臥薪嘗胆 編集

(がしん しょうたん)
出典: 十八史略(じゅうはっしりゃく)

解説 編集

故事成語ともなった「臥薪嘗胆」の、もともとの話である。 古代中国(紀元前500年ごろ)の春秋戦国時代の、呉(ご)の国と、越(えつ)の国との、戦いの話である。

春秋戦国時代そのものは、紀元前8世紀から紀元前5世紀ごろまで続いた。

現代語訳 編集

(呉王の)闔廬(こうりょ)は、伍員(ごうん)を重用(ちょうよう)して、国の政治を相談していた。伍員(ごうん)の字(あざな)は子胥(ししょ)といい、楚(そ)の国の人の伍奢(ごしゃ)の子(こ)である。  伍奢(ごしゃ)が(楚の王に罪を責められ)殺されたので、(子の伍員(ごうん)は)呉に逃れた。 (伍員(ごうん)は)呉の軍隊を率いて、楚(そ)に攻め込み、(楚の首都である)郢(えい)を占領した。

(その後、)呉(ご)は越(えつ)を攻撃した。(そのときの戦いで、)(呉王である)闔廬(こうりょ)が負傷して死んだ。(闔廬の)子の夫差(ふさ)が王位についた。(先代の王である闔廬(こうりょ)に仕えていた)子胥(ししょ)は、(闔廬に仕えたころと)同様に、夫差に仕えた。 夫差は、父(=闔廬(こうりょ))の仇(かたき)を討つ(うつ)ことを、心に誓った(ちかった)。

(夫差は、)(「父のかたきを取る」という、恨みを忘れないようにするため、)朝晩(あさばん)は薪(たきぎ)の上に寝て(ねて)、 (家臣が)出入りするたびに家臣に、叫ばせた内容は、「夫差よ、おまえは越(えつ)の連中が、おまえの父を殺したのを忘れたのか?」と。


周の敬王の(治世の)二十六年に、夫差は越(えつ)を夫椒(ふしょう)で破った。 越王の勾践(こうせん)は、残った兵(=敗残兵)を引き連れて会稽山(かいけいざん)にこもり、(本音では越王は復讐をたくらんでいるが、ひとまず当面を生き延びるため、復讐心を隠して、越王は呉王に許しをこい、命乞いを願い出た。その願い出た内容は、越王みずから呉王の)臣下になり、(越王の)妻は呉王に侍女(じじょ)として差し出すことを願い出た。

子胥(ししょ)は、「だめです。(=越王・勾践を許してはいけない。勾践は殺されるべき。)」と(呉王に?)言った。 ところが、宰相(さいしょう)の伯嚭(はくひ)が、越からの賄賂を受け取り、夫差を説得して越王を許させて(越王を釈放させて)しまった。 勾践は、国(=越)に戻り、(復讐心を忘れないようにするため、苦い味の肝(きも)を嘗め(なめ)られるように、獣の)肝を寝起きする場所に吊るしておき、(寝起きする)そのたびに肝を見上げて嘗めて(なめて)言うには、「おまえは会稽で受けた恥を忘れたのか?」と(自分自身に、越王・勾践は、寝起きのたびに)言った。 (王自身は軍事に専念できるように、経済・司法などの)国内の(非・軍事の)政治はすべて大夫(=役職名、大臣みたいなもの)の文種に任せて、(越王自身は)范蠡(はんれい)と一緒に軍隊を訓練したりして、呉を攻略するための計画(=軍備増強や、作戦づくり、など)に専念した。


(呉の)宰相(さいしょう)の伯嚭(はくひ)(=賄賂(ワイロ)を越から、受け取ったとされている人)は、(夫差に)子胥(ししょ)が自分の計略が採用されなかったことで(夫差を)うらんでいると、(うその)進言をした。 夫差は(その訴えを信じてしまい、)子胥(ししょ)に(自殺を命じて)属鏤(しょくる)の剣を与えた。 子胥は(自殺を命じた呉王をうらんで)、(子胥の)家族に(遺言として)伝えたのは「必ず、私の墓(のそば)に、ひさぎ の木を植えよ。ひさぎの木は(棺桶(かんおけ)の)材料にすることができる。(呉王の棺桶だ。)そして、私の目をえぐりだして、(都の)東の門に、かけてくれ。越の軍隊が(攻め込んできて)呉を滅ぼすのを見てやろう。」と。 そこで、(子胥は、自殺のため、自分の)首をはねて死んだ。 夫差は(怒り、)(子胥の)死体を(埋葬させずに)取り上げて、馬の皮で作られた袋に入れて、長江(=揚子江)に投げ入れた。 呉の人々は、子胥(ししょ)をあわれみ、川べりに祠(ほこら)を立てて、胥山(しょざん)と名付けた。


