ロシアの南下政策と日英同盟 編集

ロシアは、冬でも凍らない港が軍事上の理由で必要だった[1]。そのため、ロシアは勢力圏を南に伸ばしていた(南下政策)。東アジアでは、遼東(リャオトン)半島にあった旅順(リュイシュン)に軍艦の基地を増設していた。

1899年(明治32年)の義和団事件のあとも、ロシアは兵力をひかず、ロシア軍は満州にいつづけた。そして、朝鮮半島や清に勢力をひろげようとした[2]。日本・イギリス・アメリカの3カ国がロシアに抗議して、ロシアは兵を引くことを約束した。だが、じっさいにはロシアは兵をひかずに居続けた。それどころか、ロシアは占領軍を増強した。

ロシアの強硬な方針にイギリスは危機感を感じた。イギリスは南アフリカでの戦争[3]のため、中国に影響を及ぼす余裕がなかった。

そこでイギリスは、ロシアの南下政策に対抗するため、日本との提携をはかり、1902年に同盟を結んだ。この日本とイギリスの同盟を、日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)という。

日露戦争 編集

開戦 編集

日本はロシアとの戦争をふせぐため、外交で解決しようとした。日本の案では、ロシアが満州を支配することを認めるかわりに、日本が朝鮮を支配することを認めさせるという案をロシアに提出した。

しかし、ロシアがこの案を拒否し、交渉はまとまらず決裂し、1904年に、ついに日本はロシアとの戦争の開戦にふみきった。

開戦にあたって、ロシアの満州領有に反対するイギリスとアメリカは、日本を経済的に支援した。また、戦費調達のために日本銀行副総裁の高橋是清(たかはしこれきよ)が、イギリスやアメリカを訪問し、外国債(外債)[4]を募集する。

日露戦争の戦場になった場所は、朝鮮半島の周辺の海域と、満州の陸上および海域であった。

陸地での戦場では、旅順や奉天(フォンティエン)[5]での戦いで、激しい戦闘となったが日本がロシアに勝利した。海上では、日本海海戦において東郷平八郎(とうごう へいはちろう)ひきいる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させた。

 
ロシア艦隊は対馬近海で連合艦隊と遭遇し、日本海南西部で撃破された。

しかし、日本は大きく戦力を消耗しており、軍事費を使いきっていた。いっぽうのロシアでも政府に反対する革命の動きがおきはじめ、ロシアも戦争をつづけることが、難しくなった。

そこで日本は状況が日本に有利なうちに講和をしようと考え、アメリカにロシアとの講和の仲立ちをしてもらって、講和条約であるポーツマス条約(英語: Portsmouth Treaty) が結ばれ、日露戦争は終結した。

講和 編集

 
小村寿太郎(こむら じゅたろう)

アメリカ大統領のセオドア=ローズベルト(Roosevelt)が講和の仲立ちになり、日本の代表は外務大臣の小村寿太郎(こむら じゅたろう)、ロシアの代表はヴィッテ(Витте)であった。

条約の主な内容は次のようなものであった。

  • ロシアは韓国における日本の優越権を承認する。
  • ロシアは日本に南満州の長春(チャンチュン)以南の鉄道の利権をゆずる。
  • ロシアは日本へ樺太の北緯50度以南(ほぼ南半分)の領土をゆずる。
  • ロシアは日本に旅順および大連[6]をふくむ遼東半島の南端部の租借権(そしゃくけん)をゆずる。

しかし、日本は講和を急いだため、賠償金をとらなかった。このことが国民の反発を呼び、東京の日比谷(ひびや)では政府高官の邸宅や警察署・交番、講話を支持した新聞社を襲撃して放火するなどの事件が起きた(日比谷焼き討ち事件)。国民からすれば、20万人の死傷者を出し、戦争で多くの負担をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じたのだった。

戦後 編集

ポーツマス条約で獲得した鉄道の経営のために、政府により半官半民の企業の南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立された。 また、租借地と満鉄路線の警備などのため、満州に日本の機関[7]が置かれた。

のちの第二次世界対戦のときに日本軍が満州に滞在している理由は、おおまかな理由は、元をただせば、この日露戦争で得た権益を防衛するために派兵されたからである。

1907年には日露協約が結ばれ、日本とロシアとの満州での勢力範囲が決められた。

この満州への日本による権益獲得では、アメリカが日露戦争では資金面などで日本に協力したにも関わらず、ほぼ日本が満州の権益を独占することになり、アメリカは満州に権益を獲得できなかった。アメリカなどは、満州の事業の門戸開放を日本に要求したが、日本は要求を拒んだ。こうしてアメリカの日本への不満が高まり、のちにアメリカと日本とが対立していく原因の一つとなった。

戦前の世論 編集

非戦論 編集

日露戦争の前、開戦を、多くの国民が支持した。だが、開戦に反対する意見もあった。 非戦論をとなえた人をあげれば、キリスト教徒の内村鑑三(うちむら かんぞう)や、社会主義者の幸徳秋水(こうとくしゅうすい)が有名である。

