※ この単元で学ぶ内容編集

そもそも明(ミン)とは何か編集

日本で安土桃山時代だったとき、豊臣秀吉の命令で日本軍が朝鮮に攻めた。そのとき、朝鮮と明との連合軍が、日本軍を撃退したのであった。(いわゆる「朝鮮出兵」である。)

この明(ミン)が、どうやって出来て、どうやって滅んだのかを、これから学ぶ。

なお、日本はけっして明(ミン)を滅ぼしていない。明を滅ぼしたのは、中国国内での反乱である。


明の初期編集

明の成立と政策編集

紅巾の乱によって、元の王朝は負かされ、元は、万里の長城の北方のモンゴル高原あたりに追いやられた。(北元(ほくげん) )

そして、紅巾の乱の指導者である朱元璋(しゅげんしょう)が、1368年に南京(ナンキン)を都とする(ミン)を建国し、朱元璋が皇帝(洪武帝(こうぶてい) )になった。こうして中国の王朝が明(ミン)になる。

※ 要するに、数学っぽく等式で表現するならば、
 朱元璋 = 洪武帝
であり、同一人物である。

洪武帝は、元代の最高機関であった中書省(ちゅうしょしょう)を廃止し、六部(りくぶ)を皇帝に直属させた。

  • 戸籍

また、人民の戸籍を、民戸軍戸に区別し、里甲制(りこうせい)をしいた。

里甲制では110戸をめやすに1里とした。

軍戸とは、文字どおり、軍人の戸籍という意味である。

  • 貿易(海禁)

貿易では、政府をとおさない民間だけの貿易を禁止し、政府の管理する朝貢貿易のみを許可した。明の政府は、朝貢に応じない国との貿易を人民に禁止した。これを海禁(かいきん)という。

洪武帝の頃、日本は明に朝貢貿易をした。室町幕府の足利義満が、1401年に明から「日本国王」に任命されて、日明貿易である勘合貿易(かんごう ぼうえき)が始まった。勘合(かんごう)と言われる割符を用いたので、日本では「勘合貿易」と呼ばれる。(なお、洪武帝=朱元璋の時代である。つまり、朱元璋と足利義満が、ほぼ同時代である。)

※ つまり、日本の「勘合貿易」は、明から見れば「海禁」の一部である。
数学っぽく集合論の式で表現するならば、
 勘合貿易 ⊂ 海禁
である。

勘合をもちいた理由は、明は海禁により私貿易を禁止していたので、明を訪れる貿易船が私貿易船でない朝貢船である事を証明する必要があったので、明の発行した勘合を使う事で、その船が私貿易船ではなくて朝貢貿易船である事を証明したのである。

また、この頃、倭寇(わこう)といわれる密貿易船の集団がしばしば上陸して略奪するなどして中国東南海を荒らしていたので(前期倭寇)、明は日本に倭寇の取り締まりを求め、日本の室町幕府は倭寇取り締まりに協力した。

※ 倭寇には、前期倭寇と後期倭寇がある。
数学っぽく集合論の式で表現するならば、
 {前期倭寇、後期倭寇}=倭寇 
である
  • 一世一元の始まり

明の時代より、皇帝1代につき1元号になったので、「洪武帝」や「永楽帝」のように、それぞれの時代の元号で皇帝をあらわす一世一元の制(いっせい いちげん のせい)が始まった。

その頃の周辺諸国編集

朝鮮編集

高麗では、親元派と親明派が対立していた。この頃の朝鮮半島で、倭寇の撃退で名声を高めていた李成桂(りせいけい)が、クーデターを起こしたので、1392年に(朝鮮半島を支配する)新しい王朝をつくった。李は国号を「朝鮮」として、漢城(現在のソウル)を首都とした。李の作った、この新しい王朝が、いわゆる「李朝」である。

