トーク:高等学校数学III/極限

最新のコメント:10 年前 | トピック:「三角関数の極限の証明について」について | 投稿者:パンの袋を留めるやつ

3 よく有る疑問とその回答

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勝手ながら以上の項目を追加させていただきました。初学者によく有る疑問の解決、というような項になります。 初めての編集ですし、浅学ゆえ稚拙な部分・文章的におかしな部分が多いので、(項目削除も含めて)色々と修正をお願いします。 …そもそもこのノートの使い方もよくわからないレベルだったりします。--Yamazzaki 2010年3月5日 (金) 14:21 (UTC)返信

執筆ありがとうございます。この「ノート」ページでは、もとのページ高等学校数学III 極限に関わる議論をしますので、Yamazzakiさんのように議論を振って頂いて議論するということで合っています。ウィキブックスは誰でも自由に編集ができるものですので、勝手に項目の追加などをしても構いませんし、逆に(議論を経て)やっぱりやめましょうということになることもあります。
さて、本題に入ります。Yamazzakiさんの投稿を拝見しました。まずウィキブックスは教科書であってエッセイではないので、「私」による文章とするのはよくないかと思います。このページは複数人による共著になっていますから、「私」が誰なのか(履歴を見て調べない限り)分かりません。また、ウィキブックスでは中立的な観点からの記述が求められますのでよろしくお願いいたします。取り急ぎこの点だけ修正させていただきました。
内容もいわゆる文科省の指導要領などとはかなり外れて抽象度が高くなっていますから、コラム的にする(教科書の「発展」ページなど)か、あるいはより高度な教科書に組み込む方が良いかもしれません。解析学基礎/極限なども参照ください。
このようなFAQはあって良いと思いますし、勉強に役立ちますのでぜひ作っていきたいなと思っております。ただ、姉妹プロジェクトにウィキバーシティというオンライン学習コミュニティがあります。ウィキブックスでは教科書を作成しますが、ウィキバーシティでは学習教材や小テスト、講義(講義ノート)の作成ができますので、そちらでやった方がいいのかなとも思いました(が、教科書にコラムを書くのもいいですねとも思います)。Yamazzakiさんの記述はすごく良いと個人的には思いまして、実際にやっていることはおそらくε-δ論法だと思うのですが、記号を使わずに解説されているのがすごい(その分厳密性は欠けますし用語も難しくなりますが問題ないでしょう)と思いました。何らかの形で活かしたいと思います。よろしければ今後とも宜しくお願いいたします。--Ninomy-chat 2010年3月6日 (土) 09:48 (UTC)返信
ご意見と修正、どうもありがとうございます。注意された点については以後気を付けたいと思います。
指導要領は良くわからないのでなんとも言えないんですが、確かに教科書っぽくは無いので、コラム的にする、というのは良いですね。項の題名に[コラム]とでも付記しておけばよいでしょうか?
[発展]とするのは無しの方向でお願いします。これは発展的な内容ではなく、むしろ極限の理解に苦しむ生徒を手助けする"基礎"に当たる部分ですので。
個人的な考えとしては、ε-δの様に抽象度が高い議論ではないので、初めて極限の議論に触れた高校生でもついていけるだろう、と考えた上で、現にこのような回答を一番欲しているのは高校生だろうと考えたので、高校数学のページにこの項を挿入しました。解析学の項にこのようなある意味"間違った理論"を紹介すると、教科書としておかしなことになりかねないとも考えました。この議論は完全なオリジナル(まさに高校の極限で苦しんでた時に編み出したもの)ですが、個人的にはε-δというより、超準解析的な議論なんじゃないかな?と思っています。超準解析をちゃんとやったわけじゃないので、詳しくはわかりませんけど。
ウィキバーシティというのは知りませんでしたが、あまり活発でないようですね…。やはりコチラのほうが良いように感じました。あれではコミュニティが小さすぎるので…--Yamazzaki 2010年3月7日 (日) 14:37 (UTC)返信
読ませていただきました。高校数学の一般的な教科書が初学者を煙に巻いてごまかしがちなところに対してかゆい所に手を届かせようとする試みと受け取りました。この類の内容が「高等学校数学III」の下にあるのはよいことだと思います。私はこの類の記述をどこにどのような形で置くべきかについてはNinomyさんよりもYamazzakiさんの考え方に近いことを思います。高校生でも理解できるでしょうし、高校生に読んでほしい内容です。「発展」というのも違う気がします。またウィキバーシティはちょっとまだお話にならない段階ですから、ここにコラムとして置いておいたほうがよっぽど有用かと思います。
ただ内容については私は少し不満です。極限という概念の妥当性に疑問を投げかけていながら、「∞」というものを実数ではないがどこかに実在するものとする立場に立っているからです。確かに超準解析的な見方ではそれもありうると思いますが、普通は極限はε-δ式に考えるものですし(つまり「 」は「 」であり、「「x」を「∞」に「近づける」」などと分解してはならない)、それに極限の存在に疑問を持つ読者ならば超準解析的な見方には拒否感を示すんじゃないかという気がします。--211.1.219.126 2010年3月9日 (火) 11:34 (UTC)返信