(それからのち、)(肝を嘗めた勾践の国である)越は(富国強兵のため)十年をかけて(富国のため)人口を増やし国の財貨を増やし(経済力などを高め)、(さらに、強兵のため、その後の)十年をかけて人民を教育し訓練した。(合計で20年の期間。)  周の元王の4年、越は呉を攻撃した。呉は三度戦い、三度とも(呉が)敗退した。(肝を嘗めた勾践の越が勝った。)

夫差は講和のため、姑蘇(こそ)に上り、越に請い願った。 (しかし、)范蠡(はんれい)は(講和を)聞き入れなかった。 夫差が言うには、「私は、(死んだあと、あの世で)子胥に会わせる顔がない。」と。 (なので、そこで、)死者の顔をおおうための四角い布を作り、(顔を覆って(おおって)隠して(かくして)、)死んだ(=自殺)。

語句と人物の関係 編集

「臥薪」(がしん)した人と、「嘗胆」(しょうたん)した人は別人であり、おたがいに敵国どうしで、敵。

・「臥薪」した人は、呉(ご)の王の夫差(ふさ)であり、のちに最終的に越に負けて、自殺に追い込まれる。
・「嘗胆」(しょうたん)した人は、越(えつ)の王の勾践(こうせん)であり、最終的に呉を滅ぼす。
  • 「臥薪」(がしん)

「臥薪」とは、硬い薪(たきぎ)の上で寝ること。痛い、と考えられてる。この痛みで、復讐心を思い出すため,である。

「闔廬」(こうりょ)は夫差の父であり、呉の、夫差の前の時代の王。そもそも夫差は、この「闔廬」を失った仇(かたき)のために、「臥薪」したのであった。


  • 「嘗胆」(しょうたん)

「嘗胆」とは、肝(きも)を嘗める(なめる)こと。味が苦く、この苦味で、復讐心を思い出すため、である。

最終的に、「嘗胆」した勾践は、「臥薪」した夫差を滅ぼした。


人物どうしの関係 編集

一覧 編集

呉越各国で並べると、・・・

  • 呉の側
闔廬(=夫差の父、呉王) 、  夫差(呉王)、 子胥(「ししょ」、闔廬の部下、夫差の部下)、伯嚭(「はくひ」、呉の宰相・大臣のような階級)
  • 越の側
勾践(越王)、妻(勾践の妻)、文種(越の大臣、「大夫種」と同一人物)、范蠡(「はんれい」、勾践の部下)
  • その他
周の敬王(けいおう)、元王(げんおう) - 呉越の戦いには、周は、参戦していない。この春秋戦国時代は、周が、名目上だけは中国を支配することになっている王朝だったが、実際には諸侯(しょこう)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代だった。
伍奢(ごしゃ) - 子胥(ししょ)の父。楚の人。伍奢が楚王に殺されるので、子の子胥が楚をうらみに思い、子胥の仕えた呉によって楚に攻め込んだ。

楚と呉は戦争をしているが、この戦争の戦前・戦後では両国とも、「臥薪」も「嘗胆」もしていない。子胥(ししょ)も、楚を倒そうという復讐心を持っているが、子胥は「臥薪」も「嘗胆」もしていない。

「臥薪」または「嘗胆」をした人物は、二人とも、王である。


詳細 編集

  • 子胥(ししょ) - 「伍員」(ごうん)、と同一人物。子胥は、夫差(ふさ、=呉王)の部下だが、夫差に聞き入れられず、他の大臣の謀略により、最終的に子胥(ししょ)は無実の罪を着せられて、自殺を命じられる。
かつて、勾践(=越王)が夫差(=呉王)に命ごいしたときに、呉の子胥は、勾践を殺すように呉王・夫差に進言した。しかし、聞き入れてもらえず、勾践は生き延びてしまった。

後日談 編集

このあと、しばらくしてから、越の臣下だった范蠡(はんれい)が,越王の部下を辞めて、そして越から外国に抜け出す。

范蠡(はんれい)は、越王に失望したのである。一説には、呉の子胥(ししょ)が自殺を命じられたようにのように、越王から疎んじられて自殺などに追い込まれることを恐れたのという説を主張する、参考書もある。

また、越の大臣である文種は、越王に疎んじられて、自殺を命じられてしまう。

范蠡(はんれい)は斉(せい)の国に移り、商人になり、財産を築いた。

故事の意味 編集

「臥薪嘗胆」のもともとの意味は、この物語のように、「かたき討ちや、復讐のために、つらいことでも我慢すること」のような意味の、ぶっそうな内容だった。

現在の(21世紀の)日本での学校教育では、「臥薪嘗胆」から、ぶっそうな意味合いはほとんどなくなり、「目的達成のために、つらいことでも我慢すること」のような意味で使われる。

