安保論争と憲法訴訟
編集軍事に関しての解釈改憲と統治行為論
編集憲法9条と自衛隊との関係の議論について、政府に見解は、政府は憲法を改憲することなく、憲法条文の解釈や運用を社会情勢にあわせて変えてきて、政府は自衛隊の存在を正当化してきた。このことを解釈改憲(かいしゃくかいけん)という。また、政府の見解は、ときとともに変わるので、その憲法9条の政府解釈も変わってきた。
1952年の吉田茂(よしだしげる)内閣の以降から2015年の今日までの政府の憲法9条解釈の内容は、おおむね、憲法9条で否定した「戦力」とは、外国の領土を侵略するための軍事力だけであると解釈し、9条では日本の自衛の権利は認めておると解釈し、よって自衛のための最小限度の軍事力は「戦力」に当たらないとするので「自衛隊」は合憲である、というような解釈が一般的である。
自国(= 日本)に対する武力攻撃については、(日本が)反撃できるとする権利を個別的自衛権(こべつてき じえいけん)という。いっぽう、自国ではなく同盟国(= アメリカ)などに対する武力攻撃について自国が反撃する権利を集団的自衛権(しゅうだんてき じえけん)という。
憲法9条では、個別的自衛権は認めている、と日本政府は解釈している。
集団的自衛権については、過去の、戦後昭和期の日本政府は、集団的自衛権は違憲であるとする判断を下してきた。1970年代、当時の与党の自民党政権が、集団的自衛権を持たないとする判断をくだし、その判断が冷戦の終了までしばらく続いてきた。
なお、この集団的自衛権の違憲判断を下したのは、裁判所の判断ではなく、あくまで政府の判断である。(なお、2017年現代では、日本の政府見解では、集団的自衛権を違憲とするかどうかは、不明瞭である。)
いっぽう、国際法では、国家は集団的自衛権を持つと考えられている。国連憲章の第51条で、集団的自衛権を加盟国に認めてると考えられている。
よって、日本国は、国際法によって集団的自衛権を持っているが、日本国憲法によってその集団的自衛の行為を禁止しているということになるだろう。
このため、日本政府は「専守防衛」(せんしゅ ぼうえい)の原則をかかげている。この原則のため、相手から攻撃を受けてから、自衛隊は反撃できると考えられている。また、その反撃は、自衛のために必要最小限であるべき、と考えられている。
また、自衛隊の保有している兵器などの実力は、「戦力」ではなく「防衛力」「自衛力」であると、過去の日本政府は主張していた。
いっぽう、民間人の起こした裁判で、自衛隊基地や米軍基地などは憲法違反ではないか、というような内容の裁判が、何度か起こされた。
自衛隊については、長沼ナイキ訴訟(ながぬま ナイキ そしょう)や百里基地訴訟(ひゃくりきち そしょう)が起こされた。日米安保についての訴訟では砂川事件(すながわ じけん)がある。
しかし、最高裁は、憲法9条についての判断は、司法の範囲外だとした。高裁の主張では、憲法9条の判断については最高度な政治性を要するので、その憲法判断は国会が下すべきだとし、憲法判断にはなじまないとして、自衛隊の合憲・違憲の判断を最高裁は出さないまま、最高裁は訴訟の原告の訴えを棄却した。このような、憲法9条の合憲・違憲の判断は、司法にはなじまないとする、最高裁の判断を統治行為論(とうちこういろん)という。
- 長沼ナイキ訴訟(ながぬま ナイキ そしょう)
1968年、北海道の長沼町で、航空自衛隊の地対空ミサイル(ナイキミサイル)の基地建設があった。この建設のため、農林省は保安林の解除をした。これに対して、地元住民が、保安林取り消しは違法だと訴えた訴訟である。1973年、札幌地裁では、自衛隊が憲法違反とした。1976年、札幌高裁は、統治行為論を用いて、憲法9条の判断は司法審査になじまないとし、地裁の違憲判決を取り消し、また合憲か違憲かの憲法判断を回避した。1982年、最高裁は、憲法9条の判断については司法の範囲外であるとし、憲法判断を回避し、上告を棄却した。
