高等学校世界史B/WW I 後の欧米の情勢
イギリス
編集大戦中から戦後、イギリスでは選挙法の改正があった。
1918年の第4回の選挙法改正では、21歳以上の男性と31歳以上の女性に選挙権が与えられた。
1928年の第5回の選挙法改正では、21歳以上の男女すべてに選挙権が与えられた。
- (※ 範囲外:) 経済については、戦争によって男性労働者が不足したので女性が工場などの労働に進出したが、しかし戦後、多くの女性は工場をしだいに解雇され、女性は使用人など戦前の労働状況に戻ることになった[1]。 戦時中の当時、イギリスのマスコミ報道では女性の工場などへの就労が話題になったが結局、単に話題になっただけで、戦後の女性の労働はほぼ今までどおりの労働環境として終わった。
- ※ つまり、この時点では、まだイギリス女性の企業進出は進んでいない。
アメリカ
編集(第一次大戦によるヨーロッパ経済の没落により、)アメリカ合衆国は第一次大戦後、債務国から債権国に転じた。(「債務」(さいむ)とは、借金のことである。この場合の債務とは、外国からの借金のこと。「債権」(さいけん)とは、債務の対義語であり、外国にカネを貸している状態のこと。「債」の漢字は、「負債」(ふさい)の「債」と同じ字。)
また、アメリカは、国内市場を高関税で保護した。そのためヨーロッパは、復興が遅れた。
移民法が1924年に制定され、人種による区別のもと移民の人数制限が行われた。この移民法により、東欧や南欧の移民の流入の人数は減らされ、また、日本を含むアジア系移民は事実上禁止された。
アメリカでは女性の参政権は1920年に認められた。
禁酒法が1919〜33年。しかし大衆は禁酒法にさからって、密造酒をマフィアなどからの密売により入手してしまい、そのため、むしろマフィアの影響力が強まってしまった。
文化面では1920年代に、プロ野球などのプロスポーツやジャズがさかんになった。プロスポーツでは、野球やボクシングの人気が高かった。ラジオの放送が始まった。ハリウッド映画も普及した。(また、俳優のチャップリンや、アニメのミッキーマウスが流行しはじめたのも、この頃の時代である。)
1913年にはフォード社がベルトコンベア方式で自動車の生産することで、自動車の低価格化に成功し、自動車を普及させるのに貢献した。電気冷蔵庫が普及しはじめのも、1920年代である。
こうしてアメリカでは、大量生産・大量消費の社会が、つくられていった。
この頃、KKKの活動が活発化した。
※ 説明を省略するが、いくつかの教科書で、この話題がある。日本と関係の深い話題なので、時間があれば知っておくように。 なお、(現代日本の)小学校の検定教科書でも紹介されている場合がある。
イタリア
編集イタリアは戦勝国であったが、期待していた領土(フィウメ市など)を獲得できず、国民のあいだに不満が高まっていた。 さらに戦後の不況により、1920年に北部で労働者による工場の占拠運動が頻発していた。
こうした情勢のなか、政治家ムッソリーニひきいるファシスト党が、中産階級に支持された。
- (※ 範囲外: )じつはイタリアのユダヤ資本は当初、ムッソリーニを比較的に好意に支持している。少なくとも当初、ムッソリーニとその政権はユダヤ人を迫害せず、そのためユダヤ資本は当初、ムッソリニーニを支持していた。(※ これは山川出版の『高校世界史B』にも紹介されている。) WW2戦後の国際社会などではドイツのナチス党とイタリアのファシスト党は政治理念が同一視されることが多いが、気をつける必要がある。なお、山川出版の教科書では、ムッソリーニは後にドイツとの同盟などのためユダヤ迫害の方針に転じたと結論づけている。
当初のファシスト党は国会では少数政党にすぎず、522議席中の32議席という少数政党にすぎなかった。だが1922年、ファシスト党が屋外で「ローマ進軍」と名づけた行進を示すと、数万人のファシスト党支持者が行進につどった。すると、国王はムッソリーニを首相に任命した。そしてファシスト党は、独裁的な政治を行った。1926年にはファシスト党以外の政党を解党させ、1927年頃には独裁体制を確立した。
