高等学校世界史B/ヨーロッパ封建社会の動揺
中世イギリス
編集ノルマンコンクエスト
編集1066年にノルマンディー公がイングランドを征服し、イングランド王ウィリアム1世としてノルマン朝(1066〜1154)をたてた(ノルマン コンクエスト)。
フランス北部にノルマンディー公国がある。西フランク公国(今でいうフランス)とノルマディー公国は、異なる国である。 西フランク公国(今でいうフランス)とノルマディー公国は、隣接している。
このようなノルマンディーの地理的な状況のため、ノルマン朝の王族・貴族は、領地はイギリスだけでなく、フランスにも領地を持っていた。(このため、フランスとイギリスが、のちのこれらのノルマンディー周辺の領土をめぐって、のちに争う。)
マグナカルタ
編集ノルマン朝は断絶して(1154年)、フランスのアンジュー伯がヘンリ2世(Henry II)としてプランタジネット朝(1154〜1399)をたて、フランスにも広大な領地を領有していた。しかし、その子ジョン王(John)のとき、フランス王フィリップス2世と戦って敗れ、フランスの領地の大半を失った。さらに、戦争遂行のために重税を課したので、諸侯や貴族などが反発し、1215年にマグナ=カルタ(Magna Carta、大憲章)を王に認めさせた。マグナ=カルタは、あらゆる課税には、高位の聖職者や高位の貴族による了承が必要になることを定めている。このマグナ=カルタが、のちのイギリスの立憲政治の基礎になる。
- なお、ジョン王は、司教の任命の権限を教皇インノケンティウス3世とあらそって(叙任権闘争、じょにんけんとうそう)、教皇によってジョンは破門され、破門を解いてもらうために教皇に屈服するという失態をおかしたこともある。
ジョン王のつぎのヘンリ3世がマグナ=カルタを無視したため、シモン=ド=モンフォール(Simon de Monfort)を中心とする貴族が反乱を起こし、国王軍をやぶった。そして国王にせまり、1265年にそれまでの高位聖職者や高位貴族たちの協議会に、それまで協議会に含まれなていなかった、各州の代表者を、新たに加えた。
模範会議
編集その後1295年にエドワード1世(Edward I)が召集した会議が、のちに模範会議(もはん かいぎ、Model Parliament)と言われるようになった。
そし14世紀には貴族院(上院、House of Lords)と庶民院(下院、House of commons)の二院制をとるようになった。
フランスの中世
編集フランスのカペー朝は、はじめ王権はパリ周辺の北フランスを中心とする、弱体な王権だった。しかし、その後、王権と領土を増していく。 12世紀末にフィリップス2世(Phillippe II)は、イギリス王ジョンと戦い、ジョンに勝ち、フランス国内の旧イングランド領の大半をうばう。
さらにルイ9世(Louis IX)が、アルビジョア十字軍をもちいて、南フランスの諸侯を制圧し、アルビやベジエなどの街を攻撃し、南フランスを併合した。ルイ9世はアルビジョア十字軍の出兵のため、異端カタリ派の制圧をかかげていた。
- 教会使節はベジエのすべての住民の虐殺を命じたという。もし殺した相手が異端なら地獄に落ち、殺した相手がカトリックなら天国に行くから、殺しても問題ない、というような論理で、住民虐殺を正当化し、「すべてを殺せ。」と主張したという。
その後、フィリップス4世はローマ教皇ポニファティウス8世と対立したが、1302年にフィリップス4世は聖職者・貴族・平民からなる三部会(さんぶかい、Etats generaux)をひらき、その支持を得て、教皇を屈服させ、王権をさらに強化した。
貨幣経済の進展と政治権力の変化
編集14世紀ごろから、貨幣経済がヨーロッパに行き渡る。すると、それまでの生産物を中心とした荘園では、経営が行き詰まるので、貨幣で地代を徴収する領主が出て来た。 また、農民が市場で生産物を売るなどして、貨幣をたくわえる農民も出て来た。 このようなことがあり、農民の地位が高まった。
そして、貨幣を調達するには、優秀な農民を集めなければならず、なので領主は農民を待遇を改善するため、農奴(のうど)の扱いを改善しなければならなくなり、結果的に農奴(のうど)という奴隷的な扱いを廃止し、農民が自由市民になっていった。
とくにイギリスでは、貨幣経済の進展もあってか、この農奴解放の現象が顕著で、ヨーマン(yeoman)と言われる独立自営農民が誕生した。