- 百里基地訴訟(ひゃくりきち そしょう)
茨城県の航空自衛隊の百里基地の建設をめぐる、国による基地予定地となる土地の、国と土地所有者との売買について、基地反対派が起こした訴訟。
地裁は、土地売買は、土地の売買そのものは国が行う場合であっても私的行為に類するとして、憲法9条とは無関係であるとし、合憲・違憲かは無関係とした。
1989年、最高裁は、この土地売買は私的行為であるとして、上告を棄却。この最高裁判決では、統治行為論は使われていない、と考えられている。
- 砂川事件(すながわ じけん)
日米安保条約についての訴訟で、東京都立川市にある、在日米軍の立川基地に、基地拡張反対派の住民が突入した事件(砂川事件、1957年)についての訴訟。 在日米軍は憲法に違反してるかどうかが話題になったが、最高裁は統治行為論によって、高度の政治性を有するため司法審査の範囲外とした。
安保政策
編集旧安保条約と新安保条約
編集戦後、後述するように、日米安全保障条約の改正がたびたび行われ、そのたびに、自衛隊の在日米軍の支援範囲は、拡大してきた。このため、従来の政府見解とは矛盾をするという批判が、革新勢力(いわゆる「左翼」)からの批判によって、政府が批判されてきた。
まず、1951年におおもとの最初の日米安全保障条約(旧安保)が制定された。この旧安保にもとづき、米軍は日本駐留をした。
その後の1960年(昭和35年)、岸信介(きし のぶすけ)内閣により、日米安全保障条約の改訂(新安保)が行われた。 この1960年の安保改訂では、ひきつづき米軍が日本に駐留する事が明記され、また、日本から米軍への支援が、より双方的になった。 一方、アメリカは、この1960年の安保改訂にもとづき、日本を防衛する義務を負うことになった。
こうして、1960年の新安保条約によって、日米両国では、日本の共同防衛が義務になったのである。
なお、この安保改訂に反対する運動が盛り上がり、安保改訂への反対運動は安保闘争(あんぽとうそう)だと言われた。
しかし結果的に、日本政府は、安保条約を1960年に改訂し、上述のように、米軍が日本防衛の義務を負うことになり、日本は米軍への協力を強化することになったのである。
なお、1960年の新安保は、名称こそ「安全保障条約」とは言うものの、実質的には、軍事同盟である。(※ 清水書籍の検定教科書でも、そのように解説している。)
日本によるアメリカへの軍事協力に歯止めをかけるため、日本がアメリカに重大な軍事強力をするさいには、日米政府による事前協議が必要になっている。
安保条約は1970年以降、自動延長され、そして現在に至っている。
冷戦と沖縄返還
編集沖縄返還
編集1970年代に沖縄が日本に変換された。
また、同じく1970年代、日本は、集団的自衛権を違憲とする判断をくだした。
また、1970年代、「日中国交正常化」により、日本は中華人民共和国と国交を樹立し、一方で、台湾(中華民国)との国交を断絶した。
- ※ おそらく、1970年代の集団的自衛権の違憲判決は、中華人民共和国に対する、アメリカと日本との沖縄との交換取引であろう。当時は冷戦中であり、アメリカは、ソ連との冷戦でアメリカ有利な状況にするため、中国(中華人民共和国)を味方にしようとしたのだろう。
また、1971年に非核三原則である「もたず、つくらず、もちこませず」の宣言も、衆議院で決議された。
- なお、1976年に核兵器拡散防止条約(NPT)を、日本は批准した。
- なお、実際には、日本にある在日アメリカ海軍基地に入港するアメリカの艦船には核兵器が搭載されたままで、たびたび寄港していたらしく、その実体を黙認するために、これらの「核もちこみ」については日米政府の事前協議からは外すという密約があったらしい事が、2010年の外務省の有識者会議で認定された。このような事への批判から、近年(2017年)では「『三原則』ではなく『二.五原則』だ」などと批判される事も多い。
