中学校社会 歴史/第二次世界大戦

第二次世界大戦編集

 
ドイツとソビエトのポーランド侵攻直後(1939年)
青いところがドイツとイタリアの勢力圏。
緑色が、ソビエトの勢力。
赤いところがイギリスとフランスの勢力。
 
ドイツのフランス占領(1940年)
青いところがドイツとイタリアの勢力圏。水色のところが、枢軸国に支配された地域。
緑色が、ソビエトの勢力。
赤いところがイギリスの勢力。

第二次世界大戦の開戦へ編集

中国大陸で日中戦争が行われているころ、ヨーロッパではドイツが軍事力を背景にして、オーストリアやチェコスロバキア西部を併合した。

イギリスやフランスは、当初はドイツによる併合を認めていた。併合を認めていた理由は、ドイツの占領した地域がオーストリアなど民族的に近い国だったことや、ドイツが植民地を持たないこと、ソビエト連邦を封じ込めるためであった。しかし、ヒトラー率いるドイツは、その後、ポーランドの領土も要求した。イギリスとフランスは、ポーランドの支援を発表したが、ドイツはこれを無視した。

ドイツは、1938年8月にソ連と独ソ不可侵条約を結んだ上、1939年9月にドイツはポーランド西部に侵攻して占領した。そのため、ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスがドイツに宣戦布告[1]し、ドイツ対イギリス・フランスという列強どうしの戦争に発展した。ソ連もポーランド東部に侵攻して占領した。

このドイツによるポーランド侵攻をきっかけとして第二次世界大戦(英語: World War II)が始まった[2]。ただし、まだこのときはアメリカはイギリスの援助にとどまっていた。

第二次世界大戦の開戦後編集

ドイツ・イタリア、およびソ連の動向編集

1940年には、ドイツ軍は、デンマークとノルウェーを攻撃し占領した。さらにドイツはオランダおよびベルギーを攻撃。ドイツは1940年にはパリを占領し、フランスを降伏させた。そして、イギリス本土に上陸するためにイギリスへ激しい空襲を行う。

また、イタリアが、ドイツ側で参戦した。

いっぽう、独ソ不可侵条約をむすんでいたソ連はポーランドの東部を占領し、さらにフィンランドを侵略して戦争となった[3]

ドイツへの抵抗編集

1940年6月にフランスに、ドイツの傀儡(かいらい)政権[4])が建てられた(ヴィシー政権)。しかし、ドイツに抵抗する軍人や政治家はイギリスに亡命して自由フランスという組織を結成し、フランス国内に住む民間人に抵抗運動(レジスタンス)を呼びかけて抵抗した。

1941年8月には、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相との間に、大西洋憲章(たいせいよう けんしょう)が結ばれた。ドイツに対抗して戦うことを確認した憲章である。このドイツとの戦いを、ファシズム国家による侵略から民主主義を守るための戦い、と宣言した。

日本とヨーロッパ諸国との関係編集

1936年、共産主義国であるソ連に対抗するための、日独防共協定(にちどく ぼうきょうきょうてい)が日本とドイツとの間に結ばれた。また1937年11月にはイタリアが加入し、日独伊防共協定(にちどくい ぼうきょうきょうてい)が結ばれた。

しかし1939年にはドイツとソビエトとの間で、独ソ不可侵条約がむすばれたため、防共協定は、いったん実効性がなくなった。

日本は、ドイツが勝利をつづけていることから、1940年にドイツとイタリアと同盟を結んだ。この三国の軍事同盟を日独伊三国軍事同盟(にちどくい さんごく ぐんじどうめい)[5](独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito)が1940年に結ばれた。

この日独伊三国同盟によって、ドイツとの戦争の最中だったイギリスと、イギリスを支持するアメリカと日本との対立は決定的となった。

ユダヤ人の運命編集

 
アンネ=フランク
 
アウシュビッツ第2収容所。(世界遺産)

