高等学校日本史B/開国
列強の東アジア進出
編集アヘン戦争で清国がイギリスに負けた情報が幕府にも伝わり、1842年に幕府は異国船打ち払い令を緩和して薪水供与令(しんすい きょうよれい)を発し、外国船には燃料・食料を与えることとした。
しかし、1844年にオランダ国王が幕府に親書を送り開国を勧告しても、幕府は鎖国体制を守ろうとした。
このころアメリカは、清国貿易船や捕鯨船のための寄港地として日本に開国を望んでいた。 1846年、アメリカ東艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航して、開港や通商を要求したが、幕府は拒否した。
日本の開港
編集1853年にアメリカ東インド艦隊司令官ペリー(Perry)が4隻の軍艦をひきいて日本に来航して開国を求め、フィルモア大統領からの国書を幕府に差し出した。
幕府は国書を受け取り、1年後の返答を約束して、ひとまずペリーを帰らせた。
同年7月には、ロシアのプチャーチンも長崎に来航した。
老中首座(しゅざ)の阿部正弘(あべの まさひろ)は、これらの事態を朝廷に報告し、諸大名にも意見をたずねた。
そして翌1854年に、ペリーがふたたび日本に来航すると、幕府は貿易自由化はしなかったものの、かわりに幕府は日米和親条約(にちべい わしんじょうやく)をアメリカと結んだ。
この日米和親条約の内容は、
- 下田(しもだ、静岡県にある)と函館(はこだて、北海道)の開港、
- アメリカ船に燃料や水・食料などを補給すること、
- 難破船(なんぱせん)の救助、
のほか
- アメリカに一方的な最恵国待遇(さいけいこく たいぐう)を与えること。( 最恵国待遇とは、(アメリカ以外の)他国と日本が交渉して他国が権利を獲得したら、アメリカにも、それと同等の権利を与えなければならないという取り決めのこと。)
などである。
ついで幕府は、イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を締結し、こうして日本の鎖国は終了し、日本は開国した。
つづいて、下田に着任した初代アメリカ総領事ハリスは、日米間の自由貿易のための通商条約の締結を幕府に強く要求した。
(日米和親条約は自由貿易については規定していない。)
老中 堀田正睦(ほった まさよし)は、イギリスの脅威を説くハリスの圧力におされて通商条約の許可(勅許)を朝廷に求めたが(※イギリスの脅威うんぬんは第一学習社『日本史A』の見解)、しかし攘夷主義者の多い朝廷は反対し、調停からの許可(勅許)は下りなかった。
このころ、1858年にアロー戦争(第二次アヘン戦争)で清国がイギリス・フランス連合軍に敗退し、ますます日本の周辺では欧米の影響力が強まった。
1858年4月に大老になった井伊直弼(いい なおすけ)は、勅許(ちょっきょ)を得ないまま、同年6月に日米修好通商条約に調印した。ついで幕府は、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ(安政の五か国条約)。
日米通商条約では、日本の関税自主権を認めておらず、領事裁判権(治外法権)の承認など、日本が不利な点も多い。
しかし、アヘンの輸入禁止、外国人の日本国内の自由な旅行の禁止などを、認めており、アヘン戦争で敗退した清国がヨーロッパ列強と結ばされた条約と比べると、日本に有利な点もある。
日米修好通商条約の内容は、
- 神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と、江戸・大坂の開市。
- 自由貿易。
- 開港場に居留地を設定する。なお、外国人の国内旅行は制限される。
- 関税は相互で協定して決め(協定関税)、日本に決定権が無い(関税自主権の欠如)。
- 領事裁判権(治外法権)の承認。
などである。
(※ 高校の範囲: 参考)なお、日米通商条約の第4条では、日本へのアヘンの輸入を禁止している。同じく第4条にある別の規定により日本は関税自主権を失った(※ 帝国書院の高校「歴史総合」で紹介あり)。一見すると、関税自主権の喪失だけを見れば第4条は日本に損な条文をアメリカが押し付けたかのように見えるが、しかしアヘンの禁止の規定も同じ第4条であることなどまで合わせて考えると、解釈はそう簡単ではない。歴史にはこのように色々な側面もある。
