高等学校世界史B/第一次世界大戦

(読者が中学や『高等学校世界史B/列強の二極化』バルカン問題 でも習ったように、)バルカン現地の民族感情などが対立しあう地域になり、「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになった。

開戦のきっかけ編集

1914年6月、ボスニアの州都サラエボで、セルビアの民族主義者が、訪問中のオーストリア皇太子夫妻を暗殺し(サラエボ事件)、報復のためオーストリアがサラエボに宣戦し、第一次世界大戦が始まった。(※ 検定教科書では「サライェヴォ事件」と」書いてあるが、読みづらいので、ここでは「サラエボ事件」で表記する。)

ロシアはセルビアを支持して参戦した。

ドイツはオーストリアを支持してロシア・フランスに宣戦し、参戦した。

また、ドイツが中立国ベルギーを侵犯したことを理由にイギリスもドイツに宣戦し、イギリスも参戦した。

こうして第一次世界大戦は、ドイツ・オーストリア陣営の同盟国と、対する、ロシア・イギリス・フランスの連合国との戦争になった。


アメリカは当初、中立を宣言していたが、イギリスによるドイツへの海上封鎖を支持するなど、実質的にアメリカは連合国側(イギリス側)だった。(そして大戦後期の1917年にアメリカは連合国側(イギリス側)として参戦する。)

戦争の展開編集

兵器技術では、第一次世界大戦のこの頃、機関銃が実用化しており、兵器として実用化していた。

開戦直後、1914年にドイツはフランスに攻め込んだが、しかし マルヌの戦い でフランス軍によってドイツ軍は進撃をくいとめられ、西部戦線は膠着(こうちゃく)する。

両軍は(敵からの機関銃の攻撃をさけるため)塹壕に立てこもり、戦争は長期化していった。


東部戦線では、開戦直後の1914年にドイツ軍はロシアに攻め込み、タンネンベルクの戦い ではドイツは勝利するが、以降はロシアの反撃も増し、ドイツは攻めあぐね、東部戦線は膠着する。

こうして、第一次世界大戦は長期戦となっていく。

アメリカは当初、中立を守っていたが、大戦後期の1917年に連合国側として参戦する。(アメリカは、ドイツの海上での無制限潜水艦作戦を理由として、ドイツに参戦した。ドイツの無制限潜水艦作戦とは、ドイツが英仏など連合国への補給を絶つために、中立国を含む商船を攻撃する作戦のこと。)


イギリスの秘密外交編集

イギリスはアジアの協力を得るため、1915年にインドには戦後の自治を約束し、敵オスマン帝国に支配されていたアラブ地方には戦後の独立を約束したが(フサイン・マクマホン協定)、しかしイギリスには約束を守るつもりはなかった。

しかしイギリスは、このフサイン・マクマホン協定と矛盾するような内容の宣言を、フランス・ロシア相手に秘密裏に約束しており、1916年にはフランス・ロシアとイギリスとでオスマン帝国の領土を分割するというサイクス・ピコ協定を認めあっていた。(秘密外交)

しかもイギリスは、ユダヤ人相手にも、先ほどのアラブ相手やフランス・ロシア相手の約束とは矛盾するような約束をしていた。

イギリスは、1917年に、ユダヤ人には戦後、アラブ地方のパレスチナの地を提供するというバルフォア宣言を出した。(現代まで続くパレスチナ問題の起源。)

しかし1917年にロシアで革命が起き、ソヴィエト政権が設立すると、ソヴィエトは秘密外交を暴露(ばくろ)した。

1918年1月にアメリカのウィルソン大統領が出した十四か条の平和原則には、秘密外交の禁止 の原則が盛りこまれた。

終戦ごろ編集

またロシアは革命のため、ドイツと講和する方針に転換し、1918年3月にはブレスト=リトフスク条約を結んでソヴィエト(ロシア)はドイツと単独講和をした。

※ この「ロシア革命」は、中学で習ったロシア革命と同じように、ソ連が建設される革命。(レーニンとかが政治の表舞台に出てくる革命。)

そのあと、後述する「ドイツ革命」が起きる。ドイツ革命については、下記に示す。

ドイツ革命編集

 
ドイツ革命  革命派の兵士を乗せているトラックが、首都ベルリンの入口のブランデンブルク門を通過している。

第一次世界大戦の終わりごろ、ロシア革命後のヨーロッパでドイツで革命が起き、王制が終わります。国王のヴィルヘルム2世(ドイツ語:Wilhelm II.)は「皇帝」を名乗っていたので、ドイツで帝政が終わったことになります。ドイツで皇帝は退位させられ、皇室も廃止されます。これが、ドイツ革命(ドイツかくめい、独: Novemberrevolution, 英: German Revolution of 1918–19)です。

きっかけは第一次世界大戦の終わりごろの1918年11月3日にドイツのキール軍港で水兵の反乱が起き、その反乱がもとに革命が広がります。そして皇帝が退位させられて、議会制を中心とした国になります。


ドイツ革命は「革命」と言っても、ロシア革命とはちがい、経済が共産主義にはなっていません。ドイツ革命は市場経済を否定していません。皇帝だったヴィルヘルム2世も処刑はされておらず、革命後のヴィルヘルム2世はオランダで人生を過ごすことになります。

こうしてドイツは共和国になりました。 この共和国の時代のドイツのことを、1919年から1933年までのドイツのことを、ワイマール共和政(独:Weimarer Republik)とか「ワイマール共和国」という場合もあります。また、そのワイマール共和政のころの憲法のことをワイマール憲法といいます。ワイマール共和政でのドイツの正式な国名はドイツのままであり、ドイツの首都はベルリンのままであり、都市ワイマールは首都ではありませんでした。

ロシア革命編集

じつはロシア革命の発生時の1917年3月、革命運動家レーニンはスイスに亡命中であり、彼レーニンは最初の革命を起こしてない。

1917年3月、革命によって臨時政府が樹立した(二月革命)。(ロシア暦では2月なので、二月革命という。)

臨時政府は、当初、戦争を継続した。

その後、1917年4月、スイスからレーニンが帰国し、臨時政府と対決した。

レーニンはボリシェヴィキの支持を集めた。いっぽう臨時政府はメンシェビキの支持を集めた。

また4月には、レーニンは、ドイツとの戦争の即時停止などをうったえる「四月テーゼ」を発表した。(四月テーゼでは、「即時停戦」と「すべての権力をソヴィエトへ」などのスローガンを主張していた。)

だが臨時政府は、首相をケレンスキーに変えて戦争を続行した。

そして、1917年11月に、レーニン側の勢力であるボリシェヴィキが武装蜂起し、ソヴィエト政権を樹立した(十月革命)。

そしてレーニンの政権獲得後、「平和に関する布告」を列強に呼びかけ、無併合・無賠償・民族自決をよびかけた。同時に、新政権は「土地に関する布告」も発表し、土地の自由権を廃止して、大地主の土地を没収し、農民に分配した。

そして1918年3月に、ロシアはドイツと単独講和した(ブレスト=リトフスク条約)。なお、この講和で、ロシアはポーランドやフィンランドなどをドイツに割譲し、領土を失った。(なお、のちの1919年のパリ講和会議でドイツの敗戦が決まると、ポーランドやフィンランドの独立が国際的に承認される。)