高等学校世界史B/フランスの宗教戦争と絶対王政

※ 概要 編集

※ この節「概要」にある語句はのちの節で後述するので、節「概要」を読んでいる現時点では覚えなくていい。

読者の高校生のきみたちは、おそらく中学校で、ルイ14世が「王権神授説」をとなえた「絶対王政」の君主であると習ったと思う。

では、フランスのその「絶対王政」がどうやって出来たかというと、さまざまな理由が考えられるだろうが、大きな理由として、絶対王政になる以前のフランス国内で、中学校では習ってないが(次に述べるように)宗教対立による内戦があったのである。

フランスでは16世紀の後半、フランス国内での王族たちの王位継承争いなどとも絡むが、フランス国内がカトリック信者とプロテスタント信者(フランスでは「ユグノー」という)とに分かれて、数十年にわたる戦争があったのである。

フランス政府は、この内乱の宗教戦争を終わらせるために、フランス国王の権力によってカトリックもプロテスタントも押さえつける必要があり、そのためフランスでは中央集権化が進められたのである。

つまり、宗教よりもフランス国内の団結心・愛国心をフランスは重視したのである。

そして、当時のフランス国王アンリ4世は、(実質的には)カトリックとプロテスタントの両方の信仰の自由を認める「ナントの王令」(ナント の おうれい)を発して、この宗教戦争を終結させたのである。

宗教戦争の終戦後も、フランスでは中央集権化が進められた事により、国王の権力が強まり、しだいに国王が政治を行うようになり、ルイ14世が大人になると、国王ルイ14世が直接的に政治を行った(ルイ14世による親政)。もちろん、王権が強化されるという事は、相対的には貴族の権力は低下するので、貴族などによる反抗はあったが、フランス国王は、このような貴族との戦いにも勝利していった。このようにして、フランスはいわゆる絶対王政になったのである。

しかし、フランスは、(おそらく王権を強化させたいつもりだったのだろうが、)ルイ14世の時代に周辺国に侵略戦争をしたり、ヴェルサイユ宮殿を豪華にしたりするが、それがかえってフランスの国民の税負担を増していったので、国民の不満を増していく。しかもルイ14世は、ナントの王令を廃止してしまい、商工業者がフランス国外に脱出したりするなど、さまざまな混乱が起き、ルイ14世の没後はフランス国王の影響力はしだいに弱まっていく。

わかりやすく言うと、アンリ4世がすごく有能で、アンリ4世がせっかく「ナントの王令」などの改革をして内乱終結をしたのに、のちにルイ14世が低能だったので、ルイ14世はアンリ4世の中央集権化の仕組みだけを真似て、しかしアンリ4世の現実的な有能さについてはルイ14世は真似できず、それどころかルイ14世の馬鹿は「ナントの王令」を廃止してしまい、そしてルイ14世の時代からフランスは国力低下した。

このようなフランス国民の不満の増大が、のちのフランス革命につながる、・・・というわけである。


フランスの宗教戦争 編集

 
サン・バルテルミの虐殺 1572年に起きた、カトリック信者によるテロ事件。アンリ4世の結婚式でパリにあつまったユグノー信者をカトリック派が襲撃し、3000人をこえる死者が出たと言われる。

フランスでは16世紀の後半、貴族や商工業者が、ユグノーと呼ばれるカルヴァン派の新教を支持した。フランスでは、ユグノーとカトリック教会とは対立した。

そして両派の対立は戦争になり、1562年にユグノー戦争になった(いわゆる「ユグノー戦争」(1562年 〜 98年))。また、サン=バルテルミの虐殺などの宗教テロ事件も起きた。

この宗教戦争は30年ちかく続き、スペインやイギリスなどの外国の干渉も起き、フランス国内は疲弊したので、フランスは信仰よりも国内のまとまりを重視するようになった。そして1589年にアンリ4世が王になり、ユグノーとカトリックの両者にそれぞれの信仰の自由を認め、戦争を終わらせた。

アンリ4世じしんはユグノー信者であったが、戦争を終わらせるためにカトリックに改宗した。そして1598年のナントの王令(「ナントの勅令」とも言う)でユグノーに信仰の自由を認めた。

アンリ4世は、中小貴族を官僚として積極的に登用した。

こうして、フランスでは宗教の権威よりも国王の王権を尊重する社会へと、なっていった。

ルイ13世の宰相(さいしょう)であるリシュリューは、貴族やユグノーと対立し、三部会を開かなかった。しかし、ルイ13世時代の王権がユグノーと対立したからといって、けっしてカトリック陣営になったわけではなく、国際政治ではハプスブルク家をくじくため、三十年戦争(※ 後述する)ではフランスは新教側についた。(なお、三部会は以降、ルイ16世の時代の1789年まで、ずっと開かれないままである。)

このようにしてリシュリューの宰相の時代から、フランスで王権を強化する政策がつづいた。

ルイ14世の幼少時代には宰相マザランが同様に王権強化をすすめる改革をすすめた。マザランの宰相時代の1648年に、高等法院と貴族による反乱であるフロンドの乱(1648年 〜 53年)が起きたが、王権は数年でフロンドの乱を鎮圧した。

ルイ14世の時代 編集

 
ルイ14世

1661年にマザランが死亡し、ルイ14世が親政(王が直接に政治をする事)を行うようになった。ルイ14世は官僚制を整えたり、軍隊の常備軍化をすすめたとされる。また、ルイ14世は豪華なヴェルサイユ宮殿をパリに建築させた。そしてこの宮殿に芸術家などをあつめ、一時期フランスはヨーロッパ芸術の中心地になった。

ルイ14世は王権神授説をとなえ、ルイ14世は「朕は国家なり」と述べたと伝えられており、ルイ14世は「太陽王」とも呼ばれたと伝えられている。

また、ルイ14世は、周辺国の王位継承などにたびたび干渉し、フランスは周辺国を相手にたびたび侵略戦争をした。(ルイ14世は、南ネーデルランド継承戦争、オランダ戦争、ファルツ戦争などを起こした。)

そして戦費や宮廷費が多額になったのでルイ14世は増税でまかない、ルイ14世は1685年にナントの王令を廃止したので、ユグノーの商工業者が大量に外国に亡命してしまったので、フランスは経済的な損失をした。

スペイン継承戦争によってルイの孫がスペイン王になったが、しかし結果的に上述のようなフランス国内の混乱により、フランスの国力は低下した。