高等学校商業 経済活動と法/不法行為の原則

不法行為 編集

たとえば自動車事故を起こして他人にケガをさせたら、事故を起こした運転者は、損害賠償として、後日に金銭を払うのが通常である。この場合、事前には、運転手と、ケガさせられた怪我人とのあいだには、契約関係は無い。

しかし、契約関係のない間でも、一定の損害を与えた場合には、損害賠償をする責任があることが、民法などで定められている。

このように、おもに過失や故意などによって、他人に損害を生じさせる行為のことを不法行為(ふほう こうい)という。特に、その不法行為が、故意や過失である事を強調する場合に「一般の不法行為」という。

不法行為の被害者は、加害者に対して損害賠償を請求できる。(民709) また、損害賠償は原則的に、金銭の支払いで行う。 ※ 参考文献: 有斐閣『債権 エッセンシャル民法*3』永田眞三郎ほか、293ページ)

不法行為では、原則的には「故意」(こい)または「過失」(かしつ)である事が、損害賠償のさいの要件であり、これを「過失責任の原則」という。

故意」(こい)とは、「わざと」という意味である。より正確に言うと、「故意」とは、自分の行為が他人に損害をおよぼす可能性がある事を知りながら、あえてその行為をするという心理状態のことである。

過失」(かしつ)とは、「注意を怠って(おこたって)」という意味である。より正確に言うと、「過失」とは、法律上要求される注意義務を怠って、事故などを発生させてしまう事、および、社会生活上は予測して当然の事を予測しなかったために事故などを発生させてしまう事である。

この原則により、たとえば、AとBのあいだで、BがAから借りた物を、Bが勝手に善意(事情を知らない)の第三者Cに転売してしまっても、Bに過失または故意があるので、AはBに損害賠償できる。

また、過失責任主義により、私たちは通常の社会生活で必要な注意を行って、さらに、じっさいに注意を実行していれば、私たちが大きな損害賠償金を支払うことは、まず起きないように、なっている。

だが「過失責任の原則」にも例外があり、公害などの場合が例外である。公害への住民などからの損害賠償では、公害を発生させた企業は、無過失で賠償責任を負う。この理由は、かつての法律では、企業側に故意や過失がある場合にのみ賠償をさせるという方針だったが、その方針の結果、被害者の住民の救済があまり進まず、被害を拡大させてしまった、などのような歴史的な経緯への反省に基づくものである、というのが通説である。

なお、一般に損害賠償の金額は、その事故などによって、ふつう発生する損害を程度の金額である。


四代公害裁判
(※ 参考文献: 清水書院『現代社会ライブラリーにようこそ 2018-19』)

四代公害裁判は、すべて民事裁判として扱われた。

また、イタイイタイ病以外は、判決で不法行為責任を問われた。 つまり、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんぞく は不法行為責任(民法709条)を問われた。


(※ 範囲外 :)なお、刑事事件にともなう民事の(被害者などへの)損害賠償などの民事裁判や命令(「損害賠償命令制度」)については、日本では、刑事訴訟で有罪判決の出たあとに、民事での初審での損害賠償の裁判または審理が始まり、(「犯罪被害者等の権利利益の保護を図るための刑事手続に付随する措置に関する法律」)、4回までの審理がある仕組みがあるという仕組み。
こうすることで、被害者側は、刑事訴訟の専門的知識などの負担が減るし、また、対応する審級の刑事訴訟の判決結果を参考にできる。
なお、欧米では異なる。欧米では、刑事訴訟内において損害賠償を請求するような国もある。


挙証責任 編集

不法行為の証明は、原則として、賠償をもらおうとする側が証明を行う義務があり、このことを挙証責任(きょしょう せきにん)という。(※ 立証責任(りっしょう せきにん)ともいう。検定教科書では「挙証責任」の表記なので、本節では「挙証」の表記にする。)