意見どうもです。
一つ誤解しているところがあるようなので指摘させていただきますが、高校生にとっては極限の解釈について「普通」などというものはありません。強いて言うなら教師の言の「xを~に限りなく近づけた時」という解釈だけが「普通」なんです。分解しては成らない、等と言われても高校生はピンとこないでしょう。
ともかく、そういう前提のもとでこの文章を書いたので、普通はε-δで考える、等と言うのはお門違いであって、ここで重視すべきは普通だとか妥当だとか常識だとか、そういうもんじゃないと思います。高校生からすれば、超準解析的な立場だろうと、ε-δ的な立場であろうと変わりないんです。
そこで、個人的に最も重視したのは「分かり易さ」です。超準解析的な立場に拒否感を示す可能性があるのならば、ε-δにも同様の拒否感を示す可能性も十分にありますし、どちらの割合が高いかなんて計りようがありません。
そこでどちらをとるか、となると厳密性が高い方をとるか、分り易い方をとるかの二択になると思いますが、自分は分り易い方を選んだわけです。実際、自分は極限の実在で悩みましたが、ε-δの考え方に拒否感があるタイプで、自分で考えたこの議論の方が直感的でしっくりきます。指摘する人物像と丁度逆のタイプです。
もちろん、ε-δにのっとった立場で分り易く解説出来るならそれも良いと思いますので、そういう案があるなら是非お願いします。自分がε-δの立場で書いたら難解なものになるでしょうから、そんなものは自分には書けません。書けるなら書きたいんですけどね。恐らくその二つの立場の解説がそれぞれ有るのがベストだと思います。どちらかに拒否感を示す生徒が居たとしても、もうひとつの方で納得するかもしれませんから。
また、立場以外の点に関しても文章・解説に不満が有るのならば、何らかの修正をお願いしたいと思います。
あと、とりあえずコラムと言う形で良さそうなので、そういう形にしておきました。--Yamazzaki 2010年3月9日 (火) 17:07 (UTC)返信
 」とかについては「xを0に限りなく近づけた時」という言い方だけが高校生にとって唯一の考え方であるというのはよくわかっていますが、「 」もそう教える(つまり、「∞に近づける」とする)のが普通なんでしょうか?「xを限りなく大きくした時」という言い方をするもんではないでしょうか?わかりにくい表現だったのは申し訳なかったと思いますが、ε-δ式といったのは「「∞に限りなく近づける」ではなく「限りなく大きくする」と表現すること」を指して言ったつもりでした。εとδを使った具体的な議論自体がこの場において関係ない、お門違いであるということは理解しています。
また、私が気にしたのも「わかりやすさ」です。というよりも、受容できるか拒否するかという観点とわかりやすいかわかりにくいかという観点は分離できないと考えています。拒否感を覚えてしまえばそもそもわかろうとは思わないものだからです。ですので、この文章ではわかりにくい生徒がいるのではないかという考えを表明したつもりでした。
しかし、「二つの立場の解説がそれぞれ有るのがベスト」というのはまったくその通りだと思います。文句ばかりで自分が執筆していないことを申し訳なく思います。今すぐにはちょっと書けないのですが、時間とやる気ができれば、何か書けないか考えてみようと思います。--211.1.219.126 2010年3月10日 (水) 02:01 (UTC)返信
無限大の極限に関しては、確かに教師は「限りなく大きくしたとき」と教えると思いますが、式で∞というモノが出てきてしまっているという事から、「無限大に近づけた時」という表現との差異を見いだせないか、根本的に違いがあるのは分かっていながらも計算上で差異が無いために「そんなもんどっちでもいい」と考える人が大多数ではないでしょうか。又、他の極限は「限りなく近づけたとき」としているので、同じ記号であるのにも関わらず無限大にする時だけ違う意味、として捉えてられていないという人もいるでしょう。そこに問題意識を抱える人間は、極限値の実在を疑問視する人間と比べて特に多いと言うわけでも無いと思いますし、その層に相関関係がある(要はかぶり易い)わけでも無いように思えます。因みに自分は「そんなもんどっちでもいい」と考える層です。物理専攻していて、数学は手段として捉えているからかもしれません。
まぁつまりは、その表現の違いによる差異があまりないので、どっちでも良いと私は思います。この解説においては直接無限大を代入するという非常識な行為が行われているため、無限大の実在を許容した方が分り易いと思ったのでこういう形になっています。この解説を無限大と言う実在を許容しないで書くとなると、回りくどくなってしまって逆に分りづらくなるような気がします。
この解説が必ずしもすべての生徒にとって分り易いとは限らない、と言うコトは重々承知です。しかしながら「誰にでも分かる解説」なんてそもそも不可能ですし、自分にはこれ以上の解説が出来そうに有りません。ですので、もっと分かりやすくなるのであれば大幅な修正でも是非お願いしたいと思いますし、新しい立場の解説が出来るならばそれもお願いしたいと思います。--Yamazzaki 2010年3月10日 (水) 02:56 (UTC)返信

