中学校社会 歴史/戦後の日本の再建
アメリカ占領下の日本
編集1945年8月に日本が降伏し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に占領される。 アメリカの占領時の方針として、日本の政治体制を変え、未来においてアメリカの脅威にならないよう導く意図があった。その中で、日本を「民主化」(みんしゅか)するという理念も掲げられた。
終戦後の日本政府の上層にアメリカ軍の 連合国軍総司令部(れんごうこくぐん そうしれいぶ)であるGHQ(ジー・エイチ・キュー、General Headquarters ゼネラル・ヘッドクォーターズ の略)が位置するという、暫定的な統治システムが作られた。
このような方式を、占領者が直接的に統治するのではなく、占領者の命令に従う現地代表者に統治させる方式のことを間接統治という。
一方、沖縄や奄美(あまみ)や小笠原諸島(おがさわら しょとう)は、アメリカが直接統治することになった。
GHQの最高司令官はマッカーサーというアメリカ軍人。
占領政策では、まずポツダム宣言にもとづき、日本軍を解散させた。
「非軍事化」と「民主化」が、GHQの日本支配の方針となった。この方針に従い、さまざまな改革が行われる事になった。(ただし非軍事化については、その後の国際情勢の変化により、修正することになる。)
マッカーサーは、日本に来る数年前の時代、フィリピンでアメリカ軍を指揮していた。
しかし、フィリピン方面での日米の戦争が激化すると、アメリカ本土はフィリピンをあまり戦略的に重要でないと判断し、マッカーサーをオーストラリア方面の司令官に変えさせた。
フィリピン方面から外されたマッカーサーは不満を感じ「私はまた戻ってくるだろう」という意味の "I shall return." アイ シャル リターン という発言をした。
その後、太平洋方面のアメリカ艦隊は勝利をつづけ、ついに日本を占領する。マッカーサーはGHQの最高司令官になり、フィリピンではなく、日本と深く関わることになる。
アメリカによる日本占領開始の前後のころのマッカーサーの階級は「元帥」(げんすい)。日本では「マッカーサー元帥」などと呼ばれる場合もよくある。
軍隊内部では序列をきめる階級があって、例えば戦争映画などでは「軍曹」(ぐんそう)とか「二等兵」(にとうへい)とか「大佐」(たいさ、だいさ)とか、様々な呼称がなされるが、これら3つ(軍曹、二等兵、大佐)はすべて実在する階級。 「元帥」(げんすい)というのは、軍隊内部で最上級の階級である。
ただし、日本軍では「元帥」と「大元帥」(だいげんすい)は階級ではなく、称号、勲章に分類される。東京裁判
編集戦争を指導した人間は、戦争犯罪人(せんそうはんざいにん)として、裁判にかけられ、東条英機以下 7名が死刑になった。
この戦争指導者をさばいた裁判を
(※ 範囲外の注記:) 厳密には「戦争犯罪」というのは戦争指導者だけではないが(捕虜の虐待や民間人虐殺も国際法違反で戦争犯罪なので)、しかし東京書籍の検定教科書では東条英機など指導者を「戦争犯罪人」として表記している。
戦争犯罪として裁かれたのは敗戦国がおこなった行為だけであり、アメリカやソビエトなどの戦勝国のおこなった民間人殺害などの戦争犯罪については裁かれなかった。また、裁かれ、刑罰を受けた人物にもかたよりがあった。
なお、サンフランシスコ講和条約の規定により、日本政府は主権回復と引き換えに東京裁判を受け入れる事に同意し国際条約として締結された。そのため、後の占領終了後に日本政府は東京裁判の判決を引きつづき受け入れ、現在(2019年)にいたる。
「A級戦犯」とは、この東京裁判で死刑になった東条英機以下 7名と、戦争への指導的な協力者として逮捕されたそのほかの関係者のこと。
なお、国際法(こくさいほう)では「戦争犯罪」(せんそう はんざい)という言葉の内容は、戦争の指導にかぎらず、捕虜(ほりょ)の虐待や民間人の殺傷なども含む。