(※ WW2後、ファシズム勢力が国際的に批判されるが、そもそもイタリア国王が悪いのでは? 軍部や国王が、ファシスト政党を容認・黙認していた。)
イタリアは対外的には、ファシスト党ひきいるなか、1924年にはユーゴスラヴィアからフィウメを獲得し、1927年にはアルバニアを保護国化した。
1929年にはヴァチカン市国の独立を承認し、ローマ教皇と和解した(ラテラノ条約)。
また、東欧では、民族自決の原則にもとづいて独立したばかりの多くの国家が、それぞれ自国でファシズムを支持し、独裁体制に移行する。(検定教科書に普通に書いてある話題。)
- ※ 第二次大戦中の日独伊の3カ国について、主に同盟関係に注目した「枢軸国」(すうじくこく、 Axis powers)という呼び方があり、第二次大戦中の英米ソ仏などの連合国と敵対した陣営のドイツ・イタリア・日本のことを「枢軸国」という。つまり、ドイツや日本などが枢軸国である。この呼び方のほうが、客観的な同盟関係にもとづいて呼称しているので、正確であろう。(※ 東京書籍の中学歴史教科書や高校世界史教科書で、「枢軸国」という用語を記載している。自由社も「枢軸国」という用語を記載している。ただし、他出版社の教科書では、あまり枢軸国という呼び方は定着していない。)
- (※ 「ファシズム」は現代では、「独裁政治」のような意味で使われるが、これはマチガイですね。(※ 山川出版の詳説研究シリーズ(参考書のほう)の古い版でも、『ファシズム』という用語が主観的として、あまり客観的でない表現だと問題視している。) この間違った意味は、第二次大戦中および戦後の英米によるプロパガンダですね(※ なお、二次対戦中の英米の発表した大西洋憲章などで、ドイツ・イタリアなどをファシズムと批判しているので、ドイツ・イタリア・日本をファシズム国家ということには史料的な根拠はある。別に戦後の歴史学者が勝手にファシズム諸国の分類をしているわけではない)。
- ※ とはいえ、英米の政治的な宣言にすぎない大西洋憲章が、歴史学的な真相とするのも、学問的に非・公正であろう。ファシズムという言葉の本当の意味は、おそらく「立憲君主制による国王親政で、国際協調よりも民族の団結(もしくは国家の団結)を優先する体制」および「国王親政に類似した、一人の権力者による、立憲君主制による独裁的な体制」という意味だろう。こういう意味だとすれば、イタリアがファシズムなら、帝政ロシアやソ連も明治日本もファシズムだし、中華民国もファシズムっぽい。第二次大戦後を含めれば、韓国のパクチョンヒ政権などの開発独裁体制もまた、ファシズムだ。)
- ※ 日本の第二次大戦前~対戦中の軍国主義を、ww2戦後の昭和日本の政治評論などでよく「天皇制ファシズム」などと批判する言説もあったが、しかし近年では歴史研究の進歩により、戦前当時の駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの記録により、三国同盟の前の次期、じつは昭和天皇と近衛文麿が三国同盟に反対であった事が分かっている[2]。アメリカ大使は、のちのWW2の日米戦争では日本の敵国になるアメリカ側であるのだから、このジョセフの史料はかなり中立性・信憑性が高いだろう。
- ※ ソ連や中国のような共産主義さえもドイツの「ファシズム」(厳密にはナチズム)と似たような統制的な政治手法であろうと同類に分類することは、べつに日本の右翼だけの難癖ではなく、20世紀の思想家ハイエクや女性哲学者ハンア・アレントも取った立場である(※ 参考文献 : たとえばハイエクの著書『隷属への道]』(リンク先はwikipedia)や、アレントの著書『全体主義の起源』など)。なおハイエクは、ナチスドイツとソ連のイデオロギーをまとめて「集産主義」と言った。一方、アレントおよび彼女と同時期に活躍した政治学者C.J.フリードリヒは「全体主義」と言った。(なお、実は英語参考書の旺文社『英単語ターゲット1900』で、collectiveの派生の名詞として「集産主義」collectivism が英単語と和訳だけ紹介されている[3]。)
- 今日、日本の中学教科書でナチスとソ連の類似性に触れるときは、「全体主義」(totalitarianism [4])と言う表現が、いくつかの検定教科書で使われている。これはアレント流・フリードリヒ流の表現を検定教科書が採用している事になる。
