冒頭部

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本文

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(書き出しの部分)

 
祇園精舎(ぎをんしやうじや(ギオンショウジャ))の鐘(かね)の声、
諸行無常(しよぎやうむじやう(ショギョウムジョウ))の響き(ひびき)あり。
沙羅双樹(しやらさうじゅ(シャラソウジュ))の花の色(ハナのイロ)、
盛者必衰(じやうしやひつすい(ジョウシャヒッスイ))のことわりをあらはす。
おごれる人もひさしからず、
ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひ(つい)にはほろびぬ、
ひとへに(ひとえに)風の前のちりに同じ。
現代語訳(げんだいご やく)

(インドにある)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音には、「すべてのものは、(けっして、そのままでは、いられず)かわりゆく。」ということを知らせる響きがある(ように聞こえる)。 沙羅双樹の花の色には、どんなに勢い(いきおい)のさかんな者でも、いつかはほろびゆくという事をあらわしている(ように見える)。 おごりたかぶっている者も、その地位には、長くは、いられない。ただ、春の夜の夢のように、はかない。強い者も、最終的には、ほろんでしまう。

まるで、風に吹き飛ばされる塵(ちり)と同じようだ。


遠く異朝(いてう、イチョウ)をとぶらへば、秦(しん)の趙高(ちょうこう)、漢(かん)の王莽(おうまう、オウモウ)、梁(りゃう、リョウ)の朱伊(しうい、シュウイ)、唐(たう、トウ)の禄山(ろくざん)、これらは皆(みな)、旧主先皇(せんくわう、センコウ)の政(まつりごと)にも従はず(したがはず)、楽しみを極め(きはめ)、諌め(いさめ)をも思ひ(オモイ)入れず、天下の乱れむ事を悟らず(さとらず)して、民間の愁ふる(ウレウル)ところを知らざりしかば、久しからずして、亡(ぼう)じにし者どもなり。

近く本朝(ほんてう、ホンチョウ)をうかがふに、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これらはおごれる心もたけき事も、皆(みな)とりどりにこそありしかども、 間近くは(まぢかくは)、六波羅(ろくはら)の入道(にふだう、ニュウドウ)前(さきの)太政大臣平朝臣(タイラノアッソン)清盛公と申しし人のありさま、伝へ(ツタエ)承る(うけたまはる、ウケタマワル)こそ、心も詞(ことば)も及ばれね(およばれぬ)。

現代語訳(げんだいご やく)

遠く外国の(例を)さがせば、(盛者必衰の例としては)秦(しん、王朝の名)の趙高(ちょうこう、人名)、漢(かん)の王莽(おうもう、人名)、梁(りょう)の朱伊(しゅい、人名)、唐(とう)の禄山(ろくざん、人名)(などの者がおり)、これら(人)は皆、もとの主君や皇帝の政治に従うこともせず、栄華をつくし、(他人に)忠告されても深く考えず、(その結果、民衆の苦しみなどで)世の中の(政治が)乱れていくことも気づかず、民衆が嘆き訴えることを気づかず、(権力も)長く続かずに滅んでしまった者たちである。

(いっぽう、)身近に、わが国(=日本)(の例)では、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これら(の者ども)は、おごった心も、勢いの盛んさも、皆それぞれに(大したものであり、)、(こまかな違いはあったので、)まったく同じではなかったが、最近(の例)では、六波羅の入道の平清盛公と申した人の有様(ありさま)は、(とても、かつての権勢はさかんであったので、)(有様を想像する)心も、(言い表す)言葉も、不十分なほどである。

解説

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  • 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)・・・ インドにある寺で、釈迦(しゃか)の根拠地(こんきょち)。

敦盛(あつもり)の最期(さいご)

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  • 予備知識

一の谷の戦いで源氏が勝利をおさめ、平家は海上に逃れていった。

源氏の武将、熊谷(くまがい)が磯(いそ)のほうに進むと、なにやら立派な鎧の敵将が、これから海に逃れようとしている。

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熊谷(くまがい)

「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ(さふらえ(ソウロエ))。まさなう(ノウ)も敵(かたき)に後ろ(うしろ)を見せさせたまふものかな。返させたま()。」