- また、1970年代から、日本国が、アメリカ軍の日本への駐留経費を負担するための「思いやり予算」が定着した。(日米両国の当時の景気や貿易摩擦などの問題などもあり、いちがいに沖縄返還が理由とは言えないだろう。)
なお、1976年に、日本の防衛費をGNP(国民総生産)比で1%未満とする原則が、三木武夫(みき たけお)内閣により出された。しかし、1987年に、中曽根康弘(なかそね やすひろ)内閣により、このGNP1%制限は撤廃されている。
冷戦の終了と湾岸戦争とPKO
編集しかし、1990年前後に冷戦も終わり、1990年代前半ごろから世界各地で紛争やテロが起き始めた。
まず、1990年に、イラクがクウェートに侵攻する湾岸戦争が発生した。湾岸戦争では、日本は自衛隊を海外に派遣していない。湾岸戦争では、自衛隊派遣のかわりに、日本は多額の援助資金により、アメリカ軍を中心とする多国籍軍への支援を行った。
このような事もあり、日本も、アメリカを中心とする国際社会から、世界で紛争などが起きたさいに、なんらかの支援や貢献を求められ、日本は自衛隊などを紛争地帯の警備や停戦後の復興支援などに出動するかどうかを検討せざるを得なくなり、集団的自衛権の見直しを求められるようになっていく。
また、冷戦終了が原因ではないが、1992年には、カンボジアの復興支援のための国連PKO(平和維持活動)として、自衛隊がカンボジアに派遣された。1992年に国連平和維持活動(PKO)協力法が成立している。
なお、このカンボジアの荒廃の原因は、カンボジアの以前の独裁者ポルポトによる同カンボジア人への大量虐殺および、そのポルポト独裁政権を打倒するためのカンボジア内部での紛争などが原因である。
日本にとっては、このカンボジアのPKO派遣が、日本にとっての初めての自衛隊の海外へのPKO派遣になった。
その後、自衛隊によるPKOは、モザンビーク、ゴラン高原、東ティモール、ネパールなどにも、派遣された。
日本は、PKOの参加のための、軍事協力への歯止めとして、以下のような条件からなる「PKO参加5原則」を出した。
- PKO参加5原則
- ・ 紛争当事者が、停戦に合意していること。
- ・ 紛争当事者が、PKOの受け入れに同意していること。
- ・ 中立的立場を厳守すること。
- ・ 日本の独自判断で、撤退が可能。
- ・ 武器の使用は、隊員自身の防衛のためだけの目的なら、使用可能。それ以外は使用不可。
とする、5つの条件である。
冷戦終了と地域紛争とテロ
編集日本は、1990年代の当初、自衛隊の海外派遣と集団的自衛権の関係のあつかいについては、「国連の平和維持部隊は軍隊でない」的に扱う事として、あいまいにする方針だったが、しかし2001年にアメリカ同時多発テロが発生した(※ 米国にある世界貿易センタービルなどに、ハイジャックされた旅客機を衝突させて、大量殺戮をした。)。なお、この同時多発テロのあと、アメリカは、テロの主犯格(テロ組織 アルカイダ )をかくまっていたアフガニスタンに対し、報復のためにアフガニスタンのタリバン政権を攻撃した。
また、アメリカはイラクとの戦争を行い、アメリカがイラクに勝利し、アメリカ軍はイラクを占領した。(※ 同時多発テロを行った勢力は、イラクではない。)
その後、日本はアメリカからイラクへの復興支援のための自衛隊派遣を求められたため、2003年にはイラク復興支援特別措置法(2009年失効)が制定され、そして実際に自衛隊がイラク南部の都市サマーワに派遣され、自衛隊は給水などの復興支援をした。このサマーワへの自衛隊派遣について、当時の日本国内の世論からは、憲法の定める専守防衛の原則から逸脱している、との批判も起きた。
- なお、1990年にイラクがクウェートに侵攻したさいの湾岸戦争については、日本は自衛隊を派遣していない。湾岸戦争では、自衛隊派遣のかわりに、日本は多額の援助資金により、アメリカ軍を中心とする多国籍軍への支援を行った。