※ つまり、損害賠償の訴訟では原則として自身を被害者であると主張する側が証明しなければならない[1]。(損害賠償の請求の訴訟は原則として直接の被害者が訴訟しなければならない[2]


さて、法学所には無いが、「特に法で定めのない場合には、原告が証明責任を負う」と考えておくと、分かり易い。

刑事訴訟でも、「疑わしきは被告人の利益に」の原則により、証拠不十分なら事実上は原告(検察)の負けのような状態になる。

(※ 範囲外 :)背景として、「なるべく原告が物事を証明すべき」という思想がある。(これは法学書には書いてないが、政治評論などでは比較的に常識的な考えである。法学というより立法論(りっぽうろん)かもしれない。「立法論」とは、「どういう法律を作るべきか?」という理論などのこと。)

なぜなら原告は、事前に証拠を揃える事ができたりして有利である。一方、被告は、原告から不意打ち的に訴訟を起こされるので、事前に充分な証拠を被告が揃えておくのは困難である。
だからなるべく原告が物事を証明すべき、という判断になるわけである。

不法行為にかぎらず、一般に訴訟の中の個々の案件において、原告または被告のどちらかに証明の責任が必ずあるので、その責任のことを「挙証責任」または「立証責任」という。この「挙証責任」という言葉を使うなら、つまり、「挙証責任は、やや原告側に重い」という事になるだろう(法学書には書いてない)。

なぜこのような、原告側の証明負担があるかについては、下記のコラムのようなお話を読んでもらえば分かりやすいだろう。(結論を述べると、悪用や濫訴・乱訴を防ぐため、などの理由である。)

(※ 範囲外 :)「被害者」の挙証責任

「被害者」を名乗る原告側に挙証責任を要求するのは、一見すると弱者でありそうな被害者に負担を要求していて残酷なように思えるかもしれませんが、しかし、法の悪用を防ぐために必要な事です。

もし、被害者に挙証責任を要求しないと、たとえば詐欺師(さぎし)や暴力団員(ヤクザ)のような人たちが、なにかの「被害者」を名乗り、罪なき人々から金銭をせしめることに悪用されかねません。

たとえば、読者のあなたが(被告のような立場になり)、Wikibooks執筆者の私(私は原告としましょう)から、次のような賠償請求をされたとしよう。「オマエ(=読者であるアナタ)はオレに、精神的苦痛により損害を与えた! 私(このwikibooks執筆者)は被害者だ! オマエは加害者だ! だから賠償として、オマエ(=読者であるアナタ)はオレに1000万円を支払え!!」と言われたとしよう。

もし被害者に挙証責任が無いなら、読者のあなたは1000万円を私に支払う事になってしまいます。しかし、どう考えても、読者が金を払わされるのは不合理です。よって、そもそもの前提・仮定の「被害者には挙証責任が無い」が間違っている事になります。よって、「被害者が挙証責任を負うべき」だという理屈が導かれます。(数学でいう背理法のような論証テクニック)


このように民事訴訟では一般的に、なにかの被害を主張する側が証明の義務を負います。

もし挙証責任が(原告・「被害者」への負担として)存在しない世界だと、賠償するほどの精神的苦痛を与えてない事を証明する義務を負う側は、読者であるアナタ(=被告のような立場)の側になってしまう。

もちろん、もし上記の私の言い掛かりのような事例で賠償金が支払われる事態なんて起きたら不合理なので、じっさいの裁判では、賠償をもらおうとする被害者の側に挙証責任の義務があるわけである。

なので、傾向として「原告・被害者に挙証責任」のような傾向があるわけである。


上記の説明では、分かりやすくするために暴力団や詐欺師による悪用を例にあげたが、なにもそういう反社会な団体の人でなくても、訴訟なら原告に挙証責任は要求される。

なぜなら世の中には、アタマのおかしい人や、被害妄想の激しい精神異常者もいるので、そういう狂人がワガママを通すのに裁判を悪用させないように、原告に挙証責任を要求する必要があるのだろう。


