前1000年ごろ、イタリア半島の北方から、イタリア人が南下して、イタリア半島に定住した。 その南下してきたイタリア人の一派のラテン人(Latins)が、都市国家を建設した。この都市国家がローマ(Roma)である。

いっぽう、イタリア半島の先住民族のエトルリア人(Etrusucans)の文化は、ギリシアの影響を受けていた。ラテン人も、ギリシアの影響を受けた。

ローマ共和政

編集

前6世紀末に、エトルリア人の王を追放し、貴族中心の共和制(res publica)になった。

ローマ市民の身分には、貴族(パトリキ、patrici)と、中小農民を中心とする平民(プレブス、plebs)という身分差があった。


2名の執政官コンスル、consul)が任期1年で、政治を行った。

しかし政治の実権は、有力な貴族からなる元老院にあった。また、非常時には、独裁官(どくさいかん、 ディクタトル、dictator)が置かれた。

しかし、このような貴族中心の政治に対して、重装歩兵として従軍した中小農民の不満が高まり、貴族と平民が対立した。政治において、平民の権利を守る護民官や、平民会が設けられた。

また前450年ごろに、従来の慣習法が成文化され、十二表法(じゅうにひょうほう、XII tables)として制定・公表された。さらに前367年のリキニウス=セクスティウス法(Leges Liciniae Sextiae)により、執政官(コンスル)のうちの一人は平民から選ばれるようになった。

さらに前287年のホルテンシウス法(Lex Hortensia)により、平民会の決議は、元老院の許可なく国法となることが定められた。

しかし、ローマの民主政では、上層の貴族が、貴族とともに新しい支配階層(レビウス)を形成したので、ギリシアのアテネのような民主政とは異なる。

地中海地域の征服

編集

ローマは前3世紀前半に、イタリア半島全土を支配した。

  • 分割統治など

ローマは支配した諸都市に、個別にローマと同盟を結ばせ、それぞれ異なる権利と義務を与え、各都市の権利に格差をつくった。いっぽう、征服された都市どうしで同盟を結ぶことを禁止した。こうすることで、諸都市どうしが団結することを、ローマは防いだ。ローマは、このような分割統治(ぶんかつとうち)という支配方法を、征服された諸都市に行った。

ローマ帝国は、支配地の被征服都市の一部の上層民にも、市民権を与えたのである。その被征服民の市民権は、制限つきのものであり、ローマ市民の市民権の一部にすぎなかったが、ともかく被征服都市にも市民権があった。なので、ギリシアのポリスのような、被征服民が市民権を持たなかった国とは、ローマは、ちがうのである。このようなローマの統治の仕組みによって、うまく反乱がおさえられて、大帝国を築かせたのであろう。

  • ポエニ戦争

このころ、地中海西方のカルタゴ(Carthago)が、地中海の権益をにぎっていた。カルタゴは、フェニキア人がたてた植民市である。ローマは、この地中海西方の国のカルタゴと衝突した。そして最終的に、3回にわたる、ローマ対カルタゴの戦争になった。この3回のローマ対カルタゴの戦争が、ポエニ戦争である。

第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバル(Hannibal)の軍勢の侵攻によって一時的にイタリアに侵入されたが、その後、ザマの戦いでスキピオ(Scipio)の軍勢がハンニバルの軍勢を倒した。

そして、ローマは前146年に、第三次の戦争でカルタゴを完全にやぶり、ローマは勝利した。

その後、ローマは、ギリシア、西アジアなどの、東方のヘレニズム世界にも進出して支配した。そして、地中海のほぼ全域が、ローマの支配下になった。

  • ポエニ戦後のイタリア経済

これらの戦争のあと、イタリアでは、中小農民が没落した。属州から流入する安価な農産物に、イタリア本土の農家が価格競争で負けたためである。

いっぽう、属州の土地などの統治をまかされた元老院議員や、属州での徴税をまかされた騎士などは、市場向けの安価な農産物などを生産させ、市場での価格競争で勝ち、おおいに儲けた。属州では、戦争で獲得した奴隷をつかって、大土地の農地で、大いに作物が生産された。このようなローマによる大土地農地での奴隷による生産法をラティフンディア(大土地所有制、Latifundia)という。ラティフンディアでの農産物では、オリーブ、ぶどう、小麦などが栽培され、市場に出荷された。