書き下し文 編集

闔廬(かふりょ)伍員(ごうん)を挙げて(あげて)、国事(こくじ)を謀らしむ(はからしむ)。  員(うん) 字(あざな)は子胥(ししょ)、楚人(そひと)伍奢(ごしゃ)の子(こ)なり。  奢(しゃ)誅(ちゅう)せられて呉(ご)に奔る(はしる)。  呉(ご)の兵(へい)を以ゐて(ひきいて)郢(えい)に入る(いる)。

呉(ご) 越(えつ)を伐つ(うつ)。  闔廬(かふりょ)傷(きず)つきて死す(しす)。  子(こ)の夫差(ふさ)立つ(たつ)。  子胥(ししょ)復た(また)之(これ)に事ふ(つかふ)。  夫差(ふさ)讎(あだ)を復(ふく)せんと志す(こころざす)。  朝夕(てうせき)薪中(しんちゅう)に臥し(ふし)、出入(しゆつにふ)するに人(ひと)をして呼ばしめて(よばしめて)曰はく(いわく)、 「夫差(ふさ)、而(なんぢ)越人(えつひと)の而(なんぢ)の父(ちち)を殺せし(ころせし)を忘れたる(わすれたる)か。」と。

周(しう)の敬王(けいおう)の二十六年(にじふろくねん)、夫差(ふさ)越(えつ)を夫椒(ふせう)に敗る(やぶる)。  越王(えつおう)勾践(こうせん)、 余兵(よへい)を以ゐて(ひきいて)会稽山(くわいけいざん)に棲み(すみ)、臣(しん)と為り(なり)妻(つま)は妾(せふ)と為らん(ならん)ことを請ふ(こふ)。 子胥(ししょ)言ふ(いふ)、「不可(ふか)なり。」と。

太宰(たいさい)伯嚭(はくひ) 越(えつ)の賂ひ(まひなひ)を受け(うけ)、夫差(ふさ)に説きて(ときて)越(ゑつ)を赦さしむ(ゆるさしむ)。  勾践(こうせん)国(くに)に反り(かへり)、胆(きも)を坐臥(ざぐわ)に懸け(かけ)、即ち(すなはち)胆(きも)を仰ぎ(あふぎ)之(これ)を嘗めて(なめて)曰はく(いわく)、 「女(なんぢ)会稽(くわいけい)の恥(はぢ)を忘れ(わすれ)たるか。」と。

国政(こくせい)を挙げて(あげて)大夫種(たいふしょう)に属(しよく)し、而して(しかうして)范蠡(はんれい)と兵(へい)を 治め(をさめ)、呉(ご)を謀る(はかる)を事(こと)とす。


太宰嚭(たいさいひ)、子胥(ししよ)謀(はかりごと)の用ゐ(もちゐ)られざるを恥ぢて怨望(ゑんばう)すと譖(しん)す。夫差(ふさ)乃ち(すなはち)子胥(ししよ)に属鏤(しよくる)の剣(けん)を賜ふ(たまふ)。

子胥(ししよ)其の(その)家人(かじん)に告げて(つげて)曰はく(いはく)、 「必ず(かならず)吾が(わが)墓(はか)に檟(か)を樹ゑよ(うえよ)。檟(か)は材(ざい)とすべきなり。 吾が(わが)目(め)を抉りて(ゑぐりて)、東門(とうもん)に懸けよ(かけよ)。 以て(もつて)越兵(ゑつへい)の呉(ご)を滅ぼす(ほろぼす)を観ん(みん)。」と。乃ち(すなはち)自剄(じけい)す。 夫差(ふさ)其の(その)尸(しかばね)を取り(とり)、盛るに(もるに)鴟夷(しい)を以て(もつて)し、之(これ)を江(かう)に投ず(とうず)。 呉人(ごひと)之(これ)を憐れみ(あはれみ)、祠(し)を江上(かふじやう)に立て(たて)、命けて(なづけて)胥山(しょざん)と曰ふ(いふ)。

越(えつ)十年(じふねん)生聚(せいしゆう)し、十年(じふねん)教訓(けふくん)す。周(しう)の元王(げんわう)の四年(よねん)、越呉(ゑつご)を伐つ(うつ)。 呉(ご)三たび(みたび)戦ひて(たたかひて)三たび(みたび)北ぐ(にぐ)。 夫差(ふさ)姑蘇(こそ)に上り(のぼり)、亦た(また)成(たひらぎ)を越(ゑつ)に請ふ(こふ)。 范蠡(はんれい)可かず(きかず)。 夫差(ふさ)曰はく(いはく)、 「吾(われ)以て(もつて)子胥(ししよ)を見る(みる)無し(なし)。」と。 幎冒(べきぼう)を為りて(つくりて)乃ち(すなはち)死す(しす)。

