編集

 
隋の皇帝である煬帝(ようだい)。真ん中の人物が煬帝。

589年に南北朝を(ずい)が統一した。

581年に、隋の楊堅(ようけん)(= 文帝)は大興城(だいこうじょう)(= 長安)を都に定めた。 589年に、南朝の陳をたおして、589年に南北朝を統一した。

隋は、南北の諸王朝で行われていた制度を取り入れた。 北朝からは、均田制・租庸調制・府兵制を取り入れた。

官僚の採用方法では、儒学の学科試験によって採用する科挙(かきょ)を取り入れた。それまでの採用方法だった九品中正は廃止した。

文帝の子の煬帝(ようだい)のときに、華北と江南をむすぶ大運河を完成させた。 このほか、高句麗に遠征を行ったが、失敗した。

しかし、農民の負担が重く、高句麗遠征の失敗をきっかけに、そのため各地で反乱が起こり、隋は618年に滅んだ。


編集

隋は618年に滅ぶ。そのいきさつは、軍閥の李淵(りえん)が挙兵して勢力を伸ばし、長安に入り、618年に唐を建て、長安を都とした。

2代目の太宗(たいそう)は中国を統一した。さらに東突厥(とっけつ、とっくつ)を服属させた。太宗の統治は素晴らしかったとされており、「貞観の治」(じょうがん の ち)と言われている。つづく3代目の高宗(こうそう)は、西突厥も服属させ、さらに朝鮮半島方面にも進出し、百済・高句麗をやぶった。

こうして唐は、ユーラシア東部の大帝国となった。

唐は、隋の制度を受け継ぎ、それをもとに(りつ)・(りょう)・(かく)・(しき)という法体系に発展させた(律令、りつりょう)。

中央官制には三省(さんしょう)(中書省、門下省、尚書省)、六部(りくぶ)(吏・戸・礼・兵・刑・工)を設け、いっぽう地方には州県制をしいた。

唐の税制は、租庸調(そようちょう)である。成年男子に均等に土地を配分する均田制(きんでんせい)である。兵役(府兵制、ふへいせい)がある。

これらの前提として戸籍が必要であるので、唐では戸籍が整備された。

均田制という原則があるものの、じっさいには有力者には荘園も認められているなどの例外もあった。

農業 編集

華北で、小麦の栽培が盛んになり始めた。それまでの華北は、粟(あわ)や豆などを栽培していた。 華中・華南で茶の栽培が盛んになった。サトウキビや綿花などの栽培も進んだ。江南で水田が増えた。

貿易 編集

唐は、アラブ系・イラン系の諸国とも貿易をしており、長安や都市ではムスリム商人も活動していた。 また、揚州(ようしゅう)・広州(こうしゅう)などの華中・華南の港町が発展した。

唐は、貿易の相手国は、唐の臣下になる国だけだと定めた。周辺諸国との貿易は、臣下の国から唐への朝貢貿易とした。このような、唐を中心とした国際体制を冊封体制(さくほう たいせい)という。

宗教 編集

 
玄奘(げんじょう)。彼の旅行記の『大唐西域記』(だいとうさいいきき)は、当時の西域・インドの状況を伝えている。なお、この『大唐西域記』は、のちの明(みん)時代の『西遊記』(さいゆうき)のモデルになった。そして、『西遊記』の三蔵法師(さんぞうほうし)のモデルになった人物が、この玄奘だろうというのが通説である。

宗教では、仏教と道教が盛んになった。

仏教では、インドの仏典から直接学ぶことが望まれて、玄奘(げんじょう)や義浄(ぎじょう)がインドに留学しインドから仏典を持ち帰った。そして、仏典は漢訳されていった。

仏教のなかから、禅宗浄土宗などの宗派が出来ていった。

 
大秦景教中国碑

西方との交易によって、ゾロアスター教(祆教、けんきょう)・マニ教・ネストリウス派キリスト教(景教、けいきょう)・イスラームなどが、唐に伝来し、それらの寺院も造られた。


人文・文芸 編集

詩が盛んになった(唐詩)。李白(りはく)や杜甫(とほ)や白居易(はくきょい)などの詩人が出た。

山水画が発達した。

書道では、顔真卿(がんしんけい)が出た。

日本との関係 編集

日本からは、遣隋使や遣唐使が、7世紀ごろに中国に送られてきた。そして、遣隋使・遣唐使は、律令や仏教などの中国文化を学んで、日本に持ち帰り、また、日本に律令制度を取り入れた。そして日本は、律令国家体制を築いていった。日本の班田収授法(はんでん しゅうじゅのほう)は、隋唐の均田制を手本にしている。

また、日本の正倉院(しょうそういん)には、ペルシアやインドから唐を経由して日本に伝わってきた工芸品などが、宝物として保管されている。

唐の周辺諸国 編集

日本と朝鮮半島 編集

 
新羅の仏国寺(ぶっこくじ)の多宝塔(たほうとう)。韓国、慶州。

新羅(しらぎ)は、唐と連合し、百済、高句麗を滅ぼす。

新羅は、唐を参考に官僚制を導入したが、政治の基本制度は骨品制(こっぴんせい)という身分制度であった。新羅は仏教を保護した。

高句麗が滅ぶと、その流れをくむ人々が、中国東北部に渤海(ぼっかい)を建てた。

なお、新羅が百済を滅ぼす際、日本は百済に援軍を送っており、663年の白村江の戦い(はくそんこう の たたかい、はくすきのえ の たたかい)で、日本・百済の連合軍が、唐・新羅の連合軍と戦っている。この白村江の戦いで、日本・百済は大敗した。 これらの唐と日本との戦いのため、遣唐使は、一時、停止された。