少し考えてみたのですが、私も文章力があまりなく、まとまったうまい説明はできそうにありません。そこで、とりあえずこのノートで懸念したようなことに関して補足説明という形で書き足してみました。お邪魔な記述になっていなければいいのですが・・・。--211.1.219.126 2010年3月14日 (日) 08:45 (UTC)返信

題名が不適だったのと、ちと主語が曖昧だったり主張する際の立場が曖昧だったりするところが何箇所かあったので、修正しておきました。あと、最後の段落は蛇足になっている上になんかモヤモヤが残っちゃう感じの説明なので、要らないように思えました。文章力はお互い様なのであんまり責められないなぁ…w 自分は、Wikiの良いところは何か問題が合っても他人同士でこういうふうに補完出来ることだとおもってますので、お互いもう少し積極的になっても良いと思います。--Yamazzaki 2010年3月14日 (日) 12:27 (UTC)返信
最後の段落がいらない、というのは語弊がありました。すいません。ちゃんと言うと、最後の段落の後半、つまり巧妙さがどーのこーのとか、大学初年度がどうのとかいう話は要らないかな、と思いました。あってもいいかもしれませんが、もうちょっと違う言い方出来れば…。--Yamazzaki 2010年3月14日 (日) 23:23 (UTC)返信
どうもです。最後の段落は半分勢いで書いてしまったのですが、一晩明けてみると最後の一文はいらない気がしたので削ってみました。「Wikiの良いところ」についてはまったくその通りだと思います。--211.1.219.126 2010年3月15日 (月) 03:35 (UTC)返信

