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概要

1937年に盧溝橋(ろこうきょう)事件が何者かにより発生し日中戦争が起こる。宣戦布告 (戦争を始める旨の事前通告) をしないまま、日本軍は中国に侵攻し、特に首都[1]南京(なんきん)を占領した際に市民や捕虜(ほりょ)を殺傷し、多数の死者を出した。これを南京事件という。なおこの事件については、現在残されている資料では規模を完全に把握出来ないというのが実情である。中国はゲリラ戦などを駆使し激しく抵抗する。

満州事変以降、日本との関係が悪化し始めていたアメリカやイギリスなどが反発し、中国を援助する政策を取ったこともあり、戦争は長期化する。

  • 戦時体制

戦争が長期化するにつれ国民生活も苦しくなったので生活必需品の配給制、物価統制が行われるようになった。また「挙国一致(きょこくいっち)」(国のため一致団結しようというスローガン)の一環として1938年に国家総動員法(こっかそうどういんほう)が成立し、議会の同意なく、戦争に必要な人員や物資の動員が行われることが可能になった。1940年には、ドイツ (ナチス) やソ連の一党独裁を模倣して大政翼賛会(たいせいよくさんかい)を結成した。

(※ 範囲外 )昭和の戦後教育のデマ注意

戦後(第二次世界大戦後)の昭和の時代の中学高校の世界史教育では、今では勘違いだが、かつて「日本が中国を侵略していたとき、中国軍はほとんど近代兵器を武装していなかった」と中学校で教えられたと言われている[要出典]

だが、これは間違いであると、21世紀の世界史研究で明らかになっている。

じっさいの中国はアメリカ・イギリスなどから高水準の武器の支援を受け、中国軍は欧米の戦車も持っているという、中国はなかなかの軍事強国の水準でもあった。また、このため、日本軍がなかなか苦戦をしいられた戦場もある。

日中戦争

盧溝橋事件

1937年7月7日と8日に、北京(ぺきん)にある盧溝橋(ろこうきょう)という地区で訓練中の日本軍と中国軍が軍事衝突する[2]事件があった。この事件を盧溝橋事件と言う。[3]ここから、日中間での戦闘が始まる。

もし日本が宣戦布告をすると、日本は中立国アメリカからの輸入をできなくなったり、資金調達のための国債 (国の借金) を引き受けてもらえなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語を用いて「北支事変」と呼称したが、事変といえど、北支事変は事実上の戦争であり、この北支事変が日中戦争(にっちゅうせんそう)の始まりであるとする中学校の教科書が多いはずだ。

範囲外:最初に誰が発砲したか

盧溝橋事件で、最初に誰が発砲したかには、多くの説がある。

中国の国民党軍による警備上の発砲を日本側が攻撃と勘違いしたという説もあれば、中国軍が意図的に日本軍をねらって挑発(ちょうはつ)したという説もあるし、日本軍の自作自演説もある。他の説には、中国には国民党と対立していた共産党という勢力がある[4]が、その共産党の陰謀(いんぼう)で日本軍と国民党軍との戦争をねらった発砲だという説もあれば、ソビエト連邦のソ連共産党のスパイによる陰謀説もある。

しかし、真相はいまだ不明である。

日本軍は1937年8月に上海へ「上海地区に居る日本人の保護」を目的として派兵を行った。この戦闘を第二次上海事変と言う。あるいは、上海戦とも言う。

南京攻略戦

 
1940年の日中戦争での戦場(赤いところが日本が占領した場所)

上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略した。日本軍には、「南京を攻略すれば中国に勝てる」という考え (中国一撃論) があった。しかし、国民党の支配者であった蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は継続された。

12月の南京攻略の際、日本軍により、住民など非戦闘員 (戦いに携わらない人) を含め、かなりの人々が殺害された。この1937年12月から1938年2月の南京で日本軍が多くの南京市民を殺害したとされる事件を 南京事件 と言う[5]南京大虐殺(ぎゃくさつ)と呼ばれることもある。

南京事件について

真偽や実情は今でも不確定であり、研究者などが研究中だ。日本政府は、国民に対し特に南京での住民の殺害の有無についての一切を語ることは無かった。そのため戦後になって (きょく) (とう) (こく) (さい) (ぐん) () (さい) (ばん) によって多くの日本国民は南京での虐殺を知ることになる。

