高等学校美術I/スケジュール管理
スケジュール管理など
編集絵の練習法には色々とありますが、高校卒業後でも練習できる事は、高校卒業後に回しましょう。
高校在学中でないと実行が困難なのは、石膏デッサンや、人物デッサンなどです。
もし画塾などに行くと、短期間のコースでも数万円は掛かってしまいます。
名画の模写やマンガの模写などといった模写は、卒業後にも可能ですし、自宅の自室で可能です。なので高校卒業までは、家庭での絵の練習では、あまり模写に深入りしないようにしましょう。
「模写をするな」とは言いませんし、模写は勉強にもなりますが、しかし卒業後にいくらでも低価格で模写は可能なので、できれば模写練習は後回しにするほうが効率的です。よほど興味をそそらえた絵でない限り、模写はしなくていいでしょう。
古典名画の画集なども、近隣の図書館をいくつか回れば、たぶん置いてありますので、わざわざ在学中にあせって画集を読む必要もないと思います。
ただし、授業などで模写をする場合は、希望すれば教員からの指導を受けられる機会があったり、仮に教員から個別の指導が無くても校内での展覧などの機会もあったりして刺激になるので、その授業を受ける経験は決して無駄にはなりません。
校内の風景画は、卒業後は部外者立入禁止になるので実行が難しくなりますが、しかし、書籍の写真集などで美術家むけの学校背景などの写真集があるので(いくつかの書店で美術書のコーナーをさがせば、大体は売っています)、そういう写真集で同等の練習が低価格で可能です。
また、家の周囲の風景画は、卒業後にいくらでも書けるので(自宅が存在している限り。借金などで自宅を手放さないかぎり)、自宅のスケッチなどは卒業後で十分です。
ともかく、高校の在学中にしか出来ないことを優先しましょう。
たとえ大学進学しても、一般の大学には美術室は無いのです。仮に美術部の部室があっても、石膏像などは置けなかったりします。大学では、そもそも美術部があるかどうか、仮に美術部があっても専用の部室があるかどうかすら不明です。
美術Iまでしか履修しない高校の場合、石膏デッサンの授業を受けられない可能性がありますが、当wikiの知ったことではありません。そういう高校に進学したのは、あなたの意志ですので、あなたが今後どう絵と付き合うかと一緒に考えてください。あなたの地域にそういう教育カリキュラムの高校しかないとしても、それはあなたの地域の美術教育の限界ですので、ガマンしてください。
イラストレーターなどで、べつに石膏デッサンを高校在学中にしなくても、絵の上手い人はいます。また、デッサンの授業はすでに義務教育で、身の回りの小物デッサンとか、同級生の顔デッサンなど、ある程度は受けています(中学の授業では「デッサン」と呼んでなかったかもしれませんが、中学教師向けの美術教育書では、小中学校の美術実習であつかう身の回りの小物デッサンとかも「デッサン」に分類しています)。
美術Iまでしかなくて石膏デッサンの授業が受けられない高校の場合、そのぶん、他の教科の授業が多めに受けられているので、そういう利点もあります。すべての教育がそろった教育環境なんて、無いのです。
技法書や教本、美術史などを勉強するのも、後回しで、かまわないでしょう。なぜなら書籍を読むのは卒業後にも低価格で可能だからです。どこの地域の図書館にも、図書館をいくつか探せば、美術史の本や、美術技法書などはあります。無ければ、図書館に購入してもらえば済みます。仮に地元の市の図書館にその本がなくても、取り寄せなどが可能です。
本wikiを書くために多くの美術書がwiki編集者によって読まれましたが、高校生は決してそういった美術書をwikiの真似して読む必要はありません。高校生は、実際に校内で絵を描くことを優先し、美術科の教員に絵を見てもらうことを優先してください。
商売人のポジショントークに騙されないように
編集作家などの産業は、膨大な時間を、作品に投入しています。
それはそれで、彼らの仕事としては当然です。どの仕事も、平日の朝から晩の午後の5時や6時まで(場合によってはそれ以降も)、仕事をしているので。
しかし、しばしば、世間での作品の良否の基準が、あたかも投入時間になります。「細かい絵だから凄い」みたいな。
しかし、作家でもなければ作家志望でもない学生は、そんなに多くの時間を投入できません。
膨大な創作の経験にもとづく作品は、それはそれで評価すればよいと思います。そういう経験者を見抜ける目利き(めきき)的な人も、それはそれで必要な場面もあると思います。