本来なら、法学などでキチンと、上述のような、原告の証明負担の傾向を説明すべきであろう。しかし現状の法学書はそうなっていない。しかし損害賠償請求などの民法の規定はそういう原告側の証明負担の思想になっている[3][4]

(※ 範囲外 :)

民事の不法行為に限らず、刑事訴訟なども含めて考えると、上述のように「原告の側が証明する責任があるだろう」という法的な共通傾向を見いだせる。民事訴訟でも、普通は、賠償をもらおうとする側は原告であろう(民事で「自分から賠償しよう」という人は、普通なら訴訟を起こさない)。(民法の損害賠償請求では、賠償をもらおうとする側に、重めの証明責任があるので。)
※ ただし、例外もある。たとえば、製造物責任法(いわゆる「PL法」)では、訴訟では(被告のような立場になる)製造メーカーの企業側が証明している。
こういう例外があるので、検定教科書では残念ながら「訴訟では原告の側が挙証責任」とは教えづらいし、実際にそうは教えていない。
ただし、考えを変えればPL法が制定される前までは、原告の消費者側の挙証責任の負担が今よりも大きかったわけで、そういう視点では、やはり「原則として、訴訟では原告の側が挙証責任」ともいえる。
※ 下記の場合でも、原告と被告の関係を念頭に置いておくと、わかりやすいだろう。
ただし、あくまで傾向なので(製造物責任法などのように分野によっては例外もある)、実務の際には法律書などで確認のこと。(以上、範囲外)


(※ 範囲外 :)一般的な法学書には、原告の挙証責任負担の考えは無いが、しかし特殊な事例には原告に負担を課す場合の学説もある。後述する「悪魔の証明」のように、不存在の証明をするのは困難であるので、不存在の証明の場合には原則的には物事を主張する側に証明の義務があるのです。なお、「悪魔の証明」の原告の証明負担の考え方を、法学の「利益衡量説」と関連づけ学説もある[5]


(※ 範囲外 )証明責任の分配
(※ 範囲外: )民法などの民事系の法律では、紛争の種類ごとに、原告と被告のどちら側に挙証責任があるか等が、あらかじめ定められている(※ 詳しく知りたければ「証明責任の分配」で調べよ)。
おおまかな傾向としてだが、裁判の挙証責任について原告と被告とでは、基本的に原告の側に挙証責任が要求される場合が多い。(ただし、例外的に被告側に挙証責任が要求されるような紛争もあるので(「立証責任の転換」または「証明責任の転換」などという)、実務の際には法の条文を確認のこと。)


(※ 範囲外 )立証責任の転換
※ なお、刑事訴訟でも原則的には、原告側(検察)に挙証責任が要求されている。ただし、刑事訴訟でも例外的に、事件の種類によっては被告側に証明の責任のある場合もある(「立証責任の転換」、「証明責任の転換」)。もし読者が実務で必要になったら、刑法や判例や法学書などを参照せよ。
(※ 範囲外 )裁判における「証明」
(※ 範囲外: )「証明」と言っても、数学の「証明」とは違い、厳密に科学的に永久普遍の証明は、社会では不可能である。なので、裁判での証明は、裁判官が、「確からしい」と納得する程度の証明である。(詳しく知りたければ「自由心証主義」について調べよ。なお、自由心証主義とは、このことではないので、混同しないように。) けっして学説の「証明」や、科学法則などの「証明」ではないし、裁判所はけっして学会や大学ではないので、そのような場ではない。事件の事実関係の確からしさの高そうな証拠の提出のことが、裁判でいう「証明」のことである。

