占領統治の始まり 編集

日本占領 編集

 
マッカーサー元帥と昭和天皇(1945年9月)

ポツダム宣言を受諾するとともに、鈴木貫太郎内閣は総辞職し、かわりに皇族で西欧留学経験をもつ東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)が組閣した。そして1945年8月後半に進駐軍の受け入れが行われ、9月2日には日本はミズーリ号上において降伏文書に調印し、正式に戦争が終結した。

日本は、ポツダム宣言受諾後、アメリカ軍を主力とする連合国軍により占領される。初期の占領政策は、日本を武装解除し、国際社会にとって再び脅威となることを防ぐため、民主化などの政治改革に重点が置かれていた。また、アメリカ軍によって日本は占領されていたので、占領政策はアメリカの都合を反映したものであった。連合国軍の指令機関である連合国軍最高司令官司令部GHQ)が東京都に設置され、連合国軍総司令官SCAP)にはアメリカ軍元帥・ダグラス=マッカーサーが就任した。

GHQは、自ら直接占領統治はせず、日本政府に対して占領政策の指令・勧告を出し、日本政府がそれを実行するという、間接統治の方法をとった。このため、日本本土ではアメリカ軍による軍政は敷かれなかった。しかし、沖縄・奄美・小笠原は、アメリカの軍政下に入った。

GHQの改革指令 編集

首相の東久邇宮稔彦は「国体護持」、「一億総懺悔」などを掲げてGHQと対立した。1945年10月にGHQは日本政府に対して治安維持法の廃止・特別高等警察(特高)の廃止・共産党員ら政治犯の釈放などを指令した(人権指令)ことをきっかけに、10月に東久邇宮内閣は総辞職した。次いで協調外交で国際的によく知られていた幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)が組閣した。このころまでに日本軍は解体された。

GHQは幣原に対し、「憲法の自由主義化」、「婦人参政権の付与」、「労働組合の結成奨励」、「教育の自由主義化」、「秘密警察(特高など)の廃止」、「経済の民主化」を内容とする五大改革指令を口頭で指令した。加えて1945年12月には、日本国民の精神的指導に大きな役割を果たした国家神道を解体するため、神道指令を出した(神道と国家の分離)。この頃、GHQの指令により、戦争指導者とみなされた軍人幹部、政治家、右翼活動家などが次々に逮捕された。

翌1946年1月、昭和天皇は詔書において、天皇を「現御神(あきつみかみ)」であるとするのは架空の概念であるとし、天皇の神格を否定した(いわゆる人間宣言)。同じく1月、日本軍の軍人や国家主義者などと見なされた者たち約21万名が公的な地位から追放された(公職追放)。(追放者の中には、自由主義者の石橋湛山もいた。石橋がGHQに反発したことが原因とみられる。)(鳩山一郎は、戦時中の翼賛選挙では翼賛体制の推薦を受けずに立候補して当選した非推薦議員であるにもかかわらず、鳩山一郎も公職追放された。) (※ どうやらGHQが、あまり日本国内の政治史を分かってないようだ。)

極東国際軍事裁判 編集

 
極東国際軍事裁判の様子

戦争犯罪に関しては、1945年9月から、戦争指導者とみられる軍人や政治家が逮捕され、うち28名はA級戦犯として起訴されて、1946年5月から極東軍事裁判東京裁判)で審理された。A級戦犯については1948年11月に判決が下され、翌12月に東条英機・広田弘毅・板垣征四郎ら7人には死刑が執行された。

GHQは、天皇を占領統治に利用するため、あえて天皇の戦争責任について追及せず、戦犯指定もしなかった。また、極東軍事裁判では天皇は不起訴である。

B級・C級の戦犯は、捕虜虐待などの通常の戦争犯罪の容疑者のことである。B・C級戦犯では、約5700人が訴追され、約1000人が処刑された。だが現代では、処刑されたB・C級戦犯には、実際には冤罪(えんざい)も多かったと考えられている。日本人がB・C級戦犯に含まれているのは当然として、さらに兵士として動員された朝鮮人や台湾人も、B級戦犯またはC級戦犯には含まれていた。

なお、このA/B/Cの分類とはけっして日本の戦犯をさばくための独自の方式ではなく、ヨーロッパ方面においても勝利した連合国がドイツの戦犯をさばくためのニュルンベルク軍事裁判との共通の分類法である。(※ なおB級が主に捕虜虐待で、C級が非人道的行為である。)

軍事裁判への批判
※ 検定教科書の範囲内です[1](検定教科書の脚注コラムなどで触れている)

国家の指導者が、戦争犯罪人として裁かれるのは、第二次世界大戦以前には例がなく、反対意見もあった。当時からインド人判事パルやオランダ人のレーリンクらが反対意見を書いた。

また、このような軍事裁判は、事後法による裁判であり、公平性などに問題があるとの批判や、日本国民が裁判に参加しなかったことで、国民自身の植民地・占領地への戦争被害に対する責任感を薄れさせたのではないかとの批判がある。


