弥生時代 編集

弥生時代の特徴としては  

金属器  
弥生土器
農耕、水稲耕作(すいとうこうさく)

である。 このような弥生文化が、紀元前4世紀ごろから起こった。

 
絵のある銅鐸(どうたく)。香川県出土(東京国立博物館蔵、国宝)
左下に、うす と きね を用いた作業の絵がある。右下は高床倉庫の絵。右上は弓矢で動物を射る絵。

金属器とは、青銅器(せいどうき)と鉄(てつ)のことで、日本の場合は同時に伝来されたとしている。青銅とは、銅と錫(すず)との合金。また機織の技術も伝えられる。 銅鐸(どうたく)、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)などが発見されている。 発見された銅鐸に刻まれた絵に、臼(うす)や杵(きね)を用いた農作業らしき絵がある。このことからも、弥生時代に稲作が行われていることが分かる。この銅鐸の絵には、他にも、高床倉庫の絵、動物を弓矢で射っている絵がある。

稲の穂を切り取るための石包丁(いしぼうちょう)など、石器も用いられている。

これらの文明が海外から伝達したが、伝達元として複数説あり、朝鮮半島から伝わった説と、中国南部から直接伝わった説がある。有力な説は、朝鮮半島から伝わった説のほうである。石包丁など石器の形が、朝鮮半島と九州北部とで類似することが、朝鮮半島由来説の根拠である。

一方、沖縄地方では漁労を中心とした貝塚文化が、北海道地方では縄文文化を継続した続縄文文化が作られていた。続縄文文化は次第に擦文文化・オホーツク文化となる。

水稲耕作が盛んになり数々の遺跡がある

  1. 板付遺跡(福岡)   弥生初期の水田跡
  2. 菜畑遺跡(佐賀)   最古の水田跡
  3. 砂沢遺跡(青森)   東日本最古の水田跡
  4. 垂柳遺跡(青森)   本州最北端の水田跡


農耕は初期と後期に別れ方法が全く異なるので注意しておきたい。初期の時代の農耕は、湿田(しつでん)に直接種をまく直播という方法をとっていた。弥生時代の後期には乾田(かんでん)が開発された。

※ 乾田には灌漑システムが必要なので、湿田よりも乾田のほうが技術的に高度である[1]。当時の「湿田」は単なる排水不良の農地である場合も考えられる。なので、湿田→乾田 の順序になる。
※ 弥生時代の初期には乾田がもう存在していたとする説もあり、その立場の検定教科書もある[2]


また、収穫時には石包丁を使い穂の部分だけとる穂首刈りを行った。遺跡は、登呂遺跡(静岡)や唐古鍵遺跡(奈良)が有名。後期に場合は灌漑を利用していた。百間川遺跡(岡山)が有名。

弥生時代にはブタの飼育が行われていたらしいことが、近年になって生まれた。かつては、イヌしか飼育されていないと考えられていた。

当時使われていた木製農具。

  1. 木鋤・木鍬   耕作に使用(漢字に注意)
  2. 大足      肥料を混ぜる
  3. 田舟      収穫用の移動手段
  4. 竪杵、木臼   脱穀
  5. 田下駄     ぬかるみ防止

石斧(せきふ)も、樹木の伐採用に用いられた(磨製石斧)。

農産物の貯蔵は高床倉庫に保管された。

弥生土器の特徴としては 

① 薄手で硬い  
② 赤褐色(高温で焼く)  
③ 無紋 

である。

また種類がいくつかあるので覚える。漢字が難しいが書けるように。

  1. (つぼ)  貯蔵用
  2. (かめ)  煮炊き用
  3. 高杯(たかつき) 盛り付け用
  4. (こしき)   蒸し器

これらは東京の本郷(ほんごう)弥生町の向ヶ丘(むこうがおか)貝塚で発見された。 弥生土器は、かつては「弥生式土器」と呼ばれていたが、現在の日本の学校教育や歴史学などでは、弥生土器と呼ぶのが通例になっている。