(※ 範囲外: )民事訴訟における証拠や取り調べについて 編集

不法行為にかぎらず、民事訴訟では、証拠や取り調べに、以下の原則がある。

民事における職権証拠調べの禁止

(※ 範囲外: )民事訴訟では、裁判所は、証拠集めをする権限をもっている。また、裁判所による取調べも可能である。しかし民事訴訟では、自発的に裁判所が証拠調べをすることは規制されており、原告または被告からの依頼によって裁判所に証拠調べの依頼があったなら、裁判所は証拠調べができる。しかし調べられた証拠は中立的なものとなり、たとえ原告/被告のどちらか片方から依頼されて裁判所の調査した証拠であっても、原告と被告のどちらの陣営でも自分たちのための証拠として活用できる(証拠共通の原則)。なお、裁判所の外でも、裁判所は証拠集めや取調べもできる。

なお、刑事訴訟と行政訴訟では、なんと裁判所は、場合によっては独自に証拠を探してくることが可能である。刑事訴訟や行政訴訟での、このような裁判所みずからが証拠を探してくることを「職権証拠調べ」という。職権証拠調べは、かなりの権限なので、法律に明記されている必要がある(刑訴法298条の2、行訴法24)。

一方、民事訴訟では、裁判所には、職権証拠調べの権限はほぼ無い。(学説などでは例外的に、民事保全などの手続きのための最低限の証拠調べなどが断片的だが認められる[6]、と考えられている。)

自白(じはく)

(※ 範囲外: )民事訴訟では、(原告または被告による)自白(じはく)は、証拠になってしまう場合がある(民訴179条)。

もし刑事訴訟なら、自白は拷問などのおそれがあるので、刑事訴訟での自白は証拠にならないと憲法38条や刑事訴訟法319条に定められている。しかし、民事は別である。おそらくだが理由は、そもそも、民事では、被告は、べつに原告の民間人によって逮捕されてないのだから、原告から被告への拷問(ごうもん)などによる自白の強要の心配が無いからだろう。(厳密に考えると、刑事事件にともなう被害者への損害賠償などの民事訴訟などもあるので複雑だろうが、ここwikibooksの高校教育では立ち入らないとしよう。)

損害賠償 編集

損害賠償は、原則的に金銭で行う。(※ 参考文献: 有斐閣『債権 エッセンシャル民法*3』永田眞三郎ほか、293ページ)

なお、他人に物を奪われた場合に「その物を返してほしい」という場合は、そもそも(「不法行為」に対する)「損害賠償」ではなく、物権的な返還請求の問題である。

しかし、そもそも損害の種類が「ケガをさせられた」のように、けっして物権の問題ではない損害の場合もあるので、こういう場合、損害賠償の問題になるわけである。

慰謝料(いしゃりょう) 編集

損害を受けたことによる賠償金では、財産的な損害賠償のほかにも、身体的な損害への賠償、精神的な苦痛への賠償、名誉などへの賠償なども支払う義務がある。(民710) こういった、身体や精神などへの損害の賠償金のことを慰謝料(いしゃりょう)という。

なお、自動車事故などの場合で被害者が死亡した場合は、相続した人が、損害賠償や慰謝料を請求できる。(※ 実教出版の検定教科書にある例。)

損害賠償請求の要件 編集

不法行為の損害賠償を請求するには、下記のような要件が必要である。

  • 損害の発生があること。
  • 加害者に責任能力があること。
  • 被害者の保護されるべき権利への侵害があること。
  • (原則として)故意または過失が加害者にあること。
  • 加害者の行為と被害者との損害との発生とのあいだに因果関係があること。(被害者が挙証責任を果たせることも、これに含まれる。)

損害賠償については、もし損害が無ければ、賠償は発生しない。

※ 備考: なお一方、刑法では、犯行が未遂などに終わって、犯罪被害が無くても、犯人が逮捕される場合もある。刑法と混同しないように。

相当因果関係 編集

(※ 高校の範囲内。東京法令出版の教科書にて「相当の因果関係」および「事実的因果関係」の記述を確認。)(※ ビジネス法務検定3級にも出題されうる用語。中央経済社『ビジネス法務検定試験 3級』2016年度版にて、「相当因果関係」の記述を確認。)

