高等学校美術I/高校の学科の事情

普通科以外との競争

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普通科高校の人にはイメージがつきづらいかもしれませんが、世の中には、俗に(ぞくに)「美術高校」などと言われる、学科が「普通科」ではなくて「美術科」である公立高校(県立高校とか都立高校とか)があります。

なお、実際の高校名は、たとえば「○○県立△△芸術」高校みたいな名前で、音楽科・美術科・舞台表現科(演劇系)といった複数の学科の併設だったりします。演劇とかも、すでにそういう学科があります。「舞台芸術科」とか「舞台表現科」みたいな学科が、首都圏の芸術高校の公立高校にもうあります。

さて、普通科では、高校1年の「美術I」・「音楽I」・「書道I」の選択必修が2単位です(法律上は、ほか「工芸I」というのもある)。しかし美術高校では、美術の授業が25単位以上あります(法令などで、そう決まっています)。なお、この「25単位」という基準は、商業高校や工業高校などのそれぞれの専門科目数の基準と同じ単位数です。

普通科高校の一般科目の「美術」科目とは別に、専門科目の「美術」教科というのが存在しており、その美術教科のなかの「素描」(そびょう)科目とか「ビジュアルデザイン」科目とかを美術高校の生徒は履修しています。

どこの県にも、だいたいそういう美術科や音楽科の学科をもつ芸術高校が最低でも1校あって、毎年、各学校で各学科から40名以上(場合によっては80名以上)が卒業しています。

美術系の仕事に就きたい場合、そういう美術科卒の人達との競争になるのです。

さらに美術科とは別に、少なくとも首都圏や京都・大阪などでは、「総合科」という学科の総合高校のなかに美術系の選択科目群があったりします。

べつに「彼らとの競争に勝つために美術にもっと打ちこめ」と言いたいわけでもなく、「美術なんて目指すな」と言いたいわけでもなく、そもそも上記のような美術高校や総合高校が日本には昔から存在していて(平成初期にはもう、日本各地に存在していました)、もし美術業界を志望する場合はそういう層との競争になるという事を知ってください。

普通科卒・商業高校卒などの人のよくある勘違いで、「日本でイラストレーターを目指していたり趣味にしていたりする人、もっと少ないと思ってた」というのは、普通科高校や工業高校・商業高校などの出身者が良く言う事です。

普通科の進学校と商業高校だけを見て、けっして「うちの県出身の、アニメ絵風のイラストレーターは少ないから、私が初の、県のアニメ絵風のイラストレーターになろう」とか、勘違いしなくでください。そういう競争相手の高校生はもう、毎年、各県の美術高校にたくさんいます。

美術高校だけでなく音楽高校も同様です。

美術高校は、高校野球などスポーツで話題にならない高校であるので、高校の存在自体を知らない人や、高校受験のときに模試などの地元の公立高校一覧などで名前だけ聞いたが今は忘れ去ってる人も多いですが、しかし、そういう芸術系の高校が各都道府県にもう既にあるのです。そして、多くの美術高校は卒業生を毎年、何十人も各県から送り出しています。


世間では、もしかしたら「美術に強い高校は、たとえば東京の私立の女子高みたいな、お嬢様学校が・・・」とか思ってるのかもしれませんが(マンガとかでもそんな感じのを見かけます)、現実は違います。25単位の時間をかけて美術や音楽をやってる専門高校(普通科以外の学科の高校)の人に、普通科の人では技量と専門知識では及びません。


スポーツに視点を変えると、スポーツでも似たような現象が起きています。ネット記事『甲子園に出て東大へ行く、は可能か。 流行は文武両道ならぬ文武“別”道。 』(Number web )から引用します。

甲子園に出た中での東大合格実績の最上位校は、32人を送り込んで19位タイの筑波大附属と、千葉県立千葉の2校だ。

 この2校も筑波大附属は東京高等師範時代の1946年、県千葉は6回出ているが、最後は1953年だ。

 もともと野球は、お雇い外国人がエリート学生に手ほどきしたものだ。明治時代には、今の東大教養学部の前身である第一高等学校が無敵だった「一高時代」さえあった。野球はそもそもエリートのスポーツだったのだ。

 だから昔にさかのぼれば、「野球も勉強も」という学校はあったのだ。しかし大学進学率が高まり、東大のようなエリート校の競争が激化するとともに、昔の「文武両道校」は鳴りを潜めたのだ。

[1]


さて芸術の場合、明治時代とか大正時代なら、そういう東京・神奈川や京都・大阪・兵庫とかの私立のお嬢様学校的な人のほうが得意だったのかもしれませんがね・・・。今はもう21世紀の令和です。


「演技に深みが出る」という概念

なので、学校の授業で習う学問はなるべく、きちんと普通に、両立を目指しましょう。

勘違いしてほしくないのは、「受験勉強を」頑張りましょうではなく、「学校の勉強を」頑張りましょうでもなく、「学校の勉強で習う学問を」頑張りましょうと言っている事です。

たとえば、せっかく進学校で、5教科を赤点スレスレで美術ばかり練習をしても、そういうのは思ったほど実写映画や演劇などの業界では期待されません。なぜなら、すでに美術学科の公立高校が存在しており、雇う側・発注する側にとっては、美術ばかり練習してきた人材の人手の、確保の見通しがあるからです。せっかく私立進学校の生徒が、公立美術高校の真似をしても、だったら発注者は最初から公立美術高校の人を雇えばいいし、そのほうが発注サイドには安上がりな可能性があるのです。

演劇とか実写ドラマとか典型で、まあ、なるべく役と経歴の近い俳優に、その役をやらせます。学園ドラマの教師の役を、高学歴の俳優にやらせたりとか。私立高校を卒業している人に、私立の学園ドラマの教師役をやらせたりとか、そういうのです。そういうのを(演者が現実を知っている事により)「演技に深みが出る」というのです。

べつにj自分が「公立高校出身だからといってねたむ必要もなく、もし公立高校出身なら、公立高校の現実を知っているので、それなら公立高校の演技に深みが出ます。このように、トレード・オフなわけです。

まあ、推理ドラマの犯人の殺人犯とか、そういうのは役者は現実を経験していないですが。(もし経験していたら犯罪者なので)。総理大臣とか政治家とか医者とかの役も、演者は経験が無いです。なので程度問題です。

そんなに杓子定規なわけではなく、高卒→専門学校卒の役者でも大卒の役をすることもあるし、まあ、それほど気にする必要は無いでしょう。しかし、頭の片隅には、入れておきたい知識です。


いっぽう、公立の美術学科の高校生の場合は、これ以上は高校の5教科の勉強を削ると、高校生としての学力・知性を維持できないほどのギリギリの内容です。

日本において、絵描きへの発注をする発注者は、第一には絵を期待していますが、しかし「絵だけ」は期待していません。なぜなら、絵だけを期待するならそもそも写真で済んだりする場合もあるし、また、どうしても美術画風の絵に起こす場合でも、外国人の賃金水準の安い国への発注でも済むからです。じっさい、アニメ産業なんてコストダウンのために外国に発注しています(ふつうに公表されています)。

練習時間の部活ごと・学校ごとの差

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美術の文化では、家で毎日、絵の練習をするのが「努力家」だと、昔からよく言われています。しかし、実はそれは、美術や絵画の業界の中だけです。実は音楽系の部活の人は、プロ志望でもない限り、学校以外では、あまり練習をしない人も多く存在します。騒音の問題などもあるので、なるべく学校だけで練習するのです。

スポーツなんて、さらに輪をかけて、そうです。そもそも家にバスケのコートもありませんし、サッカーのコートもありません。

せいぜい、一部のプロ志望の人が、筋トレを家でするくらいです。


私立の進学校だと、部活勢への指導で、自宅では部活の練習をあまりせずに、自宅では5教科の学業になるべく集中するように指導します。「部活の時間だけ、集中して練習しろ」と指導するのです[2]。そういうのが、日本では本来の「全人格」的な教育です。また、出典のサイトにはありませんが、そもそも進学校は、部活の日数そのものが少なめです。なので、それに反する高校、つまり「部活の日数が多い」+「部活以外の自宅でも部活の練習を毎日している」は、私立進学校から見れば「バランスを失っており、反面教師」であると考えるのが、私立の進学校です。

つまり、「テスト前だけ勉強する」or「宿題を要求された時だけ勉強する」という状況を容認している高校は、私立進学校から見れば「あの高校は、文武のバランスを失っている」と見られており、全人格的な教育からは外れていると見られているのです。他校の批判は裁判沙汰になりかねないので私立進学校は明言はしませんが、本音では多くの私立進学校は、こう思っています。また、ごく少数の私学ですが、そういう部活偏重への批判の教育理念を明言している私学もあります。他校の批判の形式ではないですが、部活に日数を割いて学業をおろそかにすることを実質的にパンフレットなどで批判している私立高校もあります<-- 成城高校です。なお、成城大学の付属校(成城学園高校)とは異なります。「成城」は漢文に由来する単語なので、似た名前の別学校がいくつかあります。 -->。


世間の高校・大学およびその宣伝でいう「文武両道」なんて、実態はこの程度です。統計でも2017年の時点では、東大進学率トップ10の高校に、野球の甲子園出場経験のある高校はゼロです[3]

そもそも音楽の場合、騒音の問題があるので、どうしても家で練習する場合でも、せいぜい夕方 ~ 日没後の数時間くらいまで、 といった中学生・高校生も多くいます。

美術の場合、ほかの音楽やスポーツと同じ程度の練習時間・活動時間だと、文武両道だと世間からは全く評価されないのです。

なので進学校の生徒にとって、美術や絵画の道は、音楽など他の芸能と比べて、(「美術・進学校」の組合せは)とても相性が悪いという事は、頭に置いてください。特に大学進学して卒業後も学業を続けていくつもりの人は、かなり相性が悪くなります。文学ではなく、法学・経済学や数学・理科などの現実世界を研究する学問を追いかける場合、かなり相性が悪いのです。

具体的に言うと、音楽などに比べて、美術や絵画は、練習時間がかなり多くなります。

音楽の場合、歌唱なら、たとえば1時間(=60分)もあれば5分の歌を、単純計算で12回(= 60分 ÷ 5分曲 )は歌う練習ができます。
いっぽう、絵画の場合、そこらのイラスト投稿サイトにあるような細かい絵を、塗りまで含めて模写(デジタルで模写とする)しようとすると、新人でなくても50時間くらい要する羽目に、なりかねません。

こんなに練習時間に差がある事を、そもそも音楽系の人や体育系の人や、特に文化部に興味のない人は、まったく知りません。そして、そういう人たちが消費者です。

どんなに絵が上手くなっても、画風が細かい絵柄の人の場合、プロ級~セミプロ級の絵を描くのに数十時間の時間は掛かります。

アニメ絵の模写ですら、大人ですら、例えば深夜アニメの「なろう系」アニメなどの量産型の絵柄の模写ですら、たとえどんなに上手くなっても、1枚あたり(早くても)数十分は掛かります。まして高校生なら、1枚あたり2時間は掛かるかもしれません。