しかし作家志望でもない人が、その投入時間の基準にしたがう事はありません。そんなのは進学校でも行われていません。むしろ私立の進学校では、部活などにウツツを抜かしていると、学校側から戒め(いましめ)られる学校も、私立によっては存在しているほどです。
進学校の部活指導では「少ない時間で、効果をあげるように、集中して(工夫して)練習しろ」などと指導されるくらいです。
ビジネスでも、アメリカ外資が次々と新しいコストカットの方法を考えてる一方、日本企業は末端をサービス残業させることしか思いつかないんだから、そりゃ勝てるわけない。東南アジアレベルに落ちるのも当然。
プロ志望者でもない人は、たとえば趣味のテニス・サークルなどと同じように、芸術にも触れましょう。
プロのテニス選手を褒めるように、プロの芸術家も褒めれば良いと思います。決して、プロをけなすべきではないでしょう。プロには敬意を払うべきでしょう。
しかし、プロ志望でもない人が、それを自分でも真似る必要はないでしょう。そういう距離感が必要です。
どうも芸術の世界は、しばしば、そういう距離感が保ててない業界のようです。
画商みたいな商売人に都合のいい言説といったポジション・トークには、左右されないようにしましょう。言論の自由があるので、そういうポジション・トークにも自由がありますので、口をふさぐ事はできませんし、ふさいでもいけません。リテラシーが必要です。
限られた時間のなかで、効果的に、自分に必要な知見を得る簡単な方法が、
- 「実際にやってみる」
です。
たとえば、アニメ絵なら、「実際に動かしてみる」です。ヘタでも構いません。
どんなに上手いアニメ作家の絵の1枚のアニメ絵を模写するよりも、実際に絵を6枚でも動かすほうが、得られる知見は大きい場合が多い。
マンガなら、2コマ漫画でも良いので、実際に描いてみる(ただし、ネタが思いつけば)、などのように。
作品を他人に見せたりするのは、単に、「得られた知見が、どの程度、正しいか」「第三者にも通用する再現性があるか」などの確認の手段です。もし他人への再現性を気にしないなら(ただし、プロ志望なら気にする必要があるでしょうが)、わざわざ、他人に見せる必要もありません。実際、文化祭で作品を発表する文化部の高校生だって、わざわざネットに作品をアップロードしない人も多くいます。ネット住民への対応が面倒だから、です。
特に模写などだと、著作権などの都合もあって、ネットにアップロードするのも面倒です。
また、芸術科目が選択科目である理由もそうでしょう。なにか表現に関する検証したい仮説が無いのに、練習をしても、効果がうすい。「やみくもな練習」になりやすい。特に石膏(せっこう)デッサンなどの、抽象的な練習はそうです。だから、あまり受動的な練習環境を用意しない。抽象的な練習は、能動的に練習しないと効果がうすいのでしょう。
私たちは、最終的には、現実社会の中で生きる必要があります。
現実でない創作物の世界は、それの表現を練習してみるのは、大多数の人にとって、単に手段にすぎず、現実世界を普段とは別の角度から見るための手段です。
「村外れの変人」みたいなもんです。村のなかにいると見えない光景を、村外れから見てみる、という事。当事者よりも第三者の視点で物事がよく分かることを「岡目八目」(おかめ はちもく)と言います。
ただし、実際には、当事者の視点も必要です。しかし、当事者の視点だけでもダメです。
掛け算のようなものです。
「現実の知見」×「岡目の視点」
この掛け算で、私たちは、現実世界を見ていって、確認していくしかありません。
一般人には、村外れから村を見ることに意味があるのです。単に、村外れのまま、村外れの内部を見ていても、それは単に同じ光景を見続けているだけです。
サヨク芸術家の文化人にかぎらず学者とかの知識人でも、よくあることですが、ポジショントークを言ってるだけなのに、なにか道徳的な事を言っているつもりの人々もよくいます。
「もっと文化を振興すべきだ。そのために補助金を出すべきだ」みたいなのです。
自分の仕事以外はさんざん、「国際競争をするべきだ。淘汰されるべきだ」とか言うくせに、自分の職場が淘汰されるのだけは嫌いな、ご都合主義のことを言っている人たちは多いのです。
芸術と左翼
編集- ※ このページより適切なページがあるかもですが、他にとりあえず、一時的にここで保管。
芸術は、その性質からか、左翼の巣窟になりやすい。