例えば、AがBをなぐってケガをさせたとする。そして、Bはその治療のために病院に向かう途中、Cの運転する自動車による不注意運転の交通事故で、Bは死んだとする。この場合に、AがBの死亡のぶんまで損害賠償をするのは、不合理であろう。

(※ 上記の事故例は、本ページWikibooks著者の想像によるオリジナルの事故例。読者で法学にくわしい人は、査読をお願いします。)

法的な訴訟において「因果関係」をあつかう場合、通常の日常語での「因果関係」とは別に、「事実的因果関係」(じじつてき いんがかんけい)という概念を用いる場合もある。

「事実的因果関係」とは、例えるなら、「Aが起きたせいでBが起きた」と考える場合に、さらに「もしAが起きなかったら、Bも起きなかっただろう」とまで考える推論が、「事実的因果関係」である。「あれなければ、これなし」的な因果関係のことが、事実的因果関係である。

しかし「事実的因果関係」だけだと、賠償範囲が際限なく拡大してしまう可能性があり、切りがなくなってしまいかねない。たとえば、本節の冒頭の例では、BをなぐっただけのAが、Cの不注意運転によるBの死亡事故のぶんまでで賠償しては、不合理だろう。

他の例を考えれば、例えば、AがBをなぐったが、その日の晩にBがムカついた気分をまぎらわせるためにヤケ酒を飲んだら、急性アルコールでBが死んだ場合に、Aに損害賠償するのも、なんだか不合理だろう。

あるいは、もしBがCによる交通事故にあわない世界でも、Aに殴られたあとのBがその不満をBの奥さんのDに八つ当たりして、その結果、奥さんと不和になり離婚してしまった場合とかの慰謝料を、Aに要求するのも、なんだか不合理だろう。

そこで実際の損害賠償では、加害行為から一般的に生じるはずの結果のみに限定するなどの追加条件を加えられるのが通常である。

なお、加害行為から一般的に生じるはずと予見できた結果、という意味での因果関係のことを「相当因果関係」(そうとう いんがかんけい)という。

つまり、損害賠償の証明における「因果関係」とは、普通、「相当因果関係」のことである。


範囲外: 犯罪容疑者の刑事責任と民事責任 編集

刑事事件の場合でも、被害者が加害者の犯行により被害を受けていれば、(検察の起訴による)刑事訴訟とは別に、損害賠償を求める民事訴訟を被害者は起こせるので、被害者は損害賠償を加害者に請求できる。

刑事訴訟と民事訴訟は独立しているので、たとえば、刑事訴訟で容疑者が無罪であっても民事訴訟では損害賠償が認められるといった場合もありうる。

自動車運転の交通事故も、自動車運転過失致死傷罪や危険運転致死傷罪などの犯罪である。これらの交通事故でも、加害者は、刑事責任と民事責任がある。

民事訴訟は、刑事訴訟とは異なり、警察が捜査したりしないし、検察が起訴したりしないので、被害者が訴訟を起こす必要がある。

特に、凶悪犯罪の加害者への民事訴訟の場合、被害者への報復などを予防する必要があるため、民事訴訟の際には弁護士などに相談するのが良いだろう。(※ 参考文献: 石原豊昭『法律トラブルを解決するなら この1冊』、第三版、自由国民社、148ページ)


加害者の責任能力 編集

加害者が、もし幼児や児童だったりする場合、「責任能力が無い」などとみなされるので、その幼児または児童は不法行為責任を負わないが、かわりに監督義務者が責任を負う場合がある。

