高等学校国語総合/平家物語
本記事では、高校教育の重要度の順に、「木曾の最後」を先に記述している。 原著での掲載順は 祇園精舎 → 富士川 → 木曾の最後 。
作品解説
編集平家物語の作者は不明だが、琵琶法師などによって語りつがれた。
作中で出てくる平清盛(たいらのきよもり)も、源義経(みなもとのよしつね)も、実在した人物。作中で書かれる「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)などの合戦(かっせん)も、実際の歴史上の出来事。 作者は不明。
平家(へいけ)という武士(ぶし)の日本を支配(しはい)した一族が、源氏(げんじ)という新たに勢力の強まった新興の武士に、ほろぼされる歴史という実際の出来事をもとにした、物語。 平安時代から鎌倉時代に時代が変わるときの、源氏(げんじ)と平氏(へいし)との戦争をもとにした物語。
なお、平家がほろび、源氏の源頼朝(みなもとのよりとも)が政権をうばいとって、鎌倉時代が始まる。
- 和漢混淆文(わかんこんこうぶん)
『平家物語』の文体は、漢文ではなく和文であるが、漢文の書き下しっぽい言い回しの多い文体であり、このような文体を和漢混淆文(わかんこんこうぶん)という。
なお、日本最古の和漢混淆文は、平安末期の作品の『今昔物語』(こんじゃく ものがたり)だと言われている。(『平家物語』は最古ではないので、気をつけよう。)平家物語が書かれた時代は鎌倉時代である。おなじく鎌倉時代の作品である『徒然草』(つれづれぐさ)や『方丈記』(ほうじょうき)も和漢混淆文と言われている。(要するに、鎌倉時代には和漢混淆文が流行した。)
現代では、戦争を描写した古典物語のことを「軍記物語」(ぐんきものがたり)と一般に言う。 日本の古典における軍記物語の代表例として、平家物語が紹介されることも多い。略して「軍記物」(ぐんきもの)という事も覆い。
じつは、日本最古の軍記モノは平家物語ではないかもしれず、鎌倉初期の『保元物語』(ほうげんものがたり)や『平治物語』(へいじものがたり)という作品が知られており現代にも文章が伝えられているが、しかし成立の時期についてはあまり解明されてない。
『平家物語』『保元物語』『平時物語』の成立の順序は不明である。
軍記物の『太平記』や『保元物語』などの多くの軍記物な文芸作品でも、和漢混淆文が多く採用された。
- 備考
下記の文中に出てくる人物「巴」(ともえ)は、歴史上は実在しなかった、架空の人物の可能性がある。そのため読者は、中学高校の歴史教科書では、巴を実在人物としては習わないだろう。
木曾の最後 (きそのさいご) :(※ 後半)
編集- 大意
木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、敵の源範頼(のりより)・源義経(よしつね)らの軍勢と戦争をしていた。 木曾方が劣勢であった。 どんどんと木曾方の兵は討ち取られ、ついに木曾方の数は、木曽義仲と今井四朗(いまいのしろう)だけの二騎になってしまった。 今井四朗は、義仲に、敵兵の雑兵(ぞうひょう)に討ち取られるよりも自害こそが武士の名誉だと薦めて(すすめて)、義仲も自害をすることに同意する。
義仲の自害が終わるまで、四朗が敵を防ぐはずだった。
だが、四朗の防戦中に、義仲が自害するよりも前に、敵兵に討ち取られてしまった。もはや今井四朗には、戦う理由も目的も無くなったので、今井四朗は自害した。
二
編集- 大意
木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、敵の源範頼(のりより)・源義経(よしつね)らの軍勢と戦争をしていた。木曾方が劣勢であった。 どんどんと木曾方の兵は討ち取られ、ついに木曾方の数は、木曽義仲と今井四朗(いまいのしろう)だけの二騎になってしまった。
今井四朗は、義仲に、敵兵の雑兵(ぞうひょう)に討ち取られるよりも自害こそが武士の名誉だと薦めて(すすめて)、義仲も自害をすることに同意する。
予定では、義仲は粟津(あわづ)の松原で自害をする予定だった。 義仲の自害が終わるまで、四朗が敵を防ぐために戦う予定だった。
敵勢が五十騎ほど現れた。
木曾は粟津の松原へと駆けつけた。
- 本文/現代語訳
今井四郎(いまゐのしらう、イマイノシロウ)、木曾殿(きそどの)、主従二騎になつて、のたまひ(イ)けるは、「日ごろは何ともおぼえぬ鎧(よろひ、ヨロイ)が、今日は重うなつたるぞや。」今井四郎申しけるは、「御身(おんみ)もいまだ疲れさせ給わず(タマワズ)。御馬(おんま)も弱り候はず(さうらはず、ソウロワズ)。何によつてか一領の御着背長(おんきせなが)を重うは思しめし(おぼしめし)候ふ(ウ)べき。それは御方(みかた)に御勢(おんせい)が候は(ワ)ねば、臆病でこそ、さはおぼし召し候へ。兼平(かねひら)一人(いちにん)候ふとも、余(よ)の武者千騎(せんぎ)とおぼし召せ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き(ふせき)矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津(あはづ、アワヅ)の松原(まつばら)と申す。あの松の中で御自害(おんじがい)候へ。」とて、打つて行くほどに、また新手(あらて)の武者、五十騎ばかり出で来たり。 「君はあの松原へ入らせ(いらせ)たまへ。兼平はこの敵(かたき)防き候はん。」と申しければ、木曾殿のたまひ(イ)けるは、「義仲(よしなか)、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝(なんぢ、ナンジ)と一所で(いつしょで)死なんと思ふためなり。所々で(ところどころで)討たれんよりも、一所で(ひとところ)こそ討死(うちじに)をもせめ」とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び降り、主(しゅ)の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名(かうみょう、コウミョウ)候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵(きず)にて候ふなり。御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢(せい)は候はず。敵に押し隔てられ、いふかひなき(イウカイナキ)人の郎等(らうどう、ロウドウ)に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、『さばかり日本国(にっぽんごく)に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる。』なんど申さんことこそ口惜しう(くちをしう、クチオシュウ)候へ。ただあの松原へ入らせたまへ。」と申しければ、木曾、「さらば。」とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ(タモウ)。 |