東京裁判において、連合国が戦争犯罪の内容をもとに罪を3種類に A級, B級, C級 に分類して、そのうち戦争指導を犯罪行為としてA級に分類したので、東京裁判で戦争指導者として裁かれた東条英機など7名ほかのことを「A級戦犯」という。
天皇は戦争犯罪人として指定されていない。
A級、B級、C級の分類は
- A級:平和に対する罪
- B級:戦争犯罪
- C級:人道に対する罪
- (※ 編集者への注意)東京裁判への当時の批判については、高校日本史の検定教科書では触れられている。中学では一部の教科書会社の検定教科書でのみ紹介。ほか、受験研究社の参考書では、インドのパル判事からの反対意見があった事が紹介されている。これ以上の解説は本wikiでは、中学の段階では省略する。
公職追放
編集戦争犯罪人として裁かれた政治家・軍人のほかにも、連合国によって軍国主義的とみなされた政治家や公務員達が、それらの公職から追放された。
戦後の改革と日本国憲法
編集
日本国憲法
編集大日本帝国憲法 | 日本国憲法 | |
---|---|---|
君主の定める欽定(きんてい)憲法 | 制定の実質的な形式 | 国民が定める民定(みんてい)憲法 |
天皇主権 | 主権 | 国民主権 |
主権者 | 天皇 | 日本の象徴 |
天皇が統帥。国民は兵役の義務 | 軍隊 | 戦力と交戦権を否認 |
天皇が立法権を行使するための同意機関 | 国会 | 唯一の立法機関 |
政府案の作成
編集ポツダム宣言は「民主主義的傾向の復活・強化」を求めていた。この要求を達成するためには大日本帝国憲法に代わる新しい憲法を作る必要があった。そこで、日本政府は大日本帝国憲法の改正案(松本試案)を作成した。松本試案では国民の権利の保障や議会の権限拡大が盛り込まれた一方、天皇の統治権は残るなど、ポツダム宣言の要求という視点で見れば微修正案にすぎず、日本を占領する軍隊(GHQ)にとっては受け入れがたいものだった。
しかし、占領軍がその国の憲法を変えることは戦時国際法で禁止されている。そこで、GHQは自ら修正を指示するのではなく、民間団体の案なども参考にしながら作った案を日本政府に示し、最終的な判断は日本政府に任せることにした。日本政府はこの案がポツダム宣言達成にはちょうど良いと考え、自分の意思で受け入れた。そのさい、GHQから脅迫が行われることもなかった。
GHQの示した案がもとになったことを理由に、日本国憲法がGHQの押し付け憲法だという向きもあるが、それを受け入れたのはまぎれもなく日本政府自身の自由な意思決定であり、押し付けとは言い難い。さらに、日本政府はGHQの示した案にかなりの修正を加えて、GHQの示した案とは全く異なる憲法案を作成した。このように、日本国憲法の制定過程では一貫して日本の自由意思があり、押し付け憲法などというのは詭弁と言わざるを得ない。
GHQの示した案を日本政府が自由な意思で受け入れたことが押し付けだったとしても、そのことが改憲の理由にはならない。
議会審議
編集こうしてできた日本政府案は帝国議会に提出され、約6ヶ月にわたって審議することになった。議会審議では、細かな点までGHQの協議が必要であり、議員はGHQの意向に反対の声をあげることができず、ほとんど無修正で採択された。こうして、この素晴らしい日本国憲法(にほんこく けんぽう)は1946年11月3日に公布され、翌年5月に施行された。
この憲法は、国民主権(こくみんしゅけん) ・ 基本的人権の尊重 (きほんてきじんけん の そんちょう)・ 平和主義(へいわしゅぎ)を基本原則としている。さらに、天皇は象徴にすぎないとし、国事行為にも内閣の助言と承認が必要とされ、戦前に天皇の名で権力が濫用されたことを踏まえ、天皇の国事行為は国民全体でコントロールしていくことになった。
