4代将軍 家綱の政治

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1651年、3代将軍 家光が死去し、子の家綱が幼少(当時は11歳)にして4代将軍になった。

同1651年、将軍が幼少なのに乗じて、軍学者の由井正雪(ゆい しょうせつ)が、幕府を転覆しようと、反乱を企てたが、事前に露見して失敗した(慶安の変)。

この事件の背景として、牢人が多いという社会問題があったので、同1651年、幕府は、末期養子の禁(まつごようしのきん)を緩和した。

末期養子(まつごようし)とは、大名など当主が死ぬまぎわに、養子をとること。
この末期養子を従来、幕府は認めなかったので、お家の取り潰しになることが多く、牢人の増加の原因にもなっていた。
1651年の末期養子の緩和の結果、50歳未満の当主は末期養子をとれるようになった。

1657年、明暦の大火により、江戸の町が壊滅する。幕府は、復興のため、財政難になった。

1663年、武家諸法度を改訂した。

同1663年、殉死(じゅんし)を禁止した。( 殉死(じゅんし)とは、主君が死んだ時に、家臣が一緒に死ぬこと。)また、主君が死んだら、家臣は前の主君の跡継ぎに仕えることを、義務化した。

翌年、一斉検地を行った。

いくつかの藩は、儒学や歴史学などを奨励した。水戸藩では藩主 徳川光圀(とくがわみつくに)らが、歴史書『大日本史』の編纂にとりかかった。岡山では池田光政、加賀藩では前田綱紀(まえだ つなのり)が、朱子学を奨励した。

元禄時代

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1680年、家綱が死去し、弟の綱吉が5代将軍になった。 綱吉は、堀田正俊(ほった まさとし)を大老にしたが、掘田は暗殺された。その後、綱吉は側用人(そばようにん)を江戸時代で初めて設置し、柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)を側用人にした。なお、側用人の仕事内容は、将軍と老中とのあいだの連絡役。

1685年に生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)の発した。この生類憐みの令では、動物の保護だけでなく、(人間の)捨て子の禁止も行っている。

1684年には、近親者が死んだ時に喪に服す日数などを定める服忌令(ぷっきれい)をさだめた。

※ なお、このような風習(近親者が死んだ時に、喪に服す風習。)を忌引(きびき)という。現代でも、「忌引」(きびき)といい、親族が死んだ時は、数日ほど学校や会社を休むのが習慣である。通学先の学校や勤務先の会社には、連絡をする必要がある。

綱吉は学問(おもに儒学)を奨励し、江戸の湯島に孔子をまつる聖堂(湯島聖堂)を建て、林信篤(はやし のぶあつ)を大学頭(だいがくのかみ)に任命した。

綱吉の時代の幕府は、財政難であった。勘定吟味役(かんじょうぎんみやく、※ のちの勘定奉行)の荻原重秀(おぎわら しげひで)は、金銀の含有率を低めた質の悪い元禄金銀(げんろく きんぎん)を発行したので、物価が上がった。

綱吉の時代の1701〜1702年に赤穂事件(あこう じけん)が起きた。

赤穂事件(あこう じけん)とは、江戸城中で赤穂(あこう)藩主 浅野長矩(あさの ながのり)が吉良義央(きら よしなか)を斬りつけた事件。長矩は切腹になった。翌年、赤穂藩 元家老 大石良雄(おおいし よしお)が仇討ち(あだうち)として吉良の家に討ち入りし、吉良を殺害した。
 
富士山の宝永大噴火を描いた絵図

1707年(宝永4年)には富士山が噴火し(宝永大噴火)、駿河・相模などが降灰の被害を受けた。

なお綱吉は1683年に武家諸法度を改訂し、第一条を「文武弓馬(きゅうば)の道、専ら(もあっぱら)相嗜む(あいたしなむ)べき事」から「文武忠孝(ちゅうこう)を励まし、礼儀を正すべき事」に改訂している。

正徳の治

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1709年に6代将軍 家宣(いえのぶ)が就任し、(儒学の)持講(じこう)の新井白石(あらい はくせき) および 側用人には間部詮房(まなべ あきふさ) を任用したが、わずか3年で家宣は死去した。

7代将軍 家継(いえつぐ)は、まだ3歳の将軍で、新井白石らが政治を行った。

この時代(6代将軍・7代将軍)の政治を正徳の治(しょうとくのち)という。

白石らの政治では、まず、生類憐みの令を実質的に廃止した。

幕府の権威を高めるために、朝廷との結び付きを深め、新しい宮家の創設費用を出費した。(閑院宮家(かんいんのみやけ))

朝鮮通信使に対しては、対応を簡素化した。また、朝鮮から日本の将軍当ての国書にそれまで「日本国大君殿下」(〜たいくんでんか)とあったのを「日本国王」に改めさせた。

白石らは、「大君」は「国王」よりも低い意味をもつと考えた。(なお8代将軍 吉宗(よしむね)以降は、もとの「大君」に戻した。)


経済政策では、貨幣の品質をもとに戻した。しかし、経済は混乱した。

また、長崎貿易では、金銀の海外流出を防ぐため、貿易額を制限する海舶互市新例(かいはく ごし しんれい)を出し、年間の貿易量をオランダ船2隻(せき)で銀3000貫(かん)、中国は船30隻で銀6000貫に制限した。