今井四郎と、木曾殿は、(ついに)主従二騎になって、(木曾殿が)おっしゃったことは、「ふだんは何とも感じない鎧が、今日は重く(感じられるように)なったぞ。」 (木曾殿の発言に対して、)今井四郎が申し上げたことには、「お体も、いまだお疲れになっていませんし、お馬も弱っていません。どうして、一着の鎧を重く思いになるはずがございましょうか。それは、見方に軍勢がございませんので、気落ちして、そのようにお思いになるのです。(残った味方は、この私、今井四郎)兼平ひとり(だけ)でございますが、他の武者の千騎だとお思いください。(残った)矢が七、八本ありますので、しばらく(私が)防戦しましょう。あそこに見えますのは、粟津の松原と申します。あの松の中で自害ください。」と言って、(馬を)走らせて(進んで)いくうちに、また新手の(敵の)武者が、五十騎ほどが出てきた。(今井四郎は木曾殿に言った、)「殿は、あの松原へお入りください。兼平は、この敵を防ぎましょう。」と申したところ、木曾殿がおっしゃったことは、「(この私、木曽)義仲は、都でどのようにも(= 討ち死に)なるはずであったが、ここまで逃げてこられたのは、おまえ(=今井四郎)と同じ所で死のうと思うからだ。別々の所で討たれるよりも、同じ所で討ち死にしよう。」と言って、(木曾殿は馬の向きを敵のほうへ変え、兼平の敵方向へと向かう馬と)馬の鼻を並べて駆けようとしなさるので、今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取り付いて申し上げたことには、「武士は、(たとえ)常日頃どんなに功績がありましても、(人生の)最期のときに失敗をしますと、(末代まで続く)長い不名誉でございます。(あなたの)お体は、お疲れになっております。(味方には、もう、あとに)続く軍勢はございません。(もし二人で敵と戦って、)敵に押し隔てられて(離れ離れになってしまって)、取るに足りない(敵の)人の(身分の低い)家来によって(あなたが)組み落とされて、お討たれになられましたら、(世間は)『あれほど日本国で有名でいらっしゃった木曾殿を、誰それの家来が討ち申しあげた。』などと申すようなことが残念でございます。ただ、(とにかく殿は、)あの松原へお入りください。」と申し上げたので、木曾は、「それならば。」と言って、粟津の松原へ(馬を)走らせなさる。 |
- 語句(重要)
- ・のたまひ(イ)けるは - 「のたまふ」は「言ふ」の尊敬語。
- ・御身 - お体。
- ・聞こえ - 有名な。
- ・いふかひなき - 大したことのない。
- ・口惜しう - 残念。
- ・さらば - 「さあらば」の略。そうであるならば。「さようなら」ではない。
- ・ -
- 語注
- ・今井四郎(いまゐのしろう) - 今井四郎兼平(いまいのしろうかねひら)。義仲の家来。義仲の乳母(うば)の子。(乳母子(めのとご)。) 幼い頃から木曾といっしょに育てられ、木曾と今井は堅い絆で結ばれている。
- ・木曾殿(きそどの) - 源義仲(みなもとのよしなか)。木曾(今の長野県にあたる)で育ったので木曾義仲とも呼ばれている。
- ・領 - 鎧などを数える単位。「両」とも書く、
- ・着背長(きせなが) - 大将などが着る大鎧。
- ・防き矢 - 敵の攻撃を防ぐために矢をいること。
- ・粟津(あはづ、アワヅ) - 今の滋賀県 大津(おおつ)市 粟津(あわづ)町のあたり。
- ・打つ手 - 馬に鞭(むち)を打って。
- ・弓矢取り - 武士のこと。
三
編集- 大意
今井四朗は、たったの一騎で、敵50騎と戦うために敵50騎の中に駆け入り、四朗は名乗りを上げて、四朗は弓矢や刀で戦う。敵も応戦し、今井四朗を殺そうと包囲して矢を射るが、今井四朗の鎧(よろい)に防がれ傷を負わすことが出来なかった。
- 本文/現代語訳
今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙(あぶみ)踏ん張り立ち上がり、大音声(だいおんじやう)あげて名乗りけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曾殿の御 乳母子(めのとご)、今井四郎兼平、生年(しやうねん)三十三にまかりなる。さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参(げんざん)に入れよ。」とて、射残したる八筋(やすぢ)の矢を、差しつめ引きつめ、さんざんに射る。死生(ししやう)は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後、打ち物抜いてあれに馳せ(はせ)合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面(おもて)を合はする者ぞなき。分捕り(ぶんどり)あまたしたりけり。ただ、「射取れや。」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。 |
今井四郎はたったの一騎で、五十騎ばかりの(敵の)中へ駆け入り、鐙(あぶみ)に踏ん張って立ち上がり、大声を上げて(敵に)名乗ったことは、「日ごろは、うわさで聞いていたであろうが、今は目で見なされ。木曾殿の御乳母子(である)、今井四郎兼平、年齢は三十三歳になり申す。そういう者がいることは、鎌倉殿(=源頼朝)までご存知であろうぞ。(この私、)兼平を討ち取って(鎌倉殿に)お目にかけよ。」と言って、射残した八本の矢を、つがえては引き、つがえては引き、次々に射る。(射られた敵の)生死のほどは分からないが、たちまち敵の八騎を射落とす。それから、刀を抜いて、あちらに(馬を)走らせ(戦い)、こちらに走らせ(戦い)、(敵を)切り回るので、面と向かって立ち向かう者もいない。(多くの敵を殺して、首や武器など)多くを奪った。(敵は、)ただ「射殺せよ。」と言って、(兼平を殺そうと包囲して、敵陣の)中に取り込み、(いっせいに矢を放ち、まるで矢を)雨が降るように(大量に)射たけれど、(兼平は無事であり、兼平の)鎧(よろい)が良いので裏まで矢が通らず、(敵の矢は)よろいの隙間を射ないので(兼平は)傷も負わない。 |