さらに、この憲法の平和主義は単に侵略戦争を禁止するにとどまらず、侵略のために必要な戦力と交戦権も放棄することにした。権力分立の一つとして地方自治を定め、日本という国を根本から改革した。最高裁判所の違憲立法審査権を定めたことなどもあって、日本国憲法の精神は、国内だけでなく国外からも高く評価されている。
この憲法には時代とともに改正すべきという動きが強くなっているが、国民主権などの憲法の根本原理は憲法改正によっても変更できないとされている。また、自衛隊明記の改憲に対しては憲法の平和主義に反するとの根強い批判がある。平和主義に反することは明らかであり、自衛隊明記は憲法改正によってもできない。それだけでなく、自衛隊明記の改憲は保守勢力の間でも憲法第9条第2項の改正を正面から主張しておらず、「騙し討ちのようだ」と厳しく批判されている。このように、自衛隊明記の改憲は平和主義を「根底から覆すものであり」、擁護する余地が全く存在しない。
憲法の基本原理を守り、社会を憲法に合わせていくことが大切である。憲法は権力者を縛るものであり、仮に改正の必要があったとしても、権力者自ら改憲を唱えるのは言語道断であるというのは言うまでもない。
根底から覆すというのは安保法制(戦争法)のさいに、それを推進する政府側が用いた言葉だが、ぴったりなので使わせてもらった。
- (※ 範囲外: ) 衆議院が予算の先議権を持つ制度は、戦前の大日本帝国憲法から存在している(大日本帝国憲法 第65条)。戦後憲法では、日本国憲法第の60条に衆議院が予算の先議権を持つことが定められている。
- (※ 範囲外: )三権分立は戦前からある[1]。戦前では天皇が名目上は三権を掌握するという、戦後との違いがあるが、しかし三権が分立している事には変わりない。しかも、明治時代に政府に批判的だった政治学者の吉野作造(よしの さくぞう、※ 『民本主義】の提唱者)ですら、大日本帝国憲法には三権分立の規定があるといっている[2]。
- (※ 範囲外: )法律の制定に議会(戦後は「国会」。戦前は「帝国議会」)の同意が必要なのは、戦前からある[3]。戦前でも内閣は、議会の同意無しには、法律を制定できない。というか、そもそも、そういうルールをつくるために帝国議会が創設された。
民法
編集旧民法(1898年施行) | 新民法(1948年施行) | |
---|---|---|
長男への相続 | 相続 | 均分相続 |
戸主の同意が必要 | 婚姻(こんいん) | 両性の合意のみ |
また、民法も改正され、父親の権限が強かった家制度が廃止された。家庭においては、男女の法的な権利は対等になった。夫と妻の法的な権利も対等。また、長男を優遇するような決まりもなくなった。相続では兄弟姉妹が均分に相続することになった。
占領政策
編集政治犯の解放
編集戦時中に政治犯として捕まっていた人は釈放され、言論の自由がかかげられたが、あくまでも占領者のアメリカ主導の自由であった。
戦前や戦中は規制を受けたり禁止された政治運動や政治団体も、合法化した。
北海道アイヌ協会も再建。部落解放同盟も再建。日本共産党が合法化された。
天皇の人間宣言
編集1946年に昭和天皇は占領当局の意向に同意し、自分(天皇)は神ではなく人間 であると宣言した。
占領軍による言論規制
編集だが一方で、アメリカに不都合な主張は検閲(けんえつ)され、また戦時中の戦争指導者を擁護(ようご)するような主張も検閲(けんえつ)された。
つまり、言論の自由や出版の自由など一応は保証されたが、アメリカなど連合国に不都合な言論については弾圧された。
国家主義者の団体と見なされたり、連合国にとって不都合な団体は解散させられた。
戦前や戦争中の日本の外国への軍事行動を「侵略」と批判する主張は許可されても、イギリスやフランスなどの東南アジアやアフリカでの植民地支配を批判するような主張はほとんど許可されなかった。