没落した無産市民はローマに流入し、有力者はかれらを保護するかわりに、選挙などでは保護してくれた有力者を支持するように、しむけた。(いわゆる「パンとサーカス」。)

内乱の1世紀

編集

こうして、イタリアでは貧富の格差が拡大していった。このような格差の拡大に危機感をいだいたグラックス兄弟は、護民官になり、改革を行い、貴族による土地所有などに制限をもうけたが、反対派であった元老院によって、改革は挫折した。グラックス兄弟のうち、兄は暗殺され、弟は自殺に追い込まれた。

イタリアの政治では、平民派の政治家と、元老院や貴族などの派閥である閥族派(ばつぞくは)の政治家とが、対立するようになった。

イタリアの政情は不安定になり、内乱も、なんどか起きるようになった。前73年ごろには、奴隷が見世物として剣闘士として殺し合いをさせられたり、あるいは猛獣との死闘などをさせられていたのだが、この剣闘士だった奴隷が反乱をおこす、スパルタクスの反乱が起きた。スパルタクス(Spartacus)によって率いられた反乱なので、こう呼ばれる。

このような内乱の鎮圧によって、軍人政治家が台頭した。軍人政治家のポンペイウス(Pompeius)、および軍人政治家のカエサル(Caesar)が、台頭した。

ポンペイウス、カエサル、さらに、富豪のクラッスス(Crassus)の3人が、おたがいに盟約を結んで、国の政権をにぎった(第1回 三頭政治)。(このことを三頭政治(さんとうせいじ)という。)

その後、カエサルとポンペイウスは対立し、その後、カエサルはガリア遠征の成功によって権力をにぎり、そしてカエサルがポンペイウスをたおして勝利した。

カエサルは独裁官に就任し、権力の確立をすすめたが、前44年に、共和派のブルートゥス(Brutus)によってカエサルは暗殺された。

カエサルの養子であるオクタウィアヌス(Octavianus)が、カエサルの人気を継いだ。

第2回三頭政治で、オクタウィアヌスと、カエサルの部下だったアントニウス(Antonius)と、レピドゥスが協力しあった。

プトレマイオス朝(エジプト)の女王クレオパトラ(Cleopatra)と、アントニウスは盟約をむすんだ。

アントニウスとオクタウィアヌスは対立し、前31年のアクティウムの海戦で、オクタウィアヌスが勝ち、アントニウスは負けた。

ローマはエジプトを併合し、前30年、地中海世界はローマによって、ほぼ統一された。

ローマ帝国

編集
 
アウグストゥスの像

オクタウィアヌスは前27年に元老院から「アウグストゥス」(「尊厳者」という意味)の称号を与えられた。

オクタウィアヌスは共和政の制度を尊重したが、しかし要職はオクタウィアヌスが兼任したので、じっさいの政治権力はオクタウィアヌスが握っており、実際にはオクタウィアヌスの独裁政治であった。オクタウィアヌスが「プリンケプス」(第一人者、princeps)を名乗ったので、このような支配を元首制(げんしゅせい、プリンキパトゥス principatus)という。しかし、その地位が世襲されたので、事実上の帝政の始まりになった。

それから200年ちかく、「ローマの平和」(パクス=ロマーナ、Pax Romana)が訪れ、文字通りローマに平和が訪れた。 とくに五賢帝(ごけんてい)の時代(96年〜180年)にローマは繁栄し、トラヤヌス帝のときが、ローマの領土も最大で、ローマの最盛期だった。

 
アッピア街道。ローマ時代に整備された、有名な街道。

これらの時代に、道路や水道は整備された。ローマだけでなく、イタリア全体や、イタリア外の各地にも、道路や水道などが整備された。また、ローマ帝国の属州の各地で、ローマ風の都市が建設された。その都市のなかには、のちのロンドン、パリ、ウィーンなどの場所もあった。