「三角関数の極限の証明について」について

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表題の項について、加筆されたものを読ませていただきました。執筆いただきありがとうございます。ですが、どうも記述が回りくどく、冗長な気がします。その原因を私なりに推察するに、「ラジアンとは何か」といって説明されている部分(私の感覚では、これはπを定義しようとしているといったほうがしっくりきます)かと思います。どうやら、ここで弧長の定義として積分の式を持ち出しているために、話がややこしくなっているようです。

普通は弧長は折れ線近似の極限として定義するので、積分の式を定義とするのは珍しい定義かと思います。この部分は、参考文献として挙げていただいている山口格の論文を下敷きにしておられるかと思いますが、この論文では、あくまで定義は折れ線近似の極限で、連続微分可能ならば積分の値と一致することを示し、積分の式を使っているようです。こちらならまだ定義は一般的な定義になっている分ましですが、やはり冗長です。そもそも折れ線近似の極限が定義なのだから、それをそのまま使えばよくて、積分の式を持ち出さないほうがよいのではないでしょうか。

その観点で見てみると、最近出た本ですが、斎藤毅「微積分」(東京大学出版会)のπの定義(p54~57)が私好みです。背伸びした高校生に読ませたいこのコラムにも十分馴染むんじゃないかと思います。いかがでしょう、こちらを下敷きにした記述に差し替えてみませんか?--K.ito (トーク) 2014年2月8日 (土) 12:48 (UTC)返信

ご意見ありがとうございます。さて、斎藤毅氏の「微積分」をすぐには確認できないのでその点は何とも言えないのですが、ご意見について私の考えを述べさせて頂きます。
まず「ラジアンとは何か」についてですが、これは仰るように「π」を定義しようとしているのではなく、あくまで「ラジアン」の定義を再考する、というのが私の意図です。むしろπに言及したのは本質ではなくて、ついでに述べておいた、くらいのつもりでした。と言いますのも、証明の次の段階でラジアンを用いるので、ずばりそれについて厳密に定義する必要があるという流れで、そこではπは登場しないからです。そういう理由から、K.itoさんが仰るそのままに、「πの定義の別の方法」のみの議論では問題の部分の代替にはならないと考えております。
次に、弧長の定義についてですが、私としては、「次の式で求められる。」という言い回しでごまかしたつもりだったのですが、いけなかったでしょうか。要するに、「定義」したのではなく、知られている「結果」のみに言及したつもりだったのです。今回の加筆ではもちろん厳密さに配慮はしましたが、一番大事にしたいのは、循環論法の回避、つまり、穴のない論理です。そういうわけで、数学的に「正しい」のであれば細かいことは多少置いておいて、なるべくスムーズに論理を完成させることを目指したつもりです(つまり冗長になることを避けようとした結果ではあるのです)。この点でのK.itoさんの提案は、「折れ線近似のみを提示して、積分は持ちださない方が良いのではないか」とのことですね。しかしその後で曲線の長さの値を実際に求めなければならないので、積分の式は必要だと思うのですが、折れ線近似の極限でも同様の展開が可能なのでしょうか。不勉強で分からないのでよろしければお教え下さい。
以上が私の考えです。再度ご意見を頂ければ幸いです。--パンの袋を留めるやつ (トーク) 2014年2月10日 (月) 15:57 (UTC)返信
「πの定義」という表現はあまりよくない表現でしたね。私が言いたかったことをより噛み砕いて説明させてください。
「ラジアンの定義」について再考しているとのことですが、高校数学におけるラジアンの定義は、「弧長」という未定義概念を使っていること以外は明瞭な定義です。また、この「弧長」にしても、有限確定値であることさえ確認できれば、具体的な値がいくばくであるかがラジアンの定義に影響を及ぼすことはありません。ただ、度数法との換算をするには、弧長の具体的な値を実数で指し示すことが必要になるというだけで。ですので、「ラジアンの定義の再考」をする必要はないと考えます。「弧長の具体的な値を実数で指し示す」というのが半円の弧長はπという言明で、これは有限確定値ということだけがわかっている数値に特定の名前を付ける行為に過ぎないので、「πの定義」といったわけです。この観点で現行の本文を見ると、円の4分の1について積分の式で計算した値は、具体的な値が何かはわからないけれど有限確定値なのは間違いないので、それに「π/2」という名をつけている、という風に読めます。
もちろん、この話の流れの中で、弧長の定義から派生する性質については再考の余地があります。具体的には、証明中で使っておられる
 