いっぽう、各国各地の領主の中には、社会の変化に対応できず、落ちぶれていく領主も出て来た。
14世紀に入ると、ヨーロッパでは人口が減少し始める。原因としては、通説では、気候の寒冷化、ペスト(黒死病)の流行、戦乱などが挙げられる。
- (※ 範囲外)背景として、一説には、13世紀後半までの人口増加が、食料生産の限界による飢饉や、主に都市部などでゴミや排泄物の処理といった衛生処理の限界を超えたことによる疫病の蔓延であるという説もある[1]。
さて、人口がヨーロッパでは減少したことにともない、ヨーロッパでは人手不足のため労働力が不足した。
にもかかわらず、領主の中には改革をせず重税で当面の問題解決しようとした領主もいたり、また当時あった戦争の戦費の負担を農民に押し付ける国王がいたりしたので、ヨーロッパでは一揆が増えた。
14世紀後半のフランスのジャックリーの乱や、イギリスのワット=タイラーの乱が、農民の一揆として有名である。 どちらの一揆とも鎮圧されたが、しかし貨幣経済に対応できない領主が世間には多かったようで、領主の多くは落ちぶれていった。
また、この頃、王権の強大化もあり、国王や有力者に領地を没収させる領主もあり、領主の多くはますます厳しい状況になった。
また、14世紀ころから火砲が誕生し、戦争の戦術が変わっていくと、むかしながらの一騎打ちを花形としていた騎士の立場はきびしくなり、騎士の没落の原因になった。
そして、没落した旧来の領主によって手放された土地を、都市の大商人などが購入して、大商人などが新しい領主になった。
こうして、荘園制を基盤とする封建社会は、しだいに解体していき、かわりに貨幣経済と絶大な王権を基盤とする社会になっていく。
教皇権の衰退
編集各国で王権が強まったことや、十字軍の失敗により、ローマ教会の権威は低下した。
その結果、各国の国王は教会からの破門をおそれずに、教会に従わなくなった。
フランスでは、聖職者への課税をめぐって、聖職者に課税しようとする国王フィリップス4世と、課税に反対していた教皇ポニファティウス8世が対立した結果、1303年に国王派が教皇を監禁してしまうアナーニ事件が起きた。
教皇は解放されたが、まもなく死去した。
1309年には、教皇庁を強制的に移転させ、南フランスのアヴィニヨン(AVignon)に移転させた。これを、古代のバビロン捕囚にたとえて、「教皇のバビロン捕囚」(1309〜77)という。その後、教皇庁がローマにもどると、今度はフランスは対抗して、アヴィニヨンに別の教皇をたてた。こうして、ヨーロッパで複数の教皇が並び立った。これを教会大分裂(1378〜1417)または大シスマという。
これにより、各地で教会を改革しようという運動が起きた。 いっぽう教会は、カトリックの教えに逆らうものを異端審問や魔女狩りなどで処刑していった。
14世紀後半、イギリスのウィクリフ(Wycliffe)が教会の改革をとなえ、聖書の教えにもとづくべきとし、当時の教会は聖書から外れていると批判し、また聖書を英訳した。 ベーメンのフス(Hus)も、ウィクリフの説に賛同して、教会を批判した。
しかし教会は、かれらの説を認めず、コンスタンツ公会議(1414〜18)を開いて、ウィクリフとフスを異端と認定し、フスを火刑に処し、異端問題を終結させようとした。
しかし、ベーメンではフス派がチェコの民族運動とむすびつき、教会に反対する戦争(フス戦争)が起きるなど、教会から人心は離れていき、教皇権の権威は戻らなかった。
これが、近世初頭の、ルターなどによる宗教改革につながっていく。
百年戦争 と ばら戦争
編集百年戦争
編集毛織物産地として有名なフランドル地方への利権をめぐって、イギリスとフランスが対立をした。 なおフランドル地方の場所は北フランスにある。
イギリス国王エドワード3世(Edward III)は、母がカペー家出身であることからフランス王位継承権を主張し、これをきっかけに百年戦争が始まった。
戦局ははじめイギリス軍が優勢であったが、しかし最終的にイギリスは敗れる。 フランスでシャルル7世(Charles VII)が即位したころはフランスは降伏寸前であった。
このころ、1429年に神のお告げを聞いたと信じる、農民の娘であるジャンヌ=ダルク(Jeanne d′Arc)が現れ、英雄視された。(ジャンヌ=ダルクは実在の人物) フランス側の言い伝えでは、ジャンヌがフランス軍を先頭で率いて、要衝オルレアンの防衛に成功し、それから、つぎつぎと敵を破ったという。
