特徴

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  • 辛亥革命(しんがい かくめい)で始まり、第一次世界大戦が起こった時代であり、治安維持法(ちあん いじ ほう)の施行で終わった時代だと言える。辛亥革命や第一次世界大戦によって世界中の君主制が動揺し、日本のみならず世界中で、共和制革命が起きる可能性が存在した時代である。民国元年と大正元年は同じ年(1912年)である。
  • 1911年~1912年の辛亥革命によって中華民国(ちゅうかみんこく)が成立すると、薩摩(さつま)・長州(ちょうしゅう)出身者の藩閥政治(はんばつ せいじ)が崩壊し始め、尾崎行雄(おざき ゆきお)や犬養毅(いぬかい つよし)らが主導し新たに政党政治の提唱が行われた。
  • 第一次世界大戦末期の1918年には米騒動(こめそうどう)が起こり、各種の労働争議も多発し、市川房枝(いちかわ ふさえ)や平塚らいてう(ひらつか らいちょう)による婦人参政権運動も起こった。
  • 第一次世界大戦の結果、ロシア(1917年)とドイツ(1918年)とオーストリア(1918年)とトルコ(1922年)では帝国が倒され、共和制国家に変わった。

関連項目

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中華民国での辛亥(しんがい)革命

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第一次世界大戦

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二十一か条の要求

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第一次世界大戦中の1915年(大正4年)に、日本は中国政府(袁世凱の中華民国)に要求を出した。二十一か条の要求(にじゅういっかじょう の ようきゅう)という。要求の内容は、中国における、ドイツの山東半島などの権益を、日本が受け継ぐ事を認めさせる内容の要求だった。また、満州や内モンゴルでの日本の権益を認めるさせることも、日本は要求した。日本は、要求のほとんどを中華民国に認めさせた。 中国では民衆などに、日本への反対運動が起きた。

世界大戦による日本の好景気

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第一次世界大戦の被害を、日本とアメリカは、ほとんど受けなかった。またヨーロッパは戦争のため、中国などのアジア市場に手が回らず、そのため日本がアジア市場を、ほぼ独占でき、日本の輸出先がアジアにも広がった。 従来の輸出先のアメリカとの貿易も、ひきつづき好調だった。

さらに軍需や船などの需要が増え、日本の軍需産業や造船業や鉄鋼業が好景気になった。また、欧米からの輸入がとだえたため、染料・薬品などをつくる化学工業が発達した。こうして結果的に、重化学工業が、日本で発達した。

このような要因があり、日本は好景気になった。この第一次世界大戦による日本の好景気のことを、「大戦景気」(たいせん けいき)という。

商人には、うまく商売に成功して、急に大金持ちになるものが出てきた。彼らは「成金」(なりきん)と呼ばれた。将棋(しょうぎ)で「歩」の(こま)が裏返ると「と金」になることに例えられたのである。

特に、船と鉄に関する商売が好景気だったので、船成金(ふねなりきん)などが出てきた。

また、日本で商工業が発達したことにより、都市で働く労働者の人口が増えた。

また、水力発電がすすんだ。

シベリア出兵

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連合国は、ロシア革命が周辺国に広がることをおそれ、革命反対派に協力するため、1918年にシベリアに出兵した。イギリス・フランス・アメリカ・日本が出兵。日本は約7万人の軍隊をシベリアに出兵した。これらの出来事をシベリア出兵(シベリアしゅっぺい)という。

米騒動

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好景気にともない、物価が上昇した。特に戦争により米の輸入が減ったこともあり、米の価格が上昇した。 またシベリア出兵のため、米の買占めも起きた。

米の価格が上昇すると、米の値上がりを期待して取引で儲け(もうけ)ようとする商人などがあらわれはじめ米の買い占めがおこり、ますます米が値上がりしていった。米が急に値上がりしたので、庶民は米が買えなくなり、また、かわりの穀物(こくもつ)も、すぐにはできないので、庶民は食べ物にこまることになった。

1918年には、富山県で主婦たちが米屋に安売りを要求して暴動がおきたことをきっかけに、全国で米の安売りをもとめる暴動が起きた。 これら一連の米に関する騒動(そうどう)を、米騒動(こめそうどう)と言う。