貿易の開始とその影響
編集通商条約にもとづき、開港がされ、開港場には外国人の居留地がもうけられ、外国人商人と日本人商人との間で貿易が行われた(居留地貿易)。
最大の貿易港は横浜であり、最大の貿易相手国はイギリスであった。
主要な(日本からの)輸出品目は、生糸(きいと)や蚕卵紙(さんらんし)、茶であった。
輸入では、毛織物・絹織物や、武器や艦船などの軍需品であった。
当初は、輸出が輸入を上回った。
国内経済では、流通魍が大きく変わることとなり、それまでの江戸を中心とした流通システムは解体されていき、生糸などの輸出品は横浜に商品が集まるようになった。
幕府は、江戸中心の流通システムを保護をするため、1860年に五品江戸廻送令(かいそうれい)を出して生糸・雑穀・水油・蝋(ろう)・呉服は江戸の問屋を必ず通すように定めたが、外国と地方商人からの反対により、効果は出なかった。
また、金銀の交換比率の日本と列国との違いから、金(きん)が海外に流出した。幕府は金流出をふせぐため小判の改鋳を行い、新小判での金の含有量を下げた(万延改鋳)。改鋳により貨幣価値が下がったためもあり、物価は上昇した。
幕府内の政局
編集ハリスと通商条約の交渉をしていた頃、幕府内では、13代将軍・徳川家定(いえさだ)に子がなく、いわゆる将軍継嗣問題が起きていた。おもに越前藩主・松平慶永(よしなが)といった親藩や、薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)といった外様大名らは賢明な人物を求め水戸藩主・徳川斉明(なりあき)の子であった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)を推し(一橋派)、一部の譜代大名らはより当時の徳川将軍家(徳川宗家)に血統が近かった紀伊藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を推した(南紀派)。大老に就任した井伊直弼は、慶福を支持し、慶福を将軍継嗣とした(のちの14代将軍・徳川家茂(いえもち))。
しかし、強引な将軍継嗣決定や通商条約の無勅許調印に不満を抱く一橋派や尊王攘夷派は井伊を批判したため、井伊は一橋派や尊王攘夷派を弾圧した(安政の大獄)。これにより、徳川慶喜および一橋派の徳川斉昭・松平慶永らは謹慎を命じられた。また、越前藩士で思想家の橋本佐内(はしもとさない)や長州藩士の吉田松陰(よしだしょういん)らが処刑された。
1860年、このような強硬な弾圧に憤激した水戸脱藩浪士らにより、井伊直弼は江戸城桜田門外で登城中のところを襲われ、暗殺された(桜田門外の変)。
公武合体
編集桜田門外の変ののち、幕政の中心となった老中安藤信政(あんどうのぶまさ)は、幕府の権威を回復するために、朝廷(公)と幕府(武)の融和を図った(公武合体(こうぶがったい) )。幕府は孝明天皇の妹である和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)を将軍徳川家茂の妻として迎え入れた。しかし、尊王攘夷派はこれに反発し、安藤は江戸城坂下門外で水戸藩の浪士に襲撃されて傷を負い、こののち老中を退いた(坂下門外の変)。
尊皇攘夷運動の挫折
編集薩摩藩では、藩主の父である島津久光が公武合体論を支持し、1862年には上洛して藩内の急進的な尊皇攘夷派を弾圧した(寺田屋事件)。そして勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)を奉じて江戸に下り、幕府に対して政治改革を要求した。幕府はこれに応じて、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁職に任命し、参勤交代を緩和した(文久の改革)。この帰途、薩摩藩の行列をイギリス人が横切り、薩摩藩士がそのイギリス人を殺傷する事件が起こっている(生麦事件)。
島津久光が去ったあとの朝廷は、長州藩が主導権を握り、将軍を上洛させて孝明天皇の攘夷祈願のための賀茂社行幸に従わせ、幕府に対して攘夷を実行するように強く要求した。将軍家茂は1863年5月10日に攘夷を決行することを天皇に伝え、また全国の藩にこれを命じ、長州藩は攘夷決行の日に、下関の海峡を通過した外国船を砲撃した(下関事件)。
