課題

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古代の主な文明は、どのような場所で起こり、どのような特色をもっていたのだろう。

分業の発生

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農業の発達にともない、治水(ちすい)工事や灌漑(かんがい)工事などの土木工事も行うようになりました。また、仕事の分業が始まるようになりました。 分業が発達すると、農業から離れた仕事をする人も出来てきて、そのような人たちが農地から離れた場所に住むようになり都市が出来ていきました。

金属器の使用

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石器の時代が過ぎ、やがて青銅器(せいどうき)鉄器(てっき)などの金属器(きんぞくき)を作る技術が出来てきました。まず初めに、青銅をつくる技術が発明されました。なお、青銅とは(どう)とスズ(漢字:「錫」 )との合金です。青銅にすることで、銅やスズの単体の状態よりも、(かた)くなります。

(※ 「(スズ)」の漢字は覚えなくていい。中学の範囲外。)

つづいて、鉄器が紀元前1500年ごろに西アジアで発明され、農具に鉄器が用いられ農耕の生産力が高まりました。 鉄器の生産は、その後、周辺の地域にも広がっていきます。

四大河文明

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アフリカやアジアの大河の川ぞいでは、ゆたかな水をもとに農耕や牧畜が発達し、そのため文明が発達できました。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河(こうが)の流域の各地域で文明が発達していきました。この4地域での文明を四大河文明(よんたいがぶんめい)と言います。

それぞれの文明を、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明(ちゅうごくぶんめい)といいます。

これらの四大河文明は文字が使われていました。

メソポタミアとエジプト

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たとえばメソポタミアでは、つぎのように文明が発達しました。

  • メソポタミア文明
 
世界遺産にも登録されたチョガ・ザンビール遺跡のジッグラト

今のイラクの近くにあるチグリス川ユーフラテス川ぞいのメソポタミアでは、紀元前3300年ごろには当時としては、かなり高度な文明が栄えていました。これをメソポタミア文明といいます。 紀元前6000年ごろにはすでに、人々がメソポタミアの地に住み、農業などをしていたとされます。しかし、農業文明よりも更に進んだ、高度な文明が特に発展したとされる時代が、この紀元前3300年ごろからです。

紀元前3300年ごろのメソポタミアでは、青銅器が使用され始めていました。また、月の満ち欠けをもとにした(こよみ)が作られ、使用されていました。これは我が国では太陰暦(たいいんれき)と呼ばれます。 この時代までに、1週間の7曜日制や、時間や角度の六十進法、1年間を12か月とすること、などといった、物事の数え方や計り方が作られ、現代にもその影響は数多く残っています。また、そのような数を扱う技術の必要性にともなって、数学が非常によく発達していました。

メソポタミアでは、城壁で囲まれた都市が作られました。都市は、神殿を中心にしています。メソポタミアの宗教では、多くの神々がまつられました。


  • エジプト文明
 
エジプト文明。三角形に見える(実際は四角錐状)建物はピラミッドと言い、ピラミッドは王の墓であるとする説が有力です。手前にある人の顔をした像はスフィンクスと言います。 世界遺産になっています。

エジプトのナイル川の流域に発生したエジプト文明は、メソポタミア文明と同様に、当時としては高い技術を持つ、高度に発達した文明でした。たとえば我が国において太陽暦(たいようれき)と呼ばれる、太陽の運行を基準にした(こよみ)を作り、使用していた。これは現在世界中で使われる現行の暦であるグレゴリオ暦に近いもので、エジプト文明では天文学が発達していたことを示しています、

このような高度な暦は、エジプトの農業において特に重要でした。エジプト文明は、のちの時代のヨーロッパ人から「ナイルの賜物(たまもの)」と呼ばれましたが、これは、ナイル川が毎年夏になると氾濫(はんらん)し、その洪水が運ぶ栄養によって、エジプトの農業が大きな恩恵を受けていたからです。この毎年の氾濫の時期を、正確な暦で予測することにより、氾濫の危険を回避しながら、豊かな恵みの恩恵を受けることが可能になったのです。また、氾濫後には土地を区画整理し直す必要があったため、測量術も発達していきました。

