高等学校日本史B/高度経済成長の日本
- ※ 高度経済成長とは何かについては、中学で習ったとおり。高校の検定教科書でも、いちいち「高度経済成長」の意味は説明していない。
高度成長に至るまで
編集経済復興期
編集1950年、朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ軍を中心とする連合軍からの特需(とくじゅ)が発生し、日本は不況を脱した。
1951年には、国民総生産(GNP)が戦前の水準を取り戻した。
1950年代に日本はIMF(国際通貨基金)とGATT(ガット、関税および貿易に関する一般協定)に加盟した。
また、1955年以降には米(こめ)の大豊作がつづき、食糧難も解消していった。
そして1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と記述されるまでに景気回復した。
なお、1955年には、労働運動において、総評が中心となって、各産業の労働組合がいっせいに賃上げ要求をする「春闘」(しゅんとう)方式が始まり、しだいに一般的になった。(※ 毎年、春に賃上げ要求をするので、「春闘」という。)
高度経済成長
編集一般に、1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と記述された頃が、高度経済成長の開始の時期とされる。
1955〜57年の当時は「神武景気」と言われていた。その後も好景気が続いたので、1958〜61年の好景気を「岩戸景気」といった。
所得倍増の時代
編集1960年に池田勇人(いけだ はやと)内閣が成立した。
池田内閣では、親米政策のもと、革新勢力(社会党・共産党などの事)との対立を避け、(その意味か)「寛容と忍耐」をとなえ、また、すでに始まっていた高度経済成長による「所得倍増」をスローガンにかかげた。
- ※ 「忍耐と寛容」は英単語 tolerance (トレランス)の意味に近い。高校英語の単語集で普通に習う英単語である。
1955(昭和30)年から1973年まで、経済成長率が年平均10%ほどという高い率で、景気後退年でも5%ていど以上という高い水準だった。 そのため、1955年から1973年ごろまでを「高度経済成長」という。
1968年には日本のGNPが旧・西ドイツを抜き、アメリカについで日本が世界の資本主義国でGNP第2位になった。
高度経済成長期の好景気としては1955〜57年の神武景気、1959〜61年の岩戸景気、1963〜64のオリンピック景気などがある。
また、1949年に設定された1ドル=360円の固定レートが外国にとっては日本円が割安であり、そのことが日本からの輸出に有利だった。
また、高度成長期に、企業による設備投資が進み、工業化が進んだ。
そのような企業の設備投資の資金源には、銀行から貸し出された資金が使われた。
この高度成長のころから、太平洋ベルトに工場が集積していった。「投資が投資を呼ぶ」と言われるほど、設備投資が盛んだった(※ 現代社会の検定教科書に、「投資が投資を呼ぶ」の記述あり)。
また、農村出身の若者が、集団就職で、都会に移住した。通説では、高度成長の原因のひとつは、教育の普及により勤勉で良質な労働力が供給されたことが理由だろう、と言われている。 一方、しだいに都市部で住宅不足などが起こりはじめ、渋滞や過密化などが起こるようになった。
なお、この当時の就職しはじめの20代前後の若者とは、戦後のベビーブームの時期(1947〜1949年)に生まれた「団塊(だんかい)の世代」である。この当時は、大学進学率が低く、中卒や高卒で就職するのが一般的であり、この世代の中卒・高卒の労働者は「金の卵」と言われた。
さて、戦前は日本の製品は品質が低いと国際的には見なされていたが、高度成長のころから、日本企業が国際的な競争力をつけていった。
なお、石炭から石油へのエネルギー革命が、日本では、この高度成長期に起きた。
- 貿易の自由化
1960年代、日本では貿易の自由化を求める声が高まり、それまでの輸入は政府の許可制だったが、1963年にGATT11条国(ガットじゅういちじょうこく、意味: 国際収支の悪化を理由には輸入数量の制限ができない国)になり1964年にIMF8条国(意味: 国際収支を理由には為替制限ができない)になった。(なお1964年は、東京オリンピック開催の年でもある)