その時間があれば、歌なら、120分 ÷ 5分曲 = 24回 も、練習できてしまうのです。


政府は「クール・ジャパン」と言って、日本のマンガやアニメやゲームなどの文化の振興を推奨していますが、しかしあれらの産業における絵の制作ペースは、もはや令和の今のこまかい絵柄では、学業とは両立できないのが実態です。

週刊マンガの絵の1話ぶんである20ページ(または16ページ)ですら、大人の漫画家が、アシスタントを使って、総勢でたとえば5人くらいで、4~5日くらいは使って仕上げているのです。


音楽の場合、吹奏楽によく使われる定番曲があって、それらを、大衆がいくつもの高校で何回も聞いても楽しんでもらえます。実際、文化祭などで高校を10校くらい回ると、いくつか同じ曲を耳にする事もあります。ディズニー曲とか、ジブリ曲とか。

しかし美術・絵画の場合、オリジナル以外は、楽しんでもらえないのが現実です。絵画の消費者の大半が、そういう客層です。


たとえば、文化祭で

ディズニー曲やジブリ曲を演奏したら喜んでもらえる場合が多い一方で、
美術系の部活の人が、なにかアニメの模写の絵を展示しても、観客は特に盛り上がらず、素通りする観客が大半、

これが現実です。


べつに「スポーツや音楽を真似て、美術も改革しろ」とかそういう事を言いたいわけではなく、とにかく、現実はこうだという話です。


音楽の場合、たとえば文化祭の出し物などでも、そういった限られた練習時間でも成果が出せるように、「1年生は公演を行わない」といったルールを部内で設けている高校も、進学校では多く存在します。(2年生からの公演なら、12か月以上の練習期間があるので、高校から入部した新人でも成果を出せるという仕組み。)

楽器そのものを練習したての時期だけは家での音楽の予習・復習も必要かもしれませんが、しかしそれ以外の期間は、そもそも、放課後から下校時刻までの数時間の練習だけで、成果を出せるようなスケジュールとイベントを最初から組んでいるのです。そういう文化が、進学校の音楽系の部活では、形成されています。

美術の場合、そういう文化が無い場合が多いし、そもそも音楽系に上記のような文化が存在する事自体、教えてもらえないのが実態ですし、下手したら美術部のコーチなどがそんな音楽系の事情を知りませんし、下手したら美術部には美術教師以外のコーチそのものが居ません。(音楽の場合、音楽教師とは別にコーチがいる場合もある。)


もっとひどい現実があって、進学校では、美術部が不活発な高校が多くあります。吹奏楽部と比べて、美術部が明らかに部員数が少ない、名目的には「部」だが事実上の同好会など、不活発なのです。

マスコミなどでは、例外的に私大の付属校のような、特別に文化部の活動が活発な高校ばかり特集されるので、「さぞかし私立の進学校の部活では、美術部も活発だろう」と誤解しがちです。しかし実際に、べつに付属校ではない高校を文化祭などで見てみると、進学校のなかには、吹奏楽部と比べると美術部が明らかに不活発な学校も多いのです。



もともと美術教育は、明治時代は、目の前にある物の写生や模写が、中心でした。これなら、学生には特に家庭などでの練習は不要なので、大して時間が掛かりません。

他教科との両立のできそうな「全人格」的な教育としての普通科高校での芸術教育とは、本来、この程度のものです。そこから先は、他教科の時間をうばうので、あまり望ましくない。

もっとも小中の美術では、見えないものを空想して描く、という授業もあったかもしれません。よくあるのは、「未来の予想図を書こう」的なの。まあ、そういうのだったら、それでも良い。自分のアイデアを絵で分かりやすく説明するのも、重要なスキルだからです。

ただし、5教科の学問をしたいなら、決してダリとかピカソ的な、ああいう美術家にウケそうな画風を狙ってはいけません。なぜなら、「何がウケるか、売れるか」を調べるのに、他教科の時間が足らなくなるからです。そういうのは金をもらって仕事をする大人の役割です。高校生が高等学校で学ぶべきは「何が正しいか」です。「何がウケるか」は、芸能の専門学校とかでの勉強ですので、高校ではない。

また、ダリのような、存在しないものを写実的に描くのも、狙ってはいけません。技術が高度すぎるので、高校生には、時間が足りません。

一般人にとっては、小学生の未来イラストみたいに、分かりやすく描ければ充分なのです。写実的に描くのはプロの仕事ですし、プロの絵描きは専門分野ではない国数英理社が苦手なので、決して彼らプロ絵描きを一般学生はマネしてはいけない。

もし美大卒のような美術教師が抽象画やダリ的写実画をどう喧伝しようが、彼らは基本、大学受験の国数英理社がそれほど出来ない人たちです。(国立の教育大卒の人はやや例外だが、それでも芸術系の入試では、5教科の負担は軽い)経済学部など一般の学部に進学して、その仕事につきたい人は(たとえば商社マンとか弁護士とかになりたい人)、美術を真に受けてはいけません。


早い話、進学校での芸術や体育や「息抜き」です。

おそらく、抽象美術とかで尊重される「人間の内面の真実」というが、言い始めた人物はともかく小中高の教育で重視されるのも、こういう背景でしょう。

何か取材をしてリアリティのあるものを描こうにも、取材をする時間なんて、進学校には無いのです。そりゃ、エリート高校生だったら、写実以外にオリジナルを何か描こうとしたら、自己の内面を表現するしか無いですわ。当然、市場ではウケません。アカの他人は、自分以外の他人の内面なんて興味が無いので。

特に中高一貫校なんて、もう中学時代から5教科の学業の時間が多いので、息抜きの時間も必要なのです。

表に出ない地域史で、その地域の人だけが知る自殺事件で、高校生の自殺事件とかあって、そういうのの反省の上に、今の教育があるんですわ。

製造業での安全管理の格言ですが、「安全マニュアルは血で書かれている」というのがあります。


だから、誰でも出来る自己表現をさせて、自己肯定感を与えるのです。

寿命を削ってでも「作家になりたい」という人は、学校美術なんて相手にせずに、作家を目指せばいいと思います。

教育行政や大学の本音

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簡単に言うと、表立っては政府もマスコミも言わないですが、たとえば、どこの都道府県も内心では「芸術やスポーツには、仕事としての需要が小さい」と思っています。その証拠に、日本での高校の配置で、美術科や音楽科などの芸術系の高校の数や、体育科の高校の数は、かなり少なめです。そして何より、「美術・音楽は、基本的には単なる娯楽であり、学問との結びつきは仮にあっても小さく間接的なものにすぎない」と思っています。

勘違いされては困りますが、「娯楽」だからといって、必ずしも質が低い産業ではありません。きびしい競争をくぐりぬけてきた普及したり生き残って名作と伝えられた作品には、それなりに優れた点があるでしょう。ですが、作品の質が高くても、その作品の鑑賞なり模写なりが、一般の高校・大学で扱うような「学問」である事にはなりません。

普通科高校の入試で出てくるような、国語・数学・理科・社会は、ほかの学問をする際にも基礎となる、基礎学問です。

で、芸術や体育、家庭科や保健体育などは、あまり基礎学問とは見なされていないわけです。仮に美術・音楽などが学問であるとしても、応用の学問のうちの一つにすぎない、という本音です。

たとえば、商業高校で商学といった応用の学問を教えるように、あるいは家政学を大学の家政学科で教えるように、美術・音楽などを学問化しても、せいぜい応用の学問の仲間にすぎない、という事です。


数学の確率論は、ギャンブルの確率研究が元になって開始された歴史があります。中世フランスの数学者・哲学者のパスカルが、知人の貴族から賭け事の数理を研究してほしいと頼まれたのが、確率論のキッカケです。ほか、数学の図形の理論(幾何学(きかがく))の内のいくつかは、美術や建築製図などのパースなどの研究が、発見の元になっているものもあります。

ですが、かといって、一般の学部の大学入試の数学にて、けっしてデッサンや美術などは要求されません。大学入学後も同様、要求されません。

このように、様な文化がキッカケになって数学などの基礎学問が発展することもあるので、文化の保護は重要です。しかし、だからと言って、多様な文化はけっして基礎学問そのものではないという区別があるのも現実です。


いろいろな業界での絵の描き方ひとつをとっても、作家や業界ごとに多種多様であり、法則性みたいなのは無いのです。アニメ業界では集団で絵を描くので割と書き方が統一されていますが、しかしマンガ業界など少し別の業界に変わっただけでアニメ業界の絵の描き方は通用しなくなります。「どの業界でも通用するような普遍的な絵の書き方が無い」という事が、すでにマンガ・アニメ・ゲーム業界のプロ作家たちの研究によって検証されてしまっており、そういう研究を紹介した書籍すら存在して普通に市販されているくらいです。

まして、美術画や抽象画などは、マンガ・アニメなどの業界の慣習には合わせてくれず、このため、絵の描き方も美術画の分野では作家ごとに多種多様です。このように、けっして普遍的な絵の描き方は無いのです。そして、絵の描き方には普遍性が無いからこそ、絵の練習の方針のコツとしては、中核的なファンで作品の購入意欲なども高い(俗に「コア層」などと言います)をとらえるような作風・画風を確立するのが、いろんな創作分野でのコツだと一般的に言われているくらいです。

アートではないですが、Googleのデザイン方針が、そのようなコア層重視です。

「4.初心者ユーザーを引き込み、上級者ユーザーを魅了しろ」

(抜粋)というものです[4]

コア層を魅了できるくらいに優先的に配慮したデザインをした上で、派生的に、あくまで余力の範囲にて、新規の客層を開拓できそうな導入路もとりあえず確保しておくのが、まあ定石です。

江戸時代の格言で、「狂人 走れば、不狂人も走る」というのがあります[5]。世間の多くの人は低リスク志向なので他人のマネをしたがりますので、商売では、一定のコア層を客層にゲットして統率的な行動をさせる事ができれば、あとは、理解者ヅラをして付いてくるのです。「付和雷同」(ふわ らいどう)とも、似た意味のコトワザもある。ほか、お笑い芸人のビートたけしの川柳(せんりゅう)で、「赤信号、みなで渡れば、怖くない」というのも。

ほか、悪徳商法の「催眠商法」なんかも、そういう周囲の真似をするしか能のない、自分で考える意思のない人間をボッタクる商法ですし。


このように、普遍性の無いことを認める事こそが、むしろ、さまざまな創作テクニックの習得での前提にすらなっているほどなのです。

芸術全般で共通で通用するノウハウというのも、基本的には無いのです。たとえば、書道のような字で表現するメディアと、アニメのような字でも演者でもなく絵で表現するメディアは、ノウハウがそもそも対立します。ファン層も基本的には異なります。アニメやマンガの多くが、子供でも分かるように「分かりやすさを重視している」とか「マンガの人物のセリフも、なるべく平易な言い回しをしている」とかのノウハウがもしあっても、いっぽうで書道は逆で、文字や漢字や古文・漢文などがある程度は読めないと、鑑賞が無理な作品が大幅に増えてしまいます。