また、2001年のアメリカ同時多発テロの後、日本はテロ対策のために軍事関連の法案を見直さざるを得なくなり、テロ対策特別措置法(2001年)などの、さまざまな法案が制定された。
また、2003年に有事関連法制三法案(自衛隊法改正、武力攻撃事態対処法、改正安全保障会議設置法)が成立した。
さらに2004年には、有事のさいに一般国民の避難や救護などを可能とするための国民協力の義務化とその方法をさだめた国民保護法が制定されるなどして、有事関連法案が追加されていき、有事関連法制は合計で七つとなり、有事関連法制七法案になった。
なお、1996年の時点で、もしも日本の周辺で紛争が起きたさいに、日本の自衛隊がアメリカ軍の支援を可能とする日米安全保障宣言が出されており、また、1999年には、そのための(日本の周辺で紛争が起きたさいの、自衛隊による米軍支援のための)法律である周辺事態法が制定されていた。
また、この周辺事態法は、日米両国の軍事協力の指針を定めている『新ガイドライン』にもとづくものである。
なおなお、上記のはなしを、年代順に並べなおすと、・・・
- 1990年にイラクがクウェートに侵攻したさいの湾岸戦争については、日本は自衛隊を派遣していない。湾岸戦争では、自衛隊派遣のかわりに、日本は多額の援助資金により、アメリカ軍を中心とする多国籍軍への支援を行った。
- 1996年の時点で、もしも日本の周辺で紛争が起きたさいに、日本の自衛隊がアメリカ軍の支援を可能とする日米安全保障宣言が出されており、また、1999年には、そのための(日本の周辺で紛争が起きたさいの、自衛隊による米軍支援のための)法律である周辺事態法が制定されていた。
- 、2001年のアメリカ同時多発テロの後、日本はテロ対策のために軍事関連の法案を見直さざるを得なくなり、テロ対策特別措置法(2001年)などの、さまざまな法案が制定された。
のような順番である。
2000〜2010年代の日本の安全保障の動向
編集2000〜2010年代、北朝鮮のミサイル開発問題や、ロシアのミサイル配備の問題などもあり、日本やアメリカではミサイル防衛網が整備・開発されている。
なお、2007年、防衛庁は防衛省に昇格し、権限も強化された。また、それまでは自衛隊の付随的任務とされていたPKO活動が、防衛省への昇格のさいに、自衛隊の本来任務のひとつになった。
2009年に成立した海賊対処法にもとづき、アフリカのソマリア沖に出現する海賊から、合法の船舶を護衛するために、日本の自衛隊および、その護衛艦が派遣された。
災害復興と自衛隊
編集軍隊の本来の任務は、テロリストや敵国兵士などを倒すための戦闘こそが、本来の軍隊の任務である。大地震などの災害復興は、軍隊の本来の任務ではない。
しかし日本では近年、2011年の東日本大震災などのような大型地震などの災害時には、自衛隊がその機動力などを活用して復興支援などを行うことが多い。
※範囲外
編集実は、日本はアメリカ合衆国との軍事同盟以外にも、いくつかの国と軍事協定を結んでおり、軍事物資の融通などの協定がある。
時事的な話題なので深入りは避けるが、
日本はすでに、イギリス、カナダ、オーストラリア、フランス、インド、などと軍事協定を結んでいる。
政府などは、これらの協定国を、同盟国ではなく「同志国」などと呼んでいる。
フランスの背後にはNATOがある。
オーストラリア・アメリカ。イギリスは、AUKUSという3か国軍事同盟の構成国である。
ニュージランドとは協定を結んでいないが、「ファイブ・アイズ」という、アメリカ・カナダ・イギリス・オーストラリア・ニュージランド、の5か国からなる軍事協定がある。
2024年の時点で、すでに日本は、さまざまな軍事協定の交渉をドイツ(NATOの主要加盟国)やニュージランド(ファイブアイズ加盟国)とも交渉を進めており、普通にテレビ報道もされている。
2020年代、主要国の軍事的な同盟関係が、急速に変化している。