高等学校世界史B/フランス革命の経緯

フランス革命 編集

フランス革命以前は身分は、聖職者である第一身分、貴族である第二身分、平民である第三身分、と3種類に分かれていた。(なお、このような、フランス革命前のフランスの制度のことをアンシャン=レジーム(旧制度)という。)

革命以前は人口の9割以上は第三身分であり、さらに人口の8割ほどは農民だった。 いっぽう、フランス国土の3割〜4割ほどが彼ら第一身分と第二身分の保有する土地だった。

そして平民は、領主に税を納めるために課税させられていた。いっぽう聖職者は、課税が免除されていた。

しかし啓蒙思想などの影響で、政治の見直しをもとめる気運が起こり、シェイエスは小冊子『第三身分とは何か』を刊行して第三身分の権利を主張した。

さて、国王ルイ16世が王権をひきついだ頃、ルイ14世など先王たちの度重なる戦争の戦費もあって、フランスの財政は悪化していた。

 
サン・キュロット
この時代、貴族は半ズボンを描いていたこと。サン・キュロットとは、半ズボンをはいてない者という意味で、民衆を意味していた。この絵は民衆が革命旗を持っている様子を描いている。

ルイ16世紀は財政改革のため、第一身分など特権階級にも課税しようと改革をこころみ、ルイ16世は銀行家ネッケルなどの人材を登用したが、しかし税制改革は貴族の抵抗にあい、そのため1789年に三部会が招集された。(なお、以前の三部会は、ルイ13世の時代に開かれた1615年の三部会だったので、実に百数十年ぶりの三部会である。)

ヴェルサイユで三部会が開かれると、第三身分は議決方法をめぐって特権身分と対立した。そして第三身分は独自に集会をひらいて「国民議会」と自称し、憲法が制定されるまで解散しないことを誓いあった ( 球戯場の誓い )(「きゅうぎじょう」と読む。「球技」ではないので注意)。

なお、フランス国王は国民議会を認める方針であったとも伝えられるが、国王はしだいに議会を軍隊で弾圧しようとした、と伝えられる。

フランスの第三身分は7月に(国王の本音が国民議会の弾圧にあると考えたのか)バスティーユ牢獄を襲撃した。そして全国的に農民放棄の反乱が広まった。

こうしてフランス革命が本格化していった。


そして8月、国民議会は封建制の廃止を宣言し、それによって 領主裁判権 および 教会への十分の一税 は廃止されたが、いっぽう、一般の領主への地代は維持された。

ついで同8月、国民議会は『人権宣言』を採択した。

そして同1789年の10月、女性を先頭にしたパリの民衆数千人がヴェルサイユに行進し、国王一家をパリに連行した。

そして国民議会もパリに移り、以降のフランス政治の中心地はパリになった。


1792年、国民議会(フランス議会)はオーストリアに宣戦したが、緒戦ではフランスは敗退した。 そしてオーストリア・プロイセンの連合軍がフランスに侵入したので、フランスでは義勇兵が立ち上がった。

愚かなフランス大衆は、これらの緒戦の敗退の原因を、旧貴族や国王の裏切りのせいだと決め付けたので、フランス国王の権威はますます低下した。


そして同92年の8月、パリ民衆とフランス全土からパリに集まった義勇兵が、テュイルリー宮殿に乱入し、王権を停止させた(8月10日事件)。

そして翌9月には、(選挙制度および議会制度として)男性普通選挙による国民公会が成立し、王政の廃止が宣言され、共和制が宣言された。

 
ギロチンによって処刑されたルイ16世の首

国民公会ではジロンド派と急進派であるジャコバン派(「山岳派」ともいう)が対立していた。当初はジロンド派が優勢だったが、しだいにジャコバン派が優勢になった。そして1793年1月、ルイ16世はギロチンで処刑された。

イギリスは、この処刑を期に、革命がイギリスに波及することを警戒して、イギリス首相ピットはフランス周辺の国々(プロイセンやロシアなど)に対仏大同盟をよびかけ対仏大同盟を結成した。

いっぽう、フランスではジャコバン派政権のロベスピエールが公安委員会をつくって、反対派を処刑するなどの恐怖政治を行った。

 
メートル法の導入をよびかけるイラスト

なお同じ頃、ジャコバン派政権によってフランスにおける徴兵制の導入、革命暦の導入が行われた。また、憲法制定以前から度量衡(「どりょうこう」、意味: 長さ、重さなどの単位のこと)の整理が企画されていたが、憲法制定後にメートル法が導入され、メートルやグラムが導入された。

そしてフランスでは、しだいにロベスピエールの独裁に対する不満が高まり、ついに1794年7月にテルミドール9日のクーデターによってロベスピエール政権が倒され、ロベスピエールは処刑された。

そしてジャコバン派は失墜し、1795年には穏健共和派によって新憲法が制定し、フランス政治は財産額によって選挙権を制限する制限選挙制になった。

1796年、フランス軍人ナポレオン=ボナパルトがひきいる部隊が敵国のオーストリア軍をやぶったことで、ナポレオンの評判が高まった。(※ ナポレオンだけがフルネームで「ボナパルト」まで氏名を紹介されてるのが、読者には奇妙に思えるかもしれない。しかし日本の高校の教科書では、なぜかナポレオンだけ特別扱いされてフルネームで紹介されるので、残念ながら高校生は、こういう表記に従うしかない。なお、政治学用語または哲学用語で「ボナパルティズム」という、ナポレオン=ボナパルトに由来する語がある。)