ドイツはナチスの政策にもとづき、占領地ではユダヤ人を迫害し、多くのユダヤ人を捕らえ、アウシュビッツ(ポーランド)の収容所など、各地の収容所に送った。ユダヤ人は収容所などで強制労働させられたり、処刑された。このため、ナチスの迫害から逃げるため、多くのユダヤ人が隠れて住んだり、あるいはアメリカなどに亡命(ぼうめい)[6]した。

このユダヤ人への迫害のようすを伝える史料として、ユダヤ人の少女アンネ=フランクが書いた日記が有名である。アンネは衰弱のため、収容所内にて15歳で亡くなった。

 
杉原千畝(すぎはら ちうね)

さて、1940年のこと。リトアニアの日本領事館にはドイツに追われたユダヤ人が集まっていた。リトアニアの日本領事館の外交官であった杉原千畝(すぎはら ちうね)は、同盟国ドイツの意向に反して、杉原は人道の観点からユダヤ人をアメリカなどに逃がすために、途中経路の日本入国のビザを発給した。このため、約6000人のユダヤ人が命をすくわれた。

 
樋口季一郎(ひぐち きいちろう)

このほか、中国の上海などに逃げようとしていたユダヤ人が、満州国が入国をしぶったために足止めされていたので、日本の陸軍のハルビン機関長の樋口季一郎(ひぐち きいちろう)は、独断で列車の手配をして、通行させた。

なお、救出されたユダヤ人の人数については、史料ごとに人数が違っており、正確な人数は、よく分かっていない。


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  1. ^ 「これから、◯◯の国に戦争をしかける」という内容の宣言をすること。この宣言なしに開戦するのは国際条約(w:開戦に関する条約)違反となる。
  2. ^ これに、日中戦争と後の太平洋戦争も加える。
  3. ^ フィンランドとソ連との戦争は1939-1940、1941-1944の二回発生した(高校世界史の範囲)。
  4. ^ 「傀儡」はあやつり人形のこと。「傀儡政権」はあやつり人形のように言いなりとなる政権。
  5. ^ 日独伊三国同盟ともいう。
  6. ^ 不当な迫害(はくがい)を逃れるために、外国に逃げること。特に、民族差別や宗教差別、あるいは政治活動への弾圧などによる迫害から逃れるために外国に逃げることを言う場合が多い。

太平洋戦争編集

中国戦線の行き詰まりと日米の対立編集

第二次世界大戦が始まった1939年は、日中戦争の最中だった。この頃には、戦争の範囲が拡大しすぎて日本にとっては収拾がつかない状態になっていた。また、アメリカやイギリスは中華民国の蒋介石を支持し、東南アジアなどの植民地から中国を支援していた。そのため、すぐに中国は降伏すると考えていた日本の目論見ははずれ、戦争が長期化していた。日本軍の侵攻は中国の主権と独立の尊重などを取り決めた条約(九カ国条約)違反であるとされ、国際的な孤立も深まった。

日中戦争の行きづまりを解決するため、アメリカやイギリスによる中国への支援ルートを断ち切ろうとした。石油・ゴム・錫などの資源の確保も重要だった。そのため、1939年に日本軍は東南アジアへの足がかりを求めて中国南部へと侵攻した。その結果、米・英・仏は警戒を強め、アメリカは日本に対して経済制裁を始めた。

1940年に入ると、ヨーロッパでドイツが次々と勢力を拡大していた。フランスはすでに述べたように、ドイツに占領されて傀儡政権のもとにおかれていた。オランダも国土が占領されて政府はイギリスに亡命していた。イギリスはドイツ軍の空襲を受け、激しい戦いとなっていた。

こうしたヨーロッパの状況を見た日本は東南アジアへの侵攻を進めた。そのために、1941年、ソ連と日ソ中立条約を結び、北方の安全を確保した。そして、1940~41年にかけてヴィシー政権の要請を受けるという形をとって日本軍はフランス領インドシナ[1]に進駐する。アメリカは日本の行動を侵略的な行動と認定し、日本への石油の輸出を全面禁止した。