7世紀後半、日本と、唐・新羅との友好は回復した。9世紀に日本は遣唐使を廃止する。

チベット 編集

7世紀後半、チベット高原で、チベット人のソンツェン=ガンポ(Srong btsan sgam po)が、統一国家として吐蕃(とばん、Tubod)を建て(これがチベット)、ラサを都とした。

吐蕃は唐と抗争し、長安を一時占領し、またウイグル帝国とも抗争した。

インド文字をもとにチベット文字がつくられた。宗教では、チベット仏教(ラマ教)が起こった。チベット仏教の内容は、インドから伝わった大乗仏教が、チベットの民間信仰と混ざったものである。

モンゴル高原と突厥・ウイグル 編集

隋唐の前の時代は、柔然(じゅうぜん)がモンゴル高原の覇者だった。しかし6世紀なかば、トルコ系の遊牧国家の突厥(とっけつ、とっくつ)が、モンゴル高原の覇者となる。

突厥は、西方でエフタルと争った。(※ エフタルの民族系統は今もなお不明であり、諸説ある。) 突厥は、ソグド人(Sogd)を外交・貿易に用い、またビザンツ帝国と外交をしていた。 6世紀末の中国が隋だった時代、突厥は東西に分裂した。

8世紀なかば(744年ごろ)に、トルコ系のウイグル(Uighur)が東突厥を滅ぼした。

唐が安史の乱(あんしのらん、755〜763)になると、唐はこの反乱の鎮圧に8年かかり、ウイグルの助けを得て鎮圧した。

突厥・ウイグルでは、独自の文字がつくられた。

そのウイグルも、9世紀なかばにトルコ系のキルギス(Kirghiz)に覇権をとって代わられた。


唐の衰退と滅亡 編集

 
則天武后(そくてん ぶこう)

7世紀末、高宗の皇后であった則天武后(そくてんぶこう)が帝位につくと、科挙官僚を積極的に登用した。これによって、古い家柄の貴族の影響力が弱まり、新興の商人層の影響力が強まった。なお、則天武后は国号を「周」(しゅう)としたが、のちの代に「唐」に戻された。

則天武后は、恐怖政治を行い、政治を混乱させた。則天武后の死後、8世紀はじめに玄宗(げんそう)が即位した。玄宗は政治改革を目指したが、うまくいかなかった。人口の増加や、貨幣経済などの発達といった商業の変化により、農民のあいだに貧富の格差が大きくなり、没落する農民が増えていた。いっぽう、貴族や振興地主の荘園が広がっていった。

このような理由もあり、均田制・租庸調制がうまくいかなくなった。

なお則天武后の死後、いきなり玄宗が皇帝になったわけではなく、まず則天武后の死後に、中宗(ちゅうそう)がいったん復位したが、皇后・韋(い)によって毒殺された。則天武后と韋の、一連の女性が政治に介入しておきた事件を「武韋の禍」(ぶいのか)という。


また、周辺民族に独立の動きが出て来て、それを軍事力でおさえるための農民の府兵制の負担も重くなり、府兵制がうまくいかなくなったので、府兵制のかわりに傭兵をもちいる募兵制(ぼへいせい)が採用された。 その軍団の指揮官として、節度使(せつどし)が、辺境に配置され、防備した。

 
安禄山(あんろくざん)

玄宗の晩年に、楊貴妃(ようきひ)の一族が実権をにぎり、それに反発する節度使の安禄山(あんろくざん)とその武将の史思明(ししめい)が、大規模な反乱を起こした(安史の乱、あんしのらん、755〜763)。唐は、この反乱の鎮圧に8年かかり、ウイグルの助けを得て、鎮圧した。

有力な節度使は、自立の動きを目指した(藩鎮、はんちん)。また、ウイグルや吐蕃(とはん)に中央アジアの領土をうばわれ、唐の領土は縮小した。

唐は、乱後の財政再建のため、税の徴収が必要だが、租庸調がうまくいかなくなってきたので、かわりに、現実に所有してい土地に課税する両税法(りょうぜいほう)を780年に導入した。

両税法は、夏・秋に徴税する。(※ 一つの土地から、夏と秋の年2回の徴収をするか、それとも夏か秋かの片方だけから年1回の徴税をするのかは、諸説あり、検定教科書によっても説明が違う。)


また唐は、塩の専売を行って財政再建をしようとしたが、これが民衆の不満をまねき、9世紀後半に塩の密売人の黄巣(こうそう)による黄巣の乱(こうそうのらん、875〜884)が起きた。そして、この乱がきっかけになり、反乱が全土に広がり、唐は衰退していき、907年、唐は節度使の朱全忠(しゅぜんちゅう)によって滅ぼされた。

この後、中国は「五代」(ごだい)という分裂時代に入る。