だから、作家を目指すなら、そのジャンルの実技の経験を定期的に積まないと、どうしても各ジャンルの作家としての表現力は身につかない分野なので(他ジャンルの表現から応用するのは困難。まして芸術以外・創作以外を応用するのは無理ですし、作家業界は実技作品を公表しない人の創作論をあまり信用しません)、実際に作品をつくって発表したりとか、あるいは実演をしたりとかしないと、習得できないと言われているのです。つまり、こういうwikiを読み漁ってるようじゃ、そもそも作家および関連業界には向いていないとその業界から判定されるでしょう。そもそも、このwikiのこの科目の執筆方針は現状(2024年)、作家志望者むけには書かれていません(本wikiの科目の冒頭で、そう告知しているはずです)。

このwikiのこの科目は、ターゲット層として、たとえば、東大・京大とか早慶マーチとかの非・芸術系の大学の進学に憧れるような層(関東地方の受験生の大半がこうです。実際に進学できるかはともかく)に向けて、専門外にするつもりマンマンの芸術・美術についてはサラっと(消費者としての)活用法の概要を教えられればいいなーというために書かれています。消費者としての活用法を教えるために最低限、パースとか絵筆の持ち方のパターンとかも言及しているだけに過ぎません。たとえるなら、体育の授業でテニスを習ったからって(あるいは、教えたからって)、別にスポーツ選手を養成する学校じゃないのと同じです。

「自分の専門分野以外のことは、広く浅く勉強すればいい」というのが、社会人の基本ノウハウです。製造業の世界では「 型 」(ティーがた)の勉強法とも言われています。Tのタテ線が専門分野の深さ(立幅の長さ)と狭さ(横幅の狭さ)を表し、Tの上のヨコ線が、専門以外の広さと浅さを意味しています。

つまり、「浅い」ことは悪いことではないのです。「浅い」を悪いと思うのは、その業界にマインド・コントロールされています。


芸術の世界には、業界以外の人が芸術教育を語るのを批判する人もいますが、単にその業界の人がプライドが高く、異業者の目線で相対化される事に対して不満・ワガママを言っているだけなので、(その業界に就職しない人は)相手する必要はありません。表向き、お世辞でも言っておけば十分にあしらえるでしょう。事実関係に具体的な間違いがあるとかの指摘でないかぎり、単なるワガママです。政治経済の教育も、政治家以外の人も語ります。織田信長の歴史を勉強するのに、愛知県で軍事クーデターを起こして独立宣言をされても社会悪なだけです。

プライドの高さも作家には必要ですが、しかし、業界以外の人は、それに付き合う必要はありません。

文化の発展のための補助金などは、すでに国の文化庁などが出しています。あなた個人が、いちいち周囲の作家志望者に協力する必要はありません。そんなのよりも、自身の目指す専門分野などの勉強を大事にしてください。

ただし、あくまで、目指さない人のための活用法です。目指す人は、その業界の慣習や価値観に従ったほうが良いと思います。当然、一般社会の人の考え方とは異なりますが、べつに皆が皆、同じ考え方をする必要はありませんし、皆が皆、仲良くする必要もないのです。ただし、表向き、仕事でその異業種と付き合う可能性の高い場合なら、お世辞でも言うくらいの社会性は必要でしょう。

部活の活躍ですら、大学受験の面接アピールになりづらい

また、高校生・大学生むけの小論文やレポートの注意点としても、「部活などの技巧の上手さは、小論文の評価には関係ない」という事が受験ノウハウとして教育されているくらいです。なので、大学受験でも、同様の注意が受験ノウハウになっています。

総合型選抜のアピール方法の、典型的な失敗例として、部活の活躍アピールがあると受験ノウハウで有名なくらいです。(なお、スポーツの活躍で大学に活きたいなら、総合型選抜とは別の方式である私大スポーツ推薦とかを狙うのが定番です。)

採点者からは、「この受験生、スポーツがどんなに上手くても、それ、うちの学部(たとえば法学部なら法学)と関係ないよね」って相手先の大学から思われるのがオチです。特に国公立の大学の小論文や面接などで、そういう傾向が強く、大卒のスポーツ選手は私立大学卒ばかりです。


学問的に検証できる事実関係に基づいて社会に役立つ論理を体系的に証明できないかぎり、一般の大学の学問は、どんなに主張者がなにか異分野の名人でも、基本的には学問的事実としては認めないのです。

べつに、一言も「法学や経済学などの学問的事実の知識が、芸術やスポーツに必要」とは言っていません。ただ、そういう風に文化が違う、というだけです。

一般の学部の大卒のなかにもスポーツや芸術をやっている人もいるでしょうが、だからといって、ある学説が事実かどうかとは基本的には関係ありません。どの文化が良いか悪いかではなく、文化の違いがある、と言っているだけです。

たとえば、医者にピアノを弾く能力は求められていません。逆を考えれば分かります。どんなにピアノが上手くて医学部に合格できない人に、たとえ戦時中とかでも手術を受けたくありません。同様、弁護士に油絵などを描く能力も求められていません。趣味でピアノや絵などをやっている人もいるでしょうが、単なる趣味です。

このように、「芸術には共通の基礎・法則が無い」という事を認めることにより(それが真実かは不明ですが)、色々な(消費者としての)活用ノウハウが派生的に説明できてしまい、暗記の負担が減ります。


美術や音楽をある程度は学問的に客観的に研究する学者もある程度の人数は必要でしょうが、だからといって、これら美術などの分野を基礎学問と見なすのは、上記のような普遍性の無さから、やや無理があります。

読者の中には反論で「国語だって文学があるじゃないか」と言い返したくなる人もいるかもしれませんが、しかしその文学の授業時間が減らされているのが2020年前後の高校教育の改革です。『論理国語』はそういう背景です。(論理国語の導入により、普通科高校での文学の量が3分の2に減りました。)

美術・音楽が普通科の高校生全般むけの高度な「基礎学問」ではないと見なされている証拠に、法律上は普通科の「美術」科目は「美術III」までありますが、しかし多くの高校は美術IIまでしか履修できませんし、まして私立進学校にいたっては美術Iまでが大半です。

「娯楽」という言葉から勘違いして、けっしてマンガや大衆小説、大衆映画などの事だけだと思わないでください。そういう皮肉だと誤解しないでください。そうではなく、たとえ都心の美術館に語られるような名作ですら、あくまで、普遍的真理を追究するという意味での「基礎学問」ではないという意味での娯楽と言っています。

「美とは何か?」という事について、学者の中では(政治学者、文学者、歴史学者、経済学者、哲学者、自然科学者(数学者、物理学者、生物学者など)、医学者、などなど)、共通見解というのはありません。また、そういう共通見解の無いような概念は、そもそも「客観性に欠ける」として基礎学問の基礎からなるべく外そうとするのが、多くの学問の構築方法のありかたです。哲学者と芸術学者以外、「美」を自分たちの専門の学問の基本概念に含めようとしないでしょう。

したがって、それは普遍的真理と言う意味での学問には、基本的には、なりません。よほどの世界的な天才以外、それこそノーベル文学賞とかそれに類する賞をとれるような大天才以外、学問にするのは、難しいと思います。


文学の様式とか、たとえば「平家物語は和漢混交文(わかんこんこうぶん)」とか、そういう普遍性の高い知識は、普通に国語の教科書や参考書に書かれてしまいます。いっぽう、中学卒業以降に習う美術・音楽などの知識は、普遍性が低く(活用できる時代が狭い、ジャンルが狭い、など)、そのため国語・数学・理科・社会・英語の教科書には書かれない分野だからこそ、それ以外の選択教科に回されるのです。

歴史教育における美術史・音楽史などの文化史

「美術・音楽は学問ではない」という主張への反論として、世界史や日本史の教科書に美術史や音楽史などの文化史が、ある事を挙げる人もいるかもしれません。

しかし歴史教科書では、文化史などの単元は、政治史や経済史などの後回しの単元です。実際に歴史教科書を読むと、そういう構成になっています。どの時代も、最初にその時代の大きな政治上の出来事を紹介して、あくまで派生的な出来事のひとつとして、美術史や音楽史などの紹介を章末などでする、というのが歴史教科書の典型的な構成です。

美術作品を時代をもとに読み解こうとしても、せいぜい風景画に描かれた風景からその当時の景色を知るくらいしか出来ません。それはそれで現代に歴史の一部を伝えていて役立つ作品ですが、しかし、その絵の伝える風景の歴史を学ぶのに、わざわざ私たちが週に2~3時間も絵を描く必要はありません。たとえば私たちが歴史教科書を読むために、いちいち歴史教科書を自分で作る必要が無いのと同じです。

また、伝えられた風景画に描かれていない歴史上の時代の政治の事情とかは、美術作品や音楽作品から分かりようがないのです。たとえば、岸田劉生や横山大観の名画をどんなに見ても、たとえば日清戦争や日露戦争の経緯や結果や影響は、絵からは知りようがありません。ましてピカソなどの抽象画から、歴史を読み解くのは至難です。ただでさえ、一般大衆を対象にした普通の娯楽小説などからすらも、時代を読み解くのは難しいのです(高校生向けの卒業論文の書きかたのサイトなどでそう忠告されています)。なのに、文字すらない絵画・抽象画から時代を読み解くのは、さらに難しいのです。

中世ヨーロッパのルネッサンスなど、一部の地域と時代の研究では例外はあるかもしれませんが、かなりの例外的な時代です。

たとえば、洋画の岸田劉生や横山大観を知らなくても、明治時代についての勉強をしていくのは可能です。小学校の歴史教科書など、そのケがあります(もっとも中学歴史の勉強の課程で美術史なども学びますが)。しかし、明治時代の政治家で代表的な伊藤博文を知らなければ、明治時代の勉強をすすめていくのは、かなり難しいでしょう。

作品は、歴史上の政治の出来事から良くも悪くも隔絶しています。そのためか、歴史教科書の構成もそうなっています。政治・経済から隔絶している面もあるためか、現代でも時代を超えて人気の芸術作品もありますが、逆に考えると、芸術作品はそれぞれの時代を知る決め手にはならないのが実際です。手がかりの一つにはなりますが、けっして決め手にはなりません。


それどころか、高校教科書くらいからは文化史の単元は、前後の時代とまとめて書かれる場合も、検定教科書では、よくあるかもしれません。

たとえば仮に、高校日本史における政治史は、安土桃山時代と江戸時代初期とがそれぞれ別々の章立てで書いていても、いっぽうで文化史はひとまとめに安土桃山時代も江戸時代初期も、流れで一続きにして書いたりとか、そういう政治史とは独立的な構成の文化史になっている場合もありえます(あくまで仮の話です)。