また、李のクーデターにより、朝鮮半島のそれまでの王朝だった高麗は倒れた。

※ つまり、
高麗 → 李朝
というように、朝鮮半島の王朝は変化した。

李朝は、明に朝貢した。

また、李朝は科挙を整備し、朱子学を取り入れて、明の制度をまねた。

15世紀前半、李朝の第4代国王の世宗(せいそう)の時代、今でいう「ハングル」文字のもととなる訓民正音(くんみんせいおん)が制定された。

世宗の時代に、銅活字による活版印刷がさかんになったと言われている。

なお、朝鮮の科挙に合格した名士は両班(ヤンパン)といわれ、高級官僚などに任命された。

洪武帝の死後編集

洪武帝の死後(つまり朱元璋(洪武帝と同一人物)の死後)、孫の建文帝(けんぶんてい)が皇位についたが、北京に拠点をおいていた叔父の燕王(えんおう)と対立した。 そして、燕王がクーデターをおこして帝位をうばい(靖難の役 (せいなんのえき) )、燕王は永楽帝(えいらくてい)となり、首都を北京(ペキン)に移した。


永楽帝は武勇に秀でた皇帝であり、みずから軍をひきいて北方のモンゴルにしばしば遠征した。また、南方では、ヴェトナム(ベトナム)を一時、併合した。

また、永楽帝は、イスラーム京都の宦官の鄭和(ていわ)に大艦隊を率いさせて、インド洋から東アフリカまでに遠征した。

鄭和の率いる大艦隊の派遣は7回に及び、艦隊が派遣された先の沿岸諸国に、朝貢を勧誘した。

その頃の周辺諸国編集

べトナム編集

15世紀はじめ、永楽帝が一時、ベトナムを併合したが、その後、ベトナムでは黎朝(れいちょう)が明を撃退し、こうして黎朝(れいちょう)のもとでベトナムが独立した。

黎朝は、明に朝貢貿易をした。また、黎朝は、朱子学や律令制など明の制度を取り入れた。

のちに16世紀に、黎朝は南北に分裂する。

永楽帝の死後編集

北方のモンゴル系が、しばしば明を攻撃していた。

1449年、モンゴル系のオイラートが、明の正統帝を土木堡(どぼくほ)で捕らえた(これを土木の変という)。土木堡(どぼくほ)は北京(ペキン)近郊にある。

また、タタール系も、明を攻撃した。

このように、異民族の襲撃がしばしば発生したので、明は万里の長城を改修した。

このような異民族による明への攻撃がしばしばあったのは、朝貢貿易の回数などに不満があったからだろう、・・・と高校世界史の検定教科書では思われている。

また、この頃、東シナ海沿岸で倭寇の活動が再び活発化し、明を苦しめた(後期倭寇)。

後期倭寇のメンバーには、中国人も加わっていた。

北からはモンゴル系などの襲来、南では倭寇の襲来により、明は苦しめられたことを評して北虜南倭(ほくりょなんわ)という。

※ 「北虜南倭」 = 「北虜」 + 「南倭」

北方からのモンゴル系などの襲来が「北虜」である。海からの倭寇の襲来が「南倭」である。

後期倭寇の活発化した原因のひとつとして、明の海禁政策への反発だろう、・・・と(21世紀)現代の歴史学では考えられている。

また、明の中期以降、どうやら明の税収が悪化したようであり、明は税収改革を行っている。

明後期の経済編集

明(ミン)の時代の後半、銀による取り引きが普及した。

また、16世紀、日本の銀(いわゆる「日本銀」)とアメリカ大陸の銀(いわゆる「メキシコ銀」)が、貿易によって明(ミン)に大量に流入した。

※ 明は当初、海禁を強めていたので、その時代は海外の銀があまり流入しなかったが、しかしのちに、明は中期以降から海禁をゆるめたので、アメリカ大陸の銀(おもにメキシコなどのスペイン植民地の銀、だと歴史学者たちには考えられている)や日本の銀が、明に流入するようになったのである。

このころ、ヨーロッパではすでに大航海時代であり、そのためアメリカ大陸や東アジアにもヨーロッパ人が進出しており、東アジアではヨーロッパ人は貿易にたずさわっていた。

納税も、銀で徴収されるようなり、この事(明での銀による納税)を一条鞭法(いちじょうべんぽう) という。また、この一条鞭法にともなって、各種の土地税や労役などの納税方法が簡素化された。


農業では、長江の下流域の湖広(ここう、※ 地名)の農業が発展して、湖広があらたに穀倉地帯として周辺地域にも知られるようになり、「湖広熟すれば、天下足る」(ここう じゅくすれば、てんか たる)と言われた。