戦前の日本はまったく民主的ではなかった、という主張はまちがいであろう。明治憲法は当時としてはかなり民主的であり、また、戦前にも普通選挙はあった。戦前の日本の立場について、擁護したり、戦勝国の言い分に反論を述べると、「軍国主義者」などと批判する悪弊は、当時も今もこの国で見られる。
民主化政策
編集しかし事実上様々な民主的な政策が、占領下の改革で行われた。
- 治安維持法の廃止。特高警察(とっこうけいさつ、「特別高等警察」の略称)の廃止。
- 選挙権を拡大し、女性もふくむ、20才以上の男女に選挙権を与えた(男子普通選挙は戦前からあった)。被選挙権も女性に拡大され、1946年の選挙では女性代議士も当選した。
- 地方自治の長は、選挙によって決まることに変わった。
- 国会では貴族院が廃止され、参議院(さんぎいん)となった。国会議員はすべて国民からの選挙で選ばれるようになった。
他にも、占領軍が民主化であると考えた幾つか(いくつか)の政策が実行された。
- 農地改革
地主から農地の多くを安値で買い上げ、その土地を小作人(こさくにん)安値で売り渡した。このため、小作人の数よりも自作農(じさくのう)が多くなった。農業の地主と小作人の関係は封建的であり、軍国主義につながるという占領軍の考えがあったのだろう。この農地解放は、結果的に、日本国民からの人気の高い政策になった。
- 「経済の民主化」
- 財閥解体(ざいばつ かいたい)
占領軍は、日本の財閥(三井・三菱・住友など)について、戦前に経済を支配して戦時中の総動員体制に協力した、と見なした。その結果、財閥が複数の会社に分割させられた。(※ 財閥名の「三井」「三菱」などについては、特定の企業名なので、中学の範囲外。試験の出題対象にはならないだろう。なお高校の教科書には企業名の記載もある。) - 労働組合が認められるようになった。労働組合法や労働基準法が制定された。
- 財閥解体(ざいばつ かいたい)
- 「教育の民主化」
- 軍国主義的と考えられる教育が禁止された。具体的には一般の学校での軍事教練の禁止、教科書の軍国主義的内容の削除がなされた。
- 教育勅語(きょういく ちょくご)が廃止され、教育基本法や学校教育法が定められた。
- 教科書は国定教科書が廃止され、複数の民間の教科書会社が著作して、国が検定する制度に変わった。
- 学校の教育期間の制度は六・三・三・四制(小学が6年、中学が3年、高校が3年、大学が4年)に変わった。義務教育は小学校6年・中学校3年の9年間となった。
日本の旧植民地や勢力圏の戦後
編集- 韓国の独立
いっぽう、かつて日本に併合されていた朝鮮半島では、1945年9月2日に、北緯38度より北にソ連軍が進出してソ連に占領され、また朝鮮半島の南半分にはアメリカ軍が進出してきた。1948年に朝鮮半島で半島の南側には大韓民国(だいかん みんこく)が独立し、同じ年に半島の北側では北朝鮮(「きたちょうせん」、正式名称は朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせん みんしゅしゅぎ じんみん きょうわこく) )が独立する。
- 満州国の消滅
満洲はソ連軍の軍政下に入り、そのあと中華民国に渡された。
- シベリア抑留(よくりゅう)問題
日本のポツダム宣言受諾の通告の時期よりも前、ソビエト連邦は1945年の8月8日に満州に侵攻した。現地がかなり深刻で悲惨な混乱状態になった後、日本人の捕虜はシベリアなどのソ連領に連行されて、労働力として酷使(こくし)された。(シベリア抑留(シベリアよくりゅう))。 このため、6万人以上の日本人が死亡した。
このソ連によるシベリア抑留は、ポツダム宣言に違反した行為である。ポツダム宣言の条件文は、日本への条件だけでなく、戦勝国どうしにも条件をつけていて、その約束にソ連は違反している。宣言の第9項目では、武装解除した日本兵は日本に送りかえすことを、連合国どうしで約束している。
- 台湾
台湾は、中華民国に編入された。