高等学校世界史B/三十年戦争

ドイツと三十年戦争編集

アウクスブルクの和議以降にもかかわらずドイツでは、新旧(カトリック 対 ルター派)両派がいぜんとして対立しあい、また諸侯どうしも対立しあい、しだいにドイツは危険な事態におちいり、そして17世紀前半にある事件をきっかけに三十年戦争といわれる争乱が勃発した。

三十年戦争のきっかけになった事件とは、ボヘミア(「ベーメン」と言われた)の新教徒(プロテスタント)が、ハプスブルク家の政策に反抗した事件である。

また、ドイツはこの戦争で外国に介入されてしまった。当時のフランスはカトリック教国であるにもかかわらず、ドイツのプロテスタントを応援する方向性で三十年戦争に介入した。(なお、時期的には、ルイ13世紀の統治時代であり、この時代は、ヨーロッパ各国で絶対王政のような傾向が強まっていき、またフランスでは宗教的束縛が弱まっていた時代でもある。フランスでは(のちの単元で後述する)「ナントの王令」が有効な時代である。)

スウェーデンも、プロテスタントを支援する方向性で、介入した。なお当時のスウェーデンは、スウェーデン王グスタフ=アドルフによって、統治されていた。

さて、上記の説明では、説明の便宜上「ドイツ」といったが、じつは当時のあの辺り(いまでいうドイツ辺り)の国名は「神聖ローマ帝国」である。


この三十年戦争の名目は、当初は表向きには、宗教対立が名目だったが、しだいに、フランスやドイツなどがヨーロッパの覇権をめぐって争うという実態に変わっていった。

この三十年戦争も、ついに1648年にウェストフェリア条約によって終了した。

この条約によって、神聖ローマ帝国は譲歩をせまられ、神聖ローマ帝国は領土を減らす結果になった。いっぽう、フランスとスウェーデンは領土を獲得した。(この条約でフランスはアルザスを獲得した。スウェーデンは西ボンメルン(北ドイツにある地名)を獲得した。)また、ウェストフェリア条約によって、オランダ(ネーデルランド連邦共和国)とスイスが独立した。

そしてドイツは、上述の戦争で戦場になって疲弊したこともあり、人口も減少し、国力も低下した。

この条約の結果もあり、ヨーロッパ諸国どうしでは、あまり他国に干渉しないように心がけるようになり、(いわゆる)「主権国家」の理念がヨーロッパでは尊重されるようになったので、ヨーロッパは主権国家体制が確立していった。


ドイツでは、この戦争後、北ドイツを拠点とするプロイセンが成長していき、しだいにドイツの覇権をにぎっていく。