『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期の一〇〇〇年~一一○○年ごろに書かれ、平安時代の藤原道長など、摂関家(せっかんけ)として藤原(ふじわら)氏の一族が権勢を持っていた時代についての歴史物語。 作者は未詳。 作品の内容が、藤原一族の権力抗争のための行動については批判的であり、また作品が宮中の内情に詳しいことから、おそらく作者の立場は、藤原氏を批判的に見る立場にあった貴族または教養人であると思われる。

文体は、和文体である。歴史の記述のしかたは伝記ふうであり、ある時代の天皇の伝記(これを本紀(ほんぎ)という)、または主要人物の伝記であり(これを列伝(れつでん)という)、いわゆる紀伝体(きでんたい)である。

『大鏡』よりも前の時期に『栄華物語』(えいがものがたり、栄花物語)が書かれた。『栄花物語』の内容は、藤原氏を、ほめたたえる内容。

『大鏡』、『今鏡』(いまかがみ)、『水鏡』(みずかがみ)、『増鏡』(ますかがみ)の四つの歴史物語をまとめて「四鏡」(しきょう)と言う。 「四鏡」とも歴史物語。『大鏡』は、四鏡の中で最初に書かれた。

「大鏡」の「鏡」とは、上質の鏡が物を映し出すように、『大鏡』で歴史の真実を映し出そうという意図のようである。

三船の才 編集

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  • 大意
  • 本文/現代語訳

一年(ひととせ)、入道殿の、大井川(おほいがは)に逍遥(せうえう)せさせたまひしに、作文(さくもん)の船、管弦(くわんげん)の船、和歌の船と分かたせたまひて、 その道にたへたる人々を乗せさせたまひしに、この大納言の参りたまへるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき。」と のたまはすれば、「和歌の船に乗りはべらむ」とのたまひて、よみたまへるぞかし、

小倉山あらしの風の寒ければ紅葉(もみぢ)の錦(にしき)着ぬ人ぞなき

申し受けたまへるかひありてあそばしたりな。御自ら(みづから)も、のたまふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、『いづれにかと思ふ。』とのたまはせしになむ、われながら心おごりせられし。」とのたまふなる。一事(ひとこと)のすぐるるだにあるに、かくいづれの道も抜け出でたまひけむは、いにしへも侍らぬことなり。

ある年、入道殿(=道長)が大井川で舟遊びをしなさったとき、(舟を三つ用意させ、)(漢詩を作る)作文(「さくもん」)の舟、管弦の舟、和歌の舟と分けなさって、それぞれの道に優れた人々を乗せなさったときに、この大納言(=藤原公任)が参上なさって、入道殿(=道長)は、「あの大納言は、どの舟に乗りなさるだろうか。」とおっしゃったところ、(大納言は)「和歌の舟に乗りましょう。」とおっしゃって、お詠みになったのですよ。

小倉山やその対岸の嵐山からの吹き降ろしの風が(強くて)寒いので、(紅葉が落ちてしまい、)紅葉の錦を着ない人はいない

(大納言は、自分から)願い出ただけあって、上手にお詠みになるなあ。(大納言)本人がおっしゃるには、「作文の舟にこそ乗るべきだったなあ。それで、これほど(=この和歌ほど)の漢詩を作ったならば、さらに名声が上がるだろうに。残念だったかな。それにしても、入道殿の、『どれにするかと思うか。』とおっしゃられたのには、自分ながら得意気に感じてしまったよ。」とおっしゃられる。一つの事ですら優れているの(で立派なの)に、このように、いずれの道でも抜け出ていることは、昔にも無いことです。


  • 語句(重要)
・入道殿 - 藤原道長(ふじわらのみちなが)。一○一九年に五十四歳のとき出家したので、こう言う。ただし、本文の出来事は、出家前の出来事。「入道」とは、仏門に入った人のこと。
・逍遥(しょうよう) - 気ままにあちこちを歩き回る。
・あそばし - 動詞「す」などの尊敬語。
・かばかり - これほど、これくらい。副詞。
・口惜し - 残念だ。
・心おごり - 得意気になる。
・ - 。
  • 語注
・大井川 - 今でいう京都市の西部を流れる川。
・作文(さくもん) - 漢詩を作ること。
・大納言殿 - 藤原公任(ふじわらのきんとう)。関白頼忠(よりただ)の子。歌人であり、『和歌朗詠集』の選者。
・小倉山 - 大井川の北側にある山。嵐山とは、大井川を挟んで、向かい合っている。
・あらし - 嵐山の「あらし」に、つよい風の「あらし」を掛けてる、または「荒らし」を掛けてると思われる。掛詞(かけことば)。
・ - 。