と扇(あふぎ、オウギ)を上げて招き(まねき)ければ、招かれてとつて(トッテ)返す。

 汀に(みぎはに、ミギワに)うち上がらむとするところに、おし並べてむずと組んでどうど落ち、とつて(トッテ)おさへて首をかかんと甲(かぶと)をおしあ()のけて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧(うすげしやう(ショウ))して、かねぐろなり。わが子の小次郎(こじらう(ロウ))がよはひ(ヨワイ)ほどにて容顔まことに美麗(びれい)なりければ、い()くに刀を立べしともおぼえず。

熊谷が(言った)、

「そこを行かれるあなたは大将軍とお見受けいたします。見苦しくも敵(=源氏)に後ろ(=後ろ姿、背中)をお見せになるものよ。お引き返しなされ。」

と扇を上げて、招くと、(その平家の武者は、)招かれて引き返す。

(平家の武者が)波打ち際に上がろうとするところに、(熊谷は、馬を)強引に並べて、むずと組んでどうっと落ち、(熊谷が、平家の武者を)取り押さえて、(平家の武者の)首を切ろうと、かぶとを仰向け(おうむけ)にして(顔を)見てみると、年十六、七くらいの(若武者)が薄化粧して、お歯黒をつけているのであった。わが子の(熊谷の子の)小次郎ぐらいの年齢であった。顔立ちがたいへんに美しく、(熊谷は)どこに刀をさしてよいかも分からない。

語釈
みぎわ ・・・ 水際(みずぎわ)のこと。

「そもそも、いかなる人にてましまし候ふ(さふらふ、ソウロウ)ぞ。名のらせたまへ、助けまいらせん。」

と申せば、「汝は(ナンジは)たそ」 ととひ給ふ。

「物そのもので候はねども、武藏(むさし)の国(くに)の住人、熊谷(くまげへの、クマガエノ)次郎(じらう、ジロウ)直実(なほざね、ナオザネ)。」と名のり申す。

「さては、なん()にあふては名のるまじゐ(イ)ぞ、なん()がためにはよい敵(かたき)ぞ。名のらずとも首をとって人に問へ(トエ)。見知らふ(ミシロウ)ずるぞ。」

とぞのたまひ(イ)ひける。

(熊谷が若武者に言った、)「いったい、(あなたは)どういう身分の人にて、いらっしゃいますか。お名乗りください。お助けいたしましょう。」と申すと、「(そういう)おまえは誰だ。」とお尋ねになる、(熊谷は答えて、)「物の数に入るほどの者ではございませんが、武蔵野の国の住人、熊谷次郎直実。」と名乗り申し上げる。

(若武者は答えて)「それでは、お前に対しては名乗る気はないぞ。お前の(手柄の)ためには、(私は)よい敵だぞ。(私が)名乗らなくても、首を切って、人に(私の名を)尋ねてみろ。見知っているだろうよ。」と、おっしゃった。

※ ネタバレ: 若武者の正体は、平敦盛(あつもり)。平清盛の弟である平経盛(つねもり)の末子。位階は従五位下。熊谷は、まだ若武者の正体を知らない。

熊谷(くまがえ) 「あつぱれ(アッパレ)大将軍(たいしやう(ショウ)ぐん)や、この人一人(いちにん)討ち(うち)たてまたりとも、負くべきいくさに勝べきやう(ヨウ)もなし。また討ちたてまつらずども、勝つべきいくさに負くることよもあらじ。小次郎が薄手(うすで)負うたるをだに、直実は心苦しう(クルシュウ)こそおもふに、この殿(との)の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆き(なげき)たまはん(タマワン)ずらん、あはれ(アワレ)、助けたてまつらばや」と思ひて、後ろをきっと見ければ、土肥(とひ、トイ)・梶原(かぢはら、カジワラ)五十騎(き)ばかりで続いたり。

  熊谷(くまがえ)泪(なみだ)をおさへて申けるは、 「助けまゐ(イ)らせんとは存じ候へども、味方(みかた)の軍兵(ぐんぴょう)、雲霞(うんか)のごとく候ふ。よものがれさせ給はじ。人手にかけまゐ(イ)らせんより、同じくは、直実が手にかけまゐ(イ)らせて、後の御孝養(おんけんやう)をこそ仕り(つかまつり)候はめ。」 と申ければ、 「ただ、とくとく首をとれ。」 とぞのたまひける。

