高等学校世界史B/欧米列強の内部情勢

ドイツ編集

1870年の普仏戦争後、ドイツではビスマルク宰相がひきつづきドイツ政治を主導していた。

ドイツ内ではカトリックは少数派だったが、フランスや南欧諸国にカトリックが多かったこともあり、1871年頃からビスマルクはカトリックを弾圧した(文化闘争)。

1873年になると、欧米の経済では大きな恐慌が起きた。

恐慌以前からヨーロッパ各地では社会主義運動や労働運動があったが、恐慌で更に(さらに)労働運動が活発化した。

1875年にドイツ政治では社会主義労働者党が台頭した。

するとビスマルクは、(社会主義者による革命をおそれたのか、はたまた政敵を妨害するためか)1878年に社会主義者鎮圧法を制定したが、一方で公的な疾病保険などの社会福祉を充実させるなどの政策を行なった。

(※ 高校『政治経済』の範囲内 : ) 1883年にドイツで世界でさいしょの社会保険制度がビスマルクによって創設されたが、この政策は社会主義者鎮圧法と同時につくられた政策だったため、この政策は「飴と鞭」(読み: アメとムチ)と呼ばれた。「飴」は被治者の喜ぶ政策、「鞭」は反体制派への無慈悲な弾圧を意味する。 (上述のように、世界で最初に国民全てをカバーするような社会保障制度を実現した人物はいわゆる左翼運動家ではなく、国家主義者であるドイツのビスマルクであった。)


貿易においてビスマルクは、1879年にドイツ国内産業を保護するため保護関税法を導入した。1873年の大恐慌後のことである。

外交においてビスマルクは、フランスを孤立化させるため、1873年にはオーストリア・ロシアとの三帝同盟を、1882年にはオーストリア・イタリアとの三国同盟を行うなど、巧みな外交手腕をもちいた(ビスマルク外交)。なお、1887年に三帝同盟が失効するので、更新のためロシアと再保障条約を1887年に結んだ。(しかし、この再保障条約は1890年に新皇帝によって拒否され、1890年に条約が終了してしまう。)

なお、日本から伊藤博文などの使節がドイツを含む欧州にやってきた時期は、1870年代である。

1888年に新皇帝ヴィルヘルム2世が即位すると、ビスマルクは新皇帝と政策があわずに対立し、1890年にビスマルクは辞職した。(普仏戦争のときにヴェルサイユ宮殿で即位した人物はヴィルヘルム1世である。2世でないことに注意。)

新皇帝ヴィルヘルム2世は親政を開始し、対外膨張政策を主張し(「世界政策」)、再保障条約を拒否し、海軍を増強して大規模な艦隊建設を行った。そのためイギリスと競合し、イギリスとドイツは建艦競走を繰り広げることになった。

(なお、再保障条約を打ち切られた側であるロシアはドイツの敵であるフランスと接近し、1891年にロシアとフランスが露仏同盟を結んだことにより、フランスの孤立が解消される。)

(さて、1895年ごろの日清戦争の戦後交渉において、ドイツ・フランス・ロシアが日本に三国干渉する。しかし1895年よりも前に三帝同盟や再保障条約は終了しており、どうやらビスマルク外交の三帝同盟は、三国干渉とは直接の関係は無さそうである。)

1890年に社会主義者鎮圧法が廃止されると、社会主義労働者党は社会民主党に改名し、その社会民主党が勢力を伸ばし、1912年には第一党になった。また、社会民主党は革命路線を捨て、資本主義と妥協しながら労働環境などの改善を目指す「修正主義」になった。修正主義を提唱した主な人物にベルンシュタインなどがある。

フランス編集

上記の通り、ドイツのビスマルク外交によってフランスはしばらく外交的には孤立していたが、ビスマルクの失脚によってロシア外交はフランスに接近し、1891年に露仏同盟が結ばれた。

このため経済では、フランスによるロシアへの投資が活発になった。

(後の1904年には、イギリスと英仏協商を結ぶ。)