弓争ひ 編集

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  • 大意

帥殿(そちどの)(=藤原伊周(これちか))の開いた弓の競射に、道長(みちなが)は招待されてないのに、勝手に道長はやってきた。とりあえず道長にも矢を射させたら、道長の射た矢が良く当たる。 いっぽう、帥殿(そちどの)の矢は、道長よりも当たった本数が二本ほど少なかった。

負けを嫌った伊周(これちか)たちが延長をしたところ、道長は今度は自分の家の繁栄を願った発言とともに射ると、的の真ん中に、二本の矢とも当たった。

伊周の父である中関白殿(=藤原道隆(みちたか))は、伊周が二本目を射ようとするとき「もう射るな。」と止めて、その場が白けてしまった。

  • 本文/現代語訳

帥殿(そちどの)の、南院(みなみのゐん)にて人々集めて弓あそばししに、この殿わたらせたまへれば、思ひかけずあやしと、中関白殿(なかのくわんぱくどの)思し(おぼし)おどろきて、いみじう饗応(きやうよう)し申させたまうて、下臈(げらふ)におはしませど、前に立てたてまつりて、まづ射させたてまつらせたまひけるに、帥殿の矢数いま二つ劣りたまひぬ。中の関白殿、また御前(をまへ)にさぶらふ人々も、「いま二度延べさせたまへ。」と申して、延べさせたまひけるを、やすからず思しなりて、「さらば延べさせたまへ。」と仰せられて、また射させたまふとて、仰せらるるやう、「道長が家より帝(みかど)・后(きさき)立ちたまふべきものならば、この矢当たれ。」と仰せられるるに、同じものを中心(なから)には当たるものかは。次に、帥殿射たまふに、いみじう臆したまひて、御手もわななく故にや、的のあたりにだに近く寄らず、無辺世界を射たまへるに、関白殿、色青くなりぬ。また、入道殿射たまふとて、「摂政・関白すべきものならば、この矢あたれ。」と仰せらるるに、初めの同じやうに、的の破るばかり、同じところに射させたまひつ。饗応し、もてはやし聞こえさせたまひつる興もさめて、こと苦う(にがう)なりぬ。父大臣(おとど)、帥殿に、「なにか射る。な射そ、な射そ。」と制したまひて、ことさめにけり。

入道殿、矢もどして、やがて出でさせたまひぬ。その折は左京大夫(だいぶ)とぞ申しし。弓をいみじう射させたまひしなり。また、いみじう好ませたまひしなり。

今日に見ゆべきことならねど、人の御さまの、言ひ出でたまふことのおもむきより、かたへは臆せられたまふなむめり。

帥殿(そちどの、=藤原伊周)が、南院で、人々を集めて、弓の競射をなさったときに、この殿(=藤原道長)がいらっしゃったので、意外で不思議だと、中関白殿(=道隆)はお思い驚きなさって、(とりあえず、)たいそう機嫌を取って、(道長殿は、当時は)官位が低くてらっしゃったが、(競射の順番を、道長殿を)先にしなさって、まず(道長殿に)射させなさったところ、帥殿は当たった矢数が、もう二本ほど(道長よりも)負けになった。中関白殿も、また(中関白殿の)御前にお仕えする人々も、「もう二回、延長させなさいませ。」と申して延長させなさったので、(道長殿は)心おだやかでなく感じなさったが「それならば、延長しなさいませ。」とおっしゃられて、また射ようとなさって、おっしゃられることは、「道長の家から帝や后が出なさるならば、この矢よ当たれ。」とおっしゃられたところ、(当たるという点では)同じ当たるでも(今度の矢は)真ん中に当たるではありませんか。次に、帥殿が射なさるところ、たいそう気後れなさって、お手も震えなさったのだろうか、(放った矢は)的の付近にさえ近寄らず、とんでもない方向を射なさってしまったので、関白殿は顔色が青ざめた。再び、入道殿(=道長)が射なさるときに「(もし私が)摂政・関白をするはずならば、この矢よ当たれ。」とおっしゃられると、初めと同じように、的が壊れるほど、同じ所に射当てなさった。(道長殿の)機嫌を取り、もてなしていた興もさめて、気まずくなってしまった。

父の大臣は、帥殿に、「どうして射るのか。(←反語)射るな、射るな。」と止めなさって、(場が)しらけてしまった。

道長殿は矢をもどして、すぐにお帰りになりました。(道長殿の呼び名は)その時は左京大夫と申した。弓をたいへん上手にお引きになさったのでした。また、たいそうお好きでいらっしゃったのでした。

