高等学校美術I/美術史全体の雑多な注意事項

代表者と創始者はよくズレる

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たとえば、日本でマンガを始めたのは、けっして手塚治虫が最初ではありません。『のらくろ』の田河水泡(たがわ すいほう)とか、手塚以前の時代の漫画家は、多くいます。

ゲーム機でも、1980年代のファミコンの発売と普及がよく紹介されるので(この例ではメルクマールはファミコンである)、ファミコンが家庭用ゲーム機の元祖だと考える人が多くいますが、しかし世界初の家庭用ゲーム機は欧米産のオデッセイですし、日本初の家庭用ゲーム機はエポック社のテレビテニスです。

美術史でも同様で、室町時代に水墨画を広めた雪舟(せっしゅう)は、べつに水墨画の日本での最初の人ではないです。

明治時代の西洋画科の岸田劉生(きしだりゅうせい)を習うと思いますが、決して岸田劉生が日本初の西洋画家ではありません。

自称「現代美術」は現代的とは限らない

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美術において、自称「現代美術」や「現代アート」と呼ばれるものの中には、現代ではなく20世紀(主にその前半)につくられ始めた美術を参考にした作品が多く含まれています。

ピカソのキュビズムもダリのシュールレアリズムも、21世紀の現状(2024年に本文を記述)、映画(実写もアニメも)やマンガやアニメを見ても、近い画風は滅多に見当たりません。娯楽に限らず他の分野を見渡しても、たとえば公共機関の広報誌にあるイラストを見てもキュビズムなどは無いし、小中学校の教科書(国数英理社)の挿し絵をみても、キュビズムなどは見当たらないのが現状です。

こういう問題は別に美術に限ったことではなく、美術だけを揶揄しているわけでもなく、たとえば数学や物理学など近代後半・20世紀初頭あたりの時代に抽象的・分かりづらい分野を研究するのが流行した学問などでは、「現代〇〇学」とか名乗る分野は書籍の内容は、たとえここ数年に出版されたような最新版の書籍でも、実際には現代的でなく、その近代後半・20世紀初頭の話題を扱った分野ばかり、という場合も良くあります。

こういう事がろくに議論されないのは、根本的には世界の人というのは、あまり学力が高くありません。海外でも、そういう分野をモダン・アートとか単にアートとか言うのかもしれませんが、世界のなかにはロクに教育が「普及していない国もあり、高学歴の人でも先進国ほど頭よくない人もいるのです。


さて、美術には確かにキュビズムやシュールレアリズムのような表現の可能性もありますし、それを20世紀の時点で分かりやすく絵画作品で提示した業績ではピカソやダリは偉大かもしれません。だからと言って、もしあなたがキュビズムやシュールレアリズムを模倣したところで、決してピカソやダリの遺族や彼らの出身国が、遺産や著作権収集などをアナタに分けてくれるわけではないのが現実ですし、あなたの創作活動を1円も助けないでしょう。

美術教師になるならキュビズムなどの歴史も標準的には学ぶ必要があるかもしれませんが、その事とキュビズムなどを創作物に取り入れるべきかは別問題です。だいたい小中の歴史教育を例に考えれば子供でも分かる事です。たとえば、もし江戸時代の平和の歴史を学んだからと言って、「21世紀の平和のために江戸幕府を再建しよう!」とか言って江戸幕府を終了させた明治以降の日本政府を打倒しようとするのは、単なる頭のおかしいテロリストの発想です。

キュビズムなどの表現をする自由があるからといって、それをしなければいけないわけではありません。「しない自由」もあるわけです。スポーツに例えるなら、たとえば水泳競技の「自由形」(じゆうがた、free style)で、「水中を歩かないかぎり自由」というルールだからといって、犬かき(いぬかき)など遅い泳法でもし泳いだら、単にタイムを競うレースに負けるだけです。

英単語集『LEAP』(数研出版、竹岡広信 著)にある見出し語 crawl 「這って(はって)進む」「這う(はう)ように進む」によると、水泳競技の freestyle は事実上、(泳法の一種の)クロールとの事です。

もし水泳大会で、周りがクロールかせいぜいバタフライで泳いでいるときに、自分だけ「オリジナリティの高い、自由な私!」とか主張して犬かきをしたら、レースに負けて、単なる負け犬、かませ犬です。


インターネットが無い時代どころか、カラー写真も無ければ、電気式の印刷機すらも無いような時代なので版画で量産するしかないような時代の、今となっては古くなってしまった「名画」をもとにしている「現代」なんちゃら作品も多くあります。

べつに古典や歴史に学ぶこと自体は構いませんし、古典や美術史の教養も専門家には必要でしょうが、だからといって教育などの場で古典を「最先端」とか言い出すのはデタラメな教育です。しかし残念なことに、日本ではデタラメ教育およびデタラメ評論およびデタラメ美術系マスコミが横行しています。


