高等学校世界史B/東南アジアの大航海時代
マレー半島とマラッカ
編集中国王朝が明だった15世紀の時代は、マレー半島では、マラッカ王国は明に朝貢した。そして、マラッカは、鄭和の船団が東南アジアに遠征したときの拠点になった。
このように、マラッカは、明の後ろ盾を得ることで、タイのアユタヤ朝からの干渉を排除した。
マラッカの貿易で取引された商品は、香辛料や綿・絹や陶磁器などである。
東南アジア原産の香辛料が西方に輸出されたり、インド方面などからは綿花が輸入されたりした。
やがて明が衰退すると、マラッカは、今度はイスラーム系の商業勢力を受け入れた。
マラッカを中心とするイスラーム商業ネットワークの拡大にともない、周辺のジャワ島やスマトラ島にもイスラーム教が広まっていった。
しかし1511年、ヨーロッパでの大航海時代によって東南アジア地域に進出してきたポルトガルによって、1511年にマラッカ王国は滅ぼされた。
マラッカの周辺諸島のイスラーム政権として、スマトラ島では15世紀末〜16世紀初めにアチェ王国(15世紀末〜1904)が登場した。また、ジャワではヒンドゥー教国家のマジャパピト朝が衰えると16世紀末にイスラーム政権の新マタラム王国(16世紀末〜1755)が登場した。
これらの諸島のイスラーム諸国は、胡椒(こしょう)など香辛料の栽培と輸出による利益によって繁栄した。しかし17世紀に入ったころから、ヨーロッパでは香辛料の価格が低迷し、これら東南アジア諸島の地域は経済的打撃を受けた。
タイ地域とカンボジア
編集13世紀に元(モンゴル)が侵攻する前は、タイやカンボジアにわたる広大な地域をアンコール朝(クメール王国、802〜1431)が支配していた。 そのアンコール朝は、9世紀に建国された国である。
アンコール朝はヒンドゥー教を重視していた。アンコール朝の12世紀ごろの最盛期には、カンボジアでヒンドゥー教寺院としてアンコール=ワット(Angkor wat)が造営された。なお、現在のアンコール=ワットは上座仏教の寺院である。
しかし、元軍の侵攻以前からタイではアンコール朝からの分離独立の動きが起こっており、タイではタイ人系のスコータイ朝(1257〜1438)が起きていた。そして元の侵攻によってアンコール朝が衰退していくと、スコータイ朝がアンコール朝の領土を奪っていき、最終的にスコータイ朝はアンコール朝を滅ぼした。
スコータイ朝は仏教(上座部仏教)を保護し、多数の仏寺が造られた。
- ※ おそらくアンコール朝の保護するヒンドゥー教への対抗か?
また、スコータイ朝はタイ文字(シャム文字)を制定した。
そのスコータイ朝もまた、タイで新興勢力のアユタヤ朝(1351〜1767)があらわれ、アユタヤ朝がスコータイ朝の領土をうばって、タイではアユタヤ朝が大勢力になっていった。
タイのアユタヤ朝では、米が豊富に取れ、また特産品として鹿皮(しかがわ)などがとれるので、貿易ではアユタヤ朝は米や鹿皮などを輸出した。
アユタヤ朝はマラッカ王国と対立して、マラッカ王国に干渉しようとしたが、マラッカ王国が明(ミン、※ 中国)に朝貢したため、アユタヤ朝による干渉は排除された。
- ※ おそらく、アユタヤ朝はマラッカ海峡の貿易利権を狙っていたか?
朱印船貿易
編集日本で安土桃山時代だった16世紀後半、豊臣秀吉によって朱印船貿易が始められた。1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、徳川家康が日本を支配したが、徳川家康も当初は朱印船貿易を引き継いだ。
朱印船は、東南アジアにも訪れ、貿易を行っていった。
このため、東南アジアに滞在する日本人が増えた事により、東南アジアの港町などに日本人町ができた。
しかし、日本は1639年ごろから、いわゆる「鎖国」(さこく)政策に転じ、日本人の海外渡航及び海外からの日本渡航を原則禁止にしたため、朱印船貿易は終了してしまう。なお日本での鎖国の実施後も、日本は貿易自体は一部の外国相手だけに限定して貿易を続行した。日本の鎖国中は、中国・琉球・アイヌ・オランダを貿易相手として、日本は貿易・交易をつづけた。