エジプトの農業では、ムギなど栽培をしていました。パピルスという草から紙が作られました。この「パピルス」が紙の英語のpaper(ペーパー)の語源です。ヒエログリフという象形文字が、紙に書かれたり、石にきざまれました。

エジプト文明では、ピラミッドと呼ばれる、多くは四角錐状の巨大な建造物が数多く作られました。これらは王の墓であったとする説が有力ですが、必ずしも墓を主たる目的として建造されたわけではないとする説もあります。いずれにせよ、王には大きな権力があったと考えられており、ピラミッドの建造には多くの技術者や、人夫、奴隷などの労働者が関わっていたとされています。

エジプトとメソポタミアといった、このあたりの地域のことを、のちの時代の用語で「オリエント」といいます。「オリエント」には「太陽の登る土地」というような意味があり、つまり「東の方角」を意味します。これはヨーロッパ人の視点での用語です。

インダスと中国

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  • インダス文明
 
モヘンジョ=ダロ遺跡(いせき)。 世界遺産になっています。

インド・パキスタンの近くのインダス川の流域ではインダス文明が紀元前2500〜紀元前2300年ごろに起きました。

下水道や浴場などの公共施設もそなえ、死者の丘を意味するレンガ作りのモヘンジョ=ダロという都市を作っています。


  • 中国文明(ちゅうごくぶんめい)

紀元前4000年ごろ〜紀元前3000年ごろから、中国(今でいう中華人民共和国の地域)の黄河(こうが)長江(ちょうこう)の流域で、農業が起こり、中国文明(ちゅうごくぶんめい)が起きました。黄河の流域で、あわ・きび などを栽培していました。長江の流域で、稲を栽培していました。

これら中国の古代文明の、古い呼び方では、川の名前をとって、「黄河文明(こうがぶんめい)」「長江文明(ちょうこうぶんめい)」などという場合もありましたが、その後の歴史研究で、長江など黄河以外の別の川の流域でも文明が古くから栄えていたことが分かり、現在では「中国文明」と、まとめて呼ぶことが多いといわれます。

農業や石器・土器などよりも以降の文明が発達しだした時代は、おそらく紀元前2000年よりも後の時代であると考えられています。紀元前1500年ごろに、黄河の流域に「(いん)」という王朝の出来た時代から、とくに文明が発達しはじめました。この殷のころから、青銅器が中国でも作られ使われ始めました。

古代文明の、その後

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  • メソポタミア文明
 
ハンムラビ法典が記録された石棒。ルーブル美術館の所蔵。

メソポタミア地方では紀元前18世紀ごろ、バビロニアという国の王であるハンムラビが、この地域を統一しました。そして、ハンムラビ王は法律を整え、ハンムラビ法典(ほうてん)を作りました。

この法典では、復讐(ふくしゅう)の権利を認めており、「目には目を、歯には歯を」といわれる記述が、この法典にあります。

この規定は、復讐の権利を認めると同時に、復讐が行き過ぎないように制限をかけている法律でもあります。


交易や行政の都合などから、くさび形文字(がたもじ)が発明されていました。ハンムラビ法典も、くさび形文字で書かれています。道路などの工事も進め、メソポタミアでは商業がさかえるようになり、周辺地域との交易もさかんになりました。

くさび形文字は、しだいにアルファベットの原型に発達していきます。


  • インダス文明

紀元前1500年に北方の中央アジアの異民族のアーリア人に侵入され、征服されます。先住民は奴隷として支配されます。

支配者たちは身分制度を作り、神官のバラモンと呼ばれる階級を頂点とする身分制度を作りました。この身分制度が、のちにインドの伝統的な身分制度のカーストにつながります。

身分にはバラモン(神官)、クシャトリア(王族や武人)、バイシャ(農民や商人などの平民)、シュードラ(奴隷)の身分がありました。

バラモンの権力は宗教だけでなく、政治などでも権力を持ちました。


  • 中国文明

※ 別ページで説明する。

リンク 中学校社会 歴史/中国文明