当時の内閣の寺内正毅(てらうち まさたけ)内閣は、この米騒動により議会で辞職に追い込まれた。

 
原敬(はら たかし)。 原は華族出身ではなかったので、「平民宰相」(へいみん さいしょう)と呼ばれた。

そして1918年に新しい内閣総理大臣が決まり、立憲政友会の総裁の原敬(はら たかし)が、寺内の次の内閣総理大臣になった。

原内閣は、軍部と外務大臣以外の大臣が、すべて政党出身(立憲政友会)であり、はじめての本格的な政党内閣だった。

このように、好景気にかんして、いろんなことが日本で起きた。

しかし、ヨーロッパでの世界大戦が終わり、ヨーロッパの産業が回復してくるにつれて、日本は不景気になっていった。1920年には、日本は不景気になっており、多くの会社や工場が倒産(とうさん)した。

大正デモクラシー

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護憲運動と民本主義

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  • 護憲運動(ごけん うんどう)

藩閥政治(はんばつ せいじ)を批判し、政党による政治を主張する 護憲運動(ごけん うんどう) が政党から主張された。

立憲政友会の尾崎行雄(おざき ゆきお)や、立憲国民党の犬養毅(いぬかい つよし)などが護憲運動の中心になった。


そもそも日露戦争後の日本の議会の政権では、政党の立憲政友会を基盤とした内閣と、藩閥・官僚・陸海軍を基盤とした勢力とが、交互に政権を担当していた。

1912年には、陸軍が軍備増強の要求をしたが、政権を担当する立憲政友会の総裁(そうさい)の西園寺公望(さいおんじ きんもち)の西園寺内閣(さいおんじ ないかく)が財政難を理由に増強案を拒否したので(※ 日露戦争後なので財政難)、内閣に圧力をかけるために陸軍大臣が辞職して、内閣が解散するはめになった。そして、後任の首相には藩閥の支持する桂太郎(かつら たろう)がついた。しかし、民衆がこれに反発し、倒閣運動を起こし(第一次護憲運動、だいいちじ ごけん うんどう)、倒閣運動は日本各地に広がり、桂内閣は50日あまりで倒れた。

この第一次護憲運動で、尾崎行雄や犬養毅が運動の中心になったのである。


  • 民本主義(みんぽん しゅぎ)
 
吉野作造(よしの さくぞう)

護憲運動などにより、民衆の意見を政治に反映すべきだという考えが強まった。 政治学者の吉野作造(よしの さくぞう)は、民衆の意向を議会や政治に反映させるべきだと説き、吉野は民本主義(みんぽん しゅぎ)を唱えた。「民本」(みんぽん)という語の理由は、当時の日本の主権者は天皇だったので、「民主主義」という語は天皇の主権を侵すことと考えられていたので、「民本」と言う語を吉野は用いた。

そして、この民本主義の思想によって、普通選挙を要求する運動が強まった。

以上のように、大正時代には、自由主義、民主主義(デモクラシー)的な社会の風潮があった。このような大正時代の民主的な風潮のことを大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)という。


普通選挙と政党内閣

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1925年の加藤高明(かとう たかあき)内閣で、普通選挙制が成立。満25才以上のすべての男子に選挙権が与えられた。納税額は、選挙権には関係なくなった。まだ、女子には選挙権は無い。

1928年には、第一回の普通選挙が行われた。

  • 憲政の常道(けんせい の じょうどう)

加藤内閣以降の議会では、衆議院で多数をしめた政党の総裁が首相になることが、「憲政の常道」(けんせい の じょうどう)とされ、五・一五事件(ご・いちご じけん)の起こる1932年まで、おこなわれていった。

解放運動

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  • 女性解放運動
 
平塚らいてう(ひらつか らいちょう)

女性の地位の向上や、女子の参政権(さんせいけん)の獲得を目指す女性解放運動(じょせい かいほううんどう)が、平塚らいてう(ひらつか らいちょう)などにより主張された。

平塚らいてうは市川房枝(いちかわ ふさえ)と協力して、1920年に新婦人協会(しんふじん きょうかい)をつくった。

「原始、女性は実に太陽であった。」「今、女性は月である。」(青鞜の創刊号の宣言文)

