『鶏口牛後』は一般に「けいこう ぎゅうご」と読む。

予備知識

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春秋戦国時代の、「戦国の七雄」と言われる、七つの強い国ができた時代の話。 秦(しん)は、その中でも、とくに強い国の一つ。

現代語訳

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(強国である)秦(しん)の国の人々が、周辺諸国を(軍事力で)脅して、(秦に)領土を割譲(かつじょう)せよ、と迫って(せまって)きた。

洛陽の人で、蘇秦(そしん)という人がいた。 蘇秦(そしん)はかつて政治家になるための就職活動で、秦の恵王に演説しにいったが、雇用(こよう)してもらえず、 そのため(他国に)行って、燕(えん)の国の文侯(ぶんこう)に自説を演説して、趙(ちょう)と同盟を結ばせようとした。

燕(えん)の文侯(ぶんこう)は(この同盟案に賛同し、そこで外交の使者として、)蘇秦(そしん)に金銭(=旅費などの費用)を与え、(蘇秦を)趙に行かせた。

(蘇秦が、趙の)粛侯(しゅくこう)に説得して言うには、「(秦以外の)諸侯が力を合わせたとすると、兵(の数)は(秦の)十倍です。(諸国が)力を合わえて西の秦に対抗すれば、秦は必ず敗れるでしょう。王様のための計画を考えますと、(秦以外の)六国(=燕・趙・斉・魏・韓・楚)が協力して秦を追い払う事に、まさる策はありません。」と。

(趙の)粛侯(しゅくこう)は、この同盟案に賛同し、そこで蘇秦(そしん)に金銭(=旅費など)を与え、(蘇秦を使者として諸国に同盟を結ばせに行かせて、)そして同盟を結ばせた。

蘇秦(そしん)は、通俗的な表現を用いて、諸侯に説明して言ったことは、 「いっそ鶏のくちばしになることはあっても、牛の尻になるな。」と。 こうして六国は、同盟を結んだ。

書き下し文

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秦人(しんひと) 諸侯(しょこう)を恐喝(きょうかつ)して、地(ち)を割かん(さかん)ことを求む(もとむ)。  洛陽(らくよう)の人(ひと)、蘇秦(そしん)というもの有り(あり)。  秦の恵王に游説(いうぜい)して用ゐられず(もちゐれず)、 乃ち(すなはち)往きて(ゆきて)燕(えん)の文侯(ぶんこう)に説き(とき)、趙(ちょう)と従親(しょうしん)せしめんとす。 燕(えん) 之(これ)に資し(しし)、以て(もって)趙(てう)に至ら(もたら)しむ。  粛侯(しゅくこう)に説きて(ときて)曰はく(いはく)、

「諸侯(しょこう)の卒(そつ)、秦(しん)に十倍(じふばい)せり。 力(ちから)を并せて(あわせて)西(にし)に向かはば(むかわば)、秦(しん) 必ず(かならず)破れん(やぶれん)。大王(だいおう)の為(ため)に計る(はかる)に、六国(りっこく)従親(しょうしん)して以て(もって)秦(しん)を擯くる(しりぞくる)に若く(しく)は莫し(なし)。」と。 

粛侯(しゅくこう) 乃ち(すなはち)之(これ)に資し(しし)、以て(もって)諸侯(しょこう)に約(やく)せしむ。  蘇秦(そしん) 鄙諺(ひげん)を以て(もって)諸侯(しょこう)に説きて(ときて)曰はく(いはく)、 「寧ろ(むしろ)鶏口(けいこう)となるとも、牛後(ぎゅうご)と為る(なる)無かれ(なかれ)。」と。  是(ここ)に於いて(おいて)、六国(りっこく)従合(しょうごう)す。

重要語句

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「寧 A 無 B」で、「いっそAしてでも、Bするな」の意。

語句

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・恐喝(きょうかつ) - 脅す(おどす)こと。現代語でも、「恐喝」という語がある。
・乃ち(すなはち) - 「そこで」「それで」などの意味の接続詞。
(※ 記述中)

語釈

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秦人(しんひと) - 秦の国の人。
洛陽(らくよう) - 地名。今でいう河南省(かなんしょう)洛陽市(らくようし)。
蘇秦(そしん) - 人名。この時代の弁論家のうちの一人。
卒(そつ) - 兵卒(へいそつ)。
(※ 記述中)

現在の意味

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現在、「鶏口となるとも牛後となることなかれ」・「鶏口牛後」とは、「大きな組織などに従うよりかは、小さい組織などの長になるほうが良い。」のような意味で使われる。