- 語句(重要):・やにはに - たちまち。たちどころに。
- ・手も負はず(テモオワズ) - 傷も負わず。 ※現代語でも負傷のことを「手負い」(ておい)ともいう。
- ・さる者 - そういう者。
- 語注
- ・鎌倉殿 - 源頼朝。
- ・ -
四
編集- 大意
今井四郎が防戦していたそのころ、義仲は自害の準備のため、粟津(あわづ)の松原に駆け込んでいた。 しかし、義仲の自害の前に、義仲は敵に射られてしまい、そして義仲は討ち取られてしまった。
もはや今井四郎が戦いつづける理由は無く、そのため、今井四郎は自害のため、自らの首を貫き、今井四郎は自害した。
- 本文/現代語訳
木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相(いりあひ)ばかりのことなるに、薄氷(うすごほり)張つたりけり、深田(ふかた)ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てどもはたらかず。今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給へる内甲(うちかぶと)を、三浦(みうら)の石田次郎為久(いしだじらうためひさ)、追つかかつて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手(いたで)なれば、真向(まつかう、真甲)を馬の頭に当てて俯し給へる処に、石田が郎等二人(ににん)落ち合うて、つひに木曾殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて「この日ごろ日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」と名乗りければ、今井四郎、いくさしけるがこれを聞き、「今は、誰(たれ)をかばはんとてかいくさをばすべき。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛(かう)の者の自害する手本。」とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せ(うせ)にける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。 |
木曾殿はたったの一騎で、粟津の松原へ駆けなさるが、(その日は)正月二十一日、夕暮れ時のことであるので、 (田に)薄氷が張っていたが(気づかず)、深い田があるとも知らずに、(田に)馬をざっと乗り入れてしまったので、馬の頭も見えなくなってしまった。(あぶみでは馬の腹をけって)あおっても、あおっても、(むちを)打っても打っても、(馬は)動かない。(義仲は)今井の行方が気がかりになり、振り返りなさった(とき)、(敵の矢が)甲(かぶと)の内側を(射て)、(その矢は)三浦(みうら)の石田次郎為久(いしだじらうためひさ)が追いかかって、十分に(弓を)引いて、ピューと射る(矢である)。(木曾殿は)深い傷を負ったので、甲の正面を馬の頭に当ててうつぶせになさったところ石田の家来が二人来合わせて、ついに木曾殿の首を取ってしまった。 太刀の先に(義仲の首を)貫き、高く差し上げ、大声を挙げて「このごろ、日本国に名声の知れ渡っている木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち取り申し上げたぞ。」と名乗ったので、今井四郎は、戦っていたが、これを聞き、(今井四郎は言った、) 「今は、誰をかばおうとして、戦いをする必要があるか。これを(=私を)ご覧になされ、東国の方々。日本一の勇猛な者が自害する手本を。」と言って、(今井は自害のため)太刀の先を口に含み、馬上から逆さまに飛び落り、(首を)貫いて死んだのである。そのようないきさつで、粟津の戦いは終わった。 |
(巻九)
- 読解
- 今は、誰(たれ)をかばはんとてかいくさをばすべき。 - この直前まで今井四郎が戦いつづけていた理由は、主君の義仲に自害をさせる時間をかせぐためであった。しかし、すでに義仲の首は敵の手によって討ち取られてしまい、もはや今井四郎が戦いを続ける理由も無い。なので、今井四郎は自害した。
- 語句(重要)
- ・入相(いりあい) - 夕暮れ時。たそがれ。
- ・あふれども - あぶみで馬の腹をけって、急がせても。
- ・はたらかず - 動かず。
- ・取つてんげり - 「取りてけり」に撥音「ん」が加わり、「けり」が濁音化したもの。
- ・ よつ引いて(ヨッピイテ)- 「よく引いて」の音便。
- ・殿ばら - みなさま。かたがた。「ばら」は複数であることを表す。 複数人への呼びかけで敬称の一種。
- 語注
- ・石田次郎為久 - 三浦一族の子孫で、頼朝方の武将の一人。勢力地は現在でいう神奈川県の伊勢原(いせはら)市のあたり。
- ・ -
品詞分解
編集木曾の最後 :(前半)
編集一
編集- 大意
木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、源義経の軍勢と戦っていた。 義仲の軍勢は、この時点の最初は300騎ほどだったが、次々と仲間を討たれてしまい、ついに主従あわせて、たったの5騎になってしまう。 義仲は、ともに戦ってきた女武者の巴(ともえ)に、落ちのびるように説得した。
巴は最後の戦いとして、近くに来た敵の首を討ち取り、ねじ切った。そして巴は東国へと落ちのびていった。
- 本文/現代語訳