なお、青鞜社(せいとうしゃ)は文学団体。いっぽう、新婦人協会は政治団体。

しかし女性の参政権獲得は、(第二次世界大戦の終結の)1945年まで無い。

  • 部落解放運動

1922年に被差別部落への部落差別の解消をうったえるための全国水平社(ぜんこく すいへいしゃ)が京都で結成した。

「人の世に熱あれ、人類に光あれ」(水平社宣言の一部)


 水平社宣言(抜粋)

全国に散在する我が特殊部落民よ団結せよ。
(中略)
水平󠄁社は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間に光あれ。

※表記を現代語に修正。

そのほか、北海道では1930年に北海道アイヌ協会が設立された。

軍備の縮小

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第一次世界大戦が終わり、しばらくの間、世界は、そこそこ平和だったこともあり、また欧米との各国での軍縮に関する条約もあり、日本では軍備が縮小された。

大正時代の文化

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都市の生活

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1920年頃の銀座

大正時代には、都市ではガス、水道、電気、電灯が普及した。(※ 水力発電が大正時代に始まったことと関連づけて、電気や電灯が大正時代に普及したことを覚える。)


工業の発展が背景にあり、そのため専門知識をもつ労働者の必要性が生じ、都市などでは、会社勤めをするサラリーマンがあらわれた。

そのため、都市の郊外も開発された。このころの新式の住居には、洋間を利用した「文化住宅」(ぶんかじゅうたく)があらわれた。郊外に、このような文化住宅が多く建築され、サラリーマン家庭が住んでいた。


また、都市と郊外をつなぐ交通手段としての必要などから、電車や鉄道が使われるようになった。バスも普及した。さらに、東京では地下鉄が、浅草・銀座などに開通した。

ターミナル駅もあらわれた。そのターミナル駅の周辺には、デパートや劇場なども、あらわれた。鉄道会社が中心となって、このような鉄道周辺やターミナル周辺の郊外の開発をすすめた。

都会にはデパートなどもできた。

食事では、パンを食べることも広がった。 洋食屋も普及し、カレーライス、オムレツ、コロッケなどの洋食も普及した。キャラメルやドロップなどの洋菓子も普及してきた。(※ 洋菓子の普及については、清水書院や帝国書院のコラムに記載されている。キャラメルなど、明治大正のころに国産の洋菓子が登場してきた。)


また、女性タイピストやバスガールや女性アナウンサー(ラジオ用)などの「職業婦人」(しょくぎょ うふじん)が表れた。男性労働者では、工場や役所などに勤めるサラリーマンが増えてきた。 (※ 発展: )また、役所などのサラリーマンの服装を通じて、背広(せびろ)が普及しはじめた。(※ 清水書院の教科書に、「背広」の記載あり)

洋服は、先に男性を中心に洋服が普及していたが、大正時代になると女子の洋服も普及してきた。バスガールなどの制服にも、洋服が採用された。また、女学校の制服に洋服(セーラー服など)が取り入れられた。(※ 洋服については、東京書籍や教育出版などに記載あり。)

文化の大衆化

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教育の普及と出版

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雑誌『キング』創刊号の表紙(1925年)

義務教育は、ほぼ完全に普及した。さらに、中学校や女学校への進学者も増えてきた。このような背景もあり、雑誌や新聞を読む人が増えた。発行部数(1日の発行部数)が100万部をこえる新聞もあらわれた。 また、小学校・中学校の教育も見直され、自主性の尊重などの自由主義を取り入れた新型の教育が導入され、模索されていく。

出版では、活字本を読める人も増加したため、当時としては比較的に価格の安い1冊1円の円本(えんぽん)による文学全集シリーズ本が流行した。それからは庶民が比較的気軽に文芸に親しめるようになった。(※ それ以前は、文芸は富裕層だけが楽しめた文化であった。)

(※ 「円本」については、帝国書院や清水書院の教科書などで紹介されている。)

同じころ、文庫本なども出版され始めた。 大衆小説が流行り、江戸川乱歩(えどがわ らんぽ)も、この時代に流行った作家である。


このような大衆へのメディアの普及が、大正デモクラシーの背景にある。

※ 余談だが、女学校の普及などもあり、洋服はますます広がっていった。女学校が制服を洋服にしたのも背景。女学校では、洋服を実習などの授業で製造していた事もある(良妻賢母の教育ではなく、当時はそれが先端的な技術だった)。