熊谷あまりにいとほ(オ)しくて、いづくに(イズクニ)刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く々く首をぞかいてんげる。

「あはれ、弓矢とる身ほど口惜し(くちをし、クチオシ)かりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかる憂き目(うきめ)をばみるべき。情けなうも討ちたてまつる物かな。」

とかきくどき、袖を顔(かほ)に押し(おし)あててさめざめとぞ泣きゐ(イ)たる。

熊谷は(言った)、「ああ、立派な大将軍だ。この人一人を討ち申したとしても、負けるはずのいくさに勝てるわけでもない。また、討ち申さなくとも、勝つはずのいくさに負けることも、まさかあるまい。わが子の小次郎が軽い傷を負っただけでも、この直実(自分)はつらく思うのに、まして、この殿(若武者)の父親は、(子が)討たれたと聞いたら、どれほどお嘆きになるだろう。ああ、お助け申したい。」と思って、(自分の)後ろをさっと見てみれば、(味方の源氏の)土肥・梶原の軍勢が五十騎ほど続いている。

熊谷は泪(なみだ)を抑えて、(若武者・敦盛(あつもり)に)申したことは、「お助け申したいとは思いますが、味方(=源氏側)の軍勢が雲霞のように(大ぜい)おります。決して、お逃げにはなれないでしょう。他の者の手にかかるならば、(どっちみち命が助からないのならば、)同じことなら、この直実の手でお討ちになり、のちのご供養(ごくよう)をさせていただきましょう。」と申したところ、

(若武者は、)「とにかく、さっさと(私の)首を取れ。」とおっしゃった。

熊谷は、あまりに、(若武者が)かわいそうに感じて、どこに刀を刺してよいかも分からず、涙で目もくらみ、気も動転して、(まるで)前後も分からないようなほどに思われたけど、(けっして、いつまでも、)そうばかりもしていられないので、泣く泣く首を切ってしまった。

(熊谷は、)「ああ、弓矢を取る(武士の)身ほど、悔やまれるものはない。武芸の家に生まれさえしなければ、なんでこのようなつらい目にあったであろうか。非情にも、お討ち申しあげたものだ。」と、くりかえし嘆き(「かきくどき」=繰り返し、つぶやく。)、そでを顔に押し当てて、さめざめと泣き続けた。


若武者を討ち、しばらくしてから、熊谷は若武者の腰の袋の中から、一本の笛を見つける。戦場にあっても笛を手放さない優雅さに、源氏の武士たちも心を打たれる。
のちに、この若武者の正体は、平敦盛(たいらのあつもり)、大夫敦盛(たいふあつもり)であることが分かり、年は17歳であることが分かる。
このようなことから、熊谷は、出家を願う思いが強くなっていった。
(※ 教科書では、敦盛の件については、ここまで。このあと、以下のような内容に続く。)

その後の展開

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やや久しう(シュウ)あつて(アッテ)、さてもあるべきならねば、鎧(よろい)直垂(びたたれ ←ひたたれとも読むがこの場合はびたたれ)をとつて(トッテ)、首を包まん(つつまん)としけるに、錦(にしき)の袋に入れたる笛をぞ、腰にさされたる。


 「あないとおし、この暁(あかつき)、城のうちにて管絃(くわんげん、カンゲン)したまひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に東国の勢何万騎(ぎ)かあるらめども、いくさの陣(ぢん)へ笛持つ人はよもあらじ。上﨟(じやうらふ)は、なほも(ナオも)やさしかりけり。」

とて、九郎御曹司(くらういんざうし)の見参(げんざん)に入れたりければ、これをみる人、涙を流さずといふことなし。後に聞けば、修理大夫(しゅりのだいぶ)経盛(つねもり)の子息に大夫敦盛(あつもり)とて、生年(しょうねん)十七にぞなられける。

それよりしてこそ熊谷が発心(ほつしん、ホッシン)の思ひ(オモイ)はすすみけれ。

(翻訳は省略前節の解説を読んでください。)