これら尊皇攘夷派の動きに対して、1863年8月18日、薩摩藩と会津藩は、公武合体派の公家と協力して長州藩と三条実美(さねとみ)ら7名の公家を京都から追放した(八月十八日の政変、文久の政変)。
翌1864年7月、新撰組(しんせんぐみ)が京都の旅館池田屋で尊皇攘夷派の浪士を殺傷する池田屋事件が起きると、長州藩は京に兵を進めて勢力回復を図ったが、御所外郭門の蛤御門(はまぐりごもん)で会津藩・薩摩藩・桑名藩によって撃退された(禁門の変、蛤御門の変)。
これを理由に、幕府は長州藩征討の詔を奉じて1984年7月に軍を起こした(第一次長州征討、第一次長州征伐)。この頃、長州への報復の機をうかがってたイギリス・フランス・オランダ・アメリカなどの列国が連合艦隊を編制して下関を砲撃して、下関側の砲台を占領した(四国艦隊下関砲台占領事件)。この結果、長州藩は尊攘派にかわって幕府恭順派が主導権をにぎり、戦闘が起こる前に、長州藩は幕府に降伏した。外国からの攻撃を受けて長州藩は攘夷が不可能であることを悟り、以降開国論が主流となった。
一方、薩摩藩はこれより前の1863年に、生麦事件の報復として1863年にイギリス軍艦に攻撃され、敗北していた(薩英戦争)。薩摩も、こうして攘夷の無理を悟り、開国派に転じた。さらにイギリスは、これを契機に薩摩藩に接近し、幕府にかわる雄藩連合政権の可能性を探るようになった。
薩長の連携
編集1864年、長州藩の高杉晋作(たかすぎ しんさく)が奇兵隊(きへいたい)をひきいて挙兵して、長州藩は内戦となり、高杉が勝利して藩内の保守派から実権をうばう。( 奇兵隊は、1863年に高杉らによって組織された軍隊。奇兵隊は、身分にとらわれずに百姓や町人も兵士として含む、志願制の部隊だった。) そして長州では、高杉晋作や木戸孝允(きど かたよし)が藩政を指揮したため、長州藩の方針は開国倒幕になった。
そして長州は大村益次郎(おおむら ますじろう)を登用し、洋式の軍制にもとづく軍事改革を行った。
いっぽう薩摩藩では、西郷隆盛(さいごう たかもり)や大久保利通(おおくぼ としみち)が実権をにぎるようになり、イギリスから武器を輸入するなどして、薩摩は軍備の増強につとめた。
幕府は1865年、長州追討の令を出した(第二次長州追討令)。しかし、1866年1月、ひそかに薩摩藩と長州藩は、土佐藩脱藩浪士の坂本竜馬(さかもと りょうま)や中岡慎太郎(なかおか しんたろう)の仲介のもと同盟を結んだ(薩長同盟)。
そして同1866年4月に幕府と長州との戦闘が始まるが、西洋式軍備の長州軍に幕府は各地で敗北を重ね、将軍家茂の急死もあり、休戦になった(第二次長州戦争)。
このころ、「世直し」をとなえた農民一揆が、全国各地で起きていた。また、大坂や江戸で、打ちこわしが起きた。また、1867年には「ええじゃないか」と民衆が熱狂する騒ぎが起きた。
大政奉還
編集1866年10月8日(慶応2年8月30日)公卿(くぎょう)・大原重徳(おおはら しげとみ)ら22名が、八月十八日の政変、禁門の変、長州征伐のあいだ孝明天皇により朝廷を追放された公家の政権復帰と朝廷改革を求め、御所(ごしょ)に押しかける騒ぎを起こした(廷臣二十二卿列参事件(ていしん にじゅうにきょう れっさんじけん))。こうしたなか、1867年1月30日(慶応2年12月25日)孝明天皇は満35歳で没し[1]。、1867年2月13日(慶応3年1月9日)明治天皇が満14歳で位についた。
江戸幕府第15代征夷大将軍についた徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、1867年フランスやイギリスの援助を受けながら陸軍・海軍の近代化をおこない、官僚制度の合理化をはじめた(慶応の改革)。また行政改革を進め、諸藩の大名をいれた議会制度である諸侯会議(四侯会議)を開き、朝廷の勅許(ちょっきょ)をとって兵庫を開港した。
一方、薩摩藩は幕府と対立し、江戸や関東一帯で一般市民への放火、強盗、辻斬りなど騒擾テロリズムによる挑発作戦をおこなった。薩摩は長州とともに討幕を決意し、薩摩藩士・大久保利通(おおくぼ としみち)や公家(くげ)・岩倉具視(いわくら ともみ)らが画策して、公家・中山忠能(なかやま ただやす)、三条実愛(さんじょう さねなる)、中御門経之(なかみかど つねゆき)らと連署した討幕の密勅を同年10月13日と14日、それぞれ薩長両藩に送った[2]。
