高等学校世界史B/ビザンツ帝国と東ヨーロッパ

ビザンツ帝国 編集

東ローマ帝国のことをビザンツ帝国(Byzantine Empire)ともいう。 「ビザンツ」の名称の由来は、首都のコンスタンティノープルの旧名ビザンティウムに由来する。

ビザンツ帝国ではギリシア古典文化の影響が強く、ビザンツ帝国の公用語もギリシア語が7世紀から用いられている。

 
サン=ヴィターレ聖堂のモザイク。中央の黒服の人物がユスティニアヌス帝。

6世紀、ユスティニアヌス帝(Justinianus)が、イタリアの東ゴート王国とアフリカのヴァンダル王国をほろぼし、イベリアの西ゴート王国からも領土の一部をうばい、ローマ帝国時代の地中海の覇権を回復した。 ユスティニアヌス帝は、『ローマ法大全』を編纂(へんさん)させた。また、ハギア=ソフィア聖堂(hagia sophia)を建立(こんりゅう)した。また、中国から養蚕(ようさん)技術を取り入れた。

この時代の前後、ビザンツ帝国は商業で栄え、貨幣経済であり、貿易での東西交易の中継地点として栄えていた。 ビザンツ帝国は、専制国家であり、皇帝の権力が強い。またビザンツ帝国では、教会よりも皇帝の権力がとても強く、皇帝はギリシア正教会(Greek Orthodox Church)を支配していた。

ゲルマン諸国家どうしの対立もあり、西方のゲルマン諸国家はビザンツ帝国に服従していった。

ユスティニアヌス帝の死後、領土は縮小したが、経済ではビザンツ帝国は東西貿易のかなめとして、長らく繁栄した。しかし11世紀ごろになると、イタリアの諸都市が東西貿易に進出し、ビザンツ帝国による東西貿易への影響力は落る。

ビザンツ帝国の滅亡は1453年にオスマン帝国に攻撃されて滅亡する。


 
ハギア=ソフィア聖堂(イスタンブル)。ビザンツ様式でもある。
 
ハギア=ソフィア聖堂の内部


 
聖母子を描いたイコン。『ウラディミルの聖母』12世紀。

ギリシア正教会とローマ教会は対立していた。 726年に皇帝レオン3世(Leon III)が聖像禁止令(iconoclasm)を出して聖像・聖画像(イコン、ikon、icon)を禁止すると、布教に聖像・聖画像を用いていたローマ教会は強く反発した。 レオン3世が聖画像を禁止したのは、イスラームの偶像崇拝禁止の影響をうけてのことである。

のちに、聖像禁止令は843年に撤回される。

7世紀以降、異民族の侵入に対処するため、地方に軍の駐屯地をおいて、その駐屯地の司令官に民生と軍事の両方の権限を与えるという軍管区制(ぐんかんくせい、テマ制 ,Thema)が行われた。軍管区では、農民に土地を与えるかわりに兵役義務を課す屯田制(とんでんせい)が行われた。

ビザンツ文化 編集

 
ギリシア正教の修道院。メテオラ修道院(ギリシア)。

ビザンツ帝国では、ギリシア語の古典文化が中心に研究されつつも、ローマ法も研究された。 ビザンツ帝国の公用語は7世紀以降はギリシア語である。こうしてビザンツ帝国には古代のギリシア文化が残り、のちの14世紀ごろにビザンツのギリシア文化がイタリアに伝えられてイタリア=ルネサンスの一因になる。

ビザンツ帝国の美術では、ドーム屋根やモザイク壁画などを用いた教会建築のビザンツ様式があり、首都のハギア=ソフィア聖堂や、ラウ゛ェンナのサン=ヴィターレ聖堂などが代表的である。 また、聖母子などを描いたイコン(ikon、icon)も、ビザンツ帝国の美術の特徴である。

スラブ人 編集

古代に、カルパティア山脈の北方に、インド=ヨーロッパ語系のスラブ人(slavs)が住んでいた。

ロシア 編集

9世紀にノルマン人がキエフ公国をたてた。このキエフ公国が、のちのロシアの起源である。 10世紀、ウラディミル1世(Vladimir I)がビザンツ帝国との友好を強め、ギリシア正教を国教にし、またビザンツ帝国の皇帝の妹と結婚した。ウラディミル1世は周辺諸国と戦い領土を広げ、その地方の諸国での盟主となった。

13世紀にモンゴル人がロシアを支配して、キプチャク=ハン国をたてた。13世紀にロシアがモンゴルに支配されたこのことを、ロシアでは「タタールの軛」(くびき)という。 15世紀末にイヴァン3世(Ivan III)が東北ロシアを統一して、モスクワ大公国(Moskva)と呼ばれるにいたった。 そして15世紀末の1480年、イヴァン3世の率いるモスクワ大公国は、モンゴル人(キプチャク=ハン国)の支配から脱した。

またイヴァン3世はビザンツ帝国との友好を強め、ビザンツ皇帝の姪(めい)と結婚し、イヴァン3世はローマ皇帝の後継者を自認してツァーリ(Czar)という称号を自称した。「ツァーリ」とは「カエサル」が語源である。

東欧諸国 編集

西スラブ 編集

いまの東欧あたりに相当する地方の、古代にロシアの西方に住んでいた西スラブ人は、やがてポーランド人・チェコ人・スロヴァキア人などに分かれた。これら西スラブの諸国は、西ヨーロッパとの交流が強く、ローマ教会を受け入れ、言葉の発音はロシア語に近いが文字にはラテン文字を用いた。

  • ポーランド

ポーランドのもとになった王国は9世紀〜10世紀に建国された。ポーランド人(Poles)の国は14世紀前半にはカジミェシュ3世によって統一され繁栄した。15世紀にドイツ騎士団に対抗するため、ポーランドはリトアニアと合体してヤゲウォ朝(Jagiellonowie)のリトアニア=ポーランド王国を建て、ポーランド人のその王国は強大になった。

バルカン半島 編集

バルカン半島周辺の南スラブでは、スラブ系はセルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人などに分かれた。 ブルガール人(Bulgars)は、トルコ系であり、もともとは非スラブ系である。

  • ブルガリア

ブルガール人が7世紀にバルカン半島北部で建国し、のちにビザンツ帝国に併合されてギリシア正教に改宗し、そしてスラブ化していった。そして12世紀に独立してブルガリア帝国とつくるが、14世紀にオスマン帝国に併合される。

  • セルビア

南スラブ系のセルビア人は7世紀にバルカン半島に定住し、そしてビザンツ帝国に服従してギリシア正教に改宗し、12世紀に独立して、のちにオスマン帝国に14世紀ごろから支配される。

未分類 編集

  • ハンガリー

マジャール人(Magyars)が、10世紀にハンガリー王国(Hangary)を建てた。宗教ではカトリックを受け入れた。