なぜなら高校くらいになってくると、扱う政治・経済がだんだん細かくなってくるので、それらを文化史と結びつけて説明するのが、難しくなってくるのです。単に「難しい」だけでなく、そもそも結びつける必然そのものが疑わしくなってきます。

そりゃ、南蛮貿易の始まりとか、あるいは明治維新とか、そういう大きな出来事が起きれば文化にも影響を与えますが、そういう大まかな文化の分析はもう既に、小学校や中学校の歴史の授業で習ってしまった事です。


なお、文化史が政治史から独立する理由は、けっして「芸術が学問ではないから」ではなく、そもそも歴史の研究というのは分業的なシステムであり、そのため、あまり他の学問や文化・芸術の専門的な知見を必要としないものなのです。たとえば、大正時代の日本にだって数学者や物理学者はいましたが、歴史家が大正時代の研究をするのに、一部の例外的な科学史の研究者を除けば、多くの歴史研究者には、数学や物理学の大学理系レベルの専門的な知識はそれほどは必要ありません。

実際、私たちは大正時代の当時の最先端の数学を知らなくても、小中学校で大正時代やそれ以降の昭和時代や平成時代の、政治や経済や文化などの歴史を習っており、歴史知識を身に着けています。

そもそも社会は分業で成り立っています。学問でも上記のように分業が行われているのです。高校入学以降の学問というのは、このように次第に分業をしていくものなのです。政治史からの独立は、文化史が典型というだけであり、学問史などでもある程度は起きることです。こういう事情があるので、芸術の技巧を、歴史研究などに活用するのは、かなり難しい事だと思います。直接的に活用するのは、ほぼ無理でしょう。どうしても芸術以外の異分野に活用したいなら、間接的に活用するしかありません。

日本でも、国語教師や数学教師や英語教師が校長になる中学高校はあっても、一方で美術教師や音楽教師が校長になる学校は、普通科高校では、ほぼ皆無だと思います。

また、日本の大学では、ほとんどの大学で、美術や音楽の授業はなくなります。体育ですら、大学では2020年代ではもう、体育は大学の必修科目ではないです(なお、昭和の昔は、体育は大学では必修でした)。

家庭科も、大学では存在しない大学が、大半です。

医学部に行くと、解剖(かいぼう)スケッチや顕微鏡スケッチ(顕微鏡で見た映像を模写する)の実習はあったりするらしいですが、しかし芸術性は求められていません(形状の理解や伝達などが目的)。そういう理系の大学でのスケッチ実習の授業では、「芸術性が求められていない」と指導するくらい、らしいです。


さらに、世間の多くの消費者の中では、芸術の中にも格差があり、美術はその地位が低めです。

芸術の中でも、たとえば政治家が書道をしたりもしますが、しかし美術・絵画は基本的に政治家はしません。音楽や書道と比べて、美術は低く見られています。天皇家も、音楽をするのに美術はしないのが基本です。

大学でも、音楽室のある大学は比較的に多くあっても、美術室は美大と教育大を除けば、ほぼ皆無です。

口先では「日本のマンガ産業やアニメ産業は大切で・・・(以下略)」みたいなことを言う学者や大卒の評論家はいますが、しかし彼らの大学には、そもそも美術室すら無いのが現実です。

大学によっては絵画の飾ってある大学もあるかもしれませんが、しかし美術室は無いのが普通です。たとえるなら、大学にトイレはあっても、トイレ清掃員を育成する授業も部屋も無いのと同じです。


現代の学問がそれほど芸術面での美術を必要としてないという事について、例を見せたほうが早いでしょう。

 

英語科目用の、市販の英単語集にある絵の書き込みは、たとえば右図のようなレベルの線の本数です(画力のレベルではなく、線の本数のレベルの話をしています)。なお、右絵は、中学生むけにwikibooksの英語教科書のために書かれた絵です。もし、「市販の絵の書き込みが右絵と同程度」というのがウソだと思うなら、たとえば鉄緑会(大手の予備校のひとつ)の単語集にある挿し絵でも見てください。

この絵をもし、いまどきのマンガ・アニメの流行を追いかけてアニメキャラとかの顔に近づけても、英語教育として意味がありません。

(なお、右絵はカラーですが、説明の都合上、仮に線画だけの白黒の絵だとしましょう。)

なぜ意味がないかと言うと、まず、市販の書籍では、本の大きさの理由があるので、細かい書き込みは印刷が潰れてしまい、無駄になってしまいます。

高校レベルの単語帳は、単語数がとても多くなるので、説明のための絵は、かなり小さいです。(鉄緑単語集の絵など、そうなっています)


また、右絵は口を大きくあけていて目を大きく見開いていたりと、不自然な表情をしています。「歯」の英語 tooth を教えるために、口を大きく開けて歯も見せています。実際に鏡の前で口を開けたときとは、違っています。実際に鏡の前で口をあけると、下の歯はよく見えますが、上の歯はあまり見えません。

そもそも、よほど大きく口をあけないと、歯は、ほとんど見えません。

ですが、歯が見えないと、tooth などの単語の教えようがないので、あえて、映像的にはウソをついて、歯を見せています。

当然、不自然な絵です。このため、世間のマンガやアニメでは、こういう絵の描き方はされていません。

ですが、市販の英単語帳における絵は、むしろ、右絵のような映像的に不自然な絵のほうが多いのが実態です。

(まゆ毛ではなく)まつ毛なども、右絵では書きません。なぜなら、まゆ毛(eyebrow)の近くに別の毛があると、教育上、まぎらわしいからです。

まゆ毛 eyebrow を教えるため、まゆ毛を太くデザインしています。


このように、英語教育では、芸術性や娯楽性を追いかけるのは、むしろ、教育的には余分・余計なものとして避けられ、除去される事すらあるのです。

イラストレーターなどの作家のすぐれた技巧は、使い道が限られます。たとえば、小学英語の検定教科書にあるような、プロのイラストレーターが書いたようなマンガ風の細かいカラーの絵を、もし大学受験用の単語集(白黒)に載せても、印刷が潰れてしまい、単語集では無意味です。あるいは、仮に出版しても、値段が高くなってしまい、受験生の財布には、やさしくないのです。

小中学校の教科書にあるようなマンガ風のイラストは、学問の世界では、むしろ例外的なのです。

どうも、創作界隈の一部の人は、「すぐれた技巧を投入すれば、それは学問になりうる」と思っているようですが、しかし実態は上述のように違います。

海外の教育の情報について

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海外の教育情報で「海外でも美術を小中学校で教えている」という情報を聞くかもしれません。

「海外でも美術を教えている。教えたほうが生徒の国数英理社の成績も伸びる結果が出た」とか言うの。そういう情報、ネットでも聞いたことあります。

ただし、気を付けなければいけない点として、欧米の中高の美術教育の場合、日本と違って、欧米では美術史をもっと文章が講義などで多く教えている点です。芸術家の村上隆が、彼の動画の芸術闘争論で、そう海外の教育事情を説明しています。なので、美術の教科書が、(日本と違って)けっこう分厚くて、文字も多いという違いがある点です。


早い話、欧米の美術教育で5教科の成績が伸びた可能性としては、「美術史を教えたので、社会科の歴史の点数が伸びた。美術のいろんな本を読ませたので、国語の点数も伸びた」みたいな可能性もあります。

あるいは、「もとから海外の分厚い教科書を読めるほどに語彙力のある若者だから、もとから頭がいい」みたいな可能性とか。特に美術の場合、用語が抽象的だったりするかもしれません。

またあるいは、そもそも授業や教材で紹介している絵が、たとえばフランス革命のナポレオンのような歴史上の偉人を書いた絵だったら、そもそも絵の意味の解説をする授業が、ほぼそのまま歴史の授業になります。なお、音楽でもベートーベンの『英雄』という曲はナポレオンを意識して作曲してあるので、その音楽史の解説はそのまま歴史の授業になる。もし、そういう絵の比率が外国では日本よりも高かったりしたら、その国での「美術」教育の意味合いそのものが日本とは違います。


このように、欧米の情報の場合、意味は必ずしも「絵を描いて頭が良くなって、5教科の勉強ができるようになった」とは限らない点に注意が必要です。

欧米の中高の美術でも、実技の実習とかもあるでしょうが、日本とは時間の配分が違う可能性にも注意しなければいけません。

一般社会での実例

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欧米の例ですが、洗剤のパッケージデザインの絵に、果物などの生鮮食品を描いた洗剤があります。その国の子供が見ると、パッと見で、食品かお菓子のように見えてしまいます。そのため、実際に欧米のその国で、子供が洗剤を誤飲する事故も何件も起きています。こういう商品ですら、規制されずに販売が合法的に続けられます。『表現の自由』というのは、こういう面もあります。きっと医療関係者などは、苦々しく思っているでしょう。しかし芸術は、医療の下請けではありません。


では、芸術は経済や安全な社会では不要な、子供だましの技法なのでしょうか。いいえ、現実はそうなっていません。自動車とか建築とか、子供は買った事はないでしょうが、それを例に説明します。

実際のそれら自動車や建築などの製品の外観を見ると、物理学・化学など的には必要のない形状でも、独特な形状で文化的な形状があしらわれている製品も多くあります。量産品はなるべく部品を減らしたほうが費用が安くなるのですが、しかしそれにもかかわらず、たとえ部品が1つか2つくらい多くなったとしても、独特な形状をしている建築や自動車などもあります。

大手の自動車会社や住宅メーカーなどの製品でも、そうなっています。自動車や建築など、大人にとって、やや高い買い物になると、メーカー側か自社製品を消費者のアピールのためか、そういう独特な形状が求められる業界もあります。

ただし、半導体や集積回路など、あまりにも複雑で高密度・微小な製品になってくると、製品本体では芸術性は無くなります。


需要はあるけど、けっして格段ではない

SNSでは、サギ師が、「社会ではアート思考が求められている」とか「アートをしないものは視野のせまい差別的な人間だ」とか言いますが、デタラメです。多くの職業のうちの一つとしての需要に過ぎず、けっしてアートだけ各段には求められていません。現実、たとえば大学生の文系人材の就活で多くの大学生があこがれるような商社や金融機関などは、内部人員にはアートを求めていないです。絵も音楽も、特に技能は求められていません。

大手商社や大手金融機関が採用するような東大・京大や早慶などの難関大学には、特に、アート系の学部は存在していないです。

もしかしたら、吹奏楽部などは、運動部など部活動とかと同じくらいには評価されるかもしれませんが、それは運動部の経験者とかと同じ扱いでしょう。これに文句があってアートの意義を主張する人こそ、逆にスポーツを差別している差別主義者です。