フランス国内では第三共和政は当初、政情が不安定であり、1880年代後半にはクーデター騒ぎ(ブーランジュ事件)があった。(対ドイツ強硬論者として国民的人気のあった陸軍大臣ブーランジェが1887〜89年にクーデターを起こしたが失敗し、彼は自殺した。)

また、1894年には、ユダヤ系軍人ドレフュスのスパイ容疑をめぐってドレフュス事件が起きた。 ユダヤ系軍人のドレフュスに、(※ カッコ内は範囲外: ドイツのスパイとしての)スパイ容疑がかけられ、当初は終身刑が言い渡されたが、のちに冤罪が判明した。しかし軍部は撤回しなかったので、世論が反発した。(※ 当時、イスラエルなどのユダヤ国家は無い。ユダヤ国家のスパイ容疑ではなく、ドイツのスパイ容疑。)(※ 背景として、フランス国内での反ドイツ感情がある。ブーランジュ事件も反ドイツだし、高校生は関連づけて覚えよう。)


作家ゾラはドレフュス支持を表明した。

最終的に1906年にドレフュスは無罪として釈放され、この騒動は収束した。


植民地政策では、モロッコなどに植民地を拡大していった。

ロシア編集

(※ ロシア革命以前のロシア政治は、皇帝による専制である。 革命前のレーニンの活動について、この項では詳しくは触れない。)

1890年には露仏同盟が結成された。

1891年にはシベリア鉄道の建設が始まった。(日清戦争(1894年)よりも前の出来事である。)

※ 日清戦争で日本が開戦をした背景として、(検定教科書には紹介されてない説だが、)日本側の考えで「もしシベリア鉄道が完成したら、ロシアは軍隊を簡単に東アジアに動員できるようになってしまい、東アジアは簡単にロシアに侵略されてしまう」という警戒があったのだろう、という説がある。だから日本は、「シベリア鉄道が完成しないうちに、先に日本が朝鮮半島周辺を領有してしまおう」と考えたのかもしれない、という説がある[要出典]

さて、このころロシアでは、専制への不満から社会主義思想が高まっており、社会主義政党をつくろうという熱も高まっていた。 しかしロシアに政治結社の自由はなく、1898年に創設されたばかりのロシア社会民主労働党は、警察などによる取り締まりを受けてしまい、ロシア社会民主労働党は非合法化する羽目になった。(つまり、ロシア国会の政党ではない。)

 
血の日曜日事件
日露戦争中のロシアで、民衆が生活の窮状からの救済を請願するために、司祭ガボンに率いられて集団で行進を行ったところ、軍隊は民衆の集団に発砲し、多数の死者が出た。

日露戦争のさなか、血の日曜日事件が起きると、各地で農民放棄とストライキが発生した。また大都市の工場では、1905年には労働者によるストライキの指導機関などとして「ソヴィエト」(「会議」の意味)が設立された。(名前はのちのソヴィエト連邦の「ソヴィエト」と同じだが、実情は異なる。そもそも、ソヴィエト連邦のほうが、先に存在したストライキ機関「ソヴィエト」の名前を真似た。)

これらの1905年ごろの出来事を歴史学では「第一次ロシア革命」と呼んでいる。ただし、この時点ではまだロシアに王室が残っている。

ニコライ2世は反政府運動をおちつかせるため、同1905年、ニコライ2世は国会の開設を約束し(「十月宣言」または「十月勅令(-ちょくれい)」)、一時的に自由派の首相ウィッテを首相に任命したが、しかし(ニコライたちは国民を裏切り、)後任の首相になったストルイピンは議会を解散して、専制政治を復活させた。

ストルイピンは農村共同体(ミール)の解体などの改革を行った。(おそらく彼は「ミールが反政府革命運動の母体のひとつ」と考えたのだろう。)