※ 15歳以上の年齢の者ともなれば、判例上でも責任能力を要求されるのが通常である。なので、読者である高校生諸君は、けっして注意義務を怠ってはいけない。

また、このように、一般の大人の判断力を基準にして、自分の行為が合法的であるかどうかを判断できるような能力のことを「責任能力」という。

損害賠償を加害者に請求するには、加害者に責任能力があることが必要である。もし、加害者に責任能力が無い場合、かわりにその監督義務者に損害賠償を請求することになる。

精神上の障害などで判断能力がいちじるしく低い者なども、責任能力が無いとみなされるので不法行為責任を負わないが、かわりに監督義務者が責任を負う場合がある。

なお、刑法上の責任能力の要求される年齢である14歳以上(刑法41条)とは、民事の責任能力の要求される年齢とは、別々である。

  • まとめ

判断能力がいちじるしく低いと見なされる年齢の未成年者や、そのように判断能力のひくい精神障害者などは、責任能力が無いとみなされるのが、かわりに監督義務者が責任を負う場合がある。(民714)

被害者の保護されるべき権利への侵害 編集

法律上、保護されてる権利が侵害された場合は、当然に、損害賠償請求の根拠にできる。

また、日照権や侵害された場合も、不法行為として損害賠償を請求できる場合がある。(※ 検定教科書の範囲。東京法令出版の教科書にあり。)(※ 参考文献: 大村敦志『基本民法I 総則・物権』有斐閣)

例外 編集

無過失責任になる場合 編集

法で定める特別な事故の場合、加害者に過失がなくても、被害者は加害者に損害賠償を請求できる。このような場合のことを無過失責任という。

企業活動などが関わる事件では、下記のようにいくつか無過失責任がある。

  • 参考(検定教科書では欄外の傍注で記述してある話題。)
鉱害賠償(鉱業法109)、原子力事故の賠償(『原子力損害の賠償に関する法律』3)、労働者災害保補償(労基75)、大気汚染と水質汚濁による被害の賠償(大気汚染防止法25、水質汚濁防止法19)、などの賠償は無過失責任である。

要するに、これらの事故では、加害者側の責任が重い。

また、製造物責任法により、製品に欠陥がある場合の賠償では、被害者は製品の欠陥を証明するだけでよく、加害者に過失がなくても、損害賠償を請求できる。(※ 検定教科書の本文の範囲内。)

また、自動車事故では、加害者である運転者の責任が、重い。(自動車損害賠償保障法3) (※ 検定教科書の本文の範囲内。東京法令出版の教科書で本文説明。また、実教出版でも、欄外の脚注で説明。)

範囲外: 逸失利益 編集

たとえば他人のせいで事故などにあって、被害者が1ヵ月間、健康上の理由により、働けなくなったとする。 すると、加害者が払うべき損害賠償の金額には、この1ヵ月ぶんの給料を上乗せするべきだろう、と一般的には思われている。

このように、不法行為(事故など)が無ければ、被害者が得られたであろう収入などのことを逸失利益(いっしつりえき)という。

一般に、損害賠償では、逸失利益も考慮して、賠償額を支払うべきであると考えられてる。

数式で書けば

逸失利益=[(年収 ー 年間生活費)×稼働可能年数]ー利息分

となる。(※ 参考文献: 『ビジネス法務検定試験 3級』東京商工会議所編、中央経済社、2016年度版、188ページ)(※ 参考文献: 『新 基本民法6 不法行為編』大村敦志、有斐閣、83ページ)

また、被害者が死亡した事故の場合は、死ななければ人生の残り期間で稼げたはずの収入を、加害者は、死亡被害者の相続人に払うべきである、という考えである。

数式に「利息分」(りそくぶん)とあるが、将来得るはずの利益を前払いでもらう事になるのだから、前払いでもらった賠償金を銀行に預ければ利息がつくわけだから、賠償金額では、そのぶんの利息を差し引くべきである、という考えである。

もし被害者が女性で死亡事故の場合、主婦の場合だと賠償額が少なくなってしまいかねない問題があるので、そこで被害者が女性の場合は、以降はその被害女性は一般企業などで賃金労働する女性であると仮定して、逸失利益を計算するのが通常であるようだ。