就活の段階だけでなく、商社などの就職後も、特にアートだけが高度に求められるという話は聞きません。

どうしても絵描きや音楽家などと仕事をする必要がある場合、そういう専門家に外注します。そもそも社会は分業で成り立っています。

日本の製造業では、2010年くらいまでのかつて電機メーカー大手がまだテレビとかを開発していたとき、家電メーカーのテレビ開発の担当の人が、アニメ業界などの人にも無償で試作品を提供して、感想を聞くなどして開発に反映していた光景が、NHKなどテレビ取材されました。こういう風に、製造業は、もし試作品についてのユーザーの感想が欲しい場合、外注的にユーザーとなりそうな業界の企業に感想を聞いたりするのです。けっして、電機メーカー内に、いちいちアニメーターなどを雇用で採用しているわけではないのです。


1980年代からもう、国産パソコンなどのデジタル家電などの開発では、漫画家など当時の先端的な作家らの意見も聞かれています。たとえば、昭和の1980年代のかつて日本でパソコンメーカーのNECや富士通やシャープなどが国際パソコンなどを開発していたころ、漫画家でルパン三世の作者のモンキーパンチ氏は、CGソフトやそれ用の印刷プリンタの開発に協力しています。当時のモンキーパンチ氏が挿し絵をかいた学習マンガなどでも(当時はベビーブームだったので、そういう児童向けのl教育教材の市場が大きかった)、氏は最近(当時)はプログラミング言語のBASICも勉強していた事を報告したりしていました。

しかし2020年の現状、イラストレーターには特には、C言語などの知識は不要です。(例外的にプログラミングできる絵描きもいますが(イラストレーターに就職する前にIT企業勤務してた人もいたりする)、しかし基本的にその人のイラストレーションの作画の技法とは、その人のプログラミング技術が連動していません。)

19080年代の当時はまだ、パソコンの性能が非力なスペックだったので、なのでモンキーパンチ氏みずからがプログラミングを勉強して、いまのIT技術でいう「圧縮」のようなプログラミングすらもして、CGで絵を描いていたと、秋葉原などで当時は配布されていたフリーペーパー『PC-広場』で報告されているくらいです(そのためにBASICを学んで、実際に氏はプログラムを書いていた)。しかし令和の現在、そういう事をイラストレーターがしなくても良いように、すでにソフトがそろえられていて、技術者とイラストレーターとの分業になっています。


たとえば建設工事だって、もし商社が支社ビルを建設するからって、商社マンが建設工事をする必要が無いのと同様、商社マンは絵画や彫刻や音楽などを行いません。

これに文句をいう人こそ、逆に建設工事員を差別している差別主義者です。


テレビのニュース番組のニュースキャスターや取材スタッフを見てください。彼らは基本、歌も格段には上手くなく一般人と同程度だし、音楽もべつに作曲とかが出来るわけでもないし、絵もべつにマンガやアニメを連載できるわけではありません。

世の中にいるアート至上主義者みたいな人は、自分の趣味が優遇されないと差別だと主張する、ろくでもない人間ですし、自分の趣味以外を差別することが大好きなひどい人間です。

「自分が差別されるのは嫌いだけど、自分が他人を差別するのは大好き」、「世の中はゼロサムゲームなので、自分が差別されないために他人を差別するのが好き」、そんな自分を「わたしは反差別の博愛主義者である」と自己陶酔している、頭のおかしい人間です。


詐欺師の中には、科学者や技術者や大学教員もいます。「科学しか出来ない」自分たちが低くみられるのがイヤなのでしょう。あるいは教員なら、吹奏楽部の顧問とかイラスト研究会の顧問とかしている教員もいるので、親バカならぬ先生バカなのでしょう。しかし現実として、日本の東大・京大・早慶などの理学部や工学部など理系の学部からは、まったく「一流の画家や音楽家などが多数輩出」なんて話は聞かないです。せいぜい、「一般人よりかは上手い人もいる」程度でしょう。それは、一般サラリーマンのなかにも、絵や音楽が上手い人もいるのと同等でしかありません。

大卒アーティストのなかには、業界がめずらしがって学歴枠などで、どこぞの楽団や劇団などに採用される難関大卒の人も、たまにはいるでしょう。しかし、その人が、なにか日本または世界の音楽または演劇などを革新するような作品をつくりあげた、という話は基本的には聞きません。もしかしたら消費者からは見えないところで活躍しているのかもしれませんが、それはアートをしてない人も同様、一般の職場の見えないところで活躍しています。


基本、東大・早慶マーチ的な難関大卒で作家になる人は、ほとんどが小説家およびその志望です。多くの語彙を知っているから有利なのでしょう。いっぽう、絵描きや音楽家などになるのは、一般入試で東大・早慶的な難関大に進学した人にとっては、かなりの至難です。早稲田卒のミュージシャンがちらほらいますが、あの人達は、推薦入試的な特別枠での大学合格の人たちです。けっして、早稲田の一般入試で合格した人たちではありません。

マンガの場合、漫画『ナニワ金融道』作者の故・青木雄二(あおき ゆうじ)は、おおむね「東大卒とかで売れっ子漫画家になった人の話を聞かない」といった事を著書などで述べています(ただし1990年代後半ごろの話です)。東大・京大・早慶卒などにも漫画をつくった人はいますが、しかしロクに存在が知られておらず、プロとしては売れていません。

大手マンガ編集者は一時期、就職希望者が殺到して、高学歴だった事があります。海外販売などもする必要からか、語学なども出来そうな高学歴人材を編集にしていたり、法律対策などから法学部卒なども採用していた事もあります。それはそれで、出版社には必要な人材でしょう。

しかし、少なくとも作家の方面では、マンガ業界は、ナニワ金融道作者の言うような現実になっているのが現実でした。

手塚治虫は大阪大学医学部の系列の医療系学校を出ていますが、昭和の終戦前後のかなり昔の話であり、現代の受験難易度とは異なります。

『ゴーマニズム宣言』作者の小林よしのりは、地方の私立大の福岡大の卒業ですが、それでも(専門学校卒などもいる)マンガ業界の中では、かなりの高学歴・高学力であり、フランス語なども通訳なしで海外旅行できます。しかし、現実として日本のほかの漫画家やアニメ作家は、フランス語など話せなくても、人気マンガや人気アニメなどを作っています。


マンガは、けっして教科書ではありません。マンガやライトノベルなどを書くプロ作家のなかにも、ときどき子供に通用する言い回しを確認するために小中学校の学校教科書など教材を確認する人もいますが(SNSなどで普通に発信しています)、しかしその目的はあくまで通用する語彙などを確認しているだけにすぎず、けっして教育目的ではありません。


2001年ごろの平成初期あたりに理系の大学を出てイラストレーターになった人も少数いますが、2001年代の当時はいまと違って理系が不人気でした。特に工学部は不人気でした(令和の現在とは違います)。

2010年ぐらいの医療マンガ『K2』で作中の医学部の教授陣たちが各所で言っているのですが、いまの理系は勉強する事が増えて、学業以外のことを勉強するのがかなり難しくなっています。医学部にかぎらず、理学部・工学部なども同様でしょう。

ほか、アニメ業界では、東大卒として有名なアニメーターのベテランの人が少なくとも1名いますが、その1名が特殊な例外なだけです。たとえばアニメ監督の宮崎駿は私大の学習院大の卒業ですが、けっしてアナタが学習院を出たからって、けっして、学習院OBでもあるアニメ監督の宮崎駿みたいに映画監督になれるわけではないのと同様、東大卒アニメーターも例外中の例外です。


ほかの例を挙げましょう。たしか、お茶の水大の数学科の教授をしていた数学者の藤原正彦の著作に書いてあった例ですが、お茶の水女子大の数学科に、ピアノのとても得意な女子大生がいました。彼女は、数学と音楽との両立に悩み、数学科を卒業したが、数学者の道を辞めてしまい、音楽家に転向してしまい、音楽家として音楽方面のプロに就職してしましたとさ。

現実はこんなもんです。

評論家の中には、こういった大学生の実例も知らずに、なんか音波の周波数分解のフーリエ変換あたりのグラフあたりを出して、「ほら、電子楽器にも数学は使われているでしょ」とか気軽に言ったりしますが、しかし現実の2001年以降の理系の大学は両立できるようになっていません。

例えるなら、スポーツのシューズとかボールなどをつくるスポーツ用品のメーカーの技術者は、けっして自身がスポーツが得意なわけではありません。

練習の方針

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実技→本

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実技→本 のサイクルを回す

そして、専門外のことを広く浅く勉強するのを、手っ取り早くするための簡単な方法が、

ほんの少しだけ実際に実技を練習してみることと(ただし、失敗しても安全な環境という、安全を確保した上です)、その実技のあと、本を読むことです。

順番は、

実技 → 本

の順番です。まったく実技経験がないと、そもそも本に書いてある事を理解できません。

とはいえ、多くの人は、小中学校で、いろいろな実技を習っています。

あとは、学校で習わなかった実技のうち、自分の興味ある分野の実技を、少しだけ練習してみれば、専門外としては十分でしょう。

本というのは、そもそも、実技の練習の時間を減らすためにあるのです。たとえば理科の本なら、読者が実験せずに確認できるようにするために本を書いてあるわけです。

なので、読者にあまりに実技を要求する書籍は、専門外の人の読む本としては不適切です(専門家の人の場合は別です)。物理学者アインシュタインも、「理論は経験の節約」と言っています。経験をするための時間の節約です。

テレビの取材番組も、そもそも視聴者が現地に行かなくても済むように、交通費と時間を節約するために番組が存在しています。

人生の時間は限りがあるので、不要な時間は節約しなければいけません。


仮に本が書いてある事にマチガイがあるとしても、その創作の業界のプロ作家が書いた・監修した専門書である限り、業界内でのマチガイは少ないものです。(なので、きちんと茶者の略歴や実績を見ましょう。)

裏を返すと、芸術とか創作系は、たとえ専門書の記述でも、マチガイというか例外があります。(表現は多種多様なので、一般に業界内には膨大な種類の作品があり、プロ作家ですら全作品は追いきれないので、例外は存在するし、見落としもあるのです。)

なので、まあ、作家志望者むけには「読書してないで手を動かして、作品をつくれ。そして公開しろ」という業界人のアドバイスも、妥当です。

しかし、法学部とか経済学部とかを目指す大多数の人には(例外として大学卒業後にコンテンツ業界に就職しない限り)、あまり関係ないアドバイスです。

専門外の人にそこまで要求する業界人の言説は、けっしtr真に受けてはいけません。

もし、身近にそういう創作系の人がいるなら、「だったらさあ、じゃあお前が(お前の専門外の)政治や経済の専門的な勉強をしろよ」と反論すればよいでしょう。

趣味の勉強としては、ある程度、知識が深まって、「もう、本では学習が限界! これ以上の読者は非効率!」と感じたら、それでもまだジャンルを深く知りたいなら、そこで実技や作品づくりを再開すれば良いだけです。(あくまで専門外の人のための勉強法です。)