アメリカにくわえ、オランダやイギリスや中国も、同様に日本への輸出を制限していた。この状況を、日本政府やマスコミは、アメリカ(America)・イギリス(Britain(ブリテン))・中国(China(チャイナ))・オランダ(Dutch(ダッチ))の4カ国の頭文字をとった「ABCD包囲網(エービーシーディー ほういもう)(または「ABCD包囲陣」)」と呼び、国民の敵愾心(てきがいしん)[2]をあおった。

日本の近衛内閣は、アメリカと交渉を進める一方、1941年の10月上旬までに交渉が上手くいかなければアメリカ・イギリスとの戦争を始めるという方針を固めた。このときの日本の要求は以下のようなものだった。

  1. 米英は日中戦争に口を出さないこと。
  2. 日本の物資の獲得に協力すること。
  3. 米英がこれに応じればフランス領インドシナから撤退する。

あまりにも都合の良すぎる日本側の提案はアメリカ側に受け入れられず、たちまちタイムリミットである10月がやってきた。しかし、近衛文麿(このえ ふみまろ)は有効な手を打つことができず、軍・帝国議会・世論の強硬路線をおさえきれなくなった。そのため近衛内閣は総辞職し、陸軍大将の東条英機(とうじょう ひでき)が新たに首相となった。

 
東条英機(とうじょう ひでき)

1941年11月26日、アメリカは日本に対して以下のような要求を出した。

  1. 日本軍の中国・フランス領インドシナからの完全な撤退。
  2. 蒋介石政権の承認と満州国などの日本が建てた傀儡(かいらい)政権の否定。
  3. 事態を満州事変以前に戻すこと。

このときのアメリカからの要求を「ハル・ノート」(英:Hull note)という[3]。「ハル・ノート」はあくまでアメリカの原則的な方針を書いたものでしかなかったが、日本はこれを「交渉決裂」と判断した。そして、1941年12月1日にアメリカ・イギリスとの戦争を正式決定した[4]

太平洋戦争編集

 
真珠湾攻撃で炎上中のアメリカ海軍の軍艦。(戦艦(せんかん)ウェスト・バージニア。)
※ 艦名(ウェスト・バージニア)は中学教科書には無いが、ネット検索用に記述した。

1941年の12月8日に、日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾(しんじゅわん)(英:Pearl Harbor(パールハーバー))にあるアメリカ海軍の基地を奇襲攻撃(真珠湾攻撃(しんじゅわん こうげき)(英語:Attack on Pearl Harbor))した。真珠湾攻撃の約1時間前には、日本陸軍がマレー半島のイギリス領に上陸し、イギリス軍との戦闘がはじまった。こうして、 主に日本とアメリカ・イギリスが中心となった太平洋方面の戦争を、太平洋戦争(英語:Pacific War または Asia-Pacific War)という[5]

この奇襲攻撃のあと、アメリカ政府は日本の外交官から日本の宣戦布告の知らせを聞いた。このため、アメリカ国内では、日本の奇襲攻撃は、だましうちだとして、アメリカで反日的な意見が強まっていった。「Remember Pearl Harbor(リメンバー・パールハーバー)」(意味:真珠湾を忘れるな! )が、アメリカでのスローガンになった。

日本のアメリカとの開戦後、ドイツ・イタリアもアメリカに対して宣戦布告した。こうして、日本・ドイツ・イタリアの3カ国を中心とする陣営(枢軸国(すうじくこく))と、アメリカ合衆国・イギリス・フランス(自由フランス)・ソビエト連邦・中華民国を中心とする陣営(連合国(れんごうこく))とが戦争するという形になった。

開戦当初、アメリカ・イギリスなどは戦争の準備が十分にできていなかったうえ、アメリカ海軍は真珠湾攻撃で大きな損害を受けていた。このため、日本軍は次々と勢力を拡大することができた。その際、日本は列強諸国によるアジアの植民地を解放するというスローガンを掲げた。そのため、当時の日本では大東亜戦争(だいとうあ せんそう)とよんだ[6]

このように、日米戦争の開戦のはじめごろは日本が有利だった。だが、1942年にミッドウェー海戦で、日本は空母(くうぼ)[7]を4隻失うなどの大損害を受け、アメリカに大敗した。その後、アメリカ軍も戦争の準備を整えていったため、ガダルカナル島の戦いなどを経て、日本軍は各地で敗北し、当初の占領地の多くを失った。そればかりでなく、太平洋戦争以前から日本が統治していた地域にもアメリカ軍が迫ってきた。