政治 編集

敗戦ののち、政党が次々と結成され、政界は再編された。まず、GHQによる政治犯釈放によって釈放された徳田球一らが、合法政党としての日本共産党を結成した。1945年11月には、旧無産政党を中心に合流した日本社会党が結成された。同月、鳩山一郎ら翼賛選挙の非推薦議員らが中心となって日本自由党を結成した。また同月、翼賛選挙で推薦議員であり、旧立憲民政党系の議員らが中心になって、日本進歩党が結成された。この11月の時点での与党は、日本進歩党であった。

12月には衆議院議員選挙法が改正され、女性にも参政権が与えられ、男女の選挙権年齢が満20歳以上に引き下げられた。また、GHQが政治介入し、旧翼賛選挙で推薦議員だった議員が多く公職追放された。鳩山一郎は翼賛選挙の非推薦議員だったにもかかわらず、なぜか公職追放された。

1946年4月、戦後初の衆議院総選挙が実施され、日本自由党が第一党となった。第二党は日本進歩党となった。しかし、衆議院第一党の日本自由党総裁の鳩山一郎は公職追放されていたため組閣できず、5月、外交官出身の日本自由党議員の吉田茂(よしだ しげる)が新総裁に就任し、第二党の日本進歩党の協力を得て第一次吉田茂内閣を組織した。なお、この総選挙では、日本史上初の女性議員が39人当選している。

法の民主的改革 編集

日本国憲法の制定 編集

1945年後半、GHQは幣原内閣に憲法改正を指示した。日本政府は「憲法の自由主義化」のもとで憲法調査会を設置し、憲法草案を作らせたが、それは依然として保守的(=GHQからすれば「全然反省していない」という風に見えるということ)なものであったため、GHQが独自の改正案を作成した。

そして、その改正案をもとに、日本政府は民間の憲法草案や外国の憲法を参考に、憲法草案を作成した。そして1946年4月に、憲法改正草案として公表した。

日本国民は、この憲法草案を賞賛し、帝国議会はこの草案をもとに正式な憲法をめざして審議に入り、1946年11月3日に日本国憲法として公布され、翌1947年5月3日から施行された。

※ 新憲法の内容については、読者が中学で習ったとおりなので、wikibooks本ページでの説明は省略する。

民法と刑法 編集

刑法では、大逆罪や不敬罪や姦通罪(かんつうざい)が廃止された。

大逆罪(たいぎゃくざい)とは、天皇に危害を加えたり、加えようとしたら処刑すること。天皇以外の皇族については、危害を加えたら処刑、加えようとしたら無期懲役。
不敬罪(ふけいざい)とは、天皇や皇族を侮辱するなど不敬な行為をしたら、処罰すること。(※神宮や皇陵に不敬な行為をしたときも)
姦通罪(かんつうざい)とは、婚姻している夫婦で、妻が夫以外とセックスするなど浮気したら、処罰すること。

民法では、新憲法の男女同権の趣旨にしたがって、父親や長男中心の戸主制度や家督制度が無くなった。

未分類 編集

中国大陸において発生していた国共内戦で共産党が優勢になると、GHQは占領方針を転換し、日本を西側陣営に組み込もうとした。

戦後の生活 編集

都心部では、空襲で住居を失った人も多く、彼らは防空壕や仮設小屋に住んだ。

また、失業者が増えた。原因として、軍需工場が閉鎖された事と、軍隊から復員(ふくいん)や、海外からの引き揚げ(ひきあげ)をしてきた人が、大量にいたため。

(復員(ふくいん)とは、軍隊を除隊して、もとの家に戻ること。)

配給の米も不足し、人々は農村への買い出しや、闇市(やみいち)での購入、サツマイモなどの代用食の栽培でしのいだ。

また、インフレーションが発生した。このため日本政府は金融緊急措置令を出して預金の封鎖と新円を発行したが、効果は弱かった。


民主化政策 編集

財閥解体 編集

第二次大戦後の日本経済の民主化政策の一つとして、GHQは1945年に、三井・三菱・住友などの15財閥の資産凍結・解体を指令した。 翌46年8月には、持株会社整理委員会が発足し、指定した持株会社・財閥家族は強制的に株式を売却させられ、それらの株式は一般に売りに出された

さらに1947年、持株会社やカルテル、トラストなどを禁止する内容をふくむ独占禁止法が制定された。

また、既存の独占的大企業を分割するため、過度経済力集中排除法が制定された。

(325社が分割指定されたが、実際に分割されたのは11社だけだった。日本製鉄会社や三菱重工などが分割された。また、銀行は対象外だったので、旧財閥系の銀行が残りつづけた。)

このような施策のことを財閥解体という。


農地改革 編集

農地改革は、1946年から翌年に2度にわたり、行われた。1度目の農地改革は政府が主体となって行われたが不徹底で、GHQがさらなる農地改革を勧告し、2度目の農地改革が行われた。

2度目の農地改革では、地主制じたいは認められたが、土地の所有面積に制限につき、在村地主の小作地を1町歩まで(北海道では4町歩まで)とした。(1町歩(ちょうぶ)は、ほぼ1ヘクタール。)