那須与一

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解説

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結末: 結局、与一の放った矢は命中する。

那須与一は、源氏のがわの兵で、弓矢の名人。

海上にいる平家の側の舟から、扇(おうぎ)のついた棒の立った舟が出てきたので、疑問に思った義経が「あれは何だ?」と部下に聞いたところ、「この扇を射ってみろ、という事でしょう。おそらく、弓をいろうと出てきた義経さまを、逆に射殺してやろうという策略でしょう。それでも、部下のものに、扇を射させたほうが、よろしいでしょう。」と。

そして、与一が選ばれる。

途中、いろいろあったが、最終的に扇に、与一の矢が命中する。

本文

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頃(ころ)は二月(にんぐわつ)十八日の酉(とり)の刻ばかりのことなるに、をりふし北風(ほくふう)激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。

舟は、揺り上げ揺りすゑ(え)漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。

沖には平家、舟を一面に並べて見物す。

陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。

いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。

与一目をふさいで、

「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光(につくわう、ニッコウ)の権現(ごんげん)、宇都宮(うつのみや)、那須(なす)の湯泉大明神(ゆぜんだいみやう(ミョウ)じん、)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度(ふたたび)面(おもて)を向かふべからず。いま一度(いちど)本国へ迎へん(ムカエン)とおぼしめさば、この矢はづさせ(ハズサセ)たまふな。」

と心のうちに祈念(きねん)して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。


与一、鏑(かぶら)を取つてつがひ、よつ引ぴいて(ヨッピイテ)ひやう(ヒョウ)ど放つ。

現代語訳(げんだいご やく)

時は二月十八日の酉の刻(=午後六時)ごろのことであったが、折から北風が激しく(吹い)て、磯に打ち付ける波も高かった。舟は(並みのため)上へ下へと揺れて漂うので、扇も竿の先に静止しておらず、ひらひらとしている。沖では平家が、舟を一面にならべて見物している。(いっぽう、)陸では源氏が、馬のくつわを並べて、これを見守る。

どちらも、どちらも、晴れがましい情景である。与一は目をふさいで、

「南無八幡大菩薩(なむはちまん だいぼさつ)、わが故郷の神々の、日光の権現(ごんげん)、宇都宮大明神と、那須の湯泉(ゆぜん)大明神よ、願わくは、あの扇の真ん中を射させてください。(もし、)これを射損じるものならば、弓を切りおって(私・与一が)自害(自害=自殺・切腹など)し、人に(他人に)二度と顔を合わせるつもりはありません。いま一度、(私を)故郷に迎えてやろうとお思いになるなら、この矢を外させないでください。」

と(与一が)心のうちに祈り(いのり)念じて、(与一が)目を見開いたところ、風も少し弱まり、扇も(静かになり)射やすくなった。

与一は鏑矢(かぶらや)を取ってつがえ、十分に引きしぼって(「よっぴいて」=「よく引いて」の音便)、ひょうと(矢を)放った。

語釈
つがえる ・・・ 矢を弓の弦(つる)にあてがうこと。


小兵(こひやう、コヒョウ)といふぢやう(イウジョウ)、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦(うら)響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要(かなめ)際(ギワ、ぎは)一寸ばかりおいて、ひいふつ(ヒイフッ)とぞ射切つ(キッ)たる。

鏑(かぶら)は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。

しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、海へさつ(サッ)とぞ散つたり(チッタリ)ける。

夕日のかかやいたるに、みな紅(ぐれなゐ、クレナイ)の扇の日出(い)だしたるが、白波の上に漂ひ(タダヨイ)、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船端(ふなばた)をたたいて感じたり、陸には源氏、箙(えびら)をたたいてどよめきけり。

(与一は)小柄な武者とは言いながら、矢(の長さ)は十二束三伏で(長くて)、弓も強く、浦一帯に響くほど(鏑矢は)長いあいだ鳴り響き、誤りなく扇の要際から一寸ほど離れたところを、ひいふっと射きった。かぶら矢は海へ落ち、扇は(衝撃で)空へと舞い上がった。 扇は、しばらく空中で舞っていたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散り落ちていった。夕日のかがやいている中に、日輪を描いた真っ赤な扇が白波の上に漂い、(扇が)浮きつ沈みつ揺られれば、沖では平家が(感嘆し)、船端を叩いて感嘆し、陸では源氏が、えびらをたたいて、はやしたてた。