さて現実では、このオルレアンの防衛戦以降、フランス軍は勢いを盛り返し、フランスに侵入したイギリス軍を破り、最終的にイギリス軍をフランスから追放し、そして戦争は1453年にフランスの勝利で終わった。
この百年戦争の結果、イギリスはわずかにカレー市(Calais)を残して、大陸の所領を失った。
フランスでは、この戦争の結果、諸侯・騎士が没落した。いっぽう、シャルル7世は常備軍を設置して、中央集権化が強まった。またフランスでは、官僚制も強まった。
バラ戦争
編集いっぽう、イギリスでは、百年戦争ののち、イギリス国内での王位継承権をめぐっての内乱で、ランカスター家(Lancaster)とヨーク家(York)が争った。これをバラ戦争という。
イギリスの諸侯・騎士は両派に分かれた争い、結果的に諸侯・騎士は没落した。そして結局、この内乱をしずめたヘンリ7世(Henry VII)が1485年にテューダー朝(Tudor)をひらき、王権に反対する勢力を処罰するための星室庁(せいしつちょう)裁判所をウェストミンスター宮殿の「星の間」(ほしのま)に設置し、イングランドは絶対王政へと向かった。
こうして王権については、イギリス・フランスの両国とも王権が強化され中央集権化へと向かい、両国とも絶対王政へと向かっていった。
ドイツとスイス
編集今でいうドイツの地方を支配していた神聖ローマ皇帝は、イタリアの利権をめぐって、イタリアに遠征ばかりしていて、イタリア政策に熱中していた。そのため、ドイツ地方には皇帝は不在になりがちで、なのでドイツでは諸侯や都市が自立化して台頭した。そのため、皇帝権が弱体化した。
そしてドイツは、大諸侯たちの領邦(りょうほう)の連合体となった。
さらに、シュタウフェン朝(Staufen)が断絶し、事実上は皇帝位のいない「大空位時代」が生じた。その後、皇帝は出たが、皇帝権は低迷した。
皇帝カール4世(Karl IV)は、有力者による選挙によって皇帝を決める「金印勅書」(Goldene Bulle)を1356年に発布して、聖俗7名からなる七選帝侯(せんていこう)が皇帝を選挙する制度を定めた。
15世紀半ばから、ハプスブルク家(Habsburg)から皇帝が選出されるようになった。
いっぽう12世紀からエルベ川の以東でドイツ人の植民が進んだ。ブランデンブルク辺境伯領や、ドイツ騎士団領がつくられた。
スイスでは、13世紀にハプスブルク家の支配に抵抗する独立運動が起こり、こんにちのスイスの母体になった。
北欧では、14世紀末に同盟勢力が台頭した。説明すると、北欧で14世紀末、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの3ヶ国がカルマル同盟をむすんだ。この同盟はデンマーク女王マルグレーテ(Margrete)の主導による。
イタリア
編集13世紀末、イタリア南部ではシチリア王国が分裂し、ナポリ王国とシチリア王国に分かれた。 12世紀以降、イタリア北部では都市国家が成立し、ヴェネチア・フィレンチェ・ミラノ・ジェノヴァなどの都市国家が分立した。
12世紀〜14世紀、神聖ローマ皇帝がイタリア政策によって介入してくると、これらのイタリア諸国家では、教皇派(ギベリン)と教会派(ゲルフ)とに別れて派閥争いをして混乱をした。
イベリア半島でのレコンキスタ
編集イベリア半島は711年からイスラーム系のウマイヤ朝に征服されていた。その後、後ウマイヤ朝に変わったが、依然としてイベリア半島はイスラーム系の王朝の勢力下だった。
しかし、キリスト教の勢力がイベリア半島を奪回しようという闘争であるレコンキスタ(国土回復運動、再征服)が起こり、そしてイベリア半島北部からキリスト教の勢力がもりかえして、キリスト教の領土を広げ、12世紀にはイベリア半島の半分ほどを支配下においた。
そしてキリスト教圏として回復された領土には、カスティリア王国、アラゴン王国、ポルトガル王国の3ヶ国がたてられた。
その後、カスティリア王女イザベルとアラゴン王子フェルナンドとの結婚により、カスティリア王国 とアラゴン王国が合併して、スペイン王国となった。そして軍事ではスペイン王国が1492年、イスラーム最後の拠点グラナダを占領し、レコンキスタを完成させた。
その後、スペインやポルトガルは、大航海時代に関わっていくことになる。
- ^ ロジャー・プライス著、『ケンブリッジ版世界各国史 フランスの歴史』河野肇 和訳、創土社、2008年8月1日 第1刷発行、食料生産の限界については23ページ、衛生処理の限界については28ページ、