ここでは抽象芸術の話だとします。
学生運動などが盛んだった昭和の高度成長の頃、
資本主義を敵視する若者は、経済学を敵視して、その結果、文学(ここでは小説や詩など文芸の学問の意味)や歴史学などに流れた者もいます。
芸術も、それに近いところがある。
左翼の裏には、さらに外国がいたり、キリスト教などの海外の宗教がある事もあります。宗教美術とか典型です。
中国文化をあつかった美術など、間接的に、あるいは直接的に、中華人民共和国が支援していたり、等といった事も、過去には、ありえたでしょう。
別に悪いことではなく、日本から海外に伝達される文化だって、日本の思想や宗教(神道や仏教など)を背景にしているのだし、仏教美術はもともと海外美術ですし、なんら悪い事ではありません。
ですが、そういう背景があることもまた、リテラシーとして把握はしておきたいものです。
左翼など、弱者保護が行き過ぎて、有名人や富裕層の子供で障害者だと、ありもしない芸術の才能を見出されたりしがちです。音楽家の坂本龍一が、有名人の子弟でデタラメにピアノを弾いて作曲家を名乗っている子をボロクソに罵りましたが、坂本は立派です。
世の中には、真偽と美醜(びしゅう)の区別がつかない人がいて、彼らは思想の影響を受けます。
マンガ家の小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』からの報告なのですが、
1990年代後半~2005年くらいに小林の政治主張が変わったら、いままで小林の絵を褒めていた人が、急に「小林は絵がヘタになった」とか言い始めたと、あります。
世間一般的に、この手の、自分の好き嫌い と 世界の真偽 の区別のつかない人物は、大脳の指令によって思考が決まるのではなく、小脳あたりが発する快不快という本能的なシグナルによって論理が本能に制御されてしまっているので、まったく「私が不快に思う」&「だが論理的には正しい」という思考ができない人が多いのです。だから「自分が不快に思うことは絶対に正しくない」と考えてしまう生き物です。
まるで現代人に進化できなかったネアンデルタール人です。この手の頭悪い人は、自分の考えと逆のことを主張している相手に、とても無礼になります。
しかし、残念ながら、この手の人物は、左翼・右翼を引き付ける芸術の界隈にも多いのです。
なお、左翼の逆パターンで、「右翼思想を作品にちりばめたらウケるか?」みたいなのは、とっくに試されているので、あまり追試の必要はありません。小説なら村上龍『愛と幻想のファシズム』とか、1990年代の「バンカラ」っぽい漫画とか、2007年ごろの北朝鮮批判が強かった時代の政治雑誌にあった政治マンガとか、無数にあります。
政治が好きなら自己責任でどうぞ。
なお、この手の右翼・左翼の論法って
- 「こいつは〇〇を理解してないww」
とかいう割に自分は絶対〇〇について説明しないのが常套。「論点を理解してない」といいつつ自分は「論点」について説明しないしできない。なぜなら生まれつき馬鹿だから。
芸術と皮肉
編集芸術家は、しばしば、作品に社会批判などの皮肉を入れます。
それはそれで、「仮託」(かたく)といって表現手法の一つです。
たとえば江戸時代、忠臣蔵を歌舞伎では上演できないので、代わりに平家物語(ジャンルが同じ仇討ちモノなので)を上演する、というのが、仮託の例です。
しかし、世間では、皮肉は、しばしば、人間を怒らせる行為です。皮肉はたいてい、思考の邪魔です。
たとえば公務員なんか、口では直接に市民に反論を言えないからか、皮肉のひどい人が混ざっていたりします。こういう人であっても、やめさせる事ができません。
たとえば、地元で犯罪事件があったから「地域のために」と思って警察に報告に行ったのに、説教ストレス発散みたいに扱われて、警察官から「不安は解消しましたか。満足しましたか」とか言われたら、だいぶ腹が立ちます。もうこの地域のために報告するのヤメヨウ、ってなります
ほか、一般人でも、社会的弱者とされる女性、地方出身者、などなど、皮肉を言っても処罰されないと思っている人もいて、だいぶ、アレです。特に、文芸や美術などは歴史的にも左翼思想の影響を受けているので、そういう人も界隈に多い。
皮肉だったら、まるで「何を言っても良い」と勘違いしているような人もいたり。
- ※ このページより適切なページがあるかもですが、他にとりあえず、一時的にここで保管。
