高等学校世界史B/フランス革命とナポレオン

フランス革命の理想と現実

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中学校ではフランス革命は、民主主義のさきがけの出来事として、かがやかしい出来事として習うかもしれない。だが、じっさいのフランス革命で起きたことは、革命に対して批判する反対派の人間を、多数、処刑しまくるという、「恐怖政治」(きょうふせいじ)であった。

つぎのような出来事が、フランス革命で起きた。

経緯

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フランス革命後、オーストリアやプロイセンがフランス革命を非難したため、1792年にフランスはオーストリアに宣戦したが、フランス軍は緒戦で敗退をつづけた。しかし、フランスの民衆は、この敗戦の責任を、フランスの国王が裏切ってるに違いないなどと考え、フランス国王など王族に責任をなすりつけた。そして、そのようにフランス国王が裏切り者だろうと考えたフランス義勇兵とパリの民衆が、テュイルリー宮殿に乱入し、こうして王権が停止した。

1792年9月に、男子普通選挙による国民公会(こくみん こうかい)が開かれ、王政の廃止と共和政(第一共和政)の成立が宣言された。

ルイ16世と王妃マリー=アントワネットが国外のオーストリア(マリーの実家がオーストリアにある)に逃亡をしようとしたが、逃亡は失敗した。革命政権は、この事でルイ16世とマリー=アントワネットを処刑に追い込み、1793年、ルイ16世およびマリー=アントワネットはギロチンで処刑された。

イギリスは、フランス王ルイ16世を処刑した革命フランス政府を嫌い、また革命の広がりをおそれて、イギリスはフランスを敵視した。 イギリス首相ピット(Pitt)は、フランスに反対するロシアやプロイセンなどと共に、第1回対仏大同盟を結成した。

このような情勢のもと、フランスの国民公会では、急進的で中小農民などに支持されたジャコバン派と、保守的なジロンド派が対立していたが、ジャコバン派が有利になり、ジロンド派を追放した。そしてジャコバン派が政権となった。

ロベスピエール

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そして政権となったジャコバン派の中心人物のロベスピエール(Robespierre)は、1793年、徴兵制の導入や、また暦について十進法を徹底した革命歴(共和歴)の導入などの政策を急進的に行う一方、公安委員会を用いて、反対派を多数処刑するなどの恐怖政治(Reign of Terror)を行った。

このような恐怖政治に商工業者などが不満を持った。ついに1794年7月に、ロベスピエールを倒すためのクーデターが起き(テルミドール9日のクーデタ)、ロベスピエールは逮捕・処刑された。

なお、共和暦の導入理由には、キリスト教に対する反発という説もある。

(共和歴は、現在のフランスでは用いられておらず、1806年に共和歴は廃止された。現在のフランスではグレゴリウス歴に復帰している。廃止された理由として、あまりにも共和歴が不便だったという理由が、よく挙げられる。結局、共和暦は、たったの十数年しか用いられなかったことになる。)

フランス革命による改革

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革命中の1790年のころフランスでは、さまざまな改革が行われた。

長さの単位系であるメートル法は、このころにフランスが中心となって制定されたものである。(1799年にメートル法を制式採用。)

なお、重さの単位の「グラム」も、この頃に制定されていった。(※ 検定教科書の範囲内。実教出版の教科書などで確認。)

フランスは、度量衡(どりょうこう)を統一しようとしたのである。

※ ウィキペディア日本語版の記事『キログラム』によると、べつに革命政権が度量衡統一を開始したのではなく、ルイ16世の政権下の頃から既に、重さの単位の統一作業が始められてたらしい。どうやら、度量衡の統一作業中に、フランス革命(1789年に本格化)が起きた、・・・というのが真相であるようだ。


ナポレオンとその後

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1799年、ナポレオンはクーデタで統領政府を樹立し、みずから第一統領となり、政治の実権をにぎった。

中学校での内容の復習

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フランス革命後、ナポレオンの統治していたころのフランスは、ロシアを征服しようとして1812年にロシア遠征したが、フランスは大敗をした。モスクワを占領したものの、モスクワの街はロシア軍によって既に焼き払われており(いわゆる「焦土作戦」、しょうどさくせん)、そのうち冬が到来し、きびしい寒さのため、フランス軍は冬をこせなかった。そうして弱ったフランス軍に、ロシア軍が反撃してきたのであった。

ロシア遠征の大敗後、フランスは諸国に攻め込まれ、ナポレオンは失脚し、1815年にナポレオンはエルバ島に流された。

そして、フランスではルイ18世が即位して、ブルボン王朝が復活し、いったんフランスは王政に戻った。

エルバ島からのナポレオンの脱出

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ナポレオンはエルバ島に流されたといっても、次に説明するような経緯によって、またまたナポレオンがらみの戦争が起きた。

