戦後恐慌から金融恐慌へ

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第一次大戦中、日本は一時期、好景気になり(大戦景気)、生産量が増えた。

しかし1919年に第一次世界大戦が終わり、しだいにヨーロッパ経済が回復すると、日本は生産過剰になり、日本は不況におちいり、1920年に日本の株式市場が暴落したことをきっかけに多くの日本企業が倒産した(戦後恐慌)。


そのうえ、1923年に関東大震災がおきた。

この被害により、多くの企業は、振り出した手形の決済ができなくなったので(震災手形)、政府は日本銀行に約4億3000万円の特別融資をして、事態をしのごうとした。

1926年に若槻礼次郎(わかつき れいじろう)内閣が成立した。

しかし1927年、議会にて震災手形を処理する審議で、経営難におちいっている銀行名が出されたことから、取り付け騒ぎ(預金の引き出しが あいついで、銀行が資金難におちいる事)が起こり、金融恐慌が始まった。

さらに、大戦景気で急成長した鈴木商店が破産したため、鈴木商店に巨額の融資をしていた台湾銀行が巨額の不良債権をかかえた。こうして、金融恐慌が深刻化したため、若槻内閣は辞職に追い込まれた。

ついで、立憲政友会の田中義一(たなか ぎいち)内閣が成立し、田中内閣は三週間の支払い猶予(モラトリアム)を発して、恐慌をひとまず落ちつかせた。

(なお、田中内閣は、共産主義運動をとりしまり(三・一五事件 および 四・一六事件)、また特別高等警察(特高警察)を設置した。)


このような一連の恐慌により、預金が大銀行に集中したたため、三井・三菱・住友・安田・第一の五大銀行による金融支配が強まった。


張作霖

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張作霖(ちょう さくりん)

中国では、辛亥革命のあと、各地で、「自分こそが中華民国の正当な支配者である」などというようなことを主張する多くの軍閥が、おたがいに、あらそっていた

満州を支配していた中国人は、張作霖(ちょう さくりん)という満州地方で軍閥をひきいていた人物だった。張作霖は、満州および北京を支配していた。

満州の軍閥の張作霖は、日本と協力することで日本を利用して、満州を実質的に支配していた。


いっぽう、中国大陸の南部では、国民党の蒋介石が南京を中心地に支配していた。蒋介石は、アメリカ・イギリスとの外交を重視した。

蒋介石は、中国の統一を目指し、張作霖ひきる北京政府を倒す戦いを始めた。この蒋介石のたたかいを 北伐(ほくばつ) と言う。

田中首相は、満州における日本の権益を守るため、満州軍閥の張作霖を支援し、また、満州の居留民の保護という名目で3度にわたる出兵をした(山東出兵)。

第2次出兵の際には、日本軍が北伐軍と武力衝突した(済南事件(さいなんじけん) )。

日本の関東軍(かんとうぐん)は、張作霖が反日的な態度をとるようになってきたので、関東軍は張作霖を殺害しようと企てる。

蒋介石ひきいる北伐軍が北京にせまってきたので、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は関東軍の陰謀により爆殺される。現代では、この爆殺事件を「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりん ばくさつじけん)などと言う。しかし、当時は真相は国民には知らされず、関係者のあいだで「満州某重大事件」(まんしゅう ぼう じゅうだいじけん)と呼ばれた。

田中首相ひきいる日本政府は、犯人の軍人たちを、きびしく処罰できなかった。首謀者とみられる参謀 河本大作(こうもと だいさく) など一部の関係者を処罰しただけだった。

この事件で、田中首相は天皇に叱責され、1929年に田中内閣は総辞職した。辞職した田中内閣にひきつづいて、立憲民政党の浜口内閣が組閣された。

いっぽう中国では、関東軍の陰謀は裏目に出る。張作霖の息子の張学良(ちょう がくりょう)は日本に反発し、蒋介石ひきいる国民党に合流することになる。

昭和恐慌

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1929年、浜口内閣は、大蔵大臣に井上準之助(いのうえ じゅんのすけ)を起用し、物価を安定させるため、緊縮財政を行った。

また、大戦後に欧米が金本位制に復帰したのにならい、浜口内閣は生前、1930年に、国際競争力をつける目的で、金輸出解禁を行った。(日本は1917年から金の輸出を禁止していた。) (金輸出の禁止状態は実質的に変動相場制であったので、「金解禁をすれば為替相場が安定するだろう」という意図もあった、とも考えられている。)

しかし1929年にアメリカ国ニューヨークでの株価暴落による世界恐慌が起きていて世界経済が急変していたため、日本が値付けた円と金の交換比率の価値が実態にあっておらず、金解禁のあとの円はかなりの円高になっていたこともあり、世界恐慌そのものによる不況に加えて円高による輸出不況の二つの不況を日本は受けてしまい、日本は深刻な不況におちいった(昭和恐慌)。


このような不況の影響を農民は強く受け、米価は下落した。

もともと植民地産の安価な米が輸入されていて米価をはじめ各種の農産物価格が低かったことに加えて、昭和恐慌によって、さらに農産物の価格は下落した。

さらに、アメリカが生糸の輸入を減らしたため、繭(まゆ)価は下落した。

(米価は下がったが、どうも食糧事情などが改善したわけではないようで)1930年は豊作だったが「豊作貧乏」と呼ばれ、翌1931年に東北・北海道で凶作になると、東北を中心に欠食児童や女子の身売りが続出した。

このようにして国民生活は困窮していき、労働争議や小作争議が増加・激化した。


協調外交の挫折

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浜口内閣は、外相に幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)を起用し、協調外交の観点からロンドン海軍軍縮条約を締結した。

しかし軍部は、この条約締結を、統帥権の干犯(とうすいけんのかんぱん)だとして浜口内閣を批判した。

1930年、浜口首相は東京駅で右翼青年に狙撃されて重傷を負い、翌年に死亡した。

同1930年、浜口内閣のあとをついで同じ立憲民政党の第2次若槻礼次郎内閣が成立した。