本が存在しない新分野なら、読書なんかせずに手を動かして作品をつくって公開するほうが、得られる知見は多いでしょう。

しかし、教科書で紹介されるようなジャンルは、もう読書したほうが早いです。そして、週刊マンガやアニメ番組ですら、もう日本で何十年もの歴史がある、古い産業です。

なんかアニメ産業とかを「若者むけの新しい産業」と勘違いしている大人もいますが、アニメなら、すでに第二次大戦中には存在している古い産業です(『桃太郎 海の神兵』)。もちろん時代に合わせてアニメ産業やマンガ産業の表現手法はアップデートを続けていますが、それは小説や音楽なども同様にアップデートをしており、決してアニメやマンガだけが特別なわけではありません。


「畳の上の水練」というコトワザがあります。プールに入らず水泳を練習しようとしても、無駄という意味です。同様、なにごとも実技・実践で検証をしてみないと、無駄になりやすい、という戒め(いましめ)です。

このコトワザは正しい。では、読書は無駄なのでしょうか。いいえ、読書も技能のひとつです。ある分野の読書をうまく自分の人生で活用するには、実際にその分野の読書をしてみるしかないのです。

「絵を描かずに絵が上手くなることはない」、これは、ほぼ真実でしょう。音楽やスポーツなども同様でしょう。

同様、「絵の描き方の本を読まずに、絵の描き方の本の活用法が上手くなることもない」のです。そして、作家を志望しない人に仕事で必要なのは、読書の実技のほうだったりする可能性も少しはあるのです(各人の進路による)。そこを勘違いしてはいけません。(なお、芸について正確な情報が必要な場合は、有償でそれぞれの分野の作家に依頼をします。いちいち、一般サラリーマンが絵の勉強をしません。社会は分業で成り立っています。たとえば、自動車会社の技術者は、テレビの自動車のCMを作れませんし、CM制作の勉強もしません。たとえ自動車CMを作れなくても、自動車の製造は可能です。)


自分の専門分野以外の専門書の読み方がうまくなるには、実際にその「自分の専門分野以外の専門書」を読んでみて、それを自分の専門分野で活用しようという実技をアレコレしないと(具体的な実技の内容は各分野ごとの異なる)上達しません。

もちろん、絵描きむけの専門書を書いた人は、絵描きの実務経験が豊富にある人なので、けっして社会にとって絵描きの実務経験が不要なんて言っていません。

ですが、私たちが書籍の購入でいちいち、お金を別途、書籍の著者とは別にチップを著者の絵描きに払う必要はありません。なぜなら「印税」(いんぜい)により、著者への対価・報酬は、その専門書の値段に含まれています。

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守破離

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最終的に、ほとんどの分野にて、技能の習得の方法は「守破離」(しゅはり)でしょう。まずは、上手い先人のやり方を真似る。ある程度は先人の真似ができるようになったあと、そのあと自分流にアレンジ、という意味です。

芸術表現に限らず、プログラミングや文章などのテクニックもそうでしょう。

著作権とかの侵害にならない限り、真似ればいいのです。絵の場合、どうせ自分は初心者なので、真似ても作品は似ません。あきらかな盗作とかでない限り、画風や作風を真似るくらいなら平気です。

人生の時間に限りがあるので、ゼロから試行錯誤して検証するのは時間的に無理です。

趣味でやっている事を上手くしたいなら、飽きるまで既存作家を真似たら、そのあと、自分好みにアレンジするなどすればよいのです。


なぜ守破離の「守」が必要か。

その理由:

プロの作家は、技巧の開発にて、表には出してない検証を、多数、裏で行っています。もしくは、表には出したが、売上などの統計の結果、ヒットしないなどが判明した自身のアイデアと検証作品などを、ひっそりと廃止しています。

今でも表に出て売れ続けている作品は、そういった新規の技巧の検証の結果、生き残った技巧だけを投入しているのです。

表にでない多数の失敗作、もしくは試しに表に作品として出したがヒットせずに静かに終了していった作品などの屍(しかばね)の上に、現代のヒット作があります。

たとえばマンガ産業なら、単行本が売れなかった話数で試していた手法とか、そういう失敗した手法は作家や編集たちは淘汰していっているわけです。

子供が思いつくことの大半は、すでに大人のプロ作家も思いついていて、実験をした結果、非効率だったり単行本とかが売れなかったりとかで、現代では普及しなかった手法です。

なのに、そういう語り継がれない失敗を知らないと、新しいアイデアが何でも成功するかと子供は錯覚しがちです。守破離の「守」をせずに最初から「破」のアレンジをしてしまうと、この屍と同じ失敗をしてしまい、時間のロスをしてしまいます。

たまには失敗も良い人生経験で勉強ですが、しかし人生の時間には限りがあるので、失敗ばかりを続けるわけにはいけません。

それでも、どうしてもオリジナリティのために非効率・高リスクな表現手法をあえて一つか二つ採用したいなら、ほかの手法は効率的・低リスクにしないと、自分の時間が足りません。

例外として、日本初のテレビアニメの時代とか(昭和の高度成長の頃)、日本初のCG映画とか、そういう黎明期(れいめいき)の時代とかで先人そのものが不在な時代でもないかぎり、先人の作家の作風を真似るほうが時間の節約でしょう。そしてアニメもCGも、そういう黎明期の時代は、とっくに過ぎました。

「アイドル売り」

伝聞ですが、昔から子供むけ商品の産業の内情として、よく言われている事ですが、子供むけの商品のデザイン画で、年齢が20台~30台前半くらいの若い絵描きを中心的に使うことがあります。新人の宣伝なども兼ねて、大仕事を与えたりもします。

発注者始点だと「作家の年齢が消費者に近いので、感性も消費者に近いだおる」という発想からか、発注者側から若手クリエイターが好まれることがあります。ただし、この場合、絵描きの年齢が高くなると、とたんに注文が減ります。

絵描きに限らず、企画マンとかも同様、加齢に応じて身のふるまい方を変える必要が生じると言われています。企画マンなら、たとえば大人向けの商品の企画を開拓するとか、あるいは会社の若手の下働きをするか、あるいは退職するか、などなど。

それでも絵描きはまだマシなほうで、音楽系なんて、特に女性なんてモデルみたいに外見も要求されたりして、加齢によって、表舞台に出なくなったりします。(もっとも、他にも結婚・出産・育児などで一時的に休業したりもあるでしょうが。)いわゆる「アイドル売り」です。

メディアで宣伝されている各分野の若手クリエイターなんかも、この影響があります。真に受けないようにしましょう。一世を風靡(ふうび)したはずの作家なのに、年齢が一定値を過ぎると、とたんにメディアで宣伝されなくなる場合もあります。


結局、どうすればいいのか

けっして、過去のプロ作家が試して失敗したアイデアだからって、現代でも必ずしも失敗するとは限りません。もしかしたら、過去には失敗したアイデアでも、数十年の年月の流れとともに消費者の好みが変わったことにより、今ではヒットするアイデアに変わっているかもしれません。あるいは、ほかの追加のアイデアとの組み合わせで、ヒットするアイデアに化けるかもしれません。

アイデアを考えて作品にするのも大事でしょうが、同じくらい、発表してみてもヒットなどの見込みのないアイデアを自分で淘汰したり組み合わせを変えるなどして、次の新アイデアに移るという諦め(あきらめ)も大事だという事でしょう。


見慣れない画風・作風の作品を出すと、短期的には「斬新だ!」と褒めてくれる人もあらわれます。

商売でも、新人の作品は、ある水準以上の丁寧な作りこみをしていれば、とりあえず、値段が安ければ業界人が試しに一つか二つ、市場観察として買ってくれます。

けっして、その段階で「自分のアイデアは売れる!」「自分のアイデアはプロでも通用する!」と早合点してはいけません。

なぜならそれは、新人の実力を調べるために、商人のプロがサンプル的に作品を買っているのにすぎないかもしれないからです。(芸術・表現の業界に限らず、他業界でも似たような現象がある。)


なので、「売れたアイデアか?」だけではなく、加えて(少なくとも一定期間は持続的に)「売れ続けるアイデアか?」「競争で生き残り続けたアイデアか?」を調べる必要があります。


なお、自分がもし業界で出世して偉くなったからって、過去の売れないアイデアが、急に売れるアイデアに変わる、なんて事は無いのが、表現の業界の通説です。これは別にwiki著者がそう言っているのではなく、作家たちがSNSなどでそういう感じのことを言っているのです(言い回しは違いますが、内容は大体こうです)。

業界での出世は、もし売れるアイデアを出せたときに、消費者から発見してもらえる確率が高くなるだけでしょう。なので、もし、元々のアイデアが売れないアイデアだった場合、残念ながら、たとえ出世した人が発表しても、それは売れないアイデアのままなのです。


練習法についての考え方の具体例

別の節でも述べたかもしれませんが、絵描きといっても、色々な職業があるので、けっして共通する画力というのは、あまり、ありません。

要求される能力が職業ごとに違うという事は、絵の練習法も異なってくるという事です。

手短(てみじか)に結論をいうと、「丸ごと模写」・「そのまま模写」です。

たとえば、漫画家のようなマンガ絵(けっして「マンガ風」イラストではなく、実際にコマ割りのあるマンガの絵)が上手くなりたくて模写で絵を練習する場合(ただし「そもそも漫画家に画力がどれほど必要か?」という議論は置いとく)と、一方でイラストレーターになりたくて絵を練習する場合は、練習方法が違います。

コマ割りのあるマンガそのものの絵の一番確実な練習方法は、まず実際に市販のマンガ作品のページのなかのどれか1コマを、なるべく丸ごとをそのまま模写することです。セリフの入る「吹き出し」(フキダシ)の枠ごと、丸ごと模写をしましょう。(ただし、書道ではないので、字までは上手に模写できなくてもよいと思います。なぜなら文字は「写植」(しゃしょく)という別の人の仕事です。)

けっして、「そのコマの中のキャラクターだけを描く」とか「背景だけを描く」ではなく、とりあえずコマの中の絵すべてを丸ごと模写することです。

もしかしたら作家によっては背景とキャラクターをチーム制作で別々の人たちが分業で書いているかもしれませんが、消費者サイドからは分かりようがないし、とりあえずコマそのままを丸ごと模写するのです。

スクリーントーンなどの機械で作った模様は、模写が不可能かもしれませんが、しかしそれ以外の線画の部分などはそのまま模写が可能です。

そして、1つのコマの模写が終わったら、なるべく可能なかぎり、次のコマをわがまま言わずに模写することです。

たとえ「次のコマよりも3ページ後のコマの絵のほうがカッコいい!(あるいは「かわいい!」)」とか思っても、なるべく一続きに連続するコマをセット・ペアで丸ごと模写するのがコツです。