帝国内では、法律や貨幣、度量衡なども統一された。

ローマ帝国の市民権は拡大していき、ついに212年、カラカラ帝のときに、ローマ帝国の全自由人に市民権が与えられた。

帝国では貨幣も流通し、商業や貿易も盛んになった。ローマ帝国の商人たちは、帝国外とも貿易を行い、インドや中国とまで、途中にいくつかの民族を仲介するが、貿易を行った。 紅海を経てインドと交易したり、シルクロードを経て中国と交易した。

貿易の経路では、インド洋などの海路では、季節風を利用した航路の季節風貿易も行われた。

しかし、五賢帝の後のころから、やがて財政が行き詰まり、経済も不振になり、人々は重税に苦しむようになり、だんだんとローマ帝国の経済は衰退していった。

原因としては、おそらくは、奴隷に依存した労働であったローマ経済で、奴隷が不足したため、財政や経済が行き詰まった原因だろうと考えられている。

帝国外の北方のゲルマン人がローマに侵入したり、東方でもペルシアが侵入したりしたので、ローマ帝国には軍事費の負担も増えた。

帝国の各属州では、各属州の軍団が、独自に皇帝を立てて、ローマ本土の元老院と対立するという、軍人皇帝の時代になった。

とくに、地方の農村などの衰退よりも、都市部で経済が衰退していった。都市部では、重税を課されたようである。このため、都市から人々が流出した。

大農場の経営者は、没落した農民などを小作人(コロヌス)として農場で働かせた。この制度をコロナートゥスという。太字文

3世紀末のディオクレティアヌス帝(Diocletianus)は、改革として、2人の正帝と2人の副帝の合計4人による四分統治(しぶんとうち)をした。

コンスタンティヌス帝(Constantinus)は、330年に首都をビザンティウムに移し、ビザンティウムの名前をコンスタンティノープル(Constantinople)と改称した。また、コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認した。

4世紀後半、帝国の西方ではゲルマン人の侵入がはけしくなり、西方は混乱した。395年のテオドシウス帝(Theodosius)の死後、帝国は東西に2分して、以後一つになることは無かった。

476年に西ローマ帝国は滅亡した。ゲルマン人の傭兵隊長オドアケル(Odoacer)によって、西ローマ皇帝は退位させられ、西ローマは滅ぼされた。

宗教

編集

ローマ帝国のもともとの宗教は多神教だったので、おおむね他の宗教には寛容だった。ローマ帝国では、皇帝も、神の一人とされた。しかし、キリスト教は、一神教の立場などから、皇帝崇拝を拒否したので、このようなこともあり、ローマ帝国ではキリスト教は迫害されたりもした。 キリスト教への迫害にもかかわらず、キリスト教の信者は増え続けたので、ローマ帝国は方針を変え、キリスト教への迫害をやめ、313年、コンスタンティヌス帝ミラノ勅令(ミラノちょくれい)を発して、キリスト教を公認した。さらにコンスタンティヌス帝は、教義上の論争にも介入し、ニケーア会議で、イエスを完全な神とするアタナシウス派を正当とした。いっぽう、イエスを造られた劣った神性を持つ神としたアリウス派は異端とされた。 異端とされたアリウス派は、北方のゲルマン人に広まっていった。

こうして、ローマのキリスト教では、神とイエスと聖霊を同一の本質を持つ神であるとする三位一体説(さんみ いったいせつ)が、ローマの宗教の主流になった。

その後、ローマ古来の多神教を復活させようとしてユリアヌス帝が活動したが失敗した。

392年には、テオドシウス帝によって、アタナシウス派キリスト教を国教とし、アタナシウス派キリスト教以外の宗教は異教として禁止された。

431年にエフェソス公会議ではネストリウス派が異端とされた。これはのちに、ササン朝を経て唐代の中国に伝わり、景教(けいきょう)と呼ばれた。

また、451年のカルケドン公会議で単性論[1]が異端とみなされた。この説はエジプト、エチオピア、シリアなどの教会で残った。

ローマの文化

編集

帝国の領土拡大により、帝国の万民がしたがう普遍的な法律が必要になり、十二表法に起源をもつ様々な法律が改良され整理されて、ローマ法になった。帝国のすべての人民に、このローマ法が適用されることで、ローマ法が万民法になった。 これらの改良された法律が、6世紀に『ローマ法大全』(ろーまほうたいぜん)として集大成された。

