高等学校日本史B/冷戦の開始と講和

冷戦の形成 編集

第二次世界大戦後、東ヨーロッパ諸国の多くにはソ連が進駐し、まもなく東ヨーロッパに社会主義国が多く誕生した。

アメリカ・イギリスは、このような東ヨーロッパの状況を、ソ連の侵略としてとらえて警戒した。この米ソの対立を冷戦という。アメリカは1947年に共産主義国を封じ込める目的でトルーマン-ドクトリンを発表した。

占領期の日本の経済問題など 編集

第二次世界大戦の終戦直後、日本は、はげしいインフレになった。 このインフレを解決するため、1948年、GHQは経済安定9原則を指令し、また、アメリカ国務省顧問の銀行家ドッジが日本に派遣され、翌1949年にはドッジ=ラインと呼ばれる財政引き締め政策が日本で行われ、その結果、復興債の発行禁止、1ドル=360円の単一為替レート、などの政策が行われた。

つづいて1949年、アメリカからシャウプ博士(Shoup)を団長とする税制使節団(シャウプ使節団)が来日し、日本の税制の大幅な改革を勧告され(いわゆる「シャウプ税制」「シャウプ韓国」)、日本の税制が、所得税などの直接税を中心にした税制に改められた。

これらの経済・税制政策の結果、インフレは収まったものの、今度は逆に、デフレによる不況(安定不況)が到来した。

大企業は復活したが、中小企業の倒産があいつぎ、失業者が増加した。これに行政整理もともない、失業者が増加した。その結果、労働運動が激化した。

同じ頃、国鉄(現JR)の労働争議をめぐって1949年に下山事件(しもやまじけん)・三鷹事件(みたかじけん)・松川事件(まつかわじけん)などの怪事件が発生した。

怪事件の内容

下山事件とは、1949年7月に、国鉄の人員整理を行ってた総裁の下山定則(しもやま さだのり)が行方不明となり、轢死体(れきしたい)で発見された事件。(轢死(れきし)とは、車などに、ひかれて死ぬこと。)

三鷹事件とは、1949年8月に中央本線三鷹駅での無人電車が暴走し、死傷者を出した事故。

松川事件とは、東北本線松川駅で、列車転覆事故があり乗務員3名が死亡し、容疑を疑われた国鉄労働組合や東芝松川労働組合の組合員20名が逮捕された。1963年の最高裁で、起訴された者は全員、無罪になった。


占領期の文化 編集

言論の分野では、占領軍に対する批判は規制され、発表できなかった(プレスコード(press code))。

映画では、戦時中に公開の禁止されていた洋画が公開された。

いっぽう、演劇では、『忠臣蔵』や『水戸黄門』などの時代劇が、封建的であるとして、GHQの指令によって公開を禁止された。


1951年にラジオの民間放送が始まった。1953年には、テレビの本放送が開始した。

1949年に法隆寺金堂の壁画の焼損したことなどから、翌1950年には文化財保護法が定められた。

1949年に湯川秀樹が日本人ではじめてノーベル賞を受賞した。

マルクス主義思想も解禁され、経済学や歴史学などに影響を与えた。また、丸山眞男(まるやま まさお)の政治学や大塚久雄(おおつか ひさお)の経済史学が、社会科学の分野で知識人などに大きな影響をあたえた。

文学では、1940年代後半に坂口安吾が『白痴』を発表、太宰治が『斜陽』を発表。

※ 検定教科書によっては、三島由紀夫『仮面の告白』が紹介されている。

その他、この時代、多くの雑誌が創刊した。

(※ 範囲外: )創刊した雑誌のなかには、売れ行きの悪いものもあり、そのような雑誌は粗悪な酒に例えられてカストリと呼ばれ、廃刊していった雑誌も多い(カストリ雑誌)。

その他の文化 音楽関係

文化的な作品は多くあり、すべてを教科書では紹介することは出来ないし、入試にも出ないだろう。

本コラムでは、誤解しやすい作品について、いくつか紹介する。

終戦直後の時代(1945年)に流行した歌謡曲のひとつ『リンゴの唄』を発売時に歌った歌手は、並木路子(なみき みちこ)である。美空ひばり(昭和中期の歌手)ではない。美空ひばりは、1946年のNHK『素人のど自慢』に当時9歳で出場したときに、この歌を上手に歌ったことで注目されるようになった(将来の)歌手である。