青銅器は 

銅鐸(近畿地方) 
平形銅剣(瀬戸内) 
銅矛・銅戈(九州)

を覚える。これらは祭器として利用されてきた。 遺跡は大量の銅剣や矛が出てきた荒神谷遺跡(島根)や一箇所での最大量の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(島根)が有名である。


また灌漑利用などで争いが絶えず、高地性集落と呼ばれる山、丘の頂上に暮らしたり(紫雲出山遺跡(香川)など)や 集落の周りに濠を作った環濠集落(かんごうしゅうらく)と呼ばれるものを創り上げた。 

吉野ケ里遺跡(佐賀) 
② 唐古鍵遺跡(奈良) 
③ 大塚遺跡(横浜) 
④ 池上曽根遺跡(大阪)

が有名。


また地域ごとに格差が生まれた。これは墓を見れば一目瞭然であった。

  • 土壙墓        穴の中に遺体を埋葬
  • 箱式石棺墓      石棺をつくり複数の遺体を埋葬  
  • 甕棺墓        2つの土器の中にいれ埋葬
  • 支石墓        甕棺の上に支石を立てて埋葬
  • 方形周溝墓      近畿に分布。溝を形成して埋葬 宇津木遺跡(東京)が有名
  • 墳丘墓        瀬戸内に分布。土盛した大規模な墓 四隅突出形墳丘墓や楯築墳丘墓(岡山)が有名

縄文時代のころは死者の多くに屈葬を行っていたが、弥生時代になり伸展葬(しんてんそう)を行うことが多くなった。

中国史書からみた日本 編集

『漢書』地理志 編集

 『漢書』地理志

夫れ(それ)楽浪(らくろう)海中(かいちゅう)に 倭人(わじん)有り。 分れて(わかれて)百余国(ひゃくよこく)と 為る(なる)。 歳時(さいじ)を 以て(もって)来り(きたり)献見す(けんけんす)と云ふ(いう)。
(原漢文)


これは『漢書地理志(かんじょ、ちりし)(著者:班固)の抜粋を、漢文から日本語に書き下した文である。(原書は漢文)

つまり、

日本は「」(わ)と呼ばれていた。
倭国(わこく)は100国くらいの小国に分裂していた。 
朝鮮半島の楽浪郡(らくろうぐん)に、倭国のリーダーが使者を(定期的に?)派遣した。 

ということである。

『後漢書』東夷伝 編集

 
金印(きんいん)。「漢委奴国王」と刻まれている。「漢の委の奴の国王」(かんのわのなのこくおう)と読まれる。綬(じゅ、※ 組みひも)は出土していない。1辺は2.3cm、重さは109g。材質は金。福岡県の志賀島(しかのしま)で1784年(江戸時代)に出土。 (国宝。福岡市博物館蔵。)
 
金印の印文。「漢委奴国王」と刻まれている。

 『後漢書東夷伝(ごかんじょ、とういでん)

建武中元(けんむ ちゅうげん)二年、倭(わ)の奴国(なこく)、貢を奉じて朝賀(ちょ8が)す(=奉貢朝賀す)。使人(しじん)自ら(みずから)大夫(たいふ)と称す。倭国(わこく)の極南界(きょくなんかい)なり。光武、賜ふ(たまうに)に 印綬(いんじゅ)を以ってす。安帝(あんてい)の永初(えいしょ)元年、倭国王帥升(すいしょう)等(ら)、生口(せいこう)百六十人を献じ、請見(せいけん)を願ふ。桓霊(かんれい)の間、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相攻伐し(あいこうばつし)歴年(れきねん)主なし。
(原漢文)

これは『後漢書東夷伝(ごかんじょ、とういでん)の抜粋である(著者:范曄、原書は漢文)。

・ 建武中元二年 - 紀元(後)57年。
・ 印綬 (いんじゅ)- 印は「漢倭奴国王」の金印のこと。綬は組みひも。
・ 永初(えいしょ)元年 - 107年。
・ 桓霊(かんれい)の間 - 後漢の桓帝・霊帝のころ。すなわち147〜189年の間。