このようにして、日本はIMFーGATT体制に入り、また、日本では貿易がしだいに自由化されていく。
未分類
編集農村と都市
編集戦時中に制定された食糧管理制度による所得保障による農家保護が、戦後もつづき、さらに米価も値上げしたので、農家は裕福になっていった。なので、戦前のような貧しい農業の問題は、ほぼ解決した。(なお、政府は1961年に農業基本法を制定した。)
しかし、それでも人々の多くは農業に就職するより製造業などに就職することを目指し、都市に人口が流入していき、一部の農村は過疎化をしていった。また、兼業農家も増加していった。
いっぽう、都市では、人口の流入によって過密化していき、都市郊外にニュータウンや団地が造成されていった(スプロール化)。また、家族形態では核家族が一般的になった。
都市では、渋滞や大気汚染、騒音などで、生活環境が悪化した。
この頃、公害の問題が深刻化した。
- ※ 四大公害裁判、公害対策基本法、環境庁については、中学で習ったとおり。
地方自治
編集地方自治では、大都市では革新系政党(社会党など)の首長(革新首長)が増えていった。いっぽう、農村では、保守系政党(自民党)が支持されることが多かった。
東京都では社会党や共産党が推薦する美濃部亮吉(みのべ りょうきり)が1967年に都知事に就任した。
1970年代には、京都や大坂でも革新系の首長が誕生した。
なお、革新系の首長をもつ自治体のことを、革新自治体という。(たとえば、1967年以降の東京はしばらく革新自治体である。)
その他
編集- エネルギー革命
この頃までに、エネルギー源が石炭から石油にほぼ変わっていった(エネルギー革命)。
- 流通革命
1960年代には小売業でスーパーマーケットが普及した。
1954年には日本で100軒だったスーパーマーケットが、1959年には1000軒をこえた。(参考文献: 山川出版社『もう一度読む 山川 戦後日本史』、2016年1版、115ページ、)
なお、のちの1970年代前半に、スーパーのダイエーが売上高(うりあげだか)で百貨店の三越(みつこし)を抜いて、ダイエーが小売業界で売上高で日本一になる。
すでに戦前の1930年代には、中小の商店を保護するための法である百貨店法(※ 内容は、デパートなどの大型商店を規制する法律)が存在している。けっして戦後のダイエーの躍進で、大型商店の規制が法制定されたわけではない。1974年には、百貨店法が廃止され、かわりに規制強化をした大規模小売店舗法が制定された。(大規模小売店法は一般に「大店法」(だいてんほう)と略される)
- ※ センター試験2018年の日本史Aの本試験で、「百貨店法」の記述が問題文中にある。
現在では「大規模小売店舗立地法」によって(※ 法律名に「立地」が加わってる。本書では区別のため「大店立地法」とする)、スーパーやデパートなどの大規模な商業施設は、法規制を受ける。
この「大規模小売店舗立地法」は、1998年6月に制定され、2000年6月から施行された。それにともない、かつての大規模小売店舗法(旧・大店法)は2000年に廃止された。(※ よく、勘違いで「(2001年からの)小泉純一郎内閣が、大店法を規制緩和した」などの誤解がある。しかし、けっして、それは勘違いであり、1998年6月の内閣は橋本龍太郎(はしもと りゅうたろう)内閣である。2001年からの小泉内閣では、大店立地法の改正は行っていない。)
旧・大店法では、デパート等を出店したい大企業は地元商店街の意見などを聞く必要があり、そのため大企業などから政府に法改正を求められていたり、90年代にはアメリカ政府から大店法は外資参入をさまたげる規制でありWTO違反だと日本政府が批判されたりしたので、2001年に廃止になり、かわりに「大規模小売店舗立地法」が制定された。
- (※ 今のところ範囲外: )スーパーやデパートの話のついでにいうと、日本では西暦2000年ころから大型ショッピングセンター(「アウトレットモール」などとも言われる)が普及し始めた[1]。(※ そのうちこれも歴史の教科書に載るだろうから、先手を打って書いておく。)デパートとは違い、ショッピングモール(shopping mall [2])は建物が横に広いつくりをしているのが特徴である。
- その他
高校への進学熱も高まり、