- なお、山川『英文詳説世界史』では、世界恐慌の節で、日本が軍によって "totalitarian" な状態(state)を構築しようとしたという表現を用いている[5]。おそらく、日独伊三国同盟か、大政翼賛会あたりの話だろうと思います。
- こういうふうに、現代では totalitarian という表現は、別にソ連だけに使う表現ではありません。
- なお、「全体主義」の対義語としては、たとえば「人道主義の」 humanitarian などがあるでしょうか。末尾スペルが共通しています。
- さて、ハイエクのほうの考えによれば、その思想の内容はおおむね、ナチスドイツもソビエト連邦も、単に手法が違うだけで思想の根源は似ており、経済の自由市場を、国家が統制する事でその場しのぎの問題解決を繰り返していく事で、結果的には深刻な社会不安や恐怖政治などを引きおこしてしまう、というような感じの経済思想を(ハイエクは)提唱しており、「集産主義」という用語をそういったナチやソ連のような統制的な経済手法にハイエクは当てはめた(「集産主義」という用語そのものはハイエクの提唱以前から別の意味で存在していた)。ハイエクが言うには、たとえ福祉政策などの為政者にとっては禁欲的な崇高な目的であっても、手段としてその場しのぎの経済統制をしていけば、それはナチやソ連のような独裁につながるとしている。だからハイエクは実際、福祉政策に懐疑的でもあった[6]。
- なおハイエクはのちの戦後にノーベル経済学賞を受賞している。(ただし、このハイエクの思想ではケインズ政策による恐慌からの脱出の成功という欧米各国の歴史をあまり上手く説明できないという欠点もある。なおハイエクはケインズ政策を福祉国家的であるとして(集産主義につながりかねないので)批判していた[7]。)
- 21世紀の中学校社会科の歴史教科書で「つくる会」(自由社)や(たしか)東京書籍などの一部の出版社の歴史教科書で、ドイツのファシズムとソ連の共産主義を類似物だとして両方とも「全体主義」(これはアレント流の表現だが)の一形態と見なす言説が文部科学省の教科書検定を通るのには、ハイエクやハンナ・アレントという思想的背景があるという理由もある。
- アレントやハイエクらの問題意識の根底としてよく指摘されるのは、ナチスやソ連の圧制や恐怖政治の原因が、けっして権力者がわがままをしたいという暴政ではなく、一見すると禁欲的・倫理的な動機や背景によって、恐怖政治に至ってたしまった歴史の逆説をこそ問題視しているのである。つまり、古代ギリシアのプラトン的な「哲人政治」のような、伝統的な政治思想をアレントなどは否定しているのである[8]。しかし残念なことに日本の中学高校の政治経済の教育は、今のところプラトン政治哲学に毛の生えた程度でしかない。
- なお、国際政治的には、「ファシズム」という用語の意図として、英米の2か国がソ連など(の民主化の不十分な国々)を牽制(けんせい)するという意味合いもありうるかもしれない。ドイツとソ連はたびたび秘密外交で協力していることが解明されているし(ポーランド分割など)、ドイツと中国も秘密外交で協力している(ドイツから中国への武器援助と、中国からタングステンの提供)。
なお、説明の都合上、「ファシズム」という表現を使ったが、ハンナ=アレントは「ナチズム」と「ファシズム」とを区別するべきだとし、彼女によればファシズムとはイタリアのムッソリーニ政党の一党独裁的な主張に過ぎず、なのでナチスドイツの排他的な民族主義的なナチズムとは区別すべきというのが、アレントの主張である。このため、アレントの主張では、ファシズムは(ムッソリーニの一党独裁に過ぎないので)全体主義とは異なるとする[9]。アレントが言うには、ナチズムとボリシェヴィズム(ソ連のボリシェヴィキの政治理念のこと)が「全体主義」である。