内容は・・・

  1. 奴国王(なこくおう)が光武帝(こうぶてい)に使者を派遣。
  2. 使者は「大夫」と自称。
  3. 光武帝が印綬(いんじゅ)を与える(福岡県志賀島(しかのしま)で金印(きんいん)が発見されている。これには「漢委奴国王」と刻まれている。 
  4. 倭国王帥升(すいしょう)が生口(せいこう)を160人献上した。生口は奴隷。 
  5. 後漢の桓帝・霊帝のころ(すなわち147〜189年の間)、倭国は大いに乱れて(小国が多数、分立していた?)、統一する王がいなかった。

という話である。


(※ 範囲外: )なお、東夷伝の「夷」(い)の意味は、外国人とか未開人・野蛮人とか、そういう意味。

邪馬台国 編集

中国大陸では後漢が220年に滅び、220年ごろには(ぎ)・(しょく)・(ご)の3カ国が並び立つ三国時代(さんごく じだい)になっていた。

中国の歴史書『三国志』(さんごくし)のうちの、魏についての歴史書の『魏志』(ぎし)にある倭人についての記述(倭人伝(わじんでん))によると、3世紀の始めごろの日本では、小国どうしの争いが多かったが、30か国ほどの小国が小国どうしの共同の女王として、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)という女王を立てて連合し、日本の戦乱がおさまったという。卑弥呼は、30か国ほどの国をしたがえたという。

邪馬台国の卑弥呼は、239年に魏に使者をおくり、魏の皇帝から、「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号をもらい、また金印と、銅鏡100枚をもらったことが、倭人伝に記されている。

卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)と戦ったとあるが、その直後のころの247年に卑弥呼は亡くなった。人々は、卑弥呼のための大きな墓をつくった。そののち男の王が立ったが、国内が乱れたため、卑弥呼の同族である13歳の壱与(いよ)が女王になって戦乱が収まった。壱与は、魏にかわった晋に対して使者を266年に送った。魏志倭人伝によると、晋の都の洛陽に、倭の女王・壱与からの使者が来た、とうふうなことが書かれてある。

この壱与からの使者の記述のあと、しばらく中国の文献には倭についての記述は登場しなくなり、から266年から150年間ほどの倭についての詳細は不明である。

邪馬台国の位置が、どこにあったのかは、現在でも不明である。学説では、近畿地方の大和(やまと)にもとめる説と九州説が、有力な説である。

近畿地方にもとめる説の場合、のちのヤマト王権の母体が邪馬台国だったというような可能性が高く、九州から近畿までの範囲をふくむ連合政権があったことになる。いっぽう、九州説を取った場合、邪馬台国は比較的小規模な地方政権の連合だということになる。

九州説を取るか、近畿説を取るかで、邪馬台国とヤマト王権についての考え方が、大きく異なる。

この時代の日本には、階級が奴隷から王まで、あったことが、倭人伝の記述から分かっている。

魏志倭人伝 編集

魏志倭人伝には、つぎのようなことが書かれている。(一部省略)


 『魏志』倭人伝(抜粋)

倭人(わじん)帯方(たいほう)東南(とうなん)大海(たいかい)の中にあり、山島(さんとう)()りて国邑(こくゆう)()す。(もと)百余国。漢の時、朝見(ちょうけん)する者あり。今、使訳(しやく)通ずる所三十国。(ぐん)より()(いた)るには、海岸に(したが)いて水行(すいこう)し、・・・(中略)・・・邪馬台国(やまたいこく)に至る。女王の都する所なり。男子は大小と無く、(みな)黥面(げいめん)文身(ぶんしん)す。・・・租賦(そふ)を収むに邸閣(ていかく)()り。国々に(いち)()り。有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。女王国より以北には、特に一大卒を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。・・・下戸、大人と道路に相逢(あいあ)へば、逡巡(しゅんじゅん)して草に入り、辞を伝へ事を説くには、(あるい)(うずくま)り或は(ひざまず)き、両手は地に()り之が恭敬(きょうけい)を為す。・・・