ナポレオンは、1815年にエルバ島から脱出し、1815年の3月にフランスのパリにもどり、フランス国民からの支持のもとにナポレオンは帝位を取り戻す。

諸外国のイギリス・オランダ・プロイセン(ドイツ)はナポレオンをみとめず、フランスに対抗する同盟を結び合う。 そしてナポレオンは諸外国に攻め込む。こうして1815年の6月に、フランス 対 周辺国 の戦争である ワーテルローの戦いが起きる。(ワーテルロー、waterloo) このワーテルローの戦いでフランスは、負けてしまう。こんどはナポレオンは大西洋のセントヘレナ島 (Saint Helena) に流されてしまう。

けっきょく、ナポレオンが皇帝に返り咲けた期間は、100日ほどであった。これを「百日天下」(ひゃくにちてんか、仏: Cent-Jours, 英: Hundred Days)という。1821年にナポレオンはセントヘレナ島で死亡する。

そして、フランスでは、ブルボン王朝が復活したことにより、ルイ18世がフランス国王につき、いったんフランスは王政に戻った。フランスでは、これからしばらく王政が続く。

ナポレオンの改革

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ナポレオンの統治期間中、フランス国内で、法律や行政などの改革が進んだ。

フランスでは民法が改革され、契約の自由、私有財産の不可侵(つまり 所有権の絶対性)、などが民法典などで明記された。

この、ナポレオン統治時代に改革されたフランス民法およびフランス民法典を、一般に「ナポレオン法典」という。


ロシア遠征に至る経緯

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ナポレオンの失脚の発端は、1812年でのロシア遠征でのフランスの敗退であろう。きびしい寒さなどのため、冬にフランス軍は敗退したのであった。

  • 大陸封鎖令 → ロシア遠征

ではなぜ、そもそもナポレオンがロシア遠征をしたのか。その理由は、ナポレオンはイギリスと戦争していたので、欧州諸国にイギリスとの通商を禁止させる大陸封鎖令(たいりく ふうされい)を1806年に出したのだが、ロシアが封鎖令に従わなかったのである。ロシアは穀物などをイギリスに輸出した。

(なお、じつは前年の1805年の時点で、フランスはイギリスに トラファルガーの戦い(海戦)で敗北している。つまりイギリスの勝ち。フランス(ナポレオン)の負け。しかし同1805年のアウステルリッツの戦いで、オーストリア・ロシア連合軍にフランスは勝利している。)

なお、この時代のイギリスの産業では、産業革命がすでに進行しており、よってイギリスの産業競争力、経済力などに、産業のおくれたフランス経済では勝ち目が無かったので、どのみちフランスによるイギリス封鎖令は失敗する運命だったのだろう。

※ 21世紀現代のロシア地方の農業については、『中学校社会 地理/ロシアと周辺の国』『高等学校地理B/地誌 ロシアと周辺』 などで学んだように、ロシア南部や西部は以外と温暖であり、農業生産量も多い。かならずしもナポレオンの時代と21世紀現代とでは、国境も違うだろうし、農業技術も違っているだろうが、そういう細かいことは大学の歴史学に回すとして、高校では地理科目などと関連づけると覚えやすいだろう。


  • 対仏大同盟 → 大陸封鎖令 → ロシア遠征

ではなぜ、イギリスとフランスは戦争に至ったのか。

それは、反フランスの立場の諸国による対仏大同盟に、イギリスが対仏大同盟の主要国として参加してたからである。

補足

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  • ライプツィヒの戦い

ロシア遠征の敗退後に、ナポレオンを捕らえるに至った戦争が、戦場がドイツになったライプツィヒの戦いである。(Leipzig、ライプティヒ)

ロシア遠征(1812年)でのフランス敗退後、1813年に反フランスの諸国(イギリス、ロシア、プロイセン、スウェーデンなど)がフランス攻めこもうとして、ドイツのライプツィヒで決戦になった。 このライプツィヒでの決戦で、フランス軍は敗退して、フランス軍は後退した。そして翌年1814年にパリまで占領されて、ナポレオンは失脚しエルバ島に流されるに至った。

ナポレオン戦争の結果

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  • いったんフランスは王政に戻り,フランスではブルボン王家が復活する。スペインでも王政が復活するなど、ヨーロッパでは王政は素晴らしいものだという価値観が、政治闘争では有力になる。
  • ヨーロッパ諸国は協調体制になる。そのため、ナポレオン戦争中の各国で湧き上がった愛国心(ナショナリズム)や自由主義などは、各国で、おさえつけられるようになった。
  • しかし庶民などにとっては、このような不自由で、中世に逆戻りしたかのような国際体制が、気にいらない。