土佐藩は公武合体の立場をとり、前藩主・山内豊信(やまうち とよしげ)を通して将軍徳川慶喜に、討幕の機先を制して政権を朝廷に返還することを勧めた。慶喜はこの策を受け入れ、10月14日大政奉還を朝廷に申し出て、うけいれられた。
機先を制された薩長は、同年12月9日に朝廷を武力で制圧して宮中クーデターを起こし(※ 山川出版や清水書院の見解)、王政復古の大号令を発して、明治天皇(当時満14歳)のもとで、前将軍で内大臣である徳川慶喜抜きの新政府樹立を宣言した。新政府は将軍、摂政・関白を廃止し、新たに天皇のもとに総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職を置いた。
さらに同9日夕方の小御所会議(こごしょ かいぎ)で、慶喜の内大臣辞任と領地の一部返上が決定された。この決定に慶喜は二条城から大阪城へ引きあげた。同23日夜、薩摩は庄内藩の屯所で殺傷事件を起こし[3]、同25日、幕府は薩摩藩に騒擾浪人たちの引き渡しを求めたが薩摩側が拒絶したため、庄内藩らによる江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きた。 翌1868年1月、慶喜が朝廷から御所へ直接くるよう言われ先供(さきども、主人の先に立って歩く人)を送ると新政府軍から攻撃を受け鳥羽・伏見の戦いとなったが[4]、新政府軍が勝利した。
慶喜は海路で江戸に帰ると、新政府が慶喜を朝敵として追討軍を派遣し、追討軍は江戸城に迫った。慶喜の命を受けた勝海舟(かつ かいしゅう)と追討軍指揮官の西郷隆盛との交渉により、江戸城は無血開城された。
江戸城の開城後も、東北・新潟の諸藩は奥羽列藩同盟を結成し、新政府から朝敵とされた徳川慶喜を庇い、会津藩主・松平容保の助命を嘆願した。新政府軍は北上して奥羽越列藩同盟軍と戦い、1868年には新政府軍は会津城を攻め落し、翌1869年5月には函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)に立てこもった旧幕臣の榎本武揚(えのもと たけあき)を降伏させた。
これらの1年ちかくの内戦のことを戊辰戦争(ぼしん せんそう)という。
- 相良総三(さがら そうぞう)の赤報隊
相良総三(さがら そうぞう)の赤報隊(せきほうたい)は、民衆の支持を得られるように年貢半減を掲げて進撃した。しかし、財政難に苦しむ新政府は、相良らを「偽官軍」(にせ かんぐん)として処刑した。
発展: 幕府側の西洋知見
編集(※ 一部(山川出版)の教科書でしか紹介してない。)
反射炉が 〜
勝海舟が、〜
咸臨丸(かんりんまる)が
(ばんしょしらべどころ)
へボンが 〜
出典
編集- ^ 孝明天皇は疱瘡(ほうそう)をやみなくなったが、病状が回復しつつあった時の35歳時の急死で、討幕派による毒殺の可能性が高いコトバンク「孝明天皇」、『改訂新版 世界大百科事典』『日本大百科全書(ニッポニカ)』『旺文社日本史時事典 三訂版』『百科事典マイペディア』
- ^ 討幕の密勅は天皇の直筆もなければ、三条や中御門らの花押(かおう)もないなど、勅諚(ちょくじょう)としては書式が整っておらず、摂政(せっしょう)・二条斉敬(にじょう なりゆき)や天皇の正式なゆるしを得ていない討幕派が捏造(ねつぞう)した偽勅(ぎちょく、偽文書)と解されている。コトバンク「討幕の密勅」、『山川 日本史小辞典 改訂新版』『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』『日本大百科全書(ニッポニカ)』『旺文社日本史時事典 三訂版』『デジタル大辞泉』
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻4、第三十一章 「鳥羽伏見の変」竜門社、1918(大正7)年、246-247頁。 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻4、第三十一章 「鳥羽伏見の変」竜門社、1918(大正7)年、277頁。国立国会図書館デジタルコレクション