演劇の世界には「現代歌舞伎」(げんだいかぶき)とかありますが、だからといって決して歌舞伎そのものが現代文化の代表格なわけではありません。少なくとも、今のところ、日本各地の若者の多くが歌舞伎ずきにはなっていません。

現代歌舞伎はあっても良いと思いますし表現の自由ですが、だからと言ってもし評論家や歌舞伎ファンか何かが「歌舞伎は現代の若者・中年の大衆文化だ」とか「歌舞伎は先端文化だ」とか言ったら、第三者には疑問符でしょう。

美術の西洋画などの世界では、本来なら「現代風にアレンジした20世紀前半美術」とでも言うべきものを、長いからか「現代アート」とか言っているインチキ作家、インチキ評論家は多くいます。


なお、美術・芸術に限らず、数学や物理学などでも「現代数学」や「現代物理学」は、実態は20世紀前半の数学や20世紀前半の物理学だったりします。

コンピュータも無い時代の数学が「現代数学」です。コンピュータのある時代に開拓されたり再編された分野には「情報数学」など別の名前がついています。

数学のように歴史の長い学問だと、どこかの時代を区切りにして、それ以降を「現代」と呼ぶ慣習があるのですが(よく、数学者ガロアや数学者アーベルの時代が区切りにされます)、実際には上述のように本当の現代の数学とは限りません。他に短い表現が無く、「現代数学」と呼ぶのも仕方のないことです。

同様、「現代美術」と言うのは、その名に反して、実際には西洋画のなかの印象派ブームの後の時代の20世紀前半の西洋画の流行のことに過ぎないような面もあります。なお、「ポスト印象派」とか「後期印象派」とか言った場合は1880年代~1900年ごろのセザンヌやマティスなどの時代の西洋画および画家のことを言います。


21世紀でも流体力学や弾性体(だんせいたい)力学などは航空業界や自動車業界などによって研究されていますが、、しかし「現代物理学」には流体力学などは含まれていません。「現代物理学」とは、その名に反して、高校の原子物理を発展させたような分野である量子力学(りょうしりきがく)と、アインシュタインなどによる相対性理論を中心とする分野、素粒子、といった20世紀前半あたりに始まった分野のことです。

海外には、まともに自動車も国産化できない途上国のほうが多いのです。そのような海外の人たちの人気取りのための自称「科学」を真に受けてはいけません。

ニュートンの古典力学はアインシュタインの相対性理論によって上書き修正されましたが、しかし流体力学や弾性体力学は別に修正の対象ではありません。


ピカソやダリなどのあれは単にまとめて「20世紀の抽象画」とか「20世紀の抽象美術」とか言えばいいのですが、しかし、おそらく画商などの商売人などが「『抽象美術』だと難しそうで売れない」と判断したのか、絵画の一分野に過ぎない抽象画を、勝手に勝手に代表者ヅラして「現代美術」とか呼びます。

単に資本主義的な都合でしょうが、困ったことに世間の抽象画かぶれに限って、「資本主義にとらわれない自由で創造的な発想」とかを自分がしていると思っており、決して「抽象美術」とは呼ばずに「現代美術」と言い、滑稽(こっけい)でしょう。


まあ、『現代』という接頭辞(せっとうじ)については、もしかしたら海外では美術教育や音楽教育など芸術教育が未整備だったりして今でも20前半の西洋画が「最先端」な途上国もあるのかもしれませんが、少なくとも日本では断じて20世紀前半の美術はもう現代の21世紀の実情に合わずに「最先端」とは言えません。


音楽や音大なんかはここら辺はしっかりしていて、あまり「現代」「アート」とか音大卒の人は言わないのですが、いっぽうで美術は勝手に「アート」の代表者ヅラします。アートの語源は腕 arm とも言われますが、音楽家だってピアニストもバイオリニスも腕を動かしますが。いったい美術家は何様のつもりなのでしょうか。

ピカソやダリらの後追いをしている人たちの作風は、絵画のなかのさらに西洋画のなかの一部の分野での20世紀前半の流行に過ぎないくせに、勝手にアートや芸術の代表者ヅラする人たちです。もはや日本画や東洋文化などへの人種差別でしょうか。

マンガやアニメなどと「美術」と文科省

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検定教科書の事実

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「マンガやアニメは美術(あるいは「芸術」)かどうか?」の論争があります。しかし、個別の大学教授が何を言おうが、2020年代の時点で、すでに中学高校の『美術』教科の検定教科書で、マンガやアニメについても大まかな解説や画像ありの紹介がされています。

少なくとも、マンガという表現形式が存在して普及している事は、もう中学あたりの美術や国語などの検定教科書で、過去に何度も紹介されています。有名作品を例に、漫画におけるコマやフキダシなどの意味も説明していたりします。

アニメについても、高校美術の検定教科書でいくつかの作品の画像が紹介されています。

ほか、CGなどもすでに検定教科書で紹介されています。

個別の大学教授のなかには異論を唱えている学者もいるかもしれませんが、少なくとも文部科学省における小中高の教科書検定をする部局には相手にされていません。まあ、大学には『学問の自由』があるので、文部科学省の考えとは違うことを主張する自由もあります。どの学者の学説を信用するかは、個々人の自己責任です。