語釈
あやまつ ・・・ 失敗する。
しばし ・・・ しばらく。少しの間。


このあと、平家のほうから、扇の立ててあった場所に男が近づき、舞を踊る。伊勢義盛(いせの よしもり)は、与一にその平家側の男を射ることを命じる。命令どおり、与一は射って、舞っていた男は首のあたりを射られ、射殺され、船底へ倒れる。
平家のほうからは、静まり返って声も出ない。
源氏のほうからは、今度も歓声を上げる。
「ああ、射当てた。」と言う人もあれば、「非情だ。」と言う者もいる。

あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやとおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男(をのこ)の、黒革をどしの鎧(よろひ)着て、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持つたる(モッタル)が、扇立てたりける所に立つて舞ひしめたり。

伊勢三郎義盛(いせのさぶらうよしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄って、

「御定(ごぢやう)ぞ、つかまつれ。」

と言ひければ、今度は中差(なかざし)取つて(トッテ)うちくはせ、よつぴいて、しや(シャ)頸(くび)の骨をひやうふつ(ヒョウフッ)と射て、舟底へ逆さまに射倒す。

平家の方(かた)には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。

「あ、射たり。」

と言ふ(イウ)人もあり、また、

「情けなし。」

と言ふ者もあり。

あまりの面白さに、感に堪えなかったのであろうか、舟の中から年のころ五十歳ばかりの男で、黒革おどしの鎧を着ていて、白江の長刀を持った男が、扇の立ててあった場所に男が近づき、舞を踊る。(源氏側の)伊勢(いせの)三郎(さぶろう)義盛(よしもり)は、与一の後ろに馬を歩み寄らせ、「ご命令だ、射よ。」と言うので、(与一は)今度は中差を取って弓につがえ、十分に引きしぼり、男の首の骨をひょうふっと射て、男を(船底へ)真っ逆さまに射倒す。

その平家側の男を射ることを命じる。命令どおり、与一は射って、舞っていた男は首のあたりを射られ、射殺され、海へと落ちる。

平家方(へいけがた)からは、静まり返って声も出ない。
源氏方からは、今度もえびらを叩いて、どよめいた。

「ああ、射当てた。」と言う人もあれば、「非情だ。」と言う者もいる。

語釈
感に堪えない ・・・ 深く感動して、その気持ちをあらわさずには、いられない。


作者は、舞をまった男を殺した源氏の行為を、戦場の非情さの例として書いている、と思われる。

戦場なので、敵を殺すこと自体には、非難される理由はない。

しかし、作者は、「情けなし。」(非常だ。心無いことだ。)という意見を、あえて取り上げている。ここに、戦場の敵側とはいえ、自分たち源氏を祝う者を殺した源氏に対しての、作者の不快感が出ていると思われる。そして、なにより、戦場の非情さを描いていると思われる。 そして、人生の "はかなさ" を書こうとしているものと思われる。

そのほか、平家と源氏との美意識のちがいなどを、作者は書こうとしていると思われる。平家の、敵とはいえ素晴らしい者には祝って舞を舞うという風流な価値観。いっぽう、源氏の側は戦争の勝利こそが、武士の名誉と考えている。

平家と源氏の美意識のちがいは、ひいては、貴族と武士との価値観の違いであろう。 (なお、平家も、武士の一族である。)

作品解説

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琵琶法師。

平家物語の作者は不明だが、琵琶法師などによって語りつがれた。

作中で出てくる平清盛(たいらのきよもり)も、源義経(みなもとのよしつね)も、実在した人物。作中で書かれる「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)などの合戦(かっせん)も、実際の歴史上の出来事。 作者:不明

 平家(へいけ)という武士(ぶし)の日本を支配(しはい)した一族が、源氏(げんじ)という新たに勢力の強まった新興(しんこう)の武士に、ほろぼされる歴史という実際の出来事をもとにした、物語。 平安時代から鎌倉時代に時代が変わるときの、源氏(げんじ)と平氏(へいし)との戦争をもとにした物語。

 なお、平家がほろび、源氏(げんじ)の源頼朝(みなもとのよりとも)が政権をうばいとって、鎌倉時代が始まる。

  • 備考

那須与一は、歴史上は実在しなかった、架空の人物の可能性がある。そのため読者は、中学高校の歴史教科書では、那須与一を実在人物としては習わないだろう。