木曾左馬頭(さまのかみ)、その日の装束には、赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に唐綾威(からあやをどし)の鎧(よろひ)着て、鍬形(くはがた)打つたる甲(かぶと)の緒(を)しめ、厳物(いかもの)作り(づくり)の大太刀(おほだち)はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々のこったるを、頭高(かしらだか)に負ひなし、滋籐(しげどう)の弓もって、聞こゆる(きこゆる)木曾の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬の、きはめて太う(ふとう)たくましいに、金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)置いてぞ乗つたりける。鐙(あぶみ)踏んばり立ちあがり、大音声(だいおんじやう)をあげて名のりけるは、「昔は聞きけん物を、木曾の冠者(くわんじや)、今は見るらむ、左馬頭兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐(かひ)の一条次郎(いちじやうのじらう)とこそ聞け。互ひ(たがひ)によき敵(かたき)ぞ。義仲討つて(うつて)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に見せよや。」とて、をめいて駆く。一条の次郎、「ただ今名のるのは大将軍(たいしやうぐん)ぞ。あますな者ども、もらすな若党、討てや(うてや)。」とて、大勢の中にとりこめて、われ討つ取らんとぞ進みける。木曾三百余騎、六千余騎が中を。縦様(たてさま)・横様(よこさま)・蜘蛛手(くもで)・十文字に駆け割つて(かけわつて)、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つて行くほどに、土肥次郎(とひのじらう)実平(さねひら)、二千余騎でささへたり。それをも破つて(やぶつて)行くほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割りゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎が内まで巴(ともゑ)は討たざれけり。木曾殿、「おのれは、疾う疾う(とうとう)、女なれば、いづちへも行け。我は討ち死にせんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど、いはれん事もしかるべからず。」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれ奉つて、「あっぱれ、よからう敵(かたき)がな。最後のいくさして見せ奉らん。」とて、控へたる(ひかえたる)ところに、武蔵(むさし)の国に聞こえたる大力(だいぢから)、御田八郎師重(おんだのはちらうもろしげ)、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍の前輪(まへわ)に押し付けて、ちつともはたらかさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。そののち、物具(もののぐ)脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。手塚太郎(てづかのたらう)討ち死にす。手塚別当(べつたう)落ちにけり。 |
木曾左馬頭(=義仲)は、その日の装束は、赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に唐綾威(からあやをどし)の鎧(よろひ)を着て、鍬形(くわがた)の飾りを打ちつけた甲(かぶと)の緒(を)しめ、いかめしい作りの大太刀(おおだち)を(腰に)着けて、石打ちの矢で、その日の戦いに射て少し残ったのを、頭の上に出るように高く背負って、滋籐(しげどう)の弓を持って、有名な「木曾の鬼葦毛」(きそのおにあしげ)という馬の、たいそう太くたくましい馬に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)を置いて乗っていた。鐙(あぶみ)を踏んばって立ちあがり、大声をあげて名乗ったことは、「以前は(うわさに)聞いていたであろう、木曾の冠者を、今は(眼前に)見るだろう、(自分は)左馬頭兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍源義仲であるぞ。(おまえは)甲斐(かい)の一条次郎(いちじょうのじろう)だと聞く。お互いによき敵だ。(この自分、)義仲を討ってみて、兵衛佐(ひょうえのすけ)(=源頼朝)に見せてみろ。」と言って、叫んで馬を走らせる。一条の次郎は、「ただいま、名乗るのは(敵の)大将軍ぞ。討ち残すな者ども、討ち漏らすな若党、討ってしまえ。」と言って、大勢で(包囲しようと)中にとりこめようと、われこそが討ち取ってやろうと進んでいった。木曾の三百余騎、(敵の)六千余騎の中を(方位から抜け出ようと馬で駆け回り)、縦に、横に、八方に、十文字にと駆け走って、(敵の)後ろへつっと(抜け)出たところ、(木曾の自軍の残りは)五十騎ほどになってしまっていた。そこ(の敵)を破って行くほどに、(敵の)土肥次郎(とひのじらう)実平(さねひら)が、二千余騎で防戦していた。そこ(の敵)をも破ってゆくほどに、(木曾の兵数は討たれて減っていき)あそこでは四~五百騎、ここでは二~三百騎、百四十~五十騎、百騎ばかりが(敵勢の)中を駆け走り駆け走りしてゆくほどに、(ついに)木曾と家来あわせて五騎になってしまった。五騎の内、(まだ)巴(ともえ)は討たれていなかった。木曾殿は(巴に言った)、「おまえ(=巴)は、さっさと、(巴は)女なのだから、どこへでも逃げて行け。自分は(この戦いで)討ち死にしようと思っている。もし敵の手にかかるならば、自害をするつもりだから、木曾殿の最後のいくさに、女を連れていたなどと言われる事も、よくない。」とおっしゃるのが、それでもなお(巴は)落ちのびようと行かなかったが、(木曾殿は)あまりに(強く)言はれなさり、「ああ、(武功として)よき敵がいればなあ。最後の戦いをお見せ申し上げたい。」と言って、(敵兵を)待機していたところに、(敵勢が現れ)武蔵(むさし)の国に聞こえたる大力(だいぢから)の御田八郎師重(おんだのはちろうもろしげ)の軍勢三十騎ほどが出で来た。巴は、その中へ(自分の馬ごと)駆け入り、御田八郎の馬と並んで、むずと(御田を)掴んで引き落とし、鞍の前輪に押し付けて、ちょっとも身動きさせず、(御田の)首をねじ気って捨ててしまった。そのから(巴は)武具を脱ぎ捨てて、東国の方へと落ちのびていった。(義仲の味方の)手塚太郎(てづかのたろう)は討ち死にした。手塚の別当は逃げてしまった。 |