また、日本軍は食料や物資などの補給を軽視していたため、戦況が悪化すると物資の輸送が困難となり、いくつもの戦場で日本兵が餓死した。

なお、日本政府では、戦局(せんきょく)の悪化にともない、議会では首相の東條英機の指導力をうたがう意見が強くなる。サイパンが米軍に占領されて日本列島がアメリカ軍の空襲範囲に入ると、東條は議会の政治家からの支持も失い、1944年(昭和19年)7月に東條内閣は総辞職に追い込まれた。

大東亜共栄圏とその実態編集

 
大東亜会議の出席者
 
軍票(ぐんぴょう)。 軍票とは、占領地で貨幣として使うための特殊な紙幣。日本だけでなく、多くの交戦国が、それぞれの占領地で軍票を使った。写真は、太平洋戦争中に、南太平洋地域で日本軍が使用した1シリング軍票(1942年)。

日本にとっての太平洋戦争の目的の一つは東南アジアの資源の確保だった。しかし、日本は、表向きの戦争の正当化の理由として、ヨーロッパ諸国による東南アジアでの植民地支配の打倒と解放という理念をかかげた。それを大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)とよんだ。

当時の東南アジアの地域の人々は、すでに独立運動を始めていた。独立運動の指導者たちは日本と利害が一致したので、当初は日本軍に協力した。

しかし、日本軍が支配するようになると、独立運動の弾圧、地下資源の独占、食料や物資の略奪、ゴムやジュートなどの軍事的に必要な作物への転換を強制したりするようになった。物資調達には軍票を用いたが、無計画に発行したため現地ではハイパーインフレが起き、経済を混乱させた。また、強制労働にアメリカ・イギリスなどの捕虜(ほりょ)以外に現地の人々を動員したが、厳しい労働と少ない食料などから多くの犠牲者を出した。このため、今度は日本への不満が高まった。

1943年、東京で大東亜会議(だいとうあ かいぎ)をひらく。これは1941年8月にアメリカ・イギリスが発表した大西洋憲章に対抗するという目的もあった。タイ、満州、ビルマ、フィリピン、インドなどの代表をあつめ、欧米からの植民地支配の解放などをうたった大東亜共同宣言(だいとうあ きょうどうせんげん)を発表した。しかし、日本軍による厳しい統治にはかわらなかった。

日本の劣勢が明らかになると、各地で日本に対する不満がゲリラなどの形でふき出してきた。ビルマ(現・ミャンマー)のように抗日組織が結成され、大規模な武装蜂起(ぶそうほうき)を起こした地域もあった。

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  1. ^ ベトナム・ラオス・カンボジアの辺り。仏印ともいう。
  2. ^ 敵に対する憎しみや闘争心。
  3. ^ アメリカの国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull)の名が由来。
  4. ^ ただし、11月5日に開かれた御前会議(天皇が出席する重大な国策決定の会議)で開戦が事実上、決定していたという見方が強い。
  5. ^ 現在の日本政府もこの名前を用いているので、テストなどではこの戦争は「太平洋戦争」と書いておけばいいだろう。なお、日中戦争から連続し、太平洋だけではなく、東南アジア・インドまで広がった戦争であることを明確にした「アジア太平洋戦争」という呼称が学術的には広く使われている。
  6. ^ この呼び方は戦後にGHQによって禁止された。現在ではこの戦争に肯定的な人が主に「大東亜戦争」と呼ぶ傾向がある。
  7. ^ 軍用の航空機を運び、運用する軍艦のこと。

日本の敗戦へ編集

イタリア・ドイツの敗戦編集

出来事
1941年 6月 ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破ってソ連へ侵攻する。
1942年 6月 スターリングラード攻防戦が始まる。
1943年 2月 スターリングラードのドイツ軍降伏。ドイツ軍は大打撃を受ける。
1943年 7月 連合軍のシチリア上陸。ムッソリーニ失脚。
1943年 9月 イタリア降伏。
1944年 6月 アメリカ・イギリス連合軍がフランスのノルマンディーに上陸。
1944年 8月 パリ解放。ヴィシー政権崩壊。
1945年 4月 ヒトラー自殺。
1945年 5月 ベルリン陥落。ドイツ降伏。