備考

この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。

アメリカ・イギリスは、フランス領インドシナから、物資を国民党に援助していた。一方でソビエトは、おもに中国共産党を援助した。

日本の戦時体制

1938年、国会の手続きがなくても戦争に必要な物資や人を (政府が) 動かせるように、国家総動員法(こっかそうどういんほう)を定めた。

1940年には、近衛文麿(このえふみまろ)内閣のもと、「挙国一致」(国を挙げて1つの目的を実行しようというスローガン)の体制をつくるため、ほとんどの政党や政治団体が解散して、大政翼賛会(たいせいよくさんかい)に合流した。

その後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは配給制(はいきゅうせい)や切符制になった。その他にも、「ほしがりません、勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などの標語が物資の節約のため唱えられた。

(※ 範囲外? : )なお、「進め一億火の玉だ」などの標語があるが、戦争中の当時の日本本土の人口は7000万人程度である。日本の人口が1億人を超えたのは第二次世界大戦の終わった後の時代。
隣組(となりぐみ)

庶民たちは10戸ごとにまとめられ、「隣組(となりぐみ)」を組み、協力しあう事とされたとともに、互いに監視させられた。

もし、このような統制的な風潮に反対すると、「非国民(ひこくみん)」などとレッテルを貼られ、批判された。


年表まとめ
1929年 世界恐慌
1931年 満州事変 (翌1932年に満州国の建国)
1933年 日本の国連脱退
1937年 日中戦争の本格化(盧溝橋事件)
1938年 国家総動員法 (1940年には大政翼賛会)

順序関係について、まず、一説には、満州事変の背景として、世界恐慌による不況の解決とか、そういう説がある。

その説が本当かどうかはこの際はどうでもよく、それよりも、この説の存在を知る事によって、「満州事変の時期は、世界恐慌よりも後」という事が覚えられる。

そして、満州事変による国連決議で日本が非難されて、それが原因で日本が国連脱退をしたので、必然的に順序は、「先に満州事変、後に国連脱退」となる。ここまでをまとめると、「世界恐慌 → 満州事変 → 国連脱退」となる。


国連脱退の時期と、日中戦争の本格化の時期との前後関係を論理的に導くのは、難しいかもしれない。2020年代のロシア・ウクライナ戦争だって、両国とも国連を脱退していないし。

だが、日中戦争の本格化と、国家総動員法の時期の前後関係なら、論理的に導きやすい。

まず、先に日中戦争が偶発的に起きたのだ(盧溝橋事件)。その後、日中戦争が本格化したので、国家総動員法を早期に制定する羽目になった。

こういう感じで解釈すると、「日中戦争の本格化 → 国家総動員法」という流れが構築でき、暗記の負担が減る。

実際の学説はもっと複雑な因果関係があるかもしれないが、とりあえずは、この程度のコジツケで、順序を暗記しよう。(コジツケしないと、高校入試の対策が出来ない)

植民地での戦時体制

朝鮮では、朝鮮人の名前を日本風の名前に変える創氏(そうし)改名(かいめい)が行われた。朝鮮人の日本への同化政策から、朝鮮人から朝鮮名を奪い、日本人のような氏名を名乗るよう強制した。創氏制度は王族など特殊な例外を除き、全朝鮮人民に法規で適用されたものであった。

脚注

  1. ^ もっとも、数日前に首都を移転(遷都)し、裕福な家や政権の関係者はいなくなっていた。
  2. ^ 1発の銃弾から始まったのだが、はたして誰が発砲したかについては不明である。
  3. ^ 現地では、ひとまず7月11日に現地の軍の間で停戦協定が結ばれた。だが、25日、26日に中国軍が日本軍を攻撃する事件(廊坊事件・広安門事件)が起きたため、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていくのだが、中学生でそこまで知っておく必要はないだろう。
  4. ^ 現在の中華人民共和国を造った政党。
  5. ^ 同名の「南京事件」が1913年や1927年にもあるが、この1913年や1927年の南京事件とは別の事件である。