- 語句(重要)
- ・装束(しょうぞく) - 服装。よそおい。いでたち。
- ・聞こゆる(きこゆる) - 有名な。
- ・大音声(だいおんじょう) - 大声。
- ・をめいて - わめいて。大声で叫んで(さけんで)。
- ・あますな - 討ち余すな。
- ・若党(わかとう) - 若い従者。若い郎党。ここでは敵の一条次郎の若い従者たち。
- ・おのれ - おまえ。ここでは巴のこと。
- ・疾う疾う(とうとう) - さっさと。「疾く疾く」のウ音便。
- ・よからう敵(かたき)がな - 文末の「がな」は願望の終助詞。よい敵がいたらなあ。せめて落ちのびる前に、最後の武功を義仲に見せたいという、巴の気持ち。
- ・はたらかさず - 身動きさせず。
- ・捨ててんげり - 「捨ててけり」に撥音「ん」がともない、「けり」が濁音化したもの。捨ててしまった。
- ・ -
- 語注
- ・木曾左馬頭 - 源義仲。木曽(長野県のあたり)で育ったため、「木曾」「木曾殿」など呼ばれている。
- ・直垂(ひれたれ) - 鎧直垂(よろいひたたれ)のこと。よろいの下に着る衣服の一種。
- ・鍬形(くわがた) - 甲(かぶと)の正面についている、日本の角のような飾り。
- ・石打ちの矢 - 鷲(わし)の尾の羽の、「石打ち」という羽を用いた矢。
- ・滋籐(しげどう)の弓 - 黒漆で塗った上に、籐(どう)で巻いた弓。籐は、蔓植物の一種。
- ・鬼葦毛(おにあしげ) - 「葦毛」(あしげ)とは、馬で白い毛に黒毛や褐色の毛が混ざった馬。「鬼」は強さを表す。
- ・冠者 - 貴族や武士などの若者で、元服をした若者。
- ・伊予守(いよのかみ) - 伊予の国の国司。「伊予」は、現在で言う愛媛県のあたり。
- ・兵衛佐(ひょうえのすけ) - 敵の総大将である源頼朝(よりとも)のこと。頼朝は、兵衛府(ひょうえふ)の次官であった。
- ・巴(ともえ) - 義仲と行動をともにしていた、味方の女性の名前。彼女は武勇に秀でており、すでに何度も戦いに参加している。
- ・武蔵(むさし)の国 - 地名。現在でいう東京・埼玉・神奈川のあたり。
- ・御田八郎師重 - 頼朝方の武将。伝未詳。
- ・手塚太郎 - 義仲方の武将のひとり、手塚光盛(みつもり)。
- ・ -
富士川
編集一
編集- 大意
開戦の予定の前日である10月23日、平家は戦場予定地の富士川で、付近の農民たちの炊事の煙を見て源氏の軍勢の火と勘違いし、さらに水鳥の羽音を源氏の襲撃の音と勘違いして、平家は大慌てで逃げ出した。
翌10月24日、源氏が富士川にやってきて、鬨(とき)を上げた。
(※ 鬨: 戦いの始めに、自軍の士気をあげるために叫ぶ、掛け声。)
- 本文/現代語訳
さるほどに十月二十三日にもなりぬ。明日は、源平富士川にて矢合(やあはせ)と定めたりけるに、夜に入つて平家の方より、源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河(するが)の人民(にんみん)百姓等が戦におそれて、あるいは野に入り山に隠れ、あるいは舟にとり乗って、海川に浮かび、営みの火のみえけるを、平家の兵ども、「あなおびただし源氏の陣の遠火(とほひ)の多さよ。げにもまことに野も山も海も川も、みな敵(かたき)でありけり。いかがせん。」とぞ慌てける。その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらも群れ居たりける水鳥ともが、何にか驚きたりけむ、ただ一度にばつと立ちける羽音の、大風いかづちなんどのやうに聞こえければ、平家の兵ども、「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤(さいとう)別当が申しつるやうに、定めてからめ手もまはるらむ。取り込められてはかなふまじ。ここをば引いて、尾張(おはり)川、洲俣(すのまた)を防げや。」とて、取る物もとりあへず、われ先にとぞ落ちゆきける。あまりに慌て騒いで、弓取るものは矢を知らず、矢取るものは弓を知らず。人の馬には我乗り、わが馬をば人に乗らる。あるいはつないだる馬に乗って馳(は)すれば、杭(くひ)をめぐること限りなし。近き宿々より迎へとつて遊びける遊君遊女ども、あるいは頭(かしら)蹴割られ、腰踏み折られて、をめき叫ぶ者多かりけり。 明くる二十四日卯(う)の刻に、源氏大勢二十万騎、富士川に押し寄せて、天も響き大地も揺るぐほどに、鬨(とき)をぞ三が度、作りける。 |
そうしているうちに、十月二十三日になった。明日は、源氏と平氏が富士川で開戦の合図をすると決めていたが、夜になって、平家のほうから源氏の陣を見渡すと、伊豆、駿河の人民や百姓たちが戦いを恐れて、ある者は野に逃げこみ山に隠れ、(また)ある者は船に乗って(逃げ)、海や川に浮かんでいたが、炊事などの火が見えたのを、平家の兵たちが、「ああ、とても多い数の源氏の陣営の火の多さっであることよ。なんと本当に野も山も生みも川も、皆敵である。どうしよう。」と慌てた。その夜の夜半ごろ、富士の沼にたくさん群がっていた水鳥たちが、何かに驚いたのであろうか、ただ一度にばっと飛び立った羽音が、(まるで)大風や雷などのように聞こえたので、平家の兵たちは、「ああっ、源氏の大軍が攻め寄せてきたぞ。斉藤別当が申したように、きっと(源氏軍は、平家軍の)背後にも回りこもうとしているだろう。もし(源氏に)包囲されたら(平家に)勝ち目は無いだろう。ここは退却して、尾張川、洲俣で防戦するぞ。」と言って、取る物も取りあえず、われ先にと落ちていった。あまりに慌てていたので、弓を持つ者は矢を忘れて、矢を持つ者は弓を忘れる。 他人の馬には自分が乗っており、自分の馬は他人に乗られている。ある者は、つないである馬に乗って走らせたので、杭の回りをぐるぐると回りつづける。近くの宿から遊女などを迎えて遊んでいたが、ある者は頭を(馬に)蹴折られ、腰を踏み折られて、わめき叫ぶ者が多かった。 翌日の二十四日の(朝の)午前六時ごろに、源氏の大軍勢の二十万騎が、富士川に押し寄せて、天が響き大地も揺れるほどに、鬨(とき)を三度あげた。 |
- 語句(重要)
- ・かなふまじ - 「かなふ」の、ここでの意味は「対抗できる」。「まじ」は、ここでの意味は、打消の推量の助動詞であり、意味は「・・・ないだろう」。