また、明後期には陶磁器の生産が伸び、景徳鎮(けいとくちん、※ 地名)が陶磁器の代表的な生産地として知られるようになった。

また、貿易によって、明で生産された生糸や陶磁器が外国に輸出され、ヨーロッパやアメリカや日本へと生糸や陶磁器が輸出されたので、中国の生糸や陶磁器は、世界的な商品になった。また、このような貿易の取り引き手段として銀が払われたため、アメリカ大陸の銀や日本の銀が、明に流入したわけである。

また、日本は銀の産地であることが、16世紀にヨーロッパなどにも知られるようになった。


琉球編集

現在の沖縄にあたる琉球を、15世紀はじめに中山王(ちゅうざんおう)が統一した。

琉球(りゅうきゅう)は明に朝貢した。このため、琉球が、日本と中国と東南アジア諸国との貿易の中継地になった、と考えられている。


キリスト教の布教と西洋科学の伝来編集

このようなヨーロッパとの貿易の活発化にともない、ヨーロッパのキリスト教の宣教師たちは、東アジアにキリスト教を布教することを目指しはじめ、まず日本にイエズス会の宣教師であるフランシスコ=ザビエルが来日し、ザビエルなどが日本にキリスト教を布教した。

ついで、明に、宣教師のマテオ=リッチ(Matteo Ricci, 1552〜1610)がおとずれ、キリスト教を布教した。

 
マテオ=リッチ(左)と徐光啓

また、キリスト教の布教にともなって、ヨーロッパの自然科学や数学などの理論が明に紹介され、ユークリッド幾何学を中国語翻訳した『幾何原本』(きか げんぽん)などの漢訳の科学書が刊行された。

また、中国でも世界地図が作られ、世界地図である『坤輿万国全図』(こうよ ばんこくぜんず)が作られた。

 
坤輿万国全図


この『幾何原本』と『坤輿万国全図』の作成も、マテオ=リッチが徐光啓(じょこうけい)と協力して作成した。


このほか、ドイツ人のキリスト教徒であるアダム=シャールが、暦の改良を、徐光啓と協力して行った。アダムシャールは徐光啓とともに『崇禎暦書』(すうていれきしょ)を作成した。

このようにして、明の時代の中期以降、明では西洋の地理学・歴学(れきがく)・天文学・数学などの科学技術が部分的に取り入れられたこともあり、明の時代の後半から中国では実用的な学問が発展した。

なお、徐光啓について、まとめれば、徐光啓は『幾何原本』と『坤輿万国全図』の作成に協力し、『崇禎暦書』の作成にも協力した。

このように、徐光啓は、西洋の科学技術を中国に導入する仕事をしていた。

明の思想編集

明の初期、モンゴルへの対抗意識もあったので、洪武帝は朱子学を官学とした。 朱子学が官学となった事もあり、科挙の基準として、儒学の古典についての注釈書が必要になったこともあり、永楽帝の時代には『四書大全』(ししょたいぜん)や『五経大全』(ごきょうたいぜん)などの注釈書も編纂された。また、同じく永楽帝の時代に『永楽大典』(えいらく たいてん)が編纂された。

しかし、しだいに、朱子学は科挙のための形式的な学問になっているという批判の動きが起こった。そして、16世紀はじめに、朱子学に批判的な 王守仁(おうしゅじん、王陽明、おうようめい、※ 人名)によって陽明学が誕生した。

そして王陽明は、人の心にはもともと道徳があるので、無学な人でも聖人になれると主張した。そして、そのような道徳的な心にもとづいて理屈だけでなく実践をすることが大切であるとする知行合一(ちこうごういつ)を王陽明は主張した。

こうして、陽明学が儒学に加わった。

陽明学は、学者だけでなく庶民にも広まった。

明の実学編集

農業書として、徐光啓は『農政全書』(のうせい ぜんしょ)も著した。

薬学書として、李時珍(りじちん)により『本草綱目』(ほんぞう こうもく)が著された。

産業技術書として、宋応星(そうおうせい)により『天工開物』(てんこうかいぶつ)が著された。

このように、実学書・技術書が、明の後半につくられた。

※ 教科書会社の帝国書院の検定教科書の見解では、キリスト教宣教師などにより西洋の科学技術がもたらされた事が、明の実用書などにも影響を与えたとする考察が書かれてる。山川出版の参考書『詳説 世界史研究』(2005年の刷(さつ)で確認)でも同様に、西洋の科学技術が明時代に中国に紹介された事によって、中国で実学が重視されるようになったとするような考察がある。
読者の高校生も、このように関連づけると、覚えやすいだろう。こういう関連づけをすることが、歴史学習でのコツだろう。