反対の意味のことわざは、「寄らば(よらば)大樹(たいじゅ)の陰(かげ)」

白文と書き下し文

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秦人恐喝諸侯求割地。有洛陽人蘇秦。遊説秦恵王、不用。乃往説燕文候、与趙従親。燕資之、以至趙。説粛候曰、「諸侯之卒、十倍於秦。并力西向、秦必破矣。為大王計、莫若六国従親以擯秦。」粛候乃資之、以約諸侯。蘇秦以鄙諺、説諸侯曰、「寧為鶏口、無為牛後。」於是六国従合。

秦人(しんひと)諸侯を恐喝して地を割かんことを求む。洛陽の人蘇秦なるもの有り。秦の恵王に遊説して用ゐられず。乃ち往きて燕の文候に説き、趙と従親(しやうしん)1せしむ。燕之に資し、以て趙に至らしむ。粛候に説きて曰く、「諸侯の卒は、秦に十倍す。力を(あは)せて西に向かはば、秦必ず破れん。大王の為に計るに、六国従親して以て秦を(しりぞ)くるに若くは莫し」と。粛候乃ち之に資し、以て諸侯に約せしむ。蘇秦鄙諺(ひげん)2を以て諸侯に説きて曰く、「寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為ること無かれ」と。是に於いて六国従合す。

後半(※ 参考)

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現代語訳

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蘇秦(そしん)は、鬼谷先生(きこくせんせい)という人を師(し)としている。 初めに(秦に)遊説する為に故郷を出たが、困窮の果てに帰ってきた。(しかし)妻は、はたおり機を下りず、兄嫁は彼の為に食事を作らなかった。その後、連合の長となり、六国の宰相を兼ねることになった。(旅の途中で)洛陽を通り過ぎた(ときのこと)。彼の行列の車や馬は、王のようであった。 兄弟や妻、兄嫁などは(恐れ入って)彼から目をそらし、まともに見ることができなかった。ただ平身低頭で付き従い、食事の給仕をした。蘇秦は笑って言った。「どうして前は威張っていたのに、今度はうやうやしいのか」と。兄嫁は「あなたの身分が高く、金持ちになったのを見たからです」と言った。蘇秦はがっかりしてため息をついて言った。「私は同一人物であるのに、 裕福で身分が高ければ親戚も恐れてびくびくし、貧しく身分も低ければ軽んじあなどる。まして一般の民衆はなおさらだ。 もし、私に洛陽郊外の良田が二頃あれば(安穏としていられたのだから)、六国の宰相の印を腰につけることができただろうか」と。そこで、莫大な金をばらまいて、親族や友人に与えた。やがて蘇秦は同盟を結び終えて、趙に帰った。粛侯は彼に領土を与え、武安君とした。その後、秦は犀首に命じて、趙をあざむき同盟を破壊しようとした。(その計略によって)斉と魏は趙を攻撃した。蘇秦は(その様子を見て)恐れて趙を去ったため、南北の六国同盟は苦しみつつも消滅してしまった。

(さて、今度は)魏の国の人に張儀という者がいた。蘇秦と同じ鬼谷先生に師事した。かつて、楚に遊説した際、楚の宰相に恥をかかされた。妻は怒って文句を言った。張儀は「私の舌を見ろ、まだちゃんとあるか(もしあるならばきっと名誉を挽回してやる)」と言った。蘇秦が南北六国の同盟を結んだとき、(蘇秦は)張儀を怒らせ(ると同時に発奮させ)て秦に行くよう仕向けた。張儀はこう言った、「蘇君が健在なうちは、どうして私は(彼の策に反するような)自説を説くだろうか(いや、そんなことはしない)」と。蘇秦が趙を去って、南北六国の同盟は崩れた。(そこで、ついに)張儀はもっぱら連衡を説いて、六国を横に連ねてそれぞれを秦に仕えさせた。


解説

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この話の中で少しわかりにくいのは張儀が「蘇君の時、儀何ぞ敢へて言はん(蘇君が健在なうちは、どうして私は彼の策に反するような自説を説くだろうか)」といったことだろう。

まず蘇秦の説いた「合従」について見てみよう。これは秦以外の全ての国々が協力して秦に対抗する作戦である。それに対して張儀が説いた「連衡」は秦が六国それぞれと同盟を結ぶことで、六国をばらばらにすると同時に事実上、秦に服属させる外交戦略である。蘇秦・張儀によって七国の同盟関係が変化した(「対秦包囲網」から「秦への従属政策」へ)ことから二人が行った外交戦略の名前をとって「合従連衡」という言葉が生まれた。現代では立場や目的が異なる団体や人物が一時の利害から協力すること(そして、それがすぐに破綻ないし変化しそうなこと)を指す。