その他の文化 マンガ関係

漫画家の手塚治虫(てづか おさむ)は占領期に既にプロデビューしていたが、作品がヒットしたのは、占領後の時代。

このため検定教科書では、占領期の作家としては、手塚を紹介していない。高度経済成長期の作家として、検定教科書では手塚が紹介されることが多い。



 
映画「羅生門」のポスター
芥川龍之介原作の『藪の中』(やぶのなか)を1950年に映画化した。黒澤明(くろさわ あきら)監督作品。1951年度のヴェネツィア国際映画祭でグランプリ受賞。


日本の独立 編集

朝鮮戦争でアメリカは日本の価値を再認識し、日本を自由主義陣営に組み込もうとする動きを加速させた。このため、日本との講和条約の締結を急がせた。

1951年9月8日にサンフランシスコ講和会議が開かれ、日本と48か国との間でサンフランシスコ平和条約が締結された。また、同日に日米安全保障条約(安保条約)が調印され、日本独立後もひきつづきアメリカ軍が日本に駐留することになった。

同条約は翌1952年4月8日に発効し、アメリカによる日本占領は終わり、日本は独立国としての主権を回復した。


独立後の日本 編集

安保体制 編集

サンフランシスコ平和条約と同日に調印された安保条約にもとづき、1952年2月に日米行政協定が締結され、日本は駐留アメリカ軍に基地を提供することと、駐留経費を分担することが定められた。

吉田茂内閣は、平和条約の発効する1952年4月に海上警備隊を新設し、また、警察予備隊は保安隊に改称された。

1954年にMSA協定(日米相互防衛援助協定)で、アメリカからの援助(軍事や農産物)を受けるかわりに、日本は防衛力強化を義務づけられた。

同1954年7月、保安庁を改組して防衛庁とし、保安隊と海上警備隊を統合して、陸・海・空の3隊からなる自衛隊が発足した。

国内の治安体制 編集

 
「血のメーデー事件」
1952年5月1日、使用不可とされていた皇居前広場に、デモ隊が入り、警官隊とデモ隊が衝突して、多数の死傷者を出した。皇居前広場事件ともいう。

また、吉田内閣は、「血のメーデー事件」を契機に、1952年7月、吉田内閣は破壊活動防止法を制定した。そのほか、1954年の新警察法では、自治体警察を廃止し、警察庁の指揮下の都道府県警察に一本化する制度にあらためた。(※ それまでは、警察が2種類あった。)

諸改革 編集

吉田内閣は、1954年には、公立学校教員の政治活動を禁止する教育二法が成立した。(なお1956年の鳩山内閣で、教育委員はそれまで公選制だったが、自治体の首長による任命制にかわった。)

55年体制 編集

1954年12月、造船疑獄事件で吉田内閣は総辞職し、日本民主党の鳩山一郎内閣が成立した。

鳩山内閣は憲法改正をとなえると、それまで日本社会党は右派と左派に分裂していたが、改憲を阻止するために社会党の両派は合流して統一し、社会党は改憲阻止に必要な議席の3分の1を確保した。

これに対抗し、民主党と自由党も合流して自由民主党が結成された(保守合同)。これ以降38年にわたり、自由民主党の政権が続いた(55年体制)。


1956年10月、鳩山内閣は、ソ連との領土問題を棚上げして、日ソ共同宣言に調印し、国交が回復した。 これにともない、日本の国連加盟を拒否していた常任理事国ソ連が加盟賛成にまわったので、同1956年12月に日本は国連に加盟した。

デモや事件など 編集

1954年のアメリカが水爆実験を太平洋ビキニ環礁で実験し、日本の漁船の第五福竜丸が被爆(ひばく)した。これをきっかけに、日本国内で原水爆禁止運動が広がり、翌1955年には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。

1952年にはアメリカ軍拡張に反対した石川県住民らによる内灘事件(うちなだじけん)が起き、つづいて1950年代に東京都で砂川事件(すながわじけん)などの基地反対闘争が起きた。