さて、逸失利益には、下記のように専門的でややこしい問題点がいくつもある。

  • 被害者が幼児、女児の場合
・ まず、被害者が幼児の場合で、死亡事故の場合、被害者に収入が無いのが普通だから、賠償額が少なくなってしまいかねない。なので、このような場合、公共の統計などによる一般労働者の平均賃金を参考にして、将来の年収を仮定し、逸失利益を計算する。(最判昭和39年6月24日 民集 18巻5号 874頁)
・ 被害者が女児の場合、たとえ将来は専業主婦になる可能性があっても、逸失利益の計算では、一般企業などでの賃金労働者になると仮定して、逸失利益を計算するのが判例である。(最判昭和49年7月19日 民集 28巻 5号 872頁)
  • 被害者が老人の場合
・ 被害者が老人で死亡事故の場合、人生の残り期間が少ないので賠償額が少なくなるだろうが、果たして老人の命は金銭的に軽くて良いのか、という倫理的な問題がある。なお、被害者の加入していた国民年金などの老齢年金による収入も、逸失利益での「年収」とみなして良い、と考えられているようだ。(※ 参考文献: 川井健『民法入門』有斐閣、406ページ)
  • 男女の賃金格差
・ また、女性の場合と男性の場合とで、現実社会で男女の賃金格差があるため、賠償額にも格差が生じるという問題点がある。(※ 参考文献: 『新 基本民法6 不法行為編』大村敦志、有斐閣)
  • 外国人労働者の場合
・ 外国人労働者が被害者の事故の場合、どこの国の賃金をもとに、逸失利益を計算するべきか。判例などにより、その外国人が不法就労の場合は、その外国人の出身国の賃金をもとに計算するべき、だとされている。ただし、その外国人の残留可能期間のぶんは、日本の賃金をもとに計算すべきだとされている。(最判平成9年1月28日 民集 51巻 1号 78頁)


範囲外: 「悪魔の証明」 編集

数学的な例 編集

一般的に、ある物事が決して存在しないことを証明するのは、けっこう難しい。いっぽう、ある物事が存在することを証明するのは、簡単な場合が多い。

例として、数学の話になるが、たとえば、

仮説A: 偶数に偶数を足した場合、和が偶数になる場合もある。

という説(答えに偶数が存在する場合もあるという説)を証明するのは、簡単である。

たとえば、2でも4でも6でも8でもいいから、とにかく偶数を2個用意して、足してみればいい。 ためしに、4と8を足せば、

4+8=12

であり、

12÷2=6あまり0

なので、2で割り切れるから偶数である。

で、少なくとも1つの計算例で偶数どうしの足し合わせた結果が偶数になれば、仮説は証明されたことになるので、これで、仮説(仮説A: 偶数に偶数を足した場合、和が偶数になる場合もある。)は証明できたことになる。


ところが、これがもし、つぎのような別の仮説

仮説B : 偶数に偶数を足した場合、和は決して奇数にならない。

となると、とても証明が難しくなる。 たとえ、ためしにいくつかの計算例をしてみても、それは、無限に考えられる「偶数に偶数を足した場合」のパターンの一部でしかない。

たとえば、

2+2=4
2+4=6
2+6=8
2+8=10

・・・ と計算してみて、仮に 2+98476=98478 まで計算してみても、まだまだその後も偶数は続く。つまり、計算例には限り無く、無限につづいてしまう。なので、どんなに計算例を探してみても、それだけでは、決して証明できない。