  • まめちしき

1925年にソ連が制作した宣伝映画『戦艦ポチョムキン』という作品がある。この作品の元になった出来事は、日露戦争中にロシア海軍の戦艦ポチョムキンの乗組員たちが起こした反乱である。もし参考書に「この頃に海軍の反乱がどうこう〜〜」とか書かれていたら、ポチョムキンの反乱のことを言っていると思われる。ポチョムキンの乗組員たちは待遇が悪かったので反乱を起こしたようであり、べつに日本軍の味方をしたわけではない。

この事件は第一次ロシア革命の中の一つの出来事にすぎないため、歴史学的にはあまり重要ではない。そのため、この反乱が入試に出る可能性はまずない。しかし、『戦艦ポチョムキン』が映画史上重要な作品であることから、規模と影響に比してよく知られている事件である。

ロシアの政治情勢編集

1898年に創設されたばかりのロシア社会民主労働党は警察などによる取り締まりを受け、非合法化する羽目になった。(つまり、ロシア国会の政党ではない。)

ロシア社会民主労働党の1903年の党大会では党が分裂し、レーニンを中心として武力革命すら辞さないで革命を追求するボリシェビキと、武力革命は支持せずに議会参加を目指したり資本家との妥協や合法的活動をめざすメンシェビキとが対立した。

1905年の第一次ロシア革命で、社会主義者たちは結局帝政の政権を奪う事ができず、レーニンは後に1917年の十月革命(現在の教科書では当時使われていたユリウス暦ではなく、現在一般的なグレゴリオ暦で十一月革命と表記されることも多い)を起こすのであった。

アメリカ編集

 
セオドア=ローズヴェルトの「棍棒外交」の風刺画。 大統領自身が「棍棒を持って、おだやかに話せば、遠くまで行ける」と語ったので、棍棒外交といわれた。

1865年に南北戦争が終結した。1869年には最初の大陸横断鉄道が完成した。

南北戦争後、アメリカ経済では特に北部の工業が発展し、鉄鋼業などを中心にして北部の重化学工業が発展した。大企業経営者として有名なカーネギー(鉄鋼業)やロックフェラー(石油)は、このころの時代の人物である。

しだいに労働運動もさかんになり、1886年にはアメリカ労働総同盟が結成された。

1890年にはフロンティアの消失が宣言された。(フロンティア消失のこともあって、この頃からアメリカは、海外進出に関心をもちはじめる。)

共和党のマッキンリー大統領(在任: 1897〜1901)の時代には、キューバの独立運動の支援を理由にして1898年にアメリカ=スペイン戦争を起こし、スペインに勝利した。 その結果、アメリカはプエルトリコ・グアム・フィリピンを領有した。また、戦争の結果キューバはスペインから独立したものの、アメリカの保護国におかれた。

なお、同1898年にハワイを併合した。

1899年にはアメリカの国務長官ジョン=ヘイが中国市場への進出をねらい門戸開放宣言を出した。

また、アメリカはラテンアメリカの進出をねらい、1901年に就任した大統領セオドア=ローズヴェルト(共和党)(在位 1901〜09)は、カリブ海政策として棍棒外交(こんぼう がいこう)とも呼ばれる武力を背景にした外交を展開した。

また、1903年にはパナマをコロンビアから分離独立させた。1914年にはパナマ運河を完成させた。

つぎのタフト大統領(共和党)(在位 1909〜13)の時代には、・・・(※ 参考文献の不足のため、未記述。高校カリキュラムには、近年になって入ってきた話題のようであり、2010年ごろまでの参考書には書かれてない。)「ドル外交」

タフトのつぎのウィルソン大統領(民主党)(在位 1913〜21)の時代には、メキシコがメキシコ革命によって動乱中のため、アメリカ合衆国はメキシコに軍事介入した。

なおパナマ運河はウィルソン政権の時代の1914年に完成した。

ウィルソンは国内的には、反トラスト法の強化、労働者保護立法など、中下位層の人々に配慮した政策を行った。