また、大学では、「学園紛争」と呼ばれる、デモ行為が起き始めた。
このような高度経済成長によって、多くの人々は自分たちが経済的に豊かになったと感じ、もはや自分は貧乏人ではないと考えて、中流意識をもつようになった。
- 消費革命
テレビの本放送が1953年に始まると、1950年代後半には洗濯機・冷蔵庫・テレビなどの「三種の神器」といわれた家電も普及していった。
- 文化
1953年にはテレビの本放送も始まった。
スポーツでは、野球が流行した。また、テレビ中継などを通して、野球のほかにもプロレスなども流行した。
この結果、長嶋茂雄(ながしま しげお)や力道山(りきどうざん、プロレス選手)が、人気のスポーツ選手になった。
テレビの影響もあって、(※ 読売巨人の)長嶋茂雄や王貞治(おう さだはる)が人気選手となった。
- ※ いくつかの教科書でも紹介しているが、歌手の 美空ひばり(みそら ひばり) が有名になり始めた時期も、この頃の時代。
また、マンガも流行し、長谷川町子(はせがわ まちこ、『サザエさん』原作者)や手塚治虫(てづか おさむ、『鉄腕アトム』原作者)などが人気となった。
この頃、子供向けのマンガ週刊誌が誕生した(1959年の『少年サンデー』など)。
週刊漫画でなくても良いなら、サンデー以前からも漫画雑誌は存在する。講談社の月刊少女漫画雑誌『なかよし』(1954年創刊)のほうが、1959年創刊の週刊『少年サンデー』よりも古い。『なかよし』は21世紀まで現存した雑誌の中では最古であるとされる。なお、20世紀中に廃刊してしまった雑誌も含めれば『少年画報』(少年画報社)の1948年創刊のほうが、さらに古い。少年画報社とは、現在では『ヤングキング』などの雑誌を出版してる会社。)
サンデーは、べつに漫画雑誌の創刊そのものの行為は日本初ではないので、勘違いしないように。あくまで、週刊ペースの漫画雑誌として、サンデーは日本初なだけである。
1950年代には特撮怪獣映画の『ゴジラ』が1954年に映画公開され、話題になった(※ 2018年度センター日本史Aの問題文。)。 この作品のできた背景は、太平洋戦争中の広島・長崎の原爆投下や、1946年の太平洋ビキニ沖原水爆実験である。(アメリカなどの原水爆実験がビキニ沖で50年代にあった事は、背景ではない。なぜなら、アメリカによるビキニ沖原水爆実験の年度(1954年3月1日)や、その結果の第五福竜丸の被爆事故の年(1954年3月1日)と、ゴジラ放映は同じ年である。アメリカは40年代にもビキニ沖で原水爆実験を行っており、そちらのほうが『ゴジラ』の背景。)
- ※ 市販の資料集教材や、一部の検定教科書で、1950年代の『ゴジラ』を紹介している。
また、1960年代にはアニメーション版『鉄腕アトム』などが放映され、人気となった。(※ なお、アニメ版『鉄腕アトム』は、国産では日本初の長編テレビアニメ番組であると考えられている。1963年に『鉄腕アトム』が初放映された。CMアニメなどの短編アニメや非テレビの映画アニメなら、鉄腕アトム以前からある。詳しくは『中学校社会 歴史/検定教科書で紹介されているコラム的話題など』を参照。)
アトムのテレビアニメ放映の年代(1960年代)よりも、特撮映画であるゴジラの映画公開の年代(1950年代)のほうが、先である。つまり、テレビアニメの制作は、それだけ難しかったようだ(アニメそのものの制作の難しさや、テレビ受像機の普及の問題などがあろう)。
文学では、純文学では大江健三郎(おおえ けんざぶろう)が有名になった。
また、大衆小説では、推理小説などで松本清張(まつもと せいちょう)が人気になり、歴史小説で司馬遼太郎(しば りょうたろう)が人気になった。
音楽では、ポピュラー音楽では1960年代にフォークソングやロック音楽が日本でも流行しはじめた。(※ 範囲外: 当時は「ロックは不良の音楽」とか言われてたらしい。)(ビートルズ来日は1966年の出来事であり、60年代の出来事である。)
その他
編集民主社会党が1960年に結成された。なお結成の経緯は、社会党が分裂して、出ていった側の政治家が結成したのが民主社会党である。(民主社会党は、のちの1969年に「民社党」に改名する。)
ほか、公明党(こうめいとう)が1964年に結成された。なお公明党は、宗教法人の創価学会(そうかがっかい)を基盤とする政党である。