また1798年、ナポレオンらは敵国イギリスとインドとの連絡を絶つために、エジプトに遠征した。(なお、ロゼッタストーンが発見されたのは、この遠征中の1798年である。)

 
ナポレオンの戴冠式(たいかんしき)
この絵で手に冠をもっている人がナポレオン。皇后ジョセフィーヌに冠をさずけようとしている様子が描かれている。ナポレオンの後ろに座っているのは、ローマ教皇ビウス7世。ナポレオン自身も冠をかぶっている。

1799年にイギリスがロシアなどに呼びかけて第2回対仏大同盟が結成されると、ナポレオンはひそかにフランスに帰国し、ナポレオンは11月にクーデタを起こしてフランスの政権をにぎった(ブリュメール18日のクーデタ)。

そしてナポレオンひきいるフランスは、それまで対立していたローマ教皇と1801年に和解し、翌1802年にはイギリスとも和解(「アミアンの和約」)したので、対仏大同盟は存在理由がなくなり、いったん対仏大同盟は消滅した。(※ 「和約」の「約」の字に注意。「和訳」ではない。)


1804年には『ナポレオン法典』によって、私有財産の不可侵などが定められた。そして1804年に議会の圧倒的支持のもと、ナポレオンは帝位につき、『ナポレオン1世』と称した(第一帝政)。


第3回対仏大同盟 編集

第2回対仏大同盟が消滅したにもかかわらず、1805年には第3回対仏大同盟がイギリス・ロシア・オーストリアによって結成された。

フランス海軍は1805年にイギリス海軍を相手にトラファルガーの海戦でたたかったが、フランスは敗退した。(なお、このトラファルガー海戦でイギリス海軍は提督ネルソンが指揮していた。)

しかしフランスは、陸戦では同1805年のアウステルリッツの三帝会戦でオーストリア・ロシアの連合軍を破った。


そして1806年、フランスはドイツ西部諸国とともにライン同盟を結成し、フランスはドイツ諸国の保護者となった。また、このライン同盟にともない神聖ローマ帝国は消滅した。

1806年、プロイセンはロシアと共同してフランスと戦ったが、フランスに破れてしまい、ロシアもフランスに同様に破れてしまったので、1907年にはフランスとの和議を結ばされた。

 
ゴヤ『マドリード, 1808年5月3日』 フランス軍に抵抗したスペイン市民が銃殺される様子が描かれている。画家ゴヤが(ナポレオン失脚後の)1814年にフランスに対する批判の意味で描いた。

同じころ、フランスは、イギリスを経済的に孤立させるために大陸封鎖令を1806年に発し、大陸諸国にイギリスとの貿易を禁じた。(現代語で言うところの、いわゆる「経済封鎖」を、ナポレオンはこころみた。)

しかし、やがてロシアが封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出したので、1812年にフランスはロシアに遠征したが、このロシア遠征でフランスは敗退してしまい、この敗退をきっかけに各地で反乱が起き、1813年には反フランスの諸国がライプツィヒの戦いでフランスを破り、翌1814年にパリを占領した。そしてナポレオンは諸国軍に捕らえられ、エルバ島に流された。 ナポレオンがエルバ島に流されたあと、フランスではブルボン王朝が復活し、ルイ18世が即位した。

その後ナポレオンはエルバ島を脱出して復帰したが、しかしワーテルローの戦いで再びナポレオンは破れてしまい、セントヘレナ島に流されてしまい、以降、ナポレオンの復帰は無く、ナポレオンはセントヘレナ島で没した。

こうしてナポレオン本人は失脚したが、しかし「私有財産の不可侵」などの民主的な考えかたはヨーロッパに広がり、以降、諸国は民衆を尊重せざるを得なくなっていった。

※ なお、ナポレオンがエルバ島を脱出して政権復帰してから、セントヘレナ島に流されるまでの政権期間のことを、(およそ100日であるため、歴史用語で)「百日天下」という。(※ 検定教科書では、どの教科書でも「百日天下」は太字になっておらず、あまり意義の無い用語だと考えているようだ。当時の人が「百日天下」と言ったかどうかは記述されてない。)

ドイツでのナショナリズム 編集

ドイツがナポレオンに占領されていた頃の1807年、プロイセン人思想家のフィヒテは、ドイツの民衆に(ドイツへの)民族意識を鼓舞しようと『ドイツ国民に告ぐ』と題した講演で、プロイセン人に(ドイツ国民としての)国民意識(いわゆる「愛国心」)の必要性を主張した。(この時点では、まだ統一国家としての「ドイツ」は存在してなかった。ナポレオンが占領する前の「ドイツ」は、プロイセン等のいくつかの国が分立していた状態である。)

また、1807年、プロイセン宰相のシュタインは農奴解放および付随する様々な自由化(営業の自由化など)を行った。あとの地位を継いだ宰相ハルデンベルクも同様に様々な改革を行った。(シュタインとハルデンベルクは、営業の自由化(つまり、ギルドの特権廃止)、教育改革、都市の自治化などの改革を行った。)

(※ ハ「イ」デ「ル」ベルク(×)ではなく ハ「ル」デ「ン」ベルク。「貼るでん、ベルク」とかコジつけて覚えよう。)