アフリカ分割

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予備知識: 1890年までビスマルクはドイツ宰相。1890年にビスマルクは辞職する。

イギリスは1870年代、エジプトではスエズ運河を獲得し、インドではインド帝国を設立した。

1880年、アフリカのコンゴ地域をめぐってヨーロッパでは対立が起き、ビスマルクは1884〜85年にウィーン会議を主催し、アフリカの植民地化の原則が定められた。

ウィーン会議以前はアフリカの植民地は、沿岸部ばかりであり、内陸部には勢力があまり及んでなかった。しかし、ウィーン会議などをきっかけに、アフリカの内陸部にも(ヨーロッパ列強の支配による)植民地が拡大していった。

 
セシル・ローズを描いた風刺画 イギリスのケープ植民地首相であるセシル・ローズが、カイロとケープタウンを電線でつなげようとしている様子が描かれている。

さて1890年、イギリス支配下のケープ植民地でセシル・ローズが植民地首相に就任し、90年代には周辺地域に侵攻し、領土を拡大していった。そして1899年、イギリスは南アフリカ戦争を起こし(オランダ系のブール人を相手にした戦争。事実上、イギリス対オランダの戦争)、3年間ほどの激闘のすえ、(以前はボーア人の国だった)トランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合した。


当初、特にイギリスやフランスが、アフリカに多くの植民地をもっていた。イギリスはアフリカで縦断政策をとり、フランスは横断政策をとった。このため、アフリカの植民地をめぐって、英仏の利害は対立した。

そして1898年に、アフリカのスーダンのファショダ(地名)で、イギリスとフランスの両軍が対峙するファショダ事件が起きたが、フランスはこの頃国内で政情不安(ドレフュス事件など)だったので、フランスが譲歩した。

その後、1904年に英仏は和解して、1904年に英仏協商を結び、お互いの植民地を相互に承認しあい、エジプト・スーダンにおいてはイギリスの優位を、モロッコにおいてはフランスの優位を、英仏は相互に承認しあった。このように英仏は協力して、ドイツに対抗した。

ドイツは、フランスのモロッコ支配に対抗するために1905年と1911年の2回にわたってモロッコ事件を起こしたが、いずれもイギリスが英仏協商にしたがってフランスを支持したため、失敗し、1912年にモロッコはフランスの保護国になった。(ビスマルクの辞職後の時代の出来事。)