモン教」(Brahmanism ブラフマニズム)と名づけた。バラモンとは漢語に訳された際の「婆羅門」の日本式の音読で、サンスクリット語での正確な発音はブラフミン。古代インドの神ブラフマンとは異なるので、混同しないように。)

身分には、バラモン(神官、Brahmana)、クシャトリア(王族や武人、kshatriya)、ヴァイシャ(農民や商人などの平民、vaishya)、シュードラ(奴隷、shudra)の身分があった。

そして、この4つの身分を中心とした身分制度をヴァルナ(varna)と呼んだ。 さらに、ヴァルナの4つの身分をもたない、さらに低い身分がおかれ、さわるとけがれる不可触民(ふかしょくみん)とされた。

バラモンの権力は宗教だけでなく、政治などでも権力を持った。

都市国家編集

前6世紀ごろに、城壁を持った都市を中心とする都市国家が、いくつも生まれた。 そのような都市国家のなかでも、マガダ国(Magadha)やコーサラ国が有力になった。

マガダ国が前5世紀にコーサラ国を滅ぼした。

 
サーンチーの仏教遺跡

前600年ごろから、王族や商工業者が力を持ち、バラモンによる支配に不満をもった。 このような時代のなか、バラモンの身分的な支配を否定する、ジャイナ教仏教などの宗教が現れた。 ジャイナ教の開祖であるヴァルダマーナは、禁欲的な苦行や不殺生などによって、解脱できると説いた。仏教の始祖ガウダマ=シッダールタ(Gautama Siddhartha、のちにブッダ、buddha)は、解脱に必要なのは苦行かどうかではなく、正しい方法で修行すること(八正道、「はっしょうどう」)によって、解脱できると説いた。

「八正道」とは、八つの正しい修行法なので、「八正道」という。

(※ 高校「倫理」科目で、「八正道」などの仏教の内容を教わる可能性がある。このため、高校「世界史」の大学入試でも、「八正道」などの用語知識が問われる可能性がある。)
 
マウリヤ朝の領域。265年、アショーカ王の頃の版図。

前326年、アレクサンドロスの遠征軍がインダス川まで到達した。これによってインドの政治が激変した。前317年にマガダ国のチャンドラグプタマウリヤ朝を起こして、そして北インドを支配した。

マウリヤ朝3代目のアショーカ王のときに、インドをほぼ統一した(ただしインド南端部を除く)。これがインド史上、初めてのインド統一である。

アショーカ王は、武断政治を改めたのだろうか、(あるいは反乱を防ぎたいのだろうか、軍隊による暴力を独占したいのか、)仏教に帰依し、仏教を厚遇した。そしてアショーカ王は仏典の結集(けつじゅう、編纂のこと)を支援して、社会倫理を法勅(ほうちょく)としたダルマ(真理、法)を発し、ダルマを刻んだ石柱などを各地に作らせた。またアショーカ王は、病院や道路や貯水池などを作らせた。

アショーカ王の死後、マウリヤ朝は衰退し、帝国は分裂した。

仏教はセイロン島(スリランカ)にも前3世紀に伝わり、のちにセイロン島は上座部仏教(じょうざぶ ぶっきょう)の中心地になった。

クシャーナ朝と大乗仏教編集

前2世紀ごろ、マウリヤ朝は衰退しており、北西インドに、ギリシア人がパクトリア地方から侵入した。 つづいてイラン系遊牧民が北西インドに侵入した。

1世紀にイラン系のクシャーン人がクジャーナ朝(Kushana)をたてた。 2世紀のカニシカ王(Kanishka)の時代が最盛期。

ローマとの交易で儲けた。


起源1世紀の前後、仏教で、新しい運動が起きた。それまでの仏教は、出家と修行によって、悟りを開くものだったが、新しい仏教は、個人的な行為にすぎない修行よりも、菩薩(ぼさつ)を信じる心と、人々の救済こそが重要であると説き、これを大乗(だいじょう)と呼んだ。「大乗」とは、大きな乗り物という意味である。

いっぽう、今までの修行を中心とした仏教は、修行者個人の悟りという個人的利益を求めるにすぎないとして、旧来の仏教を批判し、これを「小乗」(しょうじょう)と呼んで、さげすんだ。

クシャーナ朝のカニシカ王は、大乗仏教を保護した。

インドでは、はじめ、ブッダを像にすることは恐れ多いと考えられていたが、しかしヘレニズム文化のギリシア彫刻などの影響を受けて、インドで仏像が作られるようになった。仏像が作られる前の時代には、菩提樹(ぼだいじゅ)などを、仏像のかわりに、拝めていた。