このあたりは『史記』の「蘇秦列伝」「張儀列伝」に詳しいのだが、少し述べる。蘇秦は合従が秦によって破られるのをおそれ、同門の張儀を秦に派遣することで合従を有利に運ぼうとした。しかも、ただ派遣するだけでなく侮辱して怒らせ、発奮させると同時に活動資金に困っている張儀をひそかに支援して秦に行かせて、恵王に仕えられるようにした。張儀は後日、このことに気付き、蘇秦への恩義と深い洞察への感服から蘇秦が健在なうちは合従策に手を出さないことにしたといわれる。

白文と書き下し文

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蘇秦者、師鬼谷先生。初出遊、困而帰。妻不下機、嫂不為炊。至是、為従約長、并相六国。行過洛陽。車騎輜重、擬於王者。昆弟妻嫂、側目不敢視、俯伏侍取食。蘇秦笑曰、「何前倨而後恭也」。嫂曰、「見季子位高金多也」。秦喟然歎曰、「此一人之身。富貴則親戚畏懼之、貧賎則軽易之。況衆人乎。使我有洛陽負郭田二頃、豈能佩六国相印乎。」於是、散千金、以賜宗族朋友。既定従約帰趙。粛侯封為武安君。其後、秦使犀首欺趙、欲破従約。斉魏伐趙。蘇秦恐去趙、而解従約。

魏人有張儀者。与蘇秦同師。嘗遊楚、為楚相所辱。妻慍有語。儀曰、「視吾舌、尚在否。」蘇秦約従時、激儀使入秦。儀曰、「蘇君之時、儀何敢言。」蘇秦去趙而従解。儀専為横、連六国以事秦。

蘇秦は、鬼谷先生3を師とす。初め出遊し、困しみて帰る。妻は(はた)を下らず、(あによめ)は為に(かし)がず。是に至り、従約の長となり、六国に并せ相4たり。行きて洛陽を過ぐ。車騎輜重(しやきしちやう)、王者に擬す。昆弟妻嫂、目を(そば)めて敢て視ず、俯伏(ふふく)して侍して食を取る。蘇秦笑ひて曰はく、「何ぞ前には(おご)りて後には恭しきや」と。嫂曰はく、「季子の位高く金多きを見ればなり」と。秦喟然(きぜん)5として歎じて曰はく、「此れ一人之身なり。富貴なれば則ち親戚も之を畏懼し、貧賎なれば則り之を軽易す。(いは)んや衆人をや。我をして洛陽負郭の田二頃6有らしめば、豈に能く六国の相印を()びんや」と。是に於いて、千金を散じ、以て宗族朋友に賜ふ。既に従約を定めて趙に帰る。粛侯封じて武安君と為す。其の後、秦犀首7をして趙を欺かしめ、従約を破らんと欲す。斉魏、趙を伐つ。蘇秦恐れて趙を去り、(しかう)して従約解けぬ。

魏人に張儀といふ者有り。蘇秦と師を同じくす。嘗て楚に遊び、楚相の辱しむる所と為る。妻(いか)りて語有り。儀曰はく、「吾が舌を視よ、尚ほ在りや否や」と。蘇秦従を約せし時、儀を激して8秦に入らしむ。儀曰はく、「蘇君の時、儀何ぞ敢へて言はん」と。蘇秦趙を去りて従解けぬ。儀専ら横9を為し、六国を連ねて以て秦に事へしむ。

語釈

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  • 鬼谷先生 姓は王、名は詡(く)。現河南省登封県の鬼谷にいたために鬼谷先生と号した。蘇秦・張儀の師であるため、縦横家の祖とされる。著作として『鬼谷子』を著したとされるが疑わしい。
  • 相 政治家のトップである宰相のこと。「相たり」で「宰相になる」と解する。
  • 喟然 嘆く様子。がっかりして。
  • 「洛陽負郭の田二頃」 「負」は背、「郭」は外城の意味。このことから「洛陽の外城を背にした」となる。さらに城に近い田は良い田だったとされる。「頃」は面積の単位で、1頃は約170a(一説には約280a)。
  • 犀首 秦の役職。ここでは遊説家だった公孫衍のこと。
  • 激す 刺激する。発奮させる。
  • 横 「衡」と同じ意味で東西をさす。