- ※ 山川出版のある版の検定教科書が言うように、日本・ドイツ・イタリアという枢軸国の政治をまとめて「ファシズム」という表現は確かに歴史的に当時から使われている、歴史的な根拠のある表現である。また、当時の文献などにも枢軸国の意味での「ファシズム」という表現が出てくるので、歴史学としては「ファシズム」の枢軸国としての用法も覚える必要がある。しかし上述のアレントやハイエクの説明を読めばわかるように、はっきりいって「ファシズム」という表現は、あまり政治学的ではなく(つまり社会科学的ではない表現である)、学術的な厳密性を欠いている表現である(だから結果的にハイエクやアレントは、「集産主義」や「全体主義」などの別の表現を用いていたりする。アレントの場合、「ファシズム」はイタリアのムッソリーニの政党の主張という本来の意味にもどって限定的に使っていたりする)。高校生の読者がどうするかは任せる。とりあえず、大学への勉強にむけては「ナチズム」という表現も知っておいたほうが良いだろう(大学入試には出ないだろうが)。
- さて、ここまでハイエクやアレントを褒めてきたが、しかしアレントらの思想にも、学術的な批判がある。それは、アレントなどの思想は結局、アメリカ合衆国を正義とした冷戦思考の歴史観でしかないのでは、という批判である[10]。つまり、ソビエト連邦は冷戦中におけるアメリカの仮想敵国だし、ドイツは第二次世界大戦での名実ともに敵国であった。学問とは、アレントは彼女の著作中でユダヤ人に同情的であるが、学問とは、そのようなアレントですら神聖視せず、ここまで慎重に(学術的な意味での)批判的に読むのが学問である。
東欧諸国
編集1929年に世界恐慌が起こり、それによってドイツや日本などで政治の独裁化がはげしくなるわけだが、じつは東欧では、世界恐慌の前から政治の独裁化が激しかった。
東欧には、独立したばかりの国が多かったので、民族問題をかかえていて不安定であり、そのため強権的な政治によって国を統合しようとしていたからである。
ハンガリーでは1919年、ロシア革命にならったハンガリー革命が一時的に成功したが、ルーマニア軍の侵攻により倒された。
また、ポーランドは、ロシア革命・ドイツ革命の影響で権力の空白が生じたことから1918年に独立、ビウスツキを国家主席としてポーランド共和国を建国した。国境が決まってなかったため1920年からソヴィエト=ポーランド戦争を戦い、実力でウクライナ・ベラルーシ西部を勝ち取った。一度主席を退任するも、1926年にクーデーターを起こし再び権力を掌握する。しかし1935年に彼が亡くなったことで内政が不安定、第二次世界大戦の引き金となるドイツ軍のポーランド侵攻へと繋がっていく。
- ^ W.A.スペック『ケンブリッジ版世界各国史 イギリスの歴史』、月森左知・水戸尚子、創土社、2004年6月30日、176ページ
- ^ 田原総一郎『ホントはこうだった日本近現代史1』、ポプラ社、2013年3月5日、86ページ、
- ^ 『英単語ターゲット1900 〔6訂版〕』、旺文社、ターゲット編集部、2021年1月24日、P.250 の単語 collective の項目
- ^ 『ジーニアス英和辞典 第4版』、大修館書店、第3刷発行 2008年4月1日、P.2025、 totalitarianism の項目
- ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for High School 英文詳説世界史』、山川出版社、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.355
- ^ 楠茂樹・楠美佐子 共著『ハイエク「保守」との決別』、中公選書、2013年4月10日 初版発行、138ページ
- ^ 楠茂樹・楠美佐子 共著『ハイエク「保守」との決別』、中公選書、2013年4月10日 初版発行、138ページ
- ^ 政治思想研究 20008年5月 第8号 『 『全体主義の起源』について 』、森川輝一、121ページ ※アレントについて、そう言及されている. (ハイエクについては文脈上の都合でwiki側で追記しただけ)
- ^ 『精読 アレント『全体主義の起源』 』、牧野雅彦、講談社選書メチエ、2015年8月10日 第1刷 発行、p170
- ^ 『精読 アレント『全体主義の起源』 』、牧野雅彦、講談社選書メチエ、2015年8月10日 第1刷 発行、p16