()の国、(もと)(また)男子を以て王と為す。(とど)まること七、八中年。倭国乱れ、(あい)攻伐(こうばつ)して年を()たり。(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼(ひみこ)()ふ。鬼道(きどう)を事とし、能く衆を(まど)はす。年已(すで)に長大なるも、夫婿(ふせい)無し。男弟有り、(たす)けて国を治む。・・・景初(けいしょ)二年六月、倭の女王、大夫難升米(なしめ)()(つかわ)し群に(いた)、天子に詣りて朝献(ちょうけん)せんことを求む。・・・その年十二月、詔書(しょうしょ)して倭の女王に報じて曰く、「・・・今(なんじ)を以て親魏倭王(しんぎわおう)と為し、金印紫綬を(ゆる)装封(そうふう)して帯方(たいほう)太守(たいしゅ)に付し仮授せしむ。・・・」と。・・・卑弥呼以て死す。大いに(つか)を作る。径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴婢(ぬひ)百余人。更に男王を立てしも、国中服せず、更々(こもごも)相誅殺(ちゅうさつ)し、当時千余人を殺す。()た卑弥呼の宗女(そうじょ)壱与(いよ)の年十三なるを立てて王と為す。国中(つい)に定まる。
(原漢文。『魏書』東夷伝 倭人条)


倭人の国は、多くの国に分かれている。使者が調べたところ、今のところ、30あまりの国である。

【風習について】

男たちは、いれずみをしている。服は、幅の広い布をまとっており、ほとんど縫われていない。女は髪を後ろで結い、服は布の中央に穴をあけ、頭を通して着ている。

稲と紵麻(からむし)を植えている。桑(くわ)と蚕(かいこ)を育てており、糸を紡いで糸を作っている。土地は温暖であり、冬も夏も野菜を食べ、はだしで暮らしている。

下戸(げこ、民衆)が大人(たいじん、権力者)と出会うと、下戸は草むらに後ずさりして、道をゆずる。また下戸が大人に言葉を伝えたりするときは、ひざまずき、両手を地面につける。

【卑弥呼について】

倭国は、もともと男の王が治めていたが、戦乱が長く続いたので、諸国が共同して一人の女子を王にした。その女王の名を卑弥呼という。卑弥呼は、鬼道(「きどう」)で政治を行っている。卑弥呼は成人しているが、夫はおらず、弟が政治を助けている。王位についてからの卑弥呼を見た者は少なく、1000人の召使いをやとっており、宮殿の奥にこもる。卑弥呼の宮殿には、物見やぐら や柵が儲けられており、厳重に守られており、番人が武器を持って守衛している。

卑弥呼が死んだとき、直径100歩あまりの大きな墓がつくられ、奴隷100人がともに葬られた。

(※ 『魏志』倭人伝より抜粋して要約。)

朝見(ちょうけん) - 朝貢し謁見する。
使訳(しやく) - 使節。
鬼道(きどう) - 呪術。
夫婿(ふせい) - 夫。
景初(けいしょ)二年 - 景初3年(239)の誤り。
冢(つか) - 墳丘。
徇葬(じゅんそう) - 殉死(じゅんし)。
宗女(そうじょ) - 一族の女。
壱与(いよ) - 台与(とよ)の誤りとも言われている。

魏志倭人伝は、正式名は『三国志』の『魏書』(ぎしょ)の東夷伝の倭人条。『三国志』は三世紀に普(しん)の陳寿(ちんじゅ)によって編纂(へんさん)された。

  1. ^ 高橋秀樹 ほか著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年10月1日 第2刷発行、P8
  2. ^ 高橋秀樹 ほか著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年10月1日 第2刷発行、P8