(おっしゃったことが、)今日すぐに実現するわけではありませんが、人(=道長殿)のご様子や、おっしゃることの内容から、「かたへ」は(※訳に諸説あり・ 1:そばに居る人。 2:ひとつには。)気後れなさったようだ。


  • 語句(重要)
・あそばし - 動詞「す」の尊敬語。
・あやし - 不思議だ。
・下臈(げろう) - 官位の低い者。
・臆す - 気後れする。
中心(なから)には当たるものかは - 「かは」は反語や詠嘆の終助詞。ここでは詠嘆。
な射そ - 「な・・・そ」で、「・・・するな」の意味。「な」は副詞、「そ」は終助詞。
  • 語注
・帥殿 - 藤原伊周(これちか)。
・南院(みなみのゐん) - 二条邸の一部。
・この殿 - 藤原道長。
・中の関白殿 - 藤原道隆。伊周の父。
・饗応し - 機嫌を取り、もてなし。
・入道殿 - 藤原道長。この弓争いの時点では、まだ道長は出家してないが、『大鏡』では、道長のことを入道と呼ぶ場合がある。
・けにや - 「故(け)にや」で、意味は「・・・のため」「・・・のせい」。「に」は断定の助動詞、「や」は係助詞。
・無辺世界 - 仏教語で、何も無い世界のこと。この作品では、とんでもない方向のこと。
・ - 。

花山院の出家 編集

  • 全体の大意および予備知識など

花山院(かさんいん)天皇は、だまされて出家してしまった。また、出家前に、花山院(かさんいん)は天皇の地位からは退位してしまった。

この策略を考えたのは、藤原兼家(ふじわら かねいえ)である。文中の「東三条殿」とは藤原兼家のこと。

花山院が退位すると、次の天皇には、兼家の孫である春宮(とうぐう)が即位する。

そのため、兼家の一族が、天皇の外戚(がいせき)として権力を握れる。外戚とは母方の親戚のこと。

天皇を退位させるため、兼家の子である藤原道兼(みちかね)にウソをつかせた。もし花山院が退位して出家したら、道兼もいっしょに出家するというウソである。

実際には道兼(みちかね)は出家をしなかった。花山寺(はなやまでら)で天皇が出家をした直後、道兼(みちかね)は口実をつけて寺から都に帰った。

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  • 大意

花山院(かさんいん)天皇は、十七歳で天皇に即位し、十九歳で退位し出家した。天皇としての在位は二年間。出家後、二十二年間を生存した。

  • 本文/現代語訳

次の帝(みかど)、花山院(くわさんいんの)天皇と申しき。(※ 中略) 

永観二年八月二十八日、位につかせたまふ。御年十七。寛和二年丙犬六月二十二日の夜、あさましくさぶらひしきことは、人にも知らせたまはで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道させたまへりこそ。御年十九。世をもたせたまふこと二年。その後二十二年おはしましき。

次の帝は花山院(かさんいん)天皇と申しあげた。(※ 中略) 

永観二年八月二十八日に、(天皇の)位におつきになられました。御年(おんとし)は十七歳。寛和二年丙犬(の干支の年の)六月二十二日の夜、意外で驚きましたことは、人にもお知らせにならず、ひそかに花山寺においでになって、ご出家入道しなさったことです。御年は十九歳。(帝として)世をお治めになること二年。(ご出家なされてから)そののち二十二年(ご存命で)いらっしゃった。


  • 語句(重要)
・おはしまし - 動詞「おはします」は尊敬語であり、「行く」「来」「ある」などの意味で用いられる。
・みそかに - こっそりと。ひそかに。
・あさまし - 意外だ。
・ - 。
  • 語注
・花山院(かさんいん) - 花山天皇。(在位: 九八四年 ~ 九八六年。)。
・ - 。

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  • 大意

出家予定の夜、天皇は、月が明るいから目立つとして、出家をためらうが、粟田殿(=藤原道兼)は、天皇の出家をせきたてる。また、天皇が手紙を取りに戻ろうとしたので、粟田殿は、さらにうそ泣きをしてまで、天皇を出家にせかす。

  • 本文/現代語訳

あはれなることは、降り(おり)おはしましける夜(よ)は、藤壺(ふぢつぼ)の上の御局(みつぼね)の小戸(こど)より出(い)でさせたまひけるに、有明(ありあけ)の月の明かかりければ、「顕証(けしやう)にこそありけれ。いかがすべらむ。」と仰せられけるを、「さりとて、止まらせたまふべきやう侍らず(はべらず)。神璽(しんし)・宝剣渡りたまひぬるは。」と粟田(あはた)殿の騒がし申したまひけるは、まだ帝(みかど)出でさせおはしまさざりける先(さき)に、手づからとりて、春宮(とうぐう)の御方(かた)に渡したてまつりたまひてければ、帰り入(い)らせたまはむことはあるまじく思して(おぼして)、しか申させたまひけるとぞ。

 さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲のかかりて、少し暗がりゆきければ、「わが出家(すけ)は成就(じやうじゆ)するなりけり。」と仰せられて、歩み出でさせたまふほどに、弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)の御文(ふみ)の、日ごろ、破り(やり)残して御身もはなごらん放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし。」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の、「いかに、かくは思し召しならせおはしますぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうで来なむ。」と、そら泣きしたまひけるは。

しみじみと心痛む思いのすることは、ご退位なさった(その日の)夜は、藤壺の上の御局(みつぼね)の小戸(こど)からお出になったところ、有明の月がたいそう明るかったので、「目立つなあ。どうしたものか。」とおっしゃられたのを、「そうだといって、ご中止なさるわけにはいきません。神璽(しんし)・宝剣は(皇太子に)お渡りになってしまいましたからには。」と、粟田殿(=藤原道兼)がせきたて申し上げるのは、(実は)まだ天皇がお出ましにならなかった前に、(粟田殿が)自ら自身の手で、(神璽と宝剣を)春宮のお方にお渡しになってしまったので、(天皇が宮中へ)お帰りなさることはあてはならないことだとお思いになって、そのように申し上げなさったということです。

明るい月の光を、まぶしくお思いになっていたうちに、月の表面にむら雲がかかって、少し暗くなっていったので、「私の出家は成就するのだなあ。」とおっしゃって、歩き出しなさるしだいに、弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)のお手紙の、ふだん、破り捨てずに残して、御身から離さずにご覧になったいたのを思いだしなさって、「しばらく(待て)。」と言って、取りにお入りなさった時ですよ、粟田殿の、「どうして、このようにお思いになられますのか。ただ、今が過ぎたら、自然と差し障りも出て参るでしょう。」と言って、うそ泣きをしなさったのは。


  • 語句(重要)
・有明(ありあけ)の月 - 陰暦十六日以降の月。
・さやけき - 明るい。
・ - 。
・ - 。
  • 語注
・藤壺の上の御局 - 清涼殿の北側にある、后妃のための部屋。
・顕証に - あらわで、はっきりしているさま。
・神璽・宝剣 - 三種の神器のうちの、二つの、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。なお、三種の神器のもう一つは、八咫鏡(やたのかがみ)。
・粟田殿 - 藤原道兼(みちかね)。( 生没: 九六一 ~ 九九五 )。兼家の子。「粟田」とは屋敷の名前。当時、蔵人(くろうど)として花山天皇の従者だった。
・春宮(とうぐう) - 円融(えんゆう)天皇の皇子。のちの一条天皇。母は、兼家の娘の詮子(せんし)。「東宮」とも書く。
・弘徽殿の女御 (こきでんのにょうご) - 花山天皇の女御。本文の前年の九八五年に病死。

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  • 大意

天皇が花山寺へ行く途中、陰陽師(おんみょうじ)の安倍清明(あべの せいめい)の家の前を通る。清明は、家の前を天皇が通っていることに気づいていない。陰陽師である清明は、天変によって、天皇が退位なさったことを察知する。その事を告げる清明の声が、ちょうど家の前を通っていた天皇にも聞こえ、天皇は自らの運命を感慨深く感じる。

清明は式神を宮中に行かせようとするが、式神からの報告で、天皇が家の前を通った事を報告される。

  • 本文/現代語訳

さて、土御門(つちみかど)より東(ひんがし)ざまに率(ゐ)て出だしまゐらせたまふに、晴明(せいめい)が家の前をわたらせたまへば、みづからの声にて、手をおびただしく、はたはたと打ちて、「帝おりさせたまふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。まゐりて奏(そう)せむ。車に装束(せうぞく)とうせよ」といふ声聞かせたまひけむ、さりともあはれに思し召しけむかし。「かつがつ、式神(しきじん)一人内裏(だいり)にまゐれ。」と申しければ、目には見えぬものの戸を押し開けて、御後ろをや見まゐらせけむ、「ただ今これより過ぎさせおはしますめり。」といらへけりとかや。その家、土御門町口(まちぐち)なれば、御道なり。