なぜなら、そうすることで、コマ割りのテクニックなども体で覚えられるからです。つまり、丸ごと模写により、コマ割りごと模写をできるのです。

もし、こういう連続的な順番での模写の練習をしたくない場合、そもそも、本音では漫画家に憧れていない、目指していない、のが深層心理でしょう。

いっぽう、漫画家ではなくイラストレーターを目指す場合は、そういう連続コマという束縛は不要です。

このように、目指す職業により、適切な練習法が異なります。

ポーズの強調とシルエット

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よく、絵の技法書などで、ポーズの考え方などとして、たとえば

「キャラを黒塗りしても、シルエットだけで何の動作をしているのか分かるように書くのが、イラストのポーズのデザインのコツ」

みたいな事を主張する技法書があります。

べつに、当ページは、その技法に賛成も反論もしません。

演劇だと、そういう工夫が必要です。

なぜなら演劇は、複数人いる観客の位置によって見え方がそれぞれ違うのですが、演劇のデザインでは、どのイスに座っている観客であっても、ポーズの意味が分かるようにしないといけません。でないと、ストーリーの理解に支障をきたすからです。

たとえば、観客席の右端にいる人と、観客席の左端にいる人とで、それぞれの視界の中の景色は大きく違います。

生物学などの派生としての写実画の練習

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もし人体の生物学的な勉強の目的で、人体の構造を把握するためにヌード(裸体)の模写の練習をしたいなら、当然ですが、美術用につくられた本物の人間の写真を模写しなければ(あるいは、医学用の写実的な解説イラストなど)、その目的では勉強になりません(他の目的の場合は別です)。

いくら、上手なマンガやアニメのようなデフォルメされた絵を模写しても、それだけでは生物学的な人体構造の理解につながりません。

また当然ですが、生物学そのものの勉強を深める事も必要です。(なお現状(2024年)、大学の生物学科などでは、写実画などの能力は不要です。人体写真の模写などを自宅で練習しても、あくまで趣味の自由研究になります。)単にイラストレーターや漫画家などになりたいなら、高校レベル以上の生物学そのものの勉強は不要です。不要だとプロの絵描きたちによって実証されてしまっているくらいです(高卒の人も多くいます)。

この節では、あくまで、生物学などの理解を深める上での話をしています。

マンガ・アニメの模写は、マンガ家・アニメーターに必要な部分だけなら、人体構造の知識の理解には、つながると思います。しかし、それ以外の目的の、たとえば生物学や医学のために人体デッサンを勉強しようと思う人なら、当然ですが、現実の人体の写真の、模写をするほうが効果的です。当然ですが、マンガ絵やアニメ絵は、本物とは違うデフォルメをしているからこそ、わざわざマンガやアニメ用のデフォルメされた絵としての描き起こしをされているわけです。

科学の世界では、近代にすでに美術と理科教育の組み合わせは試されており(たとえば近代フランスの数学者ポアンカレが大学「エコール・ポリテクニク」に入学したときの受験科目のひとつに、当時はデッサンが要求されていました)、そのため、美術を通じての21世紀の今さらの新規の科学的発見は難しいと思います。


ほか、ポルノ写真などはCG加工などをされている場合があり(たとえば本物よりも乳房が大きくされていたり、顔の形を変えられていたり、など)、そのため人体構造を把握するための練習対象としては不十分です。

美術用・医学用の裸体の模写をしたうえでなら、その上でマンガ・アニメなどのデフォルメを模写するなら、もしかしたら生物などの理解をさらに深めるかもしれませんが。しかしデフォルメ単独の模写では、ほとんど人体の生物的な理解になりません。

けっして、マンガ風・アニメ風の絵の練習が、「役立たない」とは言っていません。「医学・生物学などの理解を深めたいなら、練習対象が違う」という話をしています。マンガ絵などは分かりやすさや量産性を重視しているので、もしかしたら人に何かの情報を伝える絵の練習をしたいなら、マンガ絵の練習も役立つ場合もおるかもしれません。あるいは、比較的に低コストで物語性を感じさせそうな絵を描く練習にはなるかもしれません。

このように、勉強の目的にあわせて、何を練習するかを、変える必要があります。

嘘つきを見破るための美術・音楽

専門家を目指さない人の美術・音楽の練習にも、一応は人生で使いみちはあります。

たとえば、世間の社会評論系の評論家が、美術・音楽などを言い訳にしてデタラメなことを騙ってないかを調べたりするのには、役立ちます。「あ、この社会評論家、ウソついてるな。いまのアニメ業界とマンガ業界、そうなっていねーもん」とか、気づいたりしやすいわけです。最近は減りましたが、昭和や平成のころ、よく反体制の評論家に、マンガやアニメなどがダシに使われました。

創作物をダシに使う社会評論家たち

ほか、ゆとり教育のころなんか、競争主義からの離脱の正当化にマンガ産業などの存在が使われました。しかし、漫画家の多くは、マンガ産業は競争の激しい業界だと主張しています。(たとえば漫画家の 江川達也 や 小林よしのり などはそう言っていました。)

ですが、そもそも、世間の社会評論家の言い分そのものを聞かなければ、そういう社会評論家のウソを見抜くスキルも不要だったりするわけです。


最近だと、ゲームとポリコレなんてのもあります。ポリティカル・コレクトネス(政治的配慮)というのは、たとえば「黒人をなるべく悪く描かない」(黒人差別への配慮)とか、「女性をなるべく悪く描かない」(女性差別への配慮)とか、そういうのです。

表現の自由などとの対立から、ポリコレを批判する人もいます。

その評論家のなかには、「日本の漫画やアニメやゲームは、ポリコレに配慮していないのに、世界で受け入れらている」というものです。

ですが、少し間違いがあります。日本のゲーム産業は、ポリコレに配慮しています。少なくとも、家庭用ゲーム機や携帯用ゲーム機で販売されるような作品はそうであり、会社内または親会社にそういうポリコレ担当の部署すらも存在するくらいです。ゲームは開発費が多くかかるので、海外輸出も見込んで投資を回収する必要があるので、米国の社会問題などにも配慮せざるを得ないのです。アニメ産業でも予算の莫大な大作などは、似たような傾向があります。

社会評論家は、ご都合主義で、マンガやアニメやゲームを出すだけであり、本音ではマンガやアニメやゲームを馬鹿にしている評論家もいます。

そういう人でも、SNSなどのアカウント画像を外注イラストレーターにでも依頼してアニメ絵風に描かせてアイコン画像にすれば、観客は勝手に画像の絵のイメージと評論家を同一視して、アニメ・ゲーム産業の理解者として消費者に気に入られるのだから、チョロいもんです。

小説『坂の上の雲』だったか実写ドラマ版あたりでも言われてますが、きちんと学問を勉強しないと、バカになりますよ。

社会全体としてみれば、受験競争のレールから勉強も外れたスキルの練習もけっして不要ではなく使い道も一応あります。しかし需要は、けっこう小さいです。

また、美術は、実物でない絵を、あたかも実物かのように演出などで錯覚させるものですので、使い道によっては、絵の練習はウソを見破るのにも役立ちます。ですが、まずは社会科などで現実そのものを勉強するのが先決です。


基本的には、美術・音楽は、文系の科目との組み合わせが良く、とくに小説などの物語との組み合わせが良いです。


正直、特に理系科目では、美術・音楽などを活用するのは、かなり難しいです。

せいぜい、精神医学とかで、美大・音大めざして不合格が続いてノイローゼになっている子のことが少し分かる、的なくらいでしょうか。

しかしそういう人の需要は、かなり少数です。精神医療・心理学の業界全体で、少しの人数がいればいいワケですし、文系の心理カウンセラーとかナントカ心理士とかがすればいいわけで、わざわざ医師免許をもった精神科医がそこまでする必要性は小さいです。

文系でも、たとえば裁判所もそうです。知財の訴訟などで、絵画や音楽などの著作権についての訴訟もあります。ですが裁判官は、けっしてプロ絵描きのような絵を描けないし、プロ音楽家のような演奏もできません。それでも日本の裁判は粛々と行われます。

せいぜい、その知財を担当する弁護士が、たとえば美術の著作権を得意分野とする弁護士が、少しだけ絵の練習を世間一般の人よりも多めにしていれば十分なだけです。


高校カリキュラムでも、必履修以外の自由選択科目の(高校3年にあったりする)美術/音楽は、文系受験生のための科目だったりします。よくある時間割の構成が、理系科目の時間帯と、美術・音楽や家庭科などが重なっている、という時間割です(つまり、理系志望の受験生は、ハナっから高校3年の美術/音楽を履修できない)。

製造業などのエンジニアなら、パンフレットなどの宣伝イラストや宣伝写真をイラストレーターやカメラマンに発注する際に、ボッタクリの被害にあう確率が減る、くらいでしょうか。しかしそれは、相当に先の話ですし、大企業の会社全体で少しの人数がいれば充分です。

文化祭とかで高校生マンガを見ると・・・

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べつにマンガ等を「書くな」という話ではなく、進学校だと、書けても「ページ数が少なくなるよ」 or 「画風が、線が少ない画風に限られるよ」という報告。これは私見とかではなく、実際に高校生の文化祭とかで何校か見ると、こうなっていたという報告です。

学校美術で実技をしない表現は、時間が掛かるようです。マンガとかアニメとか、ああいうのは、学校美術では実技をしません。あれは作るのに、かなり時間や準備が掛かります。マンガ絵・アニメ絵でも、模写なら割と短時間で終わりますが、しかしオリジナル作品をつくろうとすると、簡単そうな絵柄のものでも、かなり下調べや資料の収集などに時間が掛かります。

たとえばドラエモンとかアンパンマンとかの国民的アニメみたいな、ああいう感じの線の少ない平面的な絵柄でも(最近のドラエモンのアニメの作画は立体的かもしれないが、話が長くなるので置いとく)、それをオリジナルで二次創作しようとすると、マンガにしろアニメにしろ、画力のほかに時間が必要です。

高校生の文化祭などで学生マンガとか見ると、キャラの大まかな造形だけ最近の深夜アニメキャラっぽい絵柄で、線の本数はドラエモン並み・サザエ並みに減らしたような作画が、高校生によくある作画です。ただし、美術部の高校生の多くは別にアニメ―ター志望ではないので、グラデーションなど、手書きアニメでは表現が困難な手法も使ったりするような表現も見られたりします。

進学校の場合、深夜アニメのような立体感のある絵で、部活などでマンガやアニメを作るのは、普通の高校生には、かなり困難なようです。やれたら天才です。「なろう系アニメ」のレベルの作画ですら、手こずっているようです。もっと線の本数を減らして、ドラエモン並みか、それに抵抗があるならドラエモン ~ なろう系 の中間の本数あたりの線の数で、妥協するしかありません(もし他校の文化祭で漫画とか公開されてたら、見れば分かります。進学校だと、大体そういう感じで妥協しています)。