- ・卯(う)の刻 - 朝の午前六時ごろ。
- 語注
- ・富士川 - 現在の長野県・山梨県・静岡県を流れる川。
- ・矢合(やあわせ) - 戦いを始めるときの合図の一つあり、両軍が鏑矢(かぶらや)などの矢を射あうこと。
- ・斎藤別当 - 斎藤別当実盛(さねもり)。平家方の武将。東国の事情に詳しい。、
- ・からめ手 - 背後から攻撃する戦法など。
- ・尾張川 - 現在の木曽川。
- ・洲俣(すのまた) - 現在の岐阜県 大垣市 墨俣(すのまた)町のあたり。
- ・遊女 -
- ・鬨(とき) - 戦いの始めに、自軍の士気をあげるために叫ぶ、掛け声。
- ・ -
祇園精舎
編集一
編集(書き出しの部分)
- 本文/現代語訳
祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘(かね)の声、諸行無常の響きあり。 娑羅双樹(しやらそうじゆ)の花の色、盛者必衰(じやうしや ひつすい)のことわり(理)をあらはす。 おごれる人もひさしからず、ただ春の夜(よ)の夢のごとし。たけき(猛き)者も、つひ(ツイ)にはほろびぬ ひとへに(ヒトエニ)風の前のちりに同じ。 |
(インドにある)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音には、「すべてのものは、(けっして、そのままでは、いられず)かわりゆく。」ということを知らせる響きがある(ように聞こえる)。 沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色には、どんなに勢い(いきおい)のさかんな者でも、いつかはほろびゆくという道理をあらわしている(ように見える)。 おごりたかぶっている者も、その地位には、長くは、いられない。ただ、春の夜の夢のように、はかない。強い者も、最終的には、ほろんでしまう。 まるで、風に吹き飛ばされる塵(ちり)と同じようだ。 |
- 語注
- ・祇園精舎(ぎおんしょうじゃ) - インドにある寺で、釈迦(しゃか)の根拠地(こんきょち)。
- 「祇園精舎は、どこの国にあるか?」(答え:インド)は、中学入試~大学入試などに良く出るので覚えること。答えを知らないと解けないクイズ的な知識だが、しかし入試に出てくるので、読者は覚えざるを得ない。 -
- ・娑羅双樹 - 「娑羅」はインド原産の木で常緑樹の一種。釈迦の入滅時に、床の四隅に咲いていた、二本ずつの対になっていた沙羅の木が枯れて白くなったという。
- ・ -
- (※ 範囲外: ) 仏教用語などで「生者必滅」という語句がある。これが「盛者必衰」の元ネタと思われている[1]。平家物語の原作者に、なんらかのコダワリがあって、「生者必滅」を「盛者必衰」に言い換えたのだと思われている。
二
編集- 本文/現代語訳
遠く異朝(いてう、イチョウ)をとぶらへば、秦(しん)の趙高(ちやうこう)、漢(かん)の王莽(おうまう、オウモウ)、梁(りやう、リョウ)の朱伊(しうい、シュウイ)、唐(たう、トウ)の禄山(ろくざん)、これらは皆(みな)、旧主先皇(せんくわう、センコウ)の政(まつりごと)にも従はず(したがはず)、楽しみを極め(きはめ)、諌め(いさめ)をも思ひ(オモイ)入れず、天下の乱れむ事を悟らず(さとらず)して、民間の愁ふる(ウレウル)ところを知らざりしかば、久しからずして、亡(ぼう)じにし者どもなり。 近く本朝(ほんてう、ホンチョウ)をうかがふに、承平(しようへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これらはおごれる心もたけき事も、皆(みな)とりどりにこそありしかども、 間近くは(まぢかくは)、六波羅(ろくはら)の入道(にふだう、ニュウドウ)前(さきの)太政大臣平朝臣(たひらのあつそん)清盛公と申しし人のありさま、伝へ(ツタエ)承る(うけたまはる、ウケタマワル)こそ、心も詞(ことば)も及ばれね(およばれね)。 |
遠く外国の(例を)さがせば、(中国では、)(盛者必衰の例としては)秦(しん、王朝の名)の趙高(ちょうこう、人名)、漢(かん)の王莽(おうもう、人名)、梁(りょう)の朱伊(しゅい、人名)、唐(とう)の禄山(ろくざん、人名)(などの者がおり)、これら(人)は皆、もとの主君や皇帝の政治に従うこともせず、栄華をつくし、(他人に)忠告されても深く考えず、(その結果、民衆の苦しみなどで)世の中の(政治が)乱れていくことも気づかず、民衆が嘆き訴えることを気づかず、(権力も)長く続かずに滅んでしまった者たちである。 (いっぽう、)身近に、わが国(=日本)(の例)では、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これら(の者ども)は、おごった心も、勢いの盛んさも、皆それぞれに(大したものであり、)、(こまかな違いはあったので、)まったく同じではなかったが、最近(の例)では、六波羅の入道の平清盛公と申した人の有様(ありさま)は、(とても、かつての権勢はさかんであったので、)(有様を想像する)心も、(言い表す)言葉も、不十分なほどである。 |
- 語句(重要)
- ・亡じにし - 滅んでしまった。
- ・異朝 - 外国の王朝。ここでは中国。
- ・とぶらへば - 調べてみると。探してみると。
- ・諌め(いさめ) - 忠告。戒め。
- ・思ひ(オモイ)入れず - 深く考えない。心に留めない。
- ・とりどりにこそありしかども - 「こそ」が係助詞で、「ありしか」は已然形になっているが、これは次の「ども」に続くために已然形になってるのであり、係り結びではない。このような現象を、係り結びの「結びの流れ」という。
- 語注・人物など
- ・秦(しん)の趙高(ちょうこう) - 秦の始皇帝の家臣の一人。始皇帝の死後、実権を握った。
- ・漢(かん)の王莽(おうまう、オウモウ) - 前漢の末、漢を滅ぼし「新」を建国し皇帝になったが、一代で滅ぼされた。
- ・梁(りゃう、リョウ)の朱伊(しうい、シュウイ) - 梁の武帝に仕えたが、梁が没落し責任を問われ自殺した。
- ・唐(たう、トウ)の禄山(ろくざん) - 安禄山。唐の玄宗皇帝に仕えたが反乱を起こしたが、滅ぼされた。
- ・将門 - 平将門(たいらのまさかど)。承平5年(935年)に反乱を関東地方で起こしたが、滅ぼされた。