さて、土御門から東のほうにお連れ出し申し上げなさったところ、(陰陽師の安倍)清明の家の前をお通りになさり、(清明)自身の声で、手を激しくパチパチと叩いて、「天皇が退位なさると思われる天変があったが、既に成立してしまったと思われることだ。参内(さんだい)して奏上しよう。車に支度を早くせよ。」と言う声を(天皇は)お聞きになっただろう、そうだからとは言え(=天皇の覚悟の上の出家だとは言え)感慨深くお思いになっただろうよ。(清明が)「とりあえず、式神一人、宮中へ参上せよ。」と申したので、目には見えないものが(清明の家の)戸を押し開けて、(天皇の)お後ろ姿を見申し上げたのだろうか、「たった今、ここを通り過ぎたようです。」と答えたとかいう事です。その(清明の)家は、土御門町口にあるので、(天皇が花山寺へ向かう際の)お道筋なのであった。


  • 語句(重要)
奏(そう)せむ - 「奏す」(そうす)は、参上する、申し上げる。天皇・上皇に申し上げる場合にのみ使う。
・ - 。


  • 文法
率(ゐ)て出だしまゐらたまふ
「まゐらす」は謙譲語であり、花山天皇に対する敬意。謙譲語は動作の受け手への敬意。この場合、連れ出された人物は花山天皇だから。
「たまふ」は尊敬語であり、粟田殿に対する敬意。尊敬語は動作者への敬意。
  • 語注
・土御門(つちみかど) - 土御門大路。
・式神(しきじん) - 陰陽師が操る鬼神。
・ - 。
・ - 。

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  • 大意

花山寺に到着して、天皇が剃髪し終わっても、粟田殿(=道兼)は出家しなかった。天皇は、だまされたと知り、お泣きになる。だまされたとは、どういうことかと言うと、実は以前から、もし天皇が出家したら粟田殿も一緒に出家する、と粟田殿は約束していたのであった。

さて、この間、粟田殿の父である東三条殿は、粟田殿が無理やりに出家させられないようにするため、手下の者に天皇・粟田殿を見張りらせていた。護衛という名目で見張りは行われており、天皇・粟田殿の一行(いっこう)が都から寺までの移動する間と、一行が寺にいる間に、一行の見張りとして手下の者を付けさせていた。

  • 本文/現代語訳

 花山寺におはしましつきて、御髪(みぐし)おろさせたまひて後にぞ、粟田殿は、「まかり出でて、大臣(おとど)にも、変はらぬ姿、いま一度(ひとたび)見え、かくと案内(あない)申して、必ず参りはべらむ。」と申したまひければ、「朕(われ)をば謀るなりけり。」とてこそ泣かせたまひけれ。あはれに悲しきことなりな。日ごろ、よく、「御(み)弟子にて候はむ(さぶらはむ)。」と契りて、すかしまうしたまひけむがお恐ろしさよ。東三条殿(とうさんでうどの)は、「もしさることやしたまふ。」と、危うさ(あやふさ)に、さるべくおとなしき人々、何がしかがしといふいみじき源氏(げんじ)の武士(むさ)たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤(つつみ)の辺よりぞうち出でまゐりける。寺などにては、「もし、押して、人などやなしたてまつる。」とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守りまうしける。

(天皇が)花山寺にお着きになって、ご剃髪なされた後に、粟田殿は、「退出して、(父の)大臣にも、(私の出家前の)変わらない姿を、もう一度見せ、こうと事情を申し上げ、必ず(戻って)参りましょう。」と申し上げなさったので、(天皇は)「私を騙したのだな。」とおっしゃってお泣きになりました。お気の毒で悲しいことですよ。(栗田殿は)日ごろ、よく、(もし天皇が出家したら、自分も)お弟子になりましょうと約束して、だまし申し上げなさったという恐ろしさよ。東三条殿(=兼家)は、そのようなこと(=粟田殿による出家)をなさったらと心配で、しかるべき思慮分別のある人々や、誰それという優れた源氏の武者たちを、護衛として付けなさったのでした。(粟田殿が)京の(町中にいる)うちは隠れて(見張って)、堤の辺りからは姿を現して参ったのです。寺などにおいては、「万一、(誰かが)無理やり、誰かが(粟田殿が出家するように)し申し上げるのでは。」と思って、一尺ほどの刀を抜きかけてお守り申したということです。

(花山院)


  • 語句(重要)
・ - 。
・ - 。
・すかし申し - 「すかす」=だます。
・おとなし - 思慮分別のある。
  • 語注
・花山寺 - 今でいう京都市 山科(やましな)区 北花山 にあった寺。今の元慶寺(がんぎょうじ)。
・東三条殿(とうさんじょうどの) - 藤原兼家(かねいえ)。「東三条」とは屋敷の場所から。
・一尺 - 約三十センチメートル。