暦については、現在、多くの欧米諸国で用いられているグレゴリウス歴のもとになった暦が、ローマ帝国の時代に制定された。グレゴリウス歴は、カエサルの時代に制定された歴であるユリウス暦をもとにしたものである。ユリウス暦は、エジプトの太陽暦を参考にしている。

 
コロッセウム。長径188m、短径156m、高さ48.5mの4階建て。5万人を収容できた。周囲527m。

建築技術や土木技術が発達し、コロッセウム(円形闘技場)、公共浴場、パンテオンの神殿などが作られ、また各地の水道が作られた。

 
ローマ時代の水道。この水道は現在のフランスにある。当時のローマ帝国は、今で言うフランス(当時は「ガリア」という国名)あたりの地にまで支配を広げていた。この水道建造物はポン・デュ・ガールとフランスでは呼ばれている。世界遺産。

道路も整備され、紀元前312年に建設が始まったアッピア街道が整備された。

散文については、ガリア遠征についてカエサル(遠征を指揮したカエサル本人)が記述した『ガリア戦記』が、代表的な名文とされた。

歴史書ではリウウィス(Livius)が『ローマ建国史』を著し、タキトゥス(Tacitus)が『年代記』『ゲルマーニア』を著した。

プルタルコス(Plutarchos)が『対比列伝(英雄伝)』を著した。


地理学では、ストラボン(Strabon)が地誌をまとめた。自然科学では、プリニウス(Plinius)が『博物誌』を著し、プトレマイオス(Ptolemaios)が天動説を唱えた。


哲学では、ストア派が好まれた。ストア派とは、古代ギリシアのヘレニズム時代に、ゼノンが禁欲こそが善いと主張した哲学である。

キリスト教の普及の経緯

編集

キリスト教の教祖とされるイエスは、パレスチナあたりの地域の出身である。ローマ出身ではないので、間違えないように。

イエスは、ユダヤ教を批判した。ユダヤ教は形式主義であり形骸化していると、イエスは批判した。当時のユダヤ教の主流の派閥であったパリサイ派などによる、イエスへの批判により、イエスはローマへの反乱をくわだてる扇動者だという告発を、総督ピラトゥスに告発し、イエスは十字架にかけられ処刑された。(30年ごろ)

イエスの死後、イエスが復活したという伝説が生まれ、そしてキリスト教が生まれた。

よってイエス本人は、いまでいう「キリスト教」のような宗教は意識していないと考えられている。イエスの死後に、キリスト教の教義の体系化は、有力な信者たちが行っていったのである。

イエスの弟子や、キリスト教の信者たちによって、信仰が広められた。使徒(しと)と呼ばれるペテロパウロが、キリスト教を布教した。 パウロは、ユダヤ人以外にも布教し、ユダヤ人でなくても神に救済されると説き、パレスチナ以外にも布教し、ギリシアやローマなどにキリスト教が広まっていった。そしてローマ帝国の各地に、信者のための共同体施設が組織化・建設され、それが教会になっていった。

初期のキリスト教の教会建築は、迫害などをおそれて、地下に作っていた。この地下のキリスト教会建築をカタコンベという。

キリスト教の経典ができた経緯は、イエスの説いた説をまとめた福音書や、使徒の書簡などをまとめた『新約聖書』が、3世紀ごろまでに書かれた。その『新約聖書』で使われた文字については、ギリシア語(コイネー)で書かれたのである。

  1. ^ キリストは神性のみを持つとする教説。これに対して、現在のカトリック・プロテスタント・正教会に連なる正統派ではキリストは人間性と神性をあわせ持つとする(両性論)。