- ・純友 - 藤原純友(ふじわらのすみとも)。天慶2年(939年)に反乱を瀬戸内海で起こしたが、滅ぼされた。
- ・義親(ぎしん) - 源義親(みなもとのよしちか)。九州で略奪を行い、流されたあと、康和の年間に反乱を起こしたが滅ぼされた。
- ・信頼(のぶより) - 藤原信頼。義朝とともに「平治の乱」を平治元年(1159年)に起こしたが、平清盛らによって滅ぼされた。
- ・六波羅(ろくはら)の入道 - 平清盛のこと。「六波羅」とは、京都の地名の一つ。清盛の屋敷が六波羅にあった。現在でいう京都市の東山区の六波羅蜜寺の近く。清盛は1168年(仁安3年)に出家して入道になっていた。
三
編集- 本文/現代語訳
その先祖を尋ぬれば、桓武(くわんむ)天皇第五の皇子(わうじ)、一品(いつぽん)式部卿(しきぶのきやう)葛原親王(かづらはらのしんわう)九代の後胤(くだいのこういん)、讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が孫(そん)、刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛朝臣(ただもりあつそん)の嫡男(ちやくなん)なり。かの親王(しんわう)の御子(みこ)高視の王(たかみのわう)、無官無位にして失せ(うせ)たまひぬ。その御子(おんこ)高望王(たかもちのわう)の時、初めて平(たひら)の姓(しやう)を賜はつて、上総介(かずさのすけ)になりたまひしより、たちまちに王氏(わうし)を出でて人臣(じんしん)に連なる。その子鎮守府将軍(ちんじゆふのしやうぐん)良望(よしもち)、のちには国香(くにか)と改む。国香より正盛に至るまで、六代は諸国の受領(じゆりやう)たりしかども、殿上(てんじやう)の仙籍(せんせき)をばいまだ許されず。 |
その(平清盛公の)先祖を調べてみると、(清盛は忠盛朝臣の長男であり)、桓武天皇の第五の皇子である一品式部卿葛原親王の九代目の子孫である讃岐守正盛の孫、忠盛朝臣の長男であり、刑部卿忠盛朝臣の長男である。 その(葛原)親王の御子である高視王(たかみのおう)は、無官無位のままで亡くなってしまった。その(高視王の)御子の高望王(たかもちのおう)の時に、初めて平(たいら)の姓を(朝廷から)賜わり、上総介の国司におなりになったときから、急に皇族のご身分を離れて臣下(の身分)に(ご自身の名を)連なた。その(高望王の)子の鎮守府の将軍(ちんじゅふのしょうぐん)良望(よしもち)は、のちには国香(くにか)と(名を)改めた。国香より正盛に至るまでの六代は、諸国の国守(くにのかみ)であったけど、(まだ)殿上(てんじょう)に昇殿することは、まだ許されなかった。 |
- 語注
- ・一品 - 親王の位のうちの最高位。一品から四品まである。
- ・式部卿(しきぶきょう) - 式部省の長官。「式部省」とは、宮中の儀式などを取り仕切る役所。
- ・刑部卿(ぎょうぶきょう) - 刑部省の長官。「刑部省」とは、刑罰や訴訟を取り仕切る役所。
- ・上総介(かずさのすけ) - 上総の国は現在の千葉県のあたり。上総の介とは、その地の国司の次官。
- ・鎮守府 (ちんじゅふ)- 古来、蝦夷(えぞ)の鎮圧のため陸奥国に置かれた軍政を司る役所。「鎮守府の将軍」とは、鎮守府の長官のこと。
- ・受領(ずりょう) - 国司で、任地に実際に赴任して、実務を行う役職の者。
- ・殿上(てんじょう) - 天皇のいる清涼殿(せいりょうでん)にある、殿上の間のこと。
- ・ -
宇治川(うぢがは)の先陣
編集- 経緯
木曾義仲は、京の都で平家を打倒し、制圧した。しかし、木曾軍は都で乱暴をはたらき、さらに後白河法皇と木曾義仲とは対立し、そのため法王は源頼朝に木曾義仲の討伐を下した。 源頼朝は弟の範頼と義経に、木曾義仲を討伐することを命じた。
そのため、範頼・義経の軍と、対する木曾方の軍とが宇治川を挟んで対峙していた。
一
編集- 大意
範頼・義経方の武将の、梶原と佐々木は、先陣争いをしていた。
富士川の渡河の先陣争いでは、佐々木が先に川を渡り終え、先陣を切った。遅れて、梶原が川を渡った。
- 本文/現代語訳
平等院の丑寅(うしとら)、橘の小島が崎より武者二騎、引つ駆け引つ駆け出で来たり。 一騎は梶原源太景季(かぢはらげんだかげすゑ)、一騎は佐々木(ささき)四郎高綱(たかつな)なり。人目には何とも見えざりけれども、内々(ないない)は先(さき)に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段(いつたん)ばかりぞ進んだる。佐々木四郎、「この川は西国一の大河(だいが)ぞや。腹帯(はるび)の伸びて見えさうは。締めたまへ。」と言はれて、梶原さもあるらんとや思ひけん、左右(さう)の鐙(あぶみ)を踏みすかし、手綱(たづな)を馬のゆがみに捨て、腹帯を解いてぞ締めたりける。その間に佐々木はつつと馳せ(はせ)抜いて、川へざつとぞうち入れたる。梶原、たばかられぬとや思ひけん、やがて続いてうち入れたり。「いかに佐々木殿、高名(かうみやう)せうどて不覚したまふな。水の底には大綱(おほづな)あるらん。」と言ひければ、佐々木太刀(たち)を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、生食(いけずき)といふ世一(よいち)の馬には乗つたりけり、宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。梶原が乗つたりける摺墨(するすみ)は、川中(かはなか)より篦撓(のため)形(がた)に押しなされて、はるかの下よりうち上げたり。 佐々木、鐙(あぶみ)踏んばり立ち上がり、大音声(だいおんじやう)をあげて名のりけるは、「宇多(うだ)天皇より九代(くだい)の後胤(こういん)、佐々木三郎秀義(ひでよし)が四男(しなん)、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱に組めや。」とて、をめいて駆く。 |