仏像などの美術が、ガンダーラを中心に広がったので、この時代のインド美術をガンダーラ美術という。

大乗仏教の体系化については、2世紀〜3世紀にナーガールジュナ(龍樹、りゅうじゅ)によって大乗仏教が体系化された。

南インドでは、サータヴァーハナ朝が成立した。この王朝は、北インドから、多くのバラモンをまねいて、北インドの文化も取り入れた。

グプタ朝編集

4世紀前半にマガダ地方でチャンドラグプタ1世がグプタ朝をたてた。第3代のチャンドラグプタ2世のときに北インドの大半を支配し、最盛期になった。 また、グプタ朝の公用語は、バラモンの言葉であるサンスクリット語(Sanskrit)を公用語とした。

(サンスクリット文字は、日本や中国では梵語(ぼんご)、梵字(ぼんじ)と言われ、日本では墓の卒塔婆(そとば)などに書かれることが多い。なお、卒塔婆の語源も、インドの言葉の「ストゥーバ」である。)

 
踊るシヴァ神の像

このグプタ朝の時代に、ヒンドゥー教が広まった。ヒンドゥー教は、バラモン教に民間信仰が融合して、バラモン教が再興した宗教であると考えられている。

ヒンドゥー教は多神教である。ヒンドゥー教の神では、破壊と創造の神であるシヴァ神(Siva)や、世界・宇宙を保持する神であるヴィシュヌ神(Visnu)などをまつっている。

ヒンドゥー教は特定の教義や聖典を持たない。


文学では、この時代に、二大叙事詩『ラーマーヤナ』(Ramayana)『マハーバーラタ』(Mahabharata)がまとめられ、ほぼ現在に近い内容になった。

ラーマーヤナの内容は、王子ラーマと、その妻シーターとの物語。

また、ヴァルナの規範について『マヌ法典』がまとめられた。

自然科学では、数学ではゼロの概念や10進法が、この時代のインドで生み出された。

この数字の表記法をもとにインド数字が生み出され、そのインド数字はのちにアラビアのイスラーム世界に伝わり、アラビア数字のもとになり、それがヨーロッパに伝わったのが、今日のアラビア数字のもとである。このような、この時代のインドの数学によって、のちの時代の世界の数学が大きく進歩した。

詩人カーリダーサ(Kalidasa)により戯曲『シャクンタラー』(Shakuntala)がつくられた。

 
ナーランダー僧院

勃興するヒンズウー教に理論の深化を迫られた仏教はナーランダー僧院を5世紀に建設した。このナーランダー僧院が、インドでの仏教研究の中心地になった。 のちの時代に、中国の唐の僧である玄奘(げんじょう)が留学して仏教を学んだ学校が、このナーランダー僧院である。

グプタ朝は、5世紀には地方勢力を抑えられなくなり始め、異民族エフタルによる西北インドへの侵入などもあり、6世紀にグプタ朝は滅亡した。

7世紀に、ハルシャ=ヴァルダナ王が北インドを一時的に統一してヴァルダナ朝を築くが、王の死後、王朝は崩壊した。そして8世紀から13世紀まで、インドでは、いくつもの王朝が分立抗争する状態が続いた。

仏教については、仏教を保護していたグプタ朝が、6世紀からのグプタ朝の衰退と滅亡したことにより、仏教やジャイナ教を攻撃してヒンドゥー教への帰依を説くバクティ運動(bhakti)が6世紀半ばから激しくなった。

ヒンドゥー教と日本の仏教編集

ヒンドゥー教の神々は、日本の仏教にも、名前を変えて、伝わっている。 たとえば七福神の一人である大黒天(だいこくてん)は、ヒンドゥー教の破壊神であるシヴァ神が、黒い姿を取ることからマハー・カーラ(大黒、だいこく)と呼ばれ、それが由来になり、日本では大黒天と呼ばれた。さらに、神道の国津神(くにつかみ)の大国主(おおくにぬし)と、シヴァ神が一体視され、それがこんにちの大黒様(だいこくさま)として、まつられているのである。

他にも、帝釈天(たいしゃくてん)は、ヒンドゥー教の雷神インドラである。 また、七福神の一人である弁財天(べんざいてん)は、日本では芸術と学問の神であるが、これは、ヒンドゥー教の川の神である女神サラスヴァティーである。吉祥天(きっしょうてん)は、主神ヴィシュヌの妻ラクシュミーである。

なお、日本語の「奈落」(ならく)、「瓦」(かわら)、「刹那」(せつな)の語源はサンスクリット語である。(参考文献: 東京書籍の教科書『世界史B』)

韋駄天(いだてん)の元ネタも、ヒンドゥー教のようであり、シヴァの息子は足が速かったらしい。