第二次世界大戦の開戦直後はドイツ軍が圧倒的な速さで各地を侵攻したが、イギリスへの上陸はできなかった。そのため、ヒトラーは方針を転換し、1941年6月に不可侵条約を結んでいたソ連へと攻め込む(独ソ戦)。ドイツが攻めこんでくることを予想していなかったソ連は敗北を重ねるが、首都のモスクワの手前で踏みとどまり、激しい抵抗を行った。そして、1942~43年のスターリングラード攻防戦でドイツ軍は大敗し、ソ連がドイツ占領地へ侵攻を始めた。

ヨーロッパ西部でも、1944年にアメリカ・イギリス連合軍がフランス北西部のノルマンディーに上陸した。こうして、ドイツはアメリカ・イギリスとソ連にはさみうちにされた。そして、1945年4月30日にヒトラーが自殺し、5月2日にはドイツの首都ベルリンがソ連軍に占領される。1945年5月7日、ドイツは連合国に無条件降伏した。

イタリアは1943年7月に連合軍がシチリアに上陸・制圧したことで、ムッソリーニは失脚に追い込まれる。1943年9月にはイタリアは連合国軍に降伏した。

こうして、ヨーロッパでの戦闘は終わった。

 
ヤルタ会談
 (中央ソファー左から)会談に臨むチャーチル(イギリス代表)、フランクリン・ルーズベルト(アメリカ代表)、スターリン(ソ連代表)。

アメリカ・イギリス・ソ連の代表は、1945年2月にソ連のヤルタで、ドイツの戦後処理について話していた( ヤルタ会談)。

このヤルタ会談では、日本との戦争の対応についても話し合われ、密約として、ソ連の対日参戦と千島列島・樺太の領有が認められた。

そして3カ国の代表は1945年7月には、日本の降伏条件についてドイツのポツダムで会談し、ポツダム宣言をまとめた。そして中国の同意を得て、アメリカ・イギリス・中国の名で発表した。

日本の敗戦編集

戦争で日本が不利になるにつれて、兵士が足りなくなっていった。1943年、それまで徴兵をされていなかった文科系の大学生も兵士として動員された。これを学徒出陣(がくと しゅつじん)という。徴兵されなかった理科系の学生、女学生、中学生なども工場などの仕事に動員されて働かされた(勤労動員)。

また、生活物資とくに食糧の不足はますます深刻になっていった。普通の店で買える品物は極端に少なくなる一方、軍や軍需工場は違法な買い占めを行っていた。その上、物資の横流しも横行していたため、軍に対する反感は強まっていたが、治安維持法などで取りしまられていたので、表に出ることはなかった。

朝鮮や台湾では、反乱や自治権を要求されることなどをおそれ、徴兵は行われなかった。しかし、もはや兵力や労働力の不足は極めて深刻だった。はじめは労働者の動員にとどまっていたが、やがて朝鮮や台湾でも徴兵を実施された。徴兵された朝鮮人・台湾人は戦線に出るのではなく、連合国兵士の捕虜監視の役割を当てられることがあり、戦後、戦犯と認定されることもあった。

日本本土への空襲編集

アメリカ軍がサイパン島を占領すると、サイパン島から飛び立ったアメリカ軍の大型爆撃機(ばくげきき)B29によって、日本の各地が空襲(くうしゅう)されるようになる。都市が空襲の目標になることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、空襲の危険からのがれるため、両親からはなれて地方へと移り住む、疎開(そかい)をさせられた(学童疎開)。

当初は軍事施設や工場だけを標的にしていたが、効果が薄かったため、都市を無差別に攻撃するようになった[1]。B29は焼夷弾(しょういだん)[2]を投下し、日本の都市を焼き払った。