明の文化編集

文学では、明の時代に、『三国志演義』(さんごくし えんぎ)、『水滸伝』(すいこでん)、『西遊記』(さいゆうき)、『金瓶梅』(きんぺいばい)などの小説が書かれた。



豊臣秀吉の朝鮮侵略編集

 
亀甲船の想像図
(まえおき:) 16世紀なかばの日本では、織田信長が勢力を伸ばしていた。織田信長が 本能寺の変(ほんのうじのへん) によって殺害されると、豊臣秀吉が信長の領地をめぐる争いに勝ち、秀吉が信長の領地などを受け継ぎ、やがて豊臣秀吉が日本を統一した。

そして16世紀末、日本の豊臣秀吉が、朝鮮(李朝)を侵略しようとして、日本と朝鮮との戦争になり(朝鮮出兵)、戦争は2度、行われた。(※「朝鮮出兵」は検定教科書にある用語。帝国書院の教科書などに「朝鮮出兵」の語句が掲載されている。)

明は朝鮮に援軍を送り、明・朝鮮の連合軍はなんとか日本軍を撃退したが、明は戦争によって国力が衰えたようである。

これに加え、かねてからモンゴル系などの異民族の侵入に苦しめられていた明は、国力がしだいに衰えていった。

なお、朝鮮では、この秀吉の命令による2度にわたる朝鮮出兵のことをそれぞれ「壬辰倭乱」(じんしん わらん)・「丁酉倭乱」(ていゆう わらん)といい、現代日本での朝鮮視点から見た場合の(秀吉の命令による)朝鮮出兵のことを表す歴史用語として「壬辰・丁酉の倭乱」(じんしん・ていゆう の わらん)という。

いっぽう、日本の視点から見た場合の表現として、この2度にわたる朝鮮出兵のことは、文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)という。

なお、朝鮮人の武将である李舜臣(りしゅんしん)が、朝鮮出兵での日本軍の撃退に活躍したと言われている。

李舜臣が朝鮮水軍を率いて反撃し、日本軍を撃退したとされる。朝鮮では、亀甲船(きっこうせん)が、日本軍の撃退に活躍したとされる。

2度目の朝鮮出兵の戦争では、秀吉の死亡により、日本軍は撤退した。


明の滅亡編集

※ 明(ミン)の次の王朝は、清(シン)です。清(シン)とは、日本の明治時代に日清戦争で日本が中国を敵として戦ったとき中国の王朝でもあります。
しかし、明を滅亡させたのは、けっして清(シン)ではありません。明を滅亡させたのは李自成(りじせい)による反乱によるペキン占領です。この李自成は、けっして清の民族(満州族、女真族)ではありません。つまり、けっして、(のちに「清」(シン)王朝になる)満州族が「明」を滅ぼしたのではありません。
ましてや、豊臣秀吉は、けっして明を滅ぼしてません。明を滅ぼした相手を間違えないでください。
※ なお、「女真」族は、のちの「満州」族である。

16世紀なかば、明の財政はすでに悪化してたらしく、財政再建のために張居正(ちょうきょせい、1525〜82)が強権的(重税?)な財政再建策を行ったらしく、それよって、とりあえず財政は一時的に再建した。

しかし、張居正の死後、ふたたび明の財政が悪化していく。

張居正死後の16世紀後半〜17世紀前半になると、軍事費が増大し、そのため民衆には重税が課された。この重税に反発してか、各地で反乱が増えた。

そして1664年、李自成(りじせい)による反乱によって北京(ペキン)が占領され(北京は明の首都)、1664年に明は滅んだ。

その後、万里の長城を警備していた(明の)武将が、北方民族の「女真」族の国家である「清」(シン)に降伏し、女真がペキンを占領し、女真が中国を支配したことにより、中国の王朝が「清」(シン)になり、そして女真が中国を支配した。

※ なお、女真族は中国支配をする前から「清」という国号を名乗っていた。