それを超えるぶんは政府が買い上げ、小作人に売り渡された。

また、農地の近隣に居住しない地主は不在地主として扱われ、いっさい権利は認められなかった。

これらの施策のため、日本全国で小作地は1割程度にまで減少した。


なお、2度目の農地改革は法的根拠として、1946年10月に制定された改正農地調整法と、同10月に制定された自作農創設特別措置法(じさくのう そうせつ とくべつそちほう)にもとづく。

このような施策のことを農地改革という。

(※ 参考書の範囲: )農地改革により、自作農は増えたが、一方で農業が零細化して多くの零細農家を生み出し、戦後農業の生産性の低下につながり、戦後の新たな農業問題の原因になったという側面もある[2]

労働法制 編集

※ 中学で「労働基準法」などについて習ったとおり。

また、1947年に片山内閣のもとで労働省が設置された。

復興と政治 編集

戦後は、戦災によって物資が不足してることもあり、政府は1947年、石炭や鉄鋼などの基幹産業に重点的に資材や資金を投資する傾斜生産方式(けいしゃ せいさんほうしき)を採用した。

さて、労働運動が高揚すると、労働者たち大衆の多くは社会党を支持した。

また、官公庁労働者を中心とする全国官庁共同闘争委員会は、吉田内閣打倒をスローガンとするストライキ(二・一ゼネスト)を計画したが、GHQの指令によって中止された。

新憲法公布後の1947年4月に行われた総選挙では、社会党が躍進して第一党になり、社会党が連立内閣で民主党(進歩党から再編)と国民共同党を連立し、社会党の片山哲(かたやま てつ)が組閣したが、翌年2月に連立政権内の対立で総辞職した。

ついで民主党総裁の芦田均(あしだ ひとし)が同じ3党の連立政権で組閣したが、疑獄事件(昭和電工事件)で10月に退陣した。

その後、民主自由党の吉田茂内閣(第2次)が成立し、長期に渡り政権を担当した。

教育 編集

GHQの指示により、修身・日本史・地理の授業が一時、中止された。

※ 墨塗り教科書については、読者が小中で習ったとおり。

アメリカの教育使節団の勧告にもとづいて教育の民主化が行われることになり、1947年の教育基本法では、民主化の理念をうたうとともに、義務教育期間を6年間から9年間に延長し、原則的に男女共学になった。

また、学校教育法により、6・3・3・4制になった。(小学校の6年間、中学の3年間、高校の3年間、大学の4年間)


1948年には、都道府県・市町村ごとに地方公選制による教育委員会が設置された。

(※ 範囲外 : )軍事教育は日露戦争から存在していた

日本はあたかも第二次大戦中に軍国主義的な教育が多かったように思われがちだが、最近の教育史研究によると、実は日露戦争の終わったころから学校教科書には戦争を題材にした教材が多かったことが分かっている(※江戸川春夫『英語教科書は<戦争>をどう教えてきたか』)。

また、今まで何となく国が軍国教育を強制したかのように思われていたが、どうも通説とは違う側面があるらしい。

というのも戦前、社会科以外のある教科書では、唐突に戦争を題材として扱っているのに、一方で同じ教科の別会社の出版している教科書を調べてみると戦争を扱っていなかったりと、割と不統一でチグハグである(※江戸川春夫『英語教科書は<戦争>をどう教えてきたか』)。

また、よく誤解されるが文部省の指導要領は(戦前は「指導要領」ではなく別の呼び方だが)、そもそも題材を具体的には指定していない(※江戸川春夫『英語教科書は<戦争>をどう教えてきたか』)。

戦前の日本では、軍隊の学校は学費が安いなどの理由もあり志望者も多かった。

逆に、東大や京大などは、戦前は学費が高かった。国立大の学費が安かったのは、実は戦後の昭和の一時期だけである。


このため、軍隊の学校に合格するにも、受験対策が多く必要であった。また、軍の学校は、入試の国語・数学・英語などの文章題や応用問題などの題材に、当時としては当然ながら、仕事に関係のある戦争に関する題材を扱って出題することも多かった。

このためか、どうやら軍学校の世間の親子にとっての人気を反映して、教科書会社が割と自発的に戦争の題材を入れた側面もあるらしい。


そういう背景が分かってくると、終戦直後の墨塗り教科書の解釈も、少し変わってくる。

つまり、「戦時中の軍国教育を排除した」と言うよりも、「軍国主義の排除のために、戦前から続いてきた軍事教育を排除した」と再解釈したほうが良さそうだ、という事になる。


地方自治 編集

民主化改革のひとつとして、地方自治の推進が行われ、1947年には地方自治法が公布され、首長を選ぶのは住民による直接選挙になった。

また、戦前に地方自治や警察行政を担当していた内務省は廃止された。なお、警察制度では、1947年の警察法により、国家地方警察とともに自治体警察が置かれた。

  1. ^ 高橋秀樹 ほか著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年10月1日 第2刷発行、P178
  2. ^ 相澤理『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史【近世・近代編】』、株式会社KADOKAWA (中経文庫)、P285、