 
東京大空襲で焼け野原となった東京。

1945年3月10日の東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう)では、約10万人の人が亡くなった。その後は、大阪や名古屋など日本全国の主要な都市が空襲にあい、多くの人命が失われた。

沖縄戦編集

1944年になると、沖縄での戦闘が始まる可能性が高くなり、沖縄の住民たちは疎開のため九州や台湾に移動した。しかし、アメリカ軍の潜水艦によって、民間船が撃沈されることも激増した。特に疎開する学童を多く乗せた疎開船・対馬丸が撃沈され、多数の犠牲者が出た事件は現在でもよく知られている。

1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、日本軍と地上戦になった(沖縄戦)。沖縄では根こそぎ動員と呼ばれ、成人男性だけでなく、中学生は兵士として、女学生は看護婦などとして動員された。そのため、被害は軍人・兵士だけでなく、一般市民の犠牲も多大だった。

また、日本軍によって、集団自決をせまられた沖縄県民も多くいたという[3]。「洞窟に沖縄住民とともに隠れた日本軍は、泣きやまぬ乳幼児がいると米軍に発見されないためにと乳幼児を殺害した」「禁止されていた方言を話した地元住民が、スパイ容疑で殺害されたりもしたと」いう事例もあった。

こうして、米軍との戦闘だけでなく、様々な要因で沖縄県民のうち約5分の1から4分の1にあたる約12万人が亡くなった。

1945年6月23日、日本軍の現地司令官は、もはや日本軍は力つきたとして自決した。こうして、日本軍の組織的な抵抗は終わり、沖縄はアメリカ軍に占領された。しかし、日本軍の一部はその後も沖縄各地にひそんで、戦闘はその後(終戦後の9月7日ごろまで)も続いた。

日本の無条件降伏編集

ドイツが降伏し、沖縄戦での敗色が濃厚になる中、日本政府はソ連を仲立ちとしてアメリカなどと講和することを模索しはじめた。しかし、ドイツの降伏後、日本との戦争を決めていたソ連は日本政府との交渉には消極的だった。

一方、1945年7月には、アメリカ・イギリス・ソ連の三か国は日本の降伏条件についてドイツのポツダムで会談し、ポツダム宣言をまとめた。そして中国の同意を得て、アメリカ・イギリス・中国[4]の名で発表した。

   ポツダム宣言(要約、抜粋、現代語訳)

6: 日本国民をだまして世界征服に乗り出すといった(あやま)ちを犯した者たちの権力を、永久に除去する。
7:(上記の6条のような)新たな秩序が建設され、(日本の)戦争の遂行能力がなくなると確信できるまでは、連合国は日本を占領する。
8: 日本国の主権がおよぶ領土は、本州・北海道・九州・四国および、連合国の決定する島だけに限る。
9: 日本国軍隊は完全に武装を解除した後、各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活を営む機会がえられる。
10:われら連合国は、日本人を奴隷化することはしないし、日本を滅亡させることもしない。しかし、日本の戦争犯罪人には厳重な処罰をくわえる。日本政府は、日本国民の間の民主主義を復活させなければならず、そのため言論・宗教・思想の自由および基本的人権を確立させなければならない。

このとき、日本はポツダム宣言を「黙殺(もくさつ)」すると発表したが、これはアメリカ側からは「拒否」と受け取られた。

 
長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲
1945年8月9日
 
原爆投下後の広島のようす。

アメリカは1945年の8月6日に広島に原子爆弾(げんし ばくだん)(略して原爆)を投下した。広島の街は一瞬で破壊され、広島では10万人をこえる一般市民が亡くなった。9日には長崎に原子爆弾が落とされ、8万人ほどが亡くなった。

また、8月8日、ソ連は日ソ中立条約をやぶって満州に攻めこんだ。こうして、日本が計画していた「ソ連を仲立ちとする講和」という方針は完全に破綻(はたん)した。8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れることを正式に決定し、連合国に通達した。

1945年(昭和20年)の8月15日、ラジオ放送で天皇が国民に日本の降伏を発表した。こうして日中戦争や太平洋戦闘をふくむ第二次世界大戦は終わった[5]