原文 編集

呉王闔廬、挙伍員謀国事。員、字子胥、楚人伍奢之子。奢誅而奔呉、以呉兵入郢。 呉伐越、闔廬傷而死。子不差立。子胥復事之。夫差志復讎、朝夕臥薪中、出入使人呼曰、 「夫差而忘越人之殺而父邪。」

周敬王二十六年、夫差敗越于夫椒。越王勾践以余兵棲会稽山、請為臣妻為妾。 子胥言、「不可。」

太宰伯嚭受越賂、説夫差赦越。勾践反国、懸胆於坐、臥即仰胆、嘗之曰、 「汝、忘会稽之恥邪。」

挙国政属大夫種、而与范蠡治兵、事謀呉。

太宰嚭、譖「子胥恥謀不用怨望。」

夫差乃賜子胥属鏤之剣。子胥告其家人曰、 「必樹吾墓檟。檟可材也。抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」

乃自剄。夫差取其尸、盛以鴟夷、投之江。呉人憐之、立祠江上、命曰胥山。 越十年生聚、十年教訓。周元王四年、越伐呉。呉三戦三北。夫差上姑蘇、亦請成於越。范蠡不可。

夫差曰、「吾無以見子胥。」

為幎冒乃死。

重要表現 編集

・以ゐる(ひきいる) - ここでの原文の「以」は、「ひきいる」と訓読する。「率いる」(ひきいる)の意味。
  • 而忘越人之殺而父邪
・而(なんぢ) - おまえ。「汝」(なんじ)と同じ意味。
(か) - 文末にあり、疑問(ぎもん)を表す助字。

つまり、「而忘越人之殺而父邪」は、「おまえは、越人がおまえの父を殺したのを、忘れたのか。」の意味。

・使人呼 - 「使」は「〜させる」の意味。「使〜」で使役(しえき)を表す句法。「使人呼」で「人に呼ばせる」の意。
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(※ 記述中)

読解 編集

・複(まタ) - 「ふたたび」「さらに」などの意味。親子二代にわたって子胥(ししょ)が仕えたこと。(闔廬が戦死してしまった為)
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参考 編集

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・国事(こくじ) - 国の政治についての事。
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・奔(はしル) - 逃亡する。
・請う(こう) - 願う。
・賂(まいない) - 賄賂(わいろ)。
・説く - ここでは「説得する」の意味。
・坐臥(ざが) - 座ったり寝たりする場所。
・女(なんじ) - おまえ。汝(なんじ)に同じ。
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・赦(ゆるサシム) - 「赦」は「許す」(ゆるす)の意味。文脈から、使役(しえき)と捉えて、書き下し文では「〜しむ」が補われている。
范蠡 - 「与」は「と」と読み、「〜と一緒に」の意味。「与范蠡」で「范蠡とともに」。
・治兵(へいヲおさメ) - 「軍隊を整備し」の意味。「治」は「整備する」の意。
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・怨望(えんぼう) - うらむ。
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・自剄(じけい) - 自分で首をはねて死ぬ、自殺の方法。中国での武将などの自殺方法。「自刎」(じふん)ともいう。日本でいう切腹(せっぷく)のようなもの。
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・三たび(みたび)戦ひて(たたかひて)三たび(みたび)北ぐ(にぐ)。 -「三たび」など「三」は回数の多いことを表す。

また、「北」は敗北、敗退のこと。この「北」を、単に「負ける」などと訳してもよい。


語釈 編集

・呉 - 国名。江蘇省(こうそしょう)のあたりにあった国。
・郢(えい) - 楚(そ)の都。
・越 - 国名。浙江省(せっこうしょう)のあたりにあった国。
・字(あざな) - 古代通国では、成人になったときに、実名のほかに付ける別名。
・夫椒(ふしょう) - 山の名前。江蘇省(こうそしょう)蘇州(そしゅう)市のあたりにある山。
・会稽山(かいけいざん) - 山の名前。現在でいう浙江省(せっこうしょう)紹興(しょうこう)市の南東にある。
・妾 - 女性の使用人。
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・属鏤之剣 - 剣の名前。名剣のようだ。
・檟(か) - ひさぎ。棺(ひつぎ)の材料として、よく用いられた。
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・尸(し) - なきがら。死体。
・鴟夷(しい) - 馬の皮で作った、酒を入れる袋。
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・生聚(せいしゅう) - 人民を増やし、物資を豊かにする。
・姑蘇(こそ) - 台の名前。この姑蘇台(こそだい)が、現在の江蘇省(こうそしょう)蘇州市の姑蘇山(こそざん)にあった。
・成 - 講和。
・幎冒(べきぼう) -死者の顔をおおうための四角い布。