このように、「ある物事について、それが決して存在しない」というような仮説を証明するのは、とても難しい。

論理学などでは、「ある物事について、それが決して存在しない」という種類の証明のことを「悪魔の証明」という。

さきほど例にあげた「仮説B : 偶数に偶数を足した場合、和は決して奇数にならない。」も、『悪魔の証明」の例である。

なお、高校数学IAなどの科目で習う証明法の「背理法」(はいりほう)という方法を用いて、

「偶数に偶数を足した場合、和は決して奇数にならない。(つまり、偶数どうしの和は必ず偶数。)」

という仮説の証明ができる。(※ もし興味があれば、『高等学校数学A/集合と論理』を参照せよ。)

なにも数学的な仮説にかぎらずとも、「ある物事について、それが存在しない」という仮説なら、そのような仮説の証明のことを「悪魔の証明」という。

法学書などでも、『悪魔の証明』はときどき紹介されている。(※ 文献例: 有斐閣『民法VI 親族・相続』、前田陽一 ほか、2015年 第3版、137ページ、13行目に「悪魔の証明」という語句がある。)

日常的な例 編集

  • 例2: 虫さされの証明 (ウィキブックス著者の考えたオリジナルの例)

前の例では、数学的な例だったので、日常との関連がつきづらいだろう。そこで、今度はもっと、日常的な例を考えてみよう。

たとえば、夏のある日、蚊(か)に刺された人が、その事実をその日のうちに友人に証明する場合を考えよう。刺された人が、その事実を証明しないといけない事態になったとしよう。

もちろん、普通の夏に、普通の蚊に刺されただけとしよう。特殊な品種の蚊とかは考えない。刺された側の人物も、べつに特別な体質をもたない人物であると条件設定して、もしその人が蚊に刺されたら、刺された箇所が赤く腫れる、普通の体質だとしよう。

さて、もし、その人が右腕を蚊に刺された場合なら、友人に右腕を見せればいい。

このように、じっさいに虫刺されした箇所を、相手に見せれば、簡単に証明できるだろう。日常的には、このように虫刺されのあとを見れば、普通の相手は納得するだろう。このように、ある事件のあと、「ある事実が存在する」という事は、わりと簡単に証明できる。


一方、もし、ある日に蚊に指されてない人が、それ(その日に蚊に刺されてないという事実)を証明しなければならない事態になった場合、とってもメンドウな事態になる。

だって、体のどこを、友人に見せればいいんだい? 右腕か? でも、右腕だけを見せても、「左腕が虫に刺されてない」事は証明できないぞ? じゃあ、両腕を見せればいいのか? でも、たとい両腕を見せても、足を刺されてない事は証明できないぞ? じゃあ靴下(くつした)も靴(くつ)も脱いで、素足(すあし)を見せたとしよう。でも、腹部は? 背中は?

とすると、結局、蚊に刺されてない事実を証明するためだけに、「体のどの箇所も、蚊に刺されてない」という事を証明する必要があり、よってハダカにならなければならない。たったひとつの「今日は、私は、蚊に刺されてない」という事実の証明のためだけに、衣服をすべて脱いで、友人にハダカを見せなければいけないという、とってもメンドウくさい事態になる。

このように、もし、自分が「悪魔の証明」(ある出来事が存在しない事の証明)をしなければならないとすると、メンドウくさい事態になる可能性が高い。

  1. ^ 大村敦志『新基本民法 6 不法行為編 法定債権の法』、有斐閣、平成27年11月20日 初版、43ページ、
  2. ^ 永田眞三郎ほか『債権 エッセンシャル民法*3』、有斐閣、2010年6月30日、305ページ
  3. ^ 大村敦志『新基本民法 6 不法行為編 法定債権の法』、有斐閣、平成27年11月20日 初版、43ページ、
  4. ^ 永田眞三郎ほか『債権 エッセンシャル民法*3』、有斐閣、2010年6月30日、305ページ
  5. ^ 三木裕一ほか『民事訴訟法 第3版』、有斐閣、2021年1月15日 第3版 第8刷発行、P269
  6. ^ 山本弘ほか『民事訴訟法 [第3版]』有斐閣、2018年4月10日 第3版 第1刷、243ページ