(範囲外:)太平洋戦争に関する用語
教科書には書かれてない用語でも、戦争に関する用語で、常識的に中学生が知って置かなけばならない単語がいくつかある。たぶん、学校でも教師が口頭で説明するか、あるいは資料集などの副教材などで習うだろう。

大本営発表(だいほんえい はっぴょう)

「大本営」とは、戦時中の日本軍の本部のこと。日本政府による公式な戦況の報告が大本営発表である。
当初は比較的正確だったが、日本政府は戦況が不利になっても、国民の戦意を低下させないために、ウソの発表をしたり、あたかも勝利してるかのように新聞などでの表現を変えさせた。そのため、戦局が悪化して誰の目にも日本の不利が明らかとなると国民の信頼を失った。
有名な表現は、日本軍の退却・撤退とはいわず、あたかも単に軍の進行の方角を変更しただけのようにみせかける「転進(てんしん)」、部隊などの全滅を美化する「玉砕(ぎょくさい)」などがある。
現代でも、政府や企業などによる、自分に都合よく信用できない発表のことを「大本営発表」という。

零戦(れい/ぜろせん)

(資料集で名前だけ紹介されることが多い)

 
のちにアメリカで復元された零戦

零戦は日本海軍の艦隊や航空機を敵方の航空機から護衛する戦闘機の一種で、太平洋戦争中の主力戦闘機だった。正式名称は「零式艦上戦闘機(れいしき かんじょう せんとうき)」。零戦の他に「ゼロ戦」「零式艦戦(れいしきかんせん)」などとも呼ばれる。

特攻隊(とっこうたい)

「特別攻撃隊」の略。特攻は日本軍が戦争末期にとった、航空機や特攻用に開発された人間爆弾「桜花」による体当たり戦法で、特攻隊はこれを行う部隊。特攻兵器に脱出装置はないため、パイロットは確実に死ぬ。「神風特攻隊(かみかぜ/しんぷうとっこうたい)」が有名である。形式的には志願だったが、実質的に強制されることが多かった。
特攻のような攻撃はドイツやソ連でも行われてはいた。しかし、最初から生還を前提にしていないことや規模、組織的な戦法という点で日本が際立っている。
ほかにも、1~2人乗り潜水艦に爆薬をつめた人間魚雷「回天(かいてん)」、モーターボートに爆薬を載せた「震洋(しんよう)」による特攻もあった。

戦艦『大和(やまと)

大和は世界最大の戦艦である。
沖縄は最終的にアメリカに占領される事になるが、日本は沖縄を見捨てた訳ではなく、救出の為に1945年、大和ら10隻を沖縄に派遣した(天一号作戦)。しかし、途中でアメリカ海軍の艦隊に遭遇し、アメリカ海軍の航空母艦の雷撃(魚雷による攻撃)で撃沈した。
大和を攻撃したアメリカ軍の軍人は、まるで巨大な島を攻撃しているかの様な感覚に陥ったという。

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  1. ^ 民間人への爆撃である無差別爆撃は、戦時国際法に違反している。
  2. ^ 焼夷弾とは、建造物などを焼き払うために、炎を吹き出す爆弾。燃えやすいように、ガソリンなどが焼夷弾の中に入っている。焼夷弾による爆撃作戦を指揮した軍人は、カーチス・ルメイという人物である。全くの余談だが、彼は戦後に「航空自衛隊の創設に協力した」という功績で日本政府から勲章をもらった。
  3. ^ 沖縄にかぎらず、戦争当時の日本では「投降(とうこう)して捕虜(ほりょ)になっても、米軍に虐待(ぎゃくたい)されて悲惨(ひさん)な目にあうから、捕虜にならず最後まで戦え」といった内容の教育を日本人はされた。そのため、サイパンでも日本の民間人が集団自決するという事態が発生していた(w:バンザイクリフ)。
  4. ^ ソ連はまだ日本との戦争を始めていなかったため、代わりに中国が入った。ソ連は対日参戦後にポツダム宣言に加わった。
  5. ^ ただし、正式な終戦は、無条件降伏を認めた文書に政府代表が署名した1945年9月2日である。