次の「ウィーン体制」の単元で、このナポレオン戦争後の時代を学んでいく。


ナポレオンとドイツ

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ナポレオンがフランスの皇帝になったばかりの頃、フランスの隣国であるドイツは、ほとんどフランスと戦わなかったようだ。(もしくは,まったくフランスと戦っていない。)

まず、ナポレオンがフランス皇帝に即位したのが1804年である。

1805年に、イギリス・ロシア・オーストラリアは第3回対仏大同盟を結成し、フランスと戦う。

なお、この結果、トラファルガーの戦いが同1805年10月に起き、イギリス海軍人ネルソンひきいる艦隊が活躍し、フランスを負かす。
いっぽう、ヨーロッパ大陸では、フランスが、フランスと敵対するオーストラリア・ロシアの連合軍を、同1805年、アウステルリッツの戦いで破る。

そして1806年、ナポレオンは大陸封鎖令を出し、イギリスと諸国の通称を禁止させようとする。

1806年、フランスは南西ドイツ諸邦とライン同盟を結ぶ。

※ 検定教科書を読む限り、ナポレオン即位から同盟までの期間、上述のように、まったくドイツはフランスと戦ってない。


国民意識

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フランス革命やナポレオンの活躍により、フランスでは、国民としての意識が芽生えた。

※ これは別にwikiの独自見解ではなく、山川「高校世界史B」や東京書籍「世界史B」などに普通に書かれている。

また、国語教育も重視され、それにつれて地域言語は否定されていった。(東京書籍の見解)

※ 現代では経済のグローバル化が進んでいるので国民意識と民主主義を同一視するのが難しいかもしれないが、しかし歴史的にはそうではない。

こうして、「国民国家」としてフランスは変化していった。

また、ナポレオンの戦争は、従来の絶対王政の戦争ではなく国民戦争という側面をもっていた(東京書籍の見解)。


フランスに攻め込まれたドイツでも、ドイツの哲学者フィヒテが、連続講演「ドイツ国民に告ぐ」により、ドイツの大衆に対してドイツ人としての国民意識を覚醒するように訴えつづけた。(東京書籍の見解)

詳しくはドイツの単元で説明するが、ドイツ(プロイセン)でもフランスに対抗するために農民開放や行政改革などがシュタインやハルデンベルクにより進められることになる。

こうして、のちに世界において近代国家の手本が、国民国家となっていった。


  • 文化への影響
 
ベートーベン

ドイツの音楽家ベートーベンは、フランス革命中にナポレオンが台頭した当初、民主主義を夢見てナポレオンを応援した。ベートベンの交響曲『英雄』はナポレオンをたたえる曲である。しかしナポレオンが皇帝に即位すると、単なる独裁者だとしてベートベンはナポレオンに失望したといわれる。

 
ゴヤ『マドリード、1808年5月3日』
スペインの民衆は、ナポレオンの兄を国王にむかえることを拒否し、蜂起した。ナポレオンはこれを弾圧した。


イタリア遠征など

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ナポレオンはフランス革命中、エジプトやイタリアに遠征している。なおエジプト遠征の理由は、敵国イギリスとその植民地インドとの連絡を絶つためである(※ 山川出版の詳説世界史Bの見解)。

 
「サンペナール峠を越えるナポレオン」ダヴィド作

画家ダヴィドによるナポレオンのアルプス越えの絵画も、このイタリア遠征を描いたものである。

 

ナポレオンの戴冠式に出てくる教皇(ナポレオンの後ろに座っている人物)も、ローマ教皇である。(※ ローマは事実上の現在のイタリアに相当する。バチカン市国とかそういうのは考えないことにする。)

※ コラム:日本への影響

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※ 第一学習社『世界史A』が紹介。

日本はナポレオン活躍の当時、江戸時代であり、ヨーロッパ情勢についてはオランダから情報を得ていた。しかしオランダがフランス軍に占領されると、オランダは日本との貿易が不利になることをおそれ、幕府にナポレオン関係の情報を隠した。

しかし江戸幕府は、オランダからの情報がなにかがおかしいことに気づき、蘭学書や漂流民からひそかにヨーロッパ情勢の情報を得ており、こうしてナポレオンについての情報が日本の江戸幕府に伝わっていった。

ナポレオンについては、そのうち日本でも日本人の翻訳した蘭学書などで紹介されるほどになっており、幕末のころには、たとえば西郷隆盛が尊敬する人物としてナポレオンと(米国の)ワシントンをあげていたほどである。