近代西洋の版画家で美人画を描いたミュシャについて、「ミュシャは芸術ではない」という説もありますが、少なくとも中高の美術の検定教科書ですでにミュシャはよく紹介されるので、説が文科省の検定教科書の部局には相手されていません。高校では「美術」科目は「芸術」教科の一部です。

英語の art という言葉の意味は知りませんが、少なくとも日本での『美術』『芸術』という言葉の意味では、文科省は上記のような対応です。

現実を説明できない理論の価値は低い

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背理法(はいりほう)的に考えましょう。仮にマンガやアニメが「美術」・「芸術」でないとして、世界で大量に流通しているマンガもアニメも全く考察できずに検証もできない理論体系を作ってみたところで、何の価値があるのでしょうか。そのような理論構築に、どれほどの税金を投入する価値があるのでしょうか。

一言も当ページでは「日本の漫画やアニメは素晴らしい」とか「日本のマンガやアニメを尊敬すべきだ」とか、言っていません。そういう主観的な評価の話をしているのではなく、「世界的にも流通している作品群を説明できない理論に、価値は無いだろう」という話をしています。

アニメが海外の映画賞も取っている現代、アニメを考察できない理論体系を提唱する学者がいるとして、その学者に税金を投入する価値があるのでしょうか。

理論は、あくまで現実を考察・分析・検証するための手段です。現実をろくに説明できない理論は、まちがった理論か、あるいは未熟すぎる理論です。

「マンガやアニメは出版社など企業の商売の都合で作られているからダメだ」とか反論するなら、抽象画だって画商などの商売のタネなのでダメですので、マトモな反論になっていません(反論したつもりなのかもしれませんが)。

あるいは「マンガやアニメは物語なので1枚の絵で説明できないから駄目だ。芸術ではない」とか言うなら、音楽も文芸も「芸術」ではない事になってしまい、もはや珍説です。「芸術ではない」ではなく「美術ではない」と言う言い回しなら分かりますが、だったら1枚の絵で説明できるミュシャは美術でなければならず、よってミュシャを美術から除外する一派の主張とは対立しますので、その一派を批判しないと理屈が通っていません。

もちろん、そんな珍説が文科省に相手されるわけもなく、21世紀の現在(2024年に記述)、マンガもアニメも中高の美術の教材で紹介されていますし、ミュシャも紹介されています。


分業による研究は必要だが、それは基礎教育ではない

芸術・美術の理論は膨大すぎるので、分業が必要なので、分業された個々の理論の中には、あえてマンガやアニメなどの大衆娯楽の分野を切り離した理論もあっては良いかもしれません。

しかし、だからといって、芸術・美術の理論体系のどこを見渡しても、実際に普及しているマンガやアニメや各種デザインにまったく対応できない理論は、無意味な珍理論です。もちろんそんな珍理論が文科省に相手されるわけもなく既に(以下略)。

歴史の研究でも、日本史は膨大なので研究者レベルでは「平安時代の研究者」とか「江戸時代の歴史研究者」とか分業しているのですが、だからといって中高の歴史教科書で「平安」科目とか「江戸」科目は存在しないのですし、「大学受験の科目選択では江戸科目を選択した」とか無いのです。中高の歴史系の科目の検定教科書は、その後の進路の基礎教育ですので、古代から現代までを幅広く説明できなければなりません。

なのに芸術系の学者の中には、まるで「江戸」科目のような、特定分野の作法だけしか説明してないのに、あたかもそれを芸術全体の作法化のように主張する、意味不明なことを言っている学者も少なからずいます。


音楽との比較

音楽大学は、割とここら辺の言葉遣い(ことばづかい)がシッカリしています。

彼らが「音楽ではない」と言う対象とは、たとえば飛行機の騒音みたいに人体に害を与える可能性の高いものとか、あるいは、たとえピアノなど楽器を演奏していても素人で演奏ミスだらけの演奏だとか、商業的に通用する見込みのない、そういう音です。

だから商業的に通用しているレベルの曲や演奏家・歌手などを、たとえ分野は違っても、「音楽ではない」と言うことはまずありません。


音大の伝統的なカリキュラムでは、オーケストラ的なクラシック音楽およびその楽器(ピアノやフルートやバイオリン的な楽器)が中心であるので、あまりエレキギターとかシンセサイザーなどの電子音楽とかを扱いません。しかし、だからといってエレキギターやシンセサイザーを用いた20世紀以降の曲を決して「あれは音楽ではない」とか、音大の教員や同レベルの音楽指導者らは基本的には言いません。単に、「うちの学校では扱う必要は無い」と言うだけです。


まあ、音楽と美術はあくまで異分野です。音楽で通用したことが美術や絵画でも通用する保証はありません。しかしまあ、美術や絵画評論の中でも通用しているかどうか疑わしい珍説については、音楽や演劇などと比較してみるのも、悪くは無いと思います。