高等学校美術I/美術以外の分野による相対化

※ 美術家・画家を目指す人のなかには幼稚な人もいて、勝手に「芸術」を代表したりして理念を主張したりする場合もありますが、しかし実際には音楽などでは通用しない考え方を主張している場合もあります。
下記、音楽や書道などの趣味レベルの人たちの簡単な実情を紹介します。

ターゲット層とテスト8割の心理法則

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心理学や教育学などで知られている法則的なノウハウなのですが、テスト問題を作る際、子どものやる気が出る正答率は約80%である、という事が知られています。小学校のテストの得点率とか思い出してください。だいたい、そんな感じだったでしょう。

世間の人の多くは、あまり自分の知らない事の多すぎる話題には、興味を抱かないのです。世間の人がたとえ口先で「私は好奇心あります」とか言おうが、世間の多くに人には、そこまでの好奇心はありません。だからターゲット層がおおむね8割ほど知っている情報を前提に、娯楽などの作品をつくる際はデザインする必要があります。

これは別に絵画に限ったことではありません。音楽コンサートなどの演目もそうです。吹奏楽部とかの校外コンサートとかそうです。

たとえば、保育園の幼児など子ども向けのコンサートでは、演目の楽曲は子どもでも知っている童謡や国民的アニメソング(ドラエモンやアンパンマンやちびまる子の類の主題歌、ほかジブリやディズニーなど)とかです。

一方、老人ホームなど高齢者むけのコンサートでは、時代劇テーマソングや唱歌や数十年前の流行曲とかが、演目の楽曲だったりします。なお、ジジババに受けるような懐かしい(なつかしい)曲のメロディのことを俗に「懐メロ」(なつめろ)と言います。

吹奏楽部による地域の保育園や老人ホームの慰問(いもん)の演目とか、だいたいこうです。そういう日常のなかの美に気づくのが観察力です。


いちいち「ターゲット層」とかの広告業界の企画マンみたいな言葉を吹奏楽美や合唱部や管弦楽部の人は使ったりしませんが、彼らの部活動ではターゲット層に合わせまくりです。

幸(こう)か不幸か、あいにく世間の人の多くは、知らない曲ばかりが続くコンサートを聴きたがらないのです。


絵や演劇や映画なども同じです。

難しい言葉ばかりが続く小説も、世間の人は読みたがりません。難しい会話ばかりが続く演劇も、世間の人は鑑賞したがりません。

8割くらいは、客層が頑張れば内容を理解できそうな内容に、設計するのが定石(じょうせき)です。


小説家や絵描きなどのクリエイターの中には「自己表現」とか言う人もいますが、少なくとも吹奏楽部も合唱部も演劇部もライブなどの披露はチーム作業なのが現実です。軽音楽部のバンドですら、チーム作業です。人間の腕は2本しかないので、どうあがいても一人の人間だけではギターもドラムもキーボードも同時には軽音楽バンドでは演奏できません。

美術の一部は自己表現かもしれませんが、それは決して芸術の共通の常識ではありません。

そもそも音楽で新規の表現を開拓するなどの自己表現しているのは、作曲家やボーカル担当などといった一部の職種だけです。演奏家は、基本的には楽譜どおりに演奏するのが役目です(若干のパフォーマンスはある)。

「だからこそ美術では、音楽では困難な自己表現をリスクをとって追求したい」と思うなら、それはそれで一つの信念でしょう。とにかく、少なくとも「音楽も美術も自己表現」みたいな、音楽に関するかぎり現実に反する妄想は抱かないようにしましょう。

音楽の演奏家のパフォーマンスのように、各地の高校の文化祭とかで普通に見れるものに気づかないで、芸術表現のパフォーマンス演技を追求したりするのは、とっても時間の無駄です。たとえるなら、演劇の背景画の「書き割り」にも気づかずに「演劇と美術を組み合わせたら斬新なんじゃないか?」とか考えるのが時間の無駄なのと同様です。その程度の発想しかできないなら、芸術家ヅラをしないほうが安全だと思います。


書道の分かりづらさ

なお、決して「大衆に分かりやすくないと芸術でない」と言うわけではなく、実際に書道では、観衆に学力が無いと理解できない作品もよくあります。たとえば、崩し字とかで書かれていて、そもそも観衆が素人だと文字そのものが読めない書道作品も良くあります。書道では「釈文」(しゃくぶん)といって、作品の下などに別の紙で印字の楷書(かいしょ)で書かれた文字を説明するのですが、もし書かれた文字の内容がマニアックな漢詩だったりすると、たとえ釈文を見ても漢詩の教養が無いと理解できない場合もあります。

なお、高校レベルだと、展示スペースの限りがあるので、釈文が無い書道作品もよくあると思います。添削する先生も残業とかで忙しいし。

このように、芸術と言うのは、ジャンルそれぞれで多様であり、異なるジャンルとの共通性というのは少ない面もあるのです。あまり「芸術全体をつらぬく共通テクニック」みたいなものは無いか、仮にあったとしても普通に小学校で習う程度のものでしょうか。

「アート=美術」は美術家だけが言ってること

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欧米の大学で、専攻にかかわらず学ぶべきとされるリベラルアーツ liberal arts は、古代ギリシアの知識人などが学ぶべきとされた「自由七科」に起源を持ちます。自由七科とは、基礎的な学芸として「文法学」「論理学」「修辞学」の3学と、「算術」「幾何学」「天文学」「音楽」から成る4科です。音楽が含まれていることに注目してください。

ただし、実際の現代の大学における、学科に関わらず学ぶ共通科目群などは、さすがに自由七科にはそのままでは対応しません。一般の大学の共通科目は、日本では、文学、歴史学、心理学などの人文科目のグループ(心理学は日本の大学では人文科目グループに入れられることが多い)、経済学や法学や政治学などの社会科学のグループ、数学や物理学や生物学や化学や地学といった自然科学のグループ、といった3大グループと、ほか体育(実技)や20世紀後半あたりからコンピュータの科目などがあります。

なお、日本の一般の大学の共通科目群に、音楽や美術の実習もありません。なお、美術史や音楽史の座学なら、大学によっては科目があるかもしれません。


ともかく、古代ギリシアのliberal arts に「音楽」が含まれている以上、音楽を無視して美術ばかりをアートの代表者ヅラする発想は、美術家のなかでしか通用していません。

よって、日本の大学で美術だけをアートの代表者ヅラしている大学教授は、学問的にもデタラメな、ひどい無能だと言わざるを得ません。

それともまさか、アート art とアーツ arts を、日本語のカタカナだけ見て別物だと思ってる、もはや英語力が小学生レベルで三人称単数形現在のsすら知らないほどのヒドい馬鹿なのでしょうか。そういう馬鹿をターゲット層としているのが大卒の美術家だなんて、思いたくもありません。憂鬱でしょう。


なお、日本の大学の「教養課程」といわれる学科に関わらず共通で学ぶとされる科目群は、さすがに古代ギリシアの自由七科とは対応しません。

あるいは、もし自由七科を「古臭い」として否定する革新派の立場だとしたら、だったら同様に古臭い時代の美術も否定しないと辻褄が合わないダブルスタンダードなだけのウソつき人間です。