学校の美術で、風景画とか描くのは、割と短時間で、観客が見て楽しめるレベルの絵を描けるから、という側面もあるのでしょう。

高校生の文化祭とか見てると、美術部という名目のマンガ研究会が、出し物でマンガを描いていても1~2ページくらいで終わったりします。そのくらい短くないと、学業との両立が難しいのでしょう。(まあ、部員が複数人いるので、部誌の一人あたりのページ数が1~2ページまで、という事情もあるかもしれないが)。まあ、マンガ以外にも各種の学内ポスターとかを書く仕事もあるのかもしれませんが、しかしマンガのページ数から、学業の忙しさがうかがえます。

けっこう絵の上手いはずの高校生が集まっているはずの高校(普通科)でも、そのくらい、忙しいようです。書けなくはないですが、かなり時間は、学業に取られているようです。

このように、時間を学業に取られますので、けっして「上手くなってから作品をつくろう」と考えてはいけません。上手くなる前に高校3年間が終わります。

そうではなく、せいぜい練習期間は3か月とかに限定して、それ以降は、「今の画力で、つくれるものを、丁寧に作ろう」と考えてください。そうすると、ページ数などは稼げませんが、それでいいのです。乱雑な価値のひくい絵を量産しても、意味はありません。

絵以外の仕事でも、ホワイト企業だと「遅くてもいいので、まずは高品質なものを仕上げろ」と、会社の先輩などから習います。スピードは、慣れれば、あとから付いてきます。

乱雑で無価値な作業に慣れても、意味がありません。まずは、遅くてもいいので、丁寧に作業し、それに慣れることでスピードアップを目指す、という方針になります。(ただし、線の本数を減らす、 or ページ数を減らす、 など目標のダウンスケールは必要です。)


高校生の絵を見ると、そうなっています。

そりゃ、イラスト投稿サイト(pixivとか)の上位ランカーみたいな絵なんて、進学校の高校生では、画力不足だけでなく時間もなくて描けません。だから高校生の多くは、少ない時間で、なんとか頑張って、描ける絵を、かいています。

アニメーターは、短時間で絵を描く訓練をしています。しかし進学校だと高校生は上述したように、深夜アニメの絵柄ですら、無理です(進学校以外は考慮していません)。


週刊作品のような20ページの漫画とか、それを最近のアニメみたいな上手い絵柄で書くのは、進学校では絶望的です。もし進学校なのに高校時代にそこまで流行の画風でマンガを描いた先輩が美術部にいたとしたのは、その人は天才の先輩であり、外れ値(はずれち)です。外れ値すぎて、参考になりません。

コロコロコミックのような児童向けのギャグ漫画ですら、あそこまでの画力に到達するのは、かなり難しいです。(というか、児童向けマンガの絵柄は、もともと絵の上手い人が、あえて、子供でも模写できるように線を減らして、ああいうマンガを描いている。話が長くなるので、置いとく。)

再三(さいさん)言いますが、「書くな」という話ではなく、目標をダウンスケールする必要がありそう、という話です。

実用書とアニメ絵

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一応、アニメ絵・マンガ絵みたいな絵柄は、実用書で役立つ用途もあります。よく世間で見やすいのは、運転免許の教本にあるマンガ絵です。これはよくネットで解説されているので、本ページでは説明を省略します。


他の例だと、たとえば看護学書など人体を扱う学問では、図解として人間の動作の絵を描く必要があります。

その際、場合によっては、治療者側の視線の表現の分かりやすさからか、マンガ絵・アニメ絵のような絵が使われる場合があります。

なんというか、ジブリアニメの『海が聞こえる』みたいな絵柄をまねた図解の看護の実用書というか、あるいはエヴァンゲリオンのアニメにいる少し大人のキャラクターの絵柄をまねた図解の看護の実用書というか、それらを混ぜた感じの絵柄というか、なんかそういう感じの絵柄の図解がある看護学の実用書が、世の中には存在します。(ただし、線の本数など減らせられており、看護学の教科書として簡略化されています。白黒です(大人向けの教科書に印刷するので)。)

いっぽう、医療系書籍では、解剖図などの絵は、基本的に写実的でなければなりません。また、患者の症状の絵も、基本的には写実でなけれればなりません。

しかし、治療者側の看護師の絵は、必ずしも写実的である必要はありません。形の正確さが問われているのではなく、動きの分かりやすさが問われているからです。

アニメ絵・マンガ絵だと、視線などが分かりやすいのです。このため、「この動作をするときは、どこに注視をすべきか」と言った事が図解しやすいのです。医療では、測定器も見たりもするので、治療者がどこをどう見るかが図解できなければならないのです。

世間でマンガ絵やアニメ絵のイメージというと、なんか楽し気な感じの絵柄というイメージか、あるいは可愛い・カッコイイといったイメージというか、そういう娯楽的なイメージがありますが、娯楽目的以外にも、一応は需要もあります。

ただし、実用書などで、ややリアル系なアニメ風の絵の需要は確実にありますが、しかし需要は小さいです。看護学書でマンガ絵・アニメ絵のような絵柄が図解で使われるからといって、「じゃあ日本のアニメーターたちの給料が、医者のように高いか?」というと、そうではなく低賃金なのが現実です。

たとえば、総合病院の1階の売店にいる店員の給料だって、けっして医者ほどは高くなく、世間一般の小売店の店員の給料と同じ程度なわけです。世の中というのは、そういうものです。


ただし、デフォルメされた絵の需要は、小さいながらも確実に娯楽以外にも存在していますので、国家としては、芸術や絵画の文化も振興する意義があるのは分かります。が、需要はともかく小さい。

意義があるからといって、給料が高いわけでもなく、そもそも仕事が多いわけでもないのがネックです。


ほか、歴史学習マンガや、各種の解説マンガなどは書店やネットなどにあふれていますが、まあ、ネットに情報も多いので、本ページでは省略します。

写実的な絵と、想像図

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写真・カメラが安価に普及している現代において、娯楽以外・芸術以外のなにかの教材にある写実的な絵は、程度の差はあれ、想像図です。中高生向けの教材にしろ、大人向けの教材にしろ。(ただし例外として、写真をそのままトレースした絵は除く。)

なぜなら、もし想像図でなく実在する物なら、そもそも絵で描かずに写真を撮影して、その写真を書籍で提示すれば済むからです。


写真のある現代にも、写実的な絵の需要は、一応はあります。

写実的な絵のある実用書は、分かりやすいのは歴史の図鑑とかでしょうか。日本史などの歴史の図鑑(たとえば平安時代とか)のように、その時代には写真が無かった時代の想像図だが、デフォルメが不要な絵というのもあります。

図鑑の絵は、油絵っぽいタッチで描かれたりしますが、現在はCGで油絵っぽい絵柄も描ける時代になっています。(そういうCGソフトもあります。)ただし、実際に図鑑のイラストレーターがどういう書き方で絵を描いているかは知りません。

中学の歴史教科書の絵でも、過去の想像図は写実的に書かれる一方、案内役の現代の中高生はマンガ絵風に描かれたり、そういう区別もあったり。

歴史といった社会科だけでなく、恐竜図鑑みたいに太古の生物の図鑑も、写実的な想像図になったりします。

マンガ絵・アニメ絵が、娯楽以外の用途で使われるのは、かなり希少です。歴史教科書のように、覚えてもらいたい部分は写実的になったりします。


余談ですが、小中学生むけの教材にあるような挿し絵などのマンガ絵は、定期的に、イラストレーターが変わります。あくまで想像図・イメージ図にすぎないので、特定の作家のイメージに片寄るのは、よくないからです。

なお、例外的に、小学校の国語教科書の作品中の挿し絵は、あれは原作の小説などにあった挿し絵ですので、変更をされません。

公務員なんかだと、ローテーション人事によって、数年ごとに部署が異動(いどう)になりますが(職場が変わることを「異動」(いどう)という)、どうやら公共の絵の世界にも似たような事はあるようです。

コンテンツ産業の科学技術についてのデマ

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ネットでは、広告代理店か何かのステマ下請けとでも思われるSNSアカウントなどが、デマで「アニメやゲームには、先端技術が投入されている」とか言いますが、デマ気味の情報です。

ゲームの場合、たとえば、水しぶきなどの流体の表現は、絵描きによるデジタルペンなどをつかった手描きアニメを取り込んでいるだけです。

なぜそうするかというと、もし水しぶきのような乱流のような3D計算をリアルタイムで行うと、計算量が膨大になり、ゲーム機のメモリを使いつくしてしまうからです。

まして携帯ゲーム機やスマホゲームの場合、とくにメモリの制約がキツイので、むしろドット絵の価値が見直されているくらいです。

「ムービー」と言って、3Dアニメ映画のように、ゲーム機ではなく事前にゲーム会社側で3D演算済みで録画済みの映像をゲーム内で流すという方法で、メモリの問題を回避をできます。ただし、その映像のなかで、キャラクターを自由にプレイヤーが動かすことができません(アニメ映画と同様、ムービー中は動かせません。テレビのドラエモンとかアンパンマンを、視聴者が動かせないのと同様です)。「プリ・レンダリング」とも言います。


このため、映像において先端のコンピュータ技術が使われているのは、世間の常識に反して、じつは(ゲーム業界というよりも)アニメ映画だったりします。アニメ映画なら、プリレンダによって、メモリの問題を回避できるからです。というか、プリレンダ以外のレンダリング方法が、アニメ産業では存在しません。アニメ映画の視聴者は、作中のキャラを動かせないので。

ゲームの3D技術というのは、メモリ制約のある中で、いかにしてリッチな3D映像を見せるかという、うまくメモリを節約する映像技術でもあるのです。けっして、世間の想像するような、「莫大な収益にもとづく莫大な投資で、とにかくポリゴン数の多い映像を見せる」というのではないのです。


「ゲームが先端分野」と言われてたのは、2005年くらいまでのソニーがプレステ2を販売していた話です。当時は、半導体の投資がゲーム機を中心に盛り上がっていたので、それは正しかった。でもプレステ3の国産CPUの『CELL』(セル)の構想は、失敗しました。


マンガの場合、ボールペンでも漫画を描けます。1980年代後半の漫画家で、雑誌ヤングマガジンのマンガ家で、ボールペンでマンガを描いている作家がいました。万年筆だと、入手しづらいので、ボールペンで書いていたそうです。

他の文画家でも、現代でも万年筆などで手描きでマンガを描いている作家もいます。

脚注

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  1. ^ 広尾晃 著『甲子園に出て東大へ行く、は可能か。 流行は文武両道ならぬ文武“別”道。 』 、Number web , posted2017/02/19 11:30 , 記事2ページ目
  2. ^ 『偏差値75の渋谷幕張が体現する、「文武両道」の本当の意味』, 2015/7/30
  3. ^ 広尾晃 著『甲子園に出て東大へ行く、は可能か。 流行は文武両道ならぬ文武“別”道。 』 、Number web , posted2017/02/19 11:30 , 記事1ページ目
  4. ^ 『Googleがデザインするときに大切にしている10個の原則』、GIGAZINE、2008年04月25日 00時22分
  5. ^ コトバンク『狂人走れば不狂人も走る』