まあ、作家の場合、多くの人から意見をされるので、「善かれ」と思っても、いちいち話かけてもらいたくない、という文化もあります。「アドバイス罪」というのがあります。作家にアドバイスするのは罪なのです。
しかし、それを地域行政とかでヤラれたら、腹が立ちます。こんな連中のために税金を払いたくねえ、って強く思う。
「自分の皮肉が的確」だと思っているのは、言っている本人だけにすぎず、大体、多くの聞き手は、かなり強く腹を立てている。
この背景として、言語能力の低い人ほど、よりによって「自分は言語能力が高い」(ジアタマ的な)という、なんかトンデモない勘違いをしています。困った事に、一昔前の高校の文系科目が、そういう人を勘違いさせるような、ひどい暗記科目でした。
日本語の限界なのか、それとも英語をふくむ言語一般の限界なのかは知りませんが。
世間では、口を開けば皮肉と難癖しか言えない人でも、高校の国語の現代語の成績は良いとか、困った教育制度です。
なのに、自己陶酔している人から「お前は馬鹿だ」みたいな内容のことを言われたら、そりゃ、たいていの人はキレます。
十字軍戦争では、自己陶酔しているキリスト教徒たちにイスラム国家は攻め込まれたわけで、こりゃイスラム国家は闘って立ち向かうしかありません。なぜなら、存在そのものをイスラム教徒は否定されているわけですから。
Don't be exist! 「お前は存在するな!」
と皮肉は主張しているわけです。
皮肉とは、そういう宣戦布告になりかねないのです。「私は聖なる戦士、お前は悪魔!」という宣戦布告です。
「階級のひくいお前は、その原罪を十分に認識して奴隷として生きろ」という挑発的な宣戦布告です。
世間には、皮肉だったら相手に何を言っても良いと勘違いしている人がいて、まあ、迷惑な界隈です。
皮肉を言っている本人は知的なジョ-クのつもりですが、しかし「捕まらなければゴミ捨てをしても良い」とか考えている社会のクズと同レベルです。まるで十字軍です。しかも、そういう人に関して文学好きだったりするので、タチが悪い。なお、そういう人でも貯金さえあれば創作活動は出来ますので、あまり神格化してはいけません。
情報伝達や情報交流をする気の無い皮肉屋をありがたがっている集団は、まあ、滅びるしかありません。偽善者のゴミクズでしかない。
常習的な皮肉屋のいう事に「もしかして論理的なことをいってるのか?」という認識のもとに、それを解釈しようとするから「訳わからん」となるのであって、「本能の赴くままのワガママに屁理屈を付けたのが皮肉である」という正しい認識を持つと、すんなりと理解できるようになります。
だから5教科をきちんと学んだ普通科が出すべき結論は、「このキチガイ共とは妥協できないから反攻しろ」でしかありえないわけです。共生していきていけると思う時点で間違ってます。
「右の頬(ほほ)を打たれたら左の頬も差し出せ」というのは、単なるキリスト教の奴隷道徳に過ぎません。キリスト教徒の司祭自身は、ろくに芸術作品を残していません。
マンガやアニメのヒーローたちは、支配をしようとする悪には、立ち向かいます。主人公たちは逃げずに立ち向い戦うという勇敢なキャラたちです。「勇気・戦い・努力」です。胸を張れ。これが武士道です。
人々の命を救う者を「指導者」と呼ぶ。ノアの大洪水のように人々を殺す超越的存在は、決して指導者ではありません。立ち向かうべき、異物です。
雑多なこと
編集ミュージシャンの沢田研二は、客からの罵声に「嫌なら帰れ!」と叱ったことがあるとも言われます。
など。
練習で磨ける能力を間違えないように
編集芸術の練習をやっても、人格は磨かれません。というか、そう思っている人間は、クズです。
世間の、芸術を専門的に勉強してない人を、「人格の磨かれてない、野蛮な三流国民」とでも思っているのでしょうか。
教育学者とかが、「芸術教育を通しての人間形成」とか言うのは、それは義務教育レベルの小学の図工とかの程度の話です。
教養は、もしかしたら中学・高校の芸術の練習で、磨かれるかもしれません。
べつに「芸術」教科が三流の教科とか言いたいわけでなく、高校の体育をやろうが数学をやろうが国語をやろうが、人間性は磨かれません。部活も同様です。
どこぞの高校の部活の部員が万引きしただの、そういうニュースもあります。
体育で、体力は磨かれるかもしれません。数学で、計算力や論理的思考力といった技術的なことは、磨かれるかもしれません。
ですが、人格は、磨かれません。
犯罪者で、高卒や大卒の犯罪者なんて、世の中に多く居ます。