ポルトガルのアフリカ西岸探検とインド航路

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10世紀頃から、ヴェネツィアをはじめとしたイタリアの都市はイスラーム地域との東方貿易によって栄えていた。しかし、15世紀にオスマン帝国が東地中海へと進出し、貿易の重要拠点であったエジプトを征服すると東方貿易は衰退していった。

ちょうど15世紀中盤ごろは「14世紀の危機」とよばれる経済危機から脱しつつある時代でもあった。こうした中で、ヨーロッパでは『世界の記述(東方見聞録)』などが紹介されて「豊かなアジア」へのあこがれが強くなっていった。そのため、東方の物産品を求める動きが活発化した。特に胡椒などの香辛料はヨーロッパで珍重されていたため、需要が増大していた。

また、羅針盤に代表される航海道具・カラベル船から始まる造船技術・その他航海技術の発達によって遠洋航海が可能となっていた。

そこでポルトガルやスペインでは、オスマン帝国の領土を経由せずに東アジアを目指そうとする、新しい航路や沿岸を探検する時代が始まった。当時、香辛料がヨーロッパでは高値で売れたので、もしオスマン帝国を通らずに東アジアの香辛料の原産地にたどりつけば、イスラーム商人などを経由せずに利益を独占でき、莫大な利益が見込めるかもしれないと考えたのであろう。

まず、ポルトガルなどにより、アフリカ大陸の西岸にそって南下していったら、どこに到達するのかが調べられた。ポルトガルの王族・エンリケは、みずからは船出しないもの、このアフリカ探検の目的のためにアフリカ西岸に艦隊・船団を派遣し、アフリカ西岸にそって南下させて調べさせた。このようにエンリケが航路の開明に熱心だったため、エンリケは「航海王子」と呼ばれている。

そして、1488年にバルトロメウ=ディアスの艦隊がアフリカ大陸の南端の喜望峰に到達した。

そして、さらにヴァスコ=ダ=ガマの艦隊がアフリカ東岸を北上していき、さらにインド洋を渡り、1498年にはヴァスコ=ダ=ガマのの艦隊はインド西岸のカリカットに到達し、インド航路が開かれた。

そして、このインド航路を経由すれば、香辛料を安値で買える事が分かり、ガマの艦隊は、大量の香辛料・香料などをポルトガルに持ち帰った。それから、ポルトガルは、インド航路による香辛料などの取引をつづけることで、莫大な利益を手に入れ、また、ポルトガルの首都リスボンは貿易港として発展した。


スペインとアメリカ大陸

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スペインも、インド航路を探そうとしていた。そのとき、イタリア出身の航海者コロンブス(コロン)が、天文学者トスカネリの主張する地球球体説にもとづいて、大西洋を横断すればアジア(インディアス)に到達できるだろうと主張していた。コロンブスはスペインの支援を受け、大西洋を横断してアジアを目指した。そして、1492年にコロンブスはカリブ海のサン・サルバドル島に到達した。のちにコロンブスは、北アメリカ大陸にも上陸した。

コロンブスは、この大陸をアジアの一部だと信じていた。そのため、現在でもアメリカ大陸原住民を、西語で「インディオ」、英語で「インディアン」というなど、その名残りが残っている。

その後、アメリゴ=ヴェスプッチ(イタリア出身)などの探検により、コロンブスの到達した大陸がインドではなく、アジアとは別の場所であり、ヨーロッパにとっての新大陸であることが明らかになった。のちに、「新大陸」はアメリゴにちなんでアメリカと名付けられた。

 
マゼラン艦隊の航路

さらにスペインは、ポルトガル出身のマゼラン(マガリャンイス)に南アメリカ大陸の航路を調べさせ、まず南アメリカ大陸の南端にあるマゼラン海峡に辿りつき、つづけてマゼランの船団は、マゼラン海峡から太平洋を西北西に横断し、1521年にフィリピンに到達した。マゼランはフィリピンで原住民のラプラプに殺されたが、部下がアフリカ経由の航路で1522年にスペインに帰航し、史上初の世界周航が達成された。

こうしたスペインとポルトガルの探検と「発見」は、両国の対立を招くことが想定された。そのため、ローマ教皇の仲介によって、1493年、新たに発見した両国の支配領域を定める教皇子午線が設定された。しかし、これはスペインに有利なものであったうえ、あいまいな点も多かった。そこで翌1494年、西経46度37分を境界線とし、そこから東で新たに発見された地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられるというトルデシリャス条約が改めて結ばれた。

そのため、1500年にポルトガル人であるカブラルが到着したブラジルはポルトガル領とされた。

スペインのアメリカ侵略

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スペインは、アメリカ大陸を侵略した。

アメリカ大陸をヨーロッパ人が発見したころの当時、アメリカ大陸では既に原住民による文明が各地にあった。しかし、スペインはアメリカ大陸に軍隊を送り込み、スペインはアメリカ大陸の各地を征服した。(※ 検定教科書では、「侵略」ではなく「征服」などの表現が用いられている。)

まず1521年にコルテスがメキシコのアステカ王国を征服した。つづけて1533年、ピサロインカ帝国を滅ぼした。

そしてアメリカに移住したスペイン人たちは、アメリカ大陸の原住民を酷使し、農場で働かせたり、銀山などの鉱山で採掘をさせた。 そのために、スペイン王国は、アメリカ現地のスペイン人入植者にアメリカの先住民の支配を委託するエンコミエンダ制を行った。

 
ラス=カサス

スペイン人のキリスト教の聖職者ラス=カサスは、スペイン人入植者のこのような行為を不道徳だと批判した。

するとスペインは今度は、アフリカ大陸から黒人を奴隷として輸入した。

また、あらたに伝染病がアメリカ大陸にもちこまれたり、アメリカ先住民が酷使されたりしたため、アメリカの先住民の人口が激減した。

経済と社会構造の変化

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スペイン人の入植後、アメリカ大陸ではポトシ銀山などの銀鉱脈が発見され、アメリカで銀が大量に採掘され、その銀が貿易を通してヨーロッパ経済に入っていったので、ヨーロッパ経済でインフレが起き、ヨーロッパで穀物などの物価が2〜3倍に上昇した。

大航海時代の銀の流入によるヨーロッパでのインフレのことを「価格革命」(Price Revolution)という。こうして、ヨーロッパでは、銀の流入と人口増加による物価の上昇により、固定地代で収入を得ている領主(封建貴族)は大きな経済的打撃を受けて没落していった。そして、ヨーロッパの封建社会が終焉をむかえる一方で、火砲の普及による軍事革命などの要因が重なり合って、自由経済の進展とその担い手たる市民層の形成、国民意識の形成、主権国家体制の成立を進めていくことになる。

また、ポルトガルがインド航路を開拓したことによってヨーロッパの商人たちの商業圏がアジアにもに拡大していった。こうした、大航海時代における新航路やアメリカ大陸の発見に加えて、ヨーロッパの経済の中心が大西洋沿岸地域に移っていったこと、従来の高利貸し的な金融業者が没落して現代の銀行システムの基となる新たな金融制度が生まれていったことを「商業革命」(Commercial revolution)という。

また、西ヨーロッパではインフレの影響が多大だった一方、ドイツやポーランドなどの東ヨーロッパではインフレの影響は小さかった。加えて、西ヨーロッパでは急激な人口増加が起きて穀物の価格上昇に拍車をかけた。このため、東ヨーロッパからは大量に穀物が輸出された。穀物生産を進めるために、東ヨーロッパでは大農場経営が行われ、農場領主制が広まった。

なお、ほぼ同時代に、中国でも、アメリカなどで採掘された銀が大量に中国に流入した。このころ、中国(※ 王朝は「明」(ミン))の納税制度が銀による納税制度(※ 一条鞭法(いちじょうべんぽう))に変わったのだが、その理由もおそらく、中国国外からの銀の流入により中国で銀が普及したことが、その理由のひとつだろう・・・と歴史学では考えられている。

また、サトウキビがアメリカに持ち込まれ、アメリカでサトウキビのプランテーションが開かれた。