ですね。これをどのように示すかが問題になります。私が指摘したのは、この証明に積分の式を持ち出すのが冗長だということです。折れ線近似の極限を弧長と呼ぶことにすれば、幾何的なはさみうち(斎藤の本において「πの定義」のために用いているロジック)をしてやることで、この極限を計算することができるのです。そのことを言おうとして舌足らずになってしまったのが前回の私のコメントです。つまり、「曲線の長さの値を実際に求め」る必要はない、というか現行の本文でもそんなことはしておらず、したがって積分の式を利用する必然性がない、ということです。
なお、私の数学的感覚では、「細かいことは多少置いておいて、」「穴のない論理」を展開するというのはちょっと意味が分からないです。これは二律背反であるように感じます。--K.ito (トーク) 2014年2月12日 (水) 15:30 (UTC)返信
再度のご意見ありがとうございます。まずラジアンに関してですが、必要な本質は(後半の言い回しは色々考えられるでしょうが、)「『弧長』を定義し、円周の長さが有限確定値であることを示すこと」だということですね。確かにその通りだと思います。
次の部分について、
円の4分の1について積分の式で計算した値は、具体的な値が何かはわからないけれど有限確定値なのは間違いないので、それに「π/2」という名をつけている、という風に読めます。
とありますが、これはその通りです。ですが、恥ずかしながらその前の一文からの
「弧長の具体的な値を実数で指し示す」というのが半円の弧長はπという言明で、これは有限確定値ということだけがわかっている数値に特定の名前を付ける行為に過ぎないので、「πの定義」といったわけです。この観点で現行の本文を見ると、
の辺りが流れの意味が取れないので、必要であればもう一度ご説明下さい。
次に、積分の式を出すか出さないかという問題です。K.itoさんの仰るところはよく分かりましたし、その証明もぜひ見てみたいです。ただここでふと思い出したのが、このコラムが、WIKIBOOKS内の高校の学習内容に対応した教科書の一部であるということです。教科書事情に詳しくはないので断言はできませんが、おそらく新課程から追加された「曲線の長さ」の部分で、曲線の長さを求める積分の式は必須の内容だと思われます。この(WIKIBOOKSの)教科書もその新課程に対応していくべきものでしょうから、このことは考慮すべきでしょう。一方で、これはあまり自信が無いのですが、直近で目にした旧課程の教科書の内容(「曲線の長さは、媒介変数表示したときの速度ベクトルの大きさの積分によって求めらる」ということから出発する内容)と、区分求積の考え方のこれまでの扱われ方(面積の定義のような形になっていないものもある)から推測するに、折れ線近似による曲線の長さの定義は必須ではないように思われます。教科書によって掲載するしないが分かれているか、全ての検定済教科書に掲載されていないかのどちらかではないでしょうか。要するに、積分による求め方は必須で、折れ線近似による定義は必須ではないと思われ、そのためにここで積分による表示を避けたとしても、後々にその内容は避けられないということです。ただ、仮に全ての検定済教科書に折れ線近似による定義が掲載されていないとしても(そこには何らかの理由があるのでしょうが)、WIKIBOOKSは独自にその内容を解説すれば良いのですし、その場合はここで積分による表示を避けても全く問題ないものと考えます。
このあたりの事情を踏まえて(これらは推測に過ぎませんが)、K.itoさんが折れ線近似の内容の方が適していると判断されるのであれば、その内容に差し替えて頂ければと思います。
最後に、二律背反と仰ったことについてですが、例えば正しい証明の中である「定理」を用いる場合を考えて頂ければよろしいかと思いますが、その場合、定理の証明は既知として省略し(細かいことは多少置いておいて)、正しい(穴のない)論理が展開されることになります。私が意図したのはこのようなことだったのですが、適切な言葉を選ぶことができなかったので伝わらなかったのか、失礼致しました。--パンの袋を留めるやつ (トーク) 2014年2月13日 (木) 14:14 (UTC)返信