 
与謝野晶子(よさの あきこ)

また、歌人の与謝野晶子(よさの あきこ)は、戦場にいる弟を思いやる詩を書き、「君(きみ) 死(し)にたまふ(たもう)こと なかれ」という詩を書いた。

 君死にたまふことなかれ(抜粋)

あゝ をとうとよ 君を泣く
君 死にたもふこと なかれ
末(すえ)に 生まれし 君なれば
親の なさけは まさりしも
親は 刃(やいば)を にぎらせて
人を 殺せと をしえしや
人を 殺して 死ねよとて
二十四までを そだてしや
雑誌『明星』(みょうじょう)、明治37年(1904年)9月号『恋衣』(晶子第四歌集)所収。
  • 内村鑑三の戦争廃止論
内村鑑三の戦争廃止論
余(よ)は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である。・・・(中略)・・・戦争の利益は強盗の利益である。・・・・・・近くはその実例を日清戦争において見ることができる。二億の富と一万の生命を消費して日本国がこの戦争より得し(えし)ものは何であるか。・・・その目的たりし朝鮮の独立は・・・弱められ、支那(「しな」=中国のこと)分割の端緒(たんしょ)は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され、・・・東洋全体を危殆(きたい)の地位にまで持ちきったではないか。
(『万朝報』(よろずちょうほう)1903年6月30日、抜粋。)

現代語訳

私は日露戦争の非開戦論者であるばかりでなく、戦争の絶対廃止論者である。・・・(中略)・・・戦争の利益は強盗の利益である。・・・・・・近くはその実例を日清戦争において見ることができる。二億の富と一万の生命を消費して日本国がこの戦争より得たものは何であるか。・・・その目的だった朝鮮の独立は弱められ、中国の分割が始まり、日本国民の負担はとても増加し、・・・東洋全体が危険におちいったではないか。

(以上、現代語訳)


内村鑑三のこの反戦論は、当時の世論である主戦論に対抗したものである。

条約改正 編集

  • 日清戦争の前後
 
陸奥宗光(むつ むねみつ)

日清戦争の直前の1894年に、イギリスとのあいだで、外務大臣の陸奥宗光(むつ むねみつ)の交渉により、治外法権をなくすことに成功。この治外法権の廃止(はいし)は、日本がイギリスと結んだ、 日英通商航海条約(にちえい つうしょう こうかい じょうやく) による。

(1870年代から条約改正のための交渉はしていたが、そのころは、欧米は理由をつけて、受け入れなかった。)

日清戦争で日本が勝利すると、ロシア・フランスなども治外法権をなくすことに同意したが、日本の関税(かんぜい)自主権(じしゅけん)は、みとめなかった。


  • 日露戦争の後
 
小村寿太郎(こむら じゅたろう)

日露戦争で日本が勝利したことにより日本の国際的な地位が高まると、各国は、関税自主権の改正にも応じるようになり、外務大臣の小村寿太郎(こむら じゅたろう)の各国との交渉により、1911年に日本の関税自主権は回復した。

日露戦争の国際的影響 編集

この日露戦争での日本の勝利は、黄色人種(日本)が白人の国(ロシア)に勝利した戦争であるとみなされた。そのため、アジアやアフリカの欧米の植民地にされた地域の人々を勇気づけた。だが、その後の日本は、欧米と同じように植民地支配的な政策を朝鮮などで行っていったことにより、アジア・アフリカの欧米への不満と同様に日本も失望されていくことになる。

のちのインドの独立運動家ネルーは、獄中で書いた著書『父が子に語る世界史』の中で、ネルーの少年時代のころの日露戦争における大日本帝国の勝利が、アジア諸国に独立への希望を与えたことを書いており、ネルー少年自身も感激した。

しかし、その後、大日本帝国が欧米列強と同じく、近隣諸国を植民地支配下に置いたこと、日本による侵略の悲惨を最初に味わわされたのは朝鮮であったというふうに記述している。

とはいえ、日露戦争の終戦直後の時点では、アジアでの植民地支配をされていた民衆は、日本の勝利に喜ぶ者が多かった。日露戦争後、アジアでは独立を目指す政治運動がさかんになる。もっとも、アジア植民地のヨーロッパ諸国からの独立の時期そのものは、ほとんどは第二次世界大戦後の時代になる。

  1. ^ 冬でも凍らない港のことを不凍港(ふとうこう)という。
  2. ^ 「義和団事件」については、中学校社会 歴史/日清戦争から日露戦争までのあいだ
  3. ^ ボーア戦争。高校世界史内容。
  4. ^ 外国むけに発行した債券
  5. ^ 現在の瀋陽市。
  6. ^ このとき日本が獲得した大連が、のちの日本の満州経営での拠点になる。
  7. ^ 発展事項:中国では山海関(さんかいかん)より東の位置を「関東」といった。そのため、この機関のことを関東都督府という。なお、鉄道沿線を警備している軍は、のちの1919年に「関東軍」となった。