ラジオ放送

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ラジオ放送が始まったのも、大正時代である。1925年に東京、大阪でラジオ放送が始まった。(※備考. 放送開始の翌年には、東京・大坂・名古屋の放送局が合併して日本放送協会(NHK)が設立した。)

未分類

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映画館が立ち並ぶ浅草六区の歓楽街、1937年(昭和12年)1月
  • 映画、レコード

映画とレコードが、大正時代のころから流行をしはじめる。映画では、アメリカの映画も劇場公開された。

映画では、はじめは音声がなく、かわりに弁士がセリフや解説をしゃべる無声映画であり、当時は活動写真(かつどう しゃしん)とよばれていた。しかし1920年から、有声映画(ゆうせい えいが、いわゆる「トーキー」)が始まる。

(※ 発展: )なお、映画館は、大都市の駅の近くに作られた場合が多かった。デパートも同様に大都市の駅の近くに作られた場合が多かった。
  • モボ、モガ

アメリカ映画やジャズなどの日本での普及を通して、アメリカ的な文化が日本に流入していき、そのようなアメリカの大衆娯楽的な文化は「モダン」と言われた。(※ 帝国書院に記載あり。)

同じころ、洋服が普及してきたこともあって、私服などで洋服を着ることも「モダン」と言われた。

街中などで洋装をした若者は、洋服を着た女性なら「モガ」(「モダン・ガール」の略)と言われ、男性なら「モボ」(モダン・ボーイ)などと呼ばれた。

  • その他

野球などのスポーツも流行した。テニスも、知られてきた(※ テニスの参考文献: 帝国書院の教科書)。 競馬も人気に。

学問

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民俗学(みんぞくがく)という、農村の庶民の文化を研究する学問を唱えた柳田国男(やなぎだくにお)が表れた。

哲学では西田幾多郎(にしだ きたろう)が『善の研究』(ぜん の けんきゅう)をしるし、ドイツ哲学に東洋の禅の思想を加えた解釈を築いた。

文芸

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雑誌「赤い鳥」(あかいとり)創刊号。芥川龍之介の作品が掲載されていた。
 
芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ
  • プロレタリア文学
小林多喜二(こばやし たきじ)
『蟹工船』(かにこうせん)など、労働者の苦しい実情を描いた。

芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)、志賀直哉(しが なおや)、谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)、

  • 白樺派(しらかばは)
志賀直哉、武者小路実篤
  • 新思潮派(しんしちょうは)
芥川龍之介

児童向けの文芸雑誌『赤い鳥』には、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』(くものいと)が掲載された。

  • 耽美派(たんびは)
谷崎潤一郎
  • 雑誌『赤い鳥』

児童向けの文芸雑誌『赤い鳥』には、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』(くものいと)や、新実南吉(にいみなきち)の『ごんぎつね』が掲載された。

労働運動の高まりと取り締まり

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労働運動

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日本における第1回メーデー

労働組合の指導により、ストライキなどの労働争議(ろうどう そうぎ)が盛んになった。

労働運動を行っていた友愛会(ゆうあいかい)などの指導により、1920年(大正9年)には日本で最初のメーデーが開かれた。 1921年には友愛会は日本労働総同盟(にほんろうどうそうどうめい)と改名した。

農村でも、小作料引き下げなどの要求をする小作争議(こさく そうぎ)が盛んになった。 1922年には全国的な農民組合である日本農民組合が結成された。

また1922年には日本共産党がひそかに結成された。

治安維持法

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また、1925年の男子普通選挙が実現した年と同年、暴力的な革命運動を取り締まる目的で治安維持法(ちあん いじほう)が1925年に成立した。治安維持法を制定した背景には、ソビエトなどから革命思想が日本に入ってくることを恐れたのだろう、という説が有名である。

だが、この治安維持法は、本来の目的とはちがい革命とは結びつかない労働運動をも取り締まる目的で悪用されることになり、さらに、のちの時代には政府に反対する者を弾圧するために悪用されることになる。

関東大震災

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京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た東京日本橋および神田方面の、ひさんな状況(じょうきょう)

1923年に、関東地方で東京と横浜を中心に大地震(だいじしん)が起きた。死者・行方不明者は14万人以上であった。この地震を 関東大震