お返事が遅くなりました。「折れ線近似による曲線の長さの定義は(高校生にとって)必須ではない」というのは確かにその通りで、やっぱり記述する必要はないのかなぁ、と思い始めています。ですので、記述についてはこのままで結構だと思います。
ただ、積分の式による記述も同種の問題をはらんでいることだけは指摘させてください。なぜなら、確かにこちらは必須事項なのですが、この記述において行っているような使い方に習熟することは必須ではないのです。すなわち、円弧の長さの計算でいえば、(sinθ/θ→1から導かれる)公式を用いて置換積分することができればよいのであって、その公式を使わずに平均値の定理を駆使して評価することまでは求められません。論理的には等価であっても、このような技術的な側面だけで高校生の心理的負担は随分変わるように思います。なので、やはり積分の式による記述も高校生には読みにくいだろうという懸念は変わりません。--K.ito (トーク) 2014年2月16日 (日) 13:59 (UTC)返信
お返事が大変遅くなり申し訳ございません。さて、積分を用いた方法も、このような考え方自体は必須ではないということですが、私もその点はその通りだと思います。ただ、この節はコラムですし、「興味がある人のために」とも断っていますから、私が意図した目的(後述します)を達成するには、高校生にとって読みにくくても致し方ないのではと思います。
さて私がこのコラムで示したかったのは、(循環論法がそこに存在すること自体もその一つですが、)問題の循環論法が避けられるという事実と、それを裏付ける一例の確かな証明であり、ついでにその証明が、高校生たちにとって頑張れば完全に理解できそうなもの(そして実際に理解可能であるもの)であるといいな、という意図でした。
このように私は考えていますが、いかがでしょうか。--パンの袋を留めるやつ (トーク) 2014年2月20日 (木) 15:00 (UTC)返信
あるべき方向性については概ね同意できます。ただ、どのような説明をすれば「高校生たちにとって頑張れば完全に理解できそうなもの(そして実際に理解可能であるもの)」になるか、という点は少しずれているかもしれません。「確かな証明」は本当に確かに書くべきだ、という思いが私にはあります。ひとつ上の節の211で始まるIPは私なのですが、読み直してみてもその点は4年経っても変わらないな、と思いますので、こちらも併せてお読みいただけると私の考え方がわかりやすいかと思います。下手に噛み砕くより、書くならある程度徹底して厳密に書いたほうが読みやすくなる、そしてそのためには、徹底して厳密に書いても読みにくくならないような証明法を選択するべきだ、というのが基本的な考え方です。
もっとも、本件の記述については(繰り返しになりますが)納得しましたので、現状のままでよいと思います。--K.ito (トーク) 2014年2月21日 (金) 14:44 (UTC)返信
K.itoさんの、2014年2月21日 (金) 14:44 (UTC)の発言の内容には、全体的に賛成です。「下手に噛み砕くより、書くならある程度徹底して厳密に書いたほうが読みやすくなる」というのは、言われてみれば確かにそう思えます。今後は私もこういった点を意識して活動していきたいと思います。今回の議論は大変勉強になりました。どうもありがとうございます。
さてこの件についての今回の議論はこのあたりにしておきましょうか。長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。--パンの袋を留めるやつ (トーク) 2014年2月26日 (水) 12:42 (UTC)返信
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