平等院の北東の方向にある、橘の小島が崎から、2騎の武者が、馬で駆けて駆けてやってきた。(そのうちの)一騎は梶原源太景季(かぢはらげんだ かげすえ)、(もう一方の)一騎は佐々木四郎高綱(ささきしろう たかつな)である。他人の目には何とも(事情がありそうには)見えなかったけど、心の内では、(二人とも、われこそが)先陣を切ろうと期していたので、(その結果、)梶原景季は佐々木高綱よりも一段(=約11メートル)ほど前に進んでいる。 (おくれてしまった)佐々木四郎が、 「この川は、西国一の大河ですぞ。腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなされ。」 と言い、梶原は、そんなこともありえるのだろうと思ったのか、左右の鐙を踏ん張って、手綱を馬のたてがみに投げかけて、腹帯を解いて締めなおした。その間に、佐々木は、(梶原を)さっと追い抜いて、川へ、ざっと(馬で)乗り入れた。梶原は、だまされたと思ったのか、すぐに続いて(馬を川に)乗り入れた。 (梶原は)「やあ佐々木殿、手柄を立てようとして、失敗をなさるなよ。川の底には大網が張ってあるだろう。」と言ったので、 と言ったので、佐々木は太刀を抜いて、馬の足に引っかかっていた大網をぷっぷっと切って(進み)、(佐々木は)生食(「いけずき」)という日本一の名馬に乗っていたので、(いかに)宇治川(の流れ)が速いといっても(馬は物ともせず)、川を一直線にざっと渡って、向こう岸に上がった。 (いっぽう、)梶原の乗っていた摺墨(「するすみ」)は、川の中ほどから斜め方向に押し流されて、ずっと下流から向こう岸に上がった。 佐々木は、鐙を踏ん場って立ち上がり、大声を上げて、名乗ったことは、 「宇多天皇から9代目の末裔、佐々木三郎秀義(ひでよし)の四男、佐々木四郎高綱である。宇治川での先陣だぞ。我こそ(先陣だ)と思う者がいれば、(この)高綱と組み合ってみよ。」 と言って、大声を上げ、(敵陣へと)駆けていく。 |
- 重要語句
- ・さもあるらん - そんなこともあるだろう。「らん」は推量の助動詞、終止形。
- ・たばかられぬ - だまされた。「たばかる」で、だます、の意味。「れ」は受身の助動詞「る」の連用形。「ぬ」は完了の助動詞、終止形。
- ・やがて - すぐに。ただちに。さっそく。
- ・ - 。
- ・ - 。
- ・ - 。
- 語注
- ・宇治川 - 現在の京都市伏見区を流れる川。
- ・梶原源太景季(かぢはらげんだかげすゑ) - 相模(さがみ、現在の神奈川県)の武将。
- ・佐々木(ささき)四郎高綱(たかつな) - 近江(おうみ、現在の滋賀県)の武将。
- ・一段 - 約11メートル。
- ・腹帯 - 馬に鞍を固定するための帯。
- ・結髪(ゆがみ) - 馬のたてがみを束ねて結んだ物。
- ・生食(いけずき) - 佐々木高綱が頼朝から与えられた馬。
- ・世一 - 天下一。世の中一。日本一。
- ・するすみ -梶原景季が頼朝から与えられた馬。
- ・篦撓(のため)形(がた) -斜め方向 。(のため)は矢の柄の曲がりを直すための道具。
- ・ - 。
- ・ - 。
二
編集- 大意
畠山重忠(はたけやましげただ)は馬を射られた。そのため馬を下りて、水中にもぐりつつ、対岸へと渡っていった。渡河の途中、味方の大串次郎重親(おおくしじろうしげちか)が畠山につかまってきた。
畠山らが向こう岸にたどり着いて、畠山重忠が大串次郎を岸に投げ上げてやると、大串は「自分こそが徒歩での先陣だぞ。」などということを名乗りを上げたので、敵も味方も笑った。
- 本文/現代語訳
畠山(はたけやま)、五百余騎で、やがて渡す。向かへの岸より山田次郎(やまだじらう)が放つ矢に、畠山馬の額(ひたひ)を篦深(のぶか)に射させて、弱れば、川中より弓杖(ゆんづゑ)を突いて降り立つたり。岩浪(いはなみ)、甲(かぶと)の手先へざつと押し上げけれども、事ともせず、水の底をくぐつて、向かへの岸へぞ着きにける。上がらむとすれば、後ろに者こそむずと控へたれ。 「誰そ(たそ)。」 と問へば、 「重親(しげちか)。」 と答ふ。 「いかに大串(おほぐし)か。」 「さん候ふ。」 大串次郎は畠山には烏帽子子(えぼしご)にてぞありける。 「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。力及ばで付きまゐらせて候ふ。」 と言ひければ、 「いつもわ殿原は、重忠(しげただ)がやうなる者にこそ助けられむずれ。」 と言ふままに、大串を引つ掲げて、岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられ、ただなほつて、 「武蔵(むさし)の国の住人、大串次郎重親(しげちか)、宇治川の先陣ぞや。」 とぞ名のつたる。敵(かたき)も味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける。 |
畠山は五百余騎で、すぐに渡る。向こう岸から(敵の平家軍の)山田次郎が放った矢に、畠山は馬の額を深く射られて、(馬が)弱ったので、川の中から弓を杖のかわりにして、(馬から)降り立った。(水流が)岩に当たって生じる波が、甲の吹き返しの前のほうにざぶっと吹きかかってきたけど、そんな事は気にしないで、水の底をくぐって、向こう岸に着いた。(岸に)上がろうとすると、背後で何かがぐっと引っ張っている。 (畠山が)「誰だ。」 と聞くと、 (相手は)「(大串次郎)重親。」 と答える。 「なんだ、大串か。」 「そうでございます。」 大串次郎は、畠山にとっては烏帽子子であった。 「あまりに水の流れが速くて、馬は押し流されてしまいました。(それで)しかたがないので、(あなたに)おつき申します。」 と言ったので、 「いつもお前らは、(この)重忠のような者に助けられるのだろう。」 と言うやいなや、大串を引っさげて、岸の上へと投げ上げた。 (大串は岸に)投げ上げられ、すぐに立ち上がって、 「武蔵の国の住人、大串の次郎重親、宇治川の徒歩での先陣だぞ。」(馬では、なくて。) と名乗った。 敵も味方もこれを聞いて、一度にどっと笑った。 |
(第九巻)
- 重要語句
- ・誰そ(たそ) -誰だ。「そ」は係助詞「ぞ」の古い形。
- ・力及ばで -力が及ばないで。「で」は打消の接続助詞。
- ・ただ - すぐに。
- 語注
- ・篦深(のぶか) -矢が深く突き刺さっている状態。
- ・弓杖(ゆんづえ) - 弓を杖のかわりにすること。
- ・岩浪(いはなみ) - 岩に水が当たって生じる波。
- ・甲の手先 - 甲の吹き返しの先のほう。
- ・重親 -大串次郎重親。
- ・わ殿原 -武士の敬称。「原」(ばら)は複数の相手を表す。お前たち。
- ・ - 。
- ^ 、小林保治『平家物語ハンドブック』、三省堂、2012年4月10日 第2刷、213ページ