高等学校世界史B/宗教改革

宗教改革の始まり編集

ルネサンスの後半、聖ピエトロ大聖堂の大改修が予定され、カトリック教会はこの費用を集めるために、メディチ家出身のローマ教皇レオ10世(Leo X)により、金銭で徳がつめるとする贖宥状(しょくゆうじょう、※ いわゆる「免罪符」)が販売され、この贖宥状を買えば魂が救済されるとした。

ドイツのヴィッテンベルク大学の神学教授マルティン=ルター(Martin Luther)は、これを、キリスト教本来の教義をゆがめる堕落(だらく)だと批判し、救済の有無は信仰のみによるべきだと主張し、そしてルターは贖宥状に批判的な九十五か条の論題を発表した。このようにして宗教改革(Reformation)が始まった。

ドイツの住民は、かねてからローマ教会による搾取を不満に思っており、そのためルターの主張を支持した。

このため、ドイツでは有力な都市や諸侯がルターを支持し、ローマ=カトリック教会教会に反発した。

1521年、ルターは教会から破門された。また、神聖ローマ皇帝カール5世(Kahl V)は、ルターを議会に呼び出したが、ルターは自説を撤回しなかった。

ザクセン選帝侯はルターを保護し、そしてルターに『新約聖書』のドイツ語訳をさせ、そしてそのドイツ語訳『新約聖書』が発表された。

この当時、すでに活版印刷が実用化していたので、ルターの主張はパンフレットなどの印刷物として、各地に広まっていった。

そして、かねてからローマ皇帝に対してドイツの地方などは対立ぎみだったが、ますます対立は深まり、そしてついに1524年〜25年に農民の反乱(ドイツ農民戦争)が起きた。

ルターは当初、この農民反乱を支持していたが、やがてルターは農民反乱の支持を撤回し、ルターは、弾圧する諸侯の側を支持した。また、この農民反乱は鎮圧された。

さて、農民反乱の鎮圧後も、カトリック教会によるルターへの批判はつづいた。ザクセン選帝侯などの諸侯はひきつづきルターを保護した。そしてルターとその支持者のキリスト教徒たちは、カトリックには許可をもらわずに独自に教会の改革や儀式の改革などを行い、宗教的にルターたちはカトリック教会から独立していった。

そして、ルターたちの信仰および信者は、プロテスタント(Protestant)と呼ばれるようになった。

しかし、当時のドイツ周辺ではオスマン帝国などによる脅威があったこともあってか、反乱鎮圧後のドイツ内ではしだいにカトリック派とルター派(プロテスタント)の両勢力とも妥協にむかい、そして1555年のアウクスブルクの宗教和議でドイツ内カトリックとルター派の妥協がなされた。

この妥協により、ドイツ各地の領主がカトリック派かルター派のどちらかを選択でき、領民は、領主の信仰の決定にしたがうとされた。つまり、領民に信仰の自由はなかった。

やがて北欧諸国にもルター派が広まっていった。

カルヴァン派の登場編集

フランスでは、カルヴァン(Calvin)が厳格な宗教改革の理論をとなえ、カルヴァンの主張によると、魂の救済は神によって既に決定されており人間の努力では変更不可能であるとする「予定説」(よていせつ)を主張した。

※ 予定説では、どんなに人格のすぐれた人間でも、魂が救済されるとは限らない。なぜなら、もし、「人格がすぐれた人間は、魂が救済される」と仮定したら、それはつまり、神の決定に対して人間が介入した事になり、予定説とは矛盾するから。つまり、人格のすぐれた人間の魂ですら、もしかしたら地獄に落ちる可能性すらもありうる。これが予定説である。

このように、厳格な宗教理論をもつ予定説であったが、カルヴァンの理論では労働を差別せず、人々はとにかく日々の労働を勤勉に行うしかないと主張したため、西ヨーロッパを中心として商工業者がカルヴァン派を支持した。

※ 予定説では、仮に勤勉に労働したところで魂の救済される保証はないが(なぜなら労働行為によって神による救済計画は変更できないから)、同様の理屈によって、仮に勤勉に労働しなかったとしても魂の救済の保証はないので(なぜなら労働をしない行為によっても神による救済計画は変更できないから)、なので勤勉であろうがなかろうが神による救済計画に何の変更もありえないから、では人々はどうすべきかというと、とにかく人々は勤勉に日々を過ごすしかない(勤勉に過ごしたところで神による救済の保証はないが)、という主張。

イギリス国教編集

イギリスでは国王ヘンリ8世(Henry VIII)が、王妃との離婚を認めない教皇に反発するという個人的な理由で、国王による宗教改革が始まった。

ヘンリ8世は、国王を首長とするイギリス国教会を宣言し、カトリックから離脱した。

当初はイギリス国王の個人的な理由で設立されたイギリス国教会であったが、しだいにカルヴァン派などの思想を取り入れて教義が整理されてきた。

しかし、イギリス国教会はカトリックとプロテスタントの教義や儀式を折衷したので、熱心なプロテスタントの信者からは批判された。 イギリスにおける、イギリス国教会に批判的で、熱心なプロテスタントの信者のことをピューリタン(清教徒、「せいきょうと」)という。


カトリックの改革編集

ルターやカルヴァンの宗教改革が広まっていったので、カトリックも対抗上、改革せざるをえなくなった。この、ルター・カルヴァンなどに対抗してのカトリックの改革運動を対抗宗教改革(Counter Reformation)という。

対抗宗教改革では、カトリックは1545年にトリエント公会議でキリスト教の教義を確認した。そしてカトリックは、思想統制を強めるため宗教裁判所を教科し、カトリックは異端を弾圧した。

また、アジアなどの外国でカトリック信者を増やそうとして、宣教師を世界各地に派遣した。

1534年にスペインではイエズス会がイグナティウス=ロヨラやフランシスコ=ザビエルなどによって設立されていたが、このイエズス会がアジアなど外国での布教に熱心だった。戦国時代に来日し、布教をしたザビエルも、イエズス会の宣教師である。中国で活動したマテオ=リッチもイエズス会の宣教師である。

宗教戦争と「魔女狩り」編集

このようなプロテスタントとカトリックの対立のため、各地で内乱が起きた。また、ヨーロッパでは「魔女狩り」が行われた地域もあった。 「魔女狩り」の被害者は女性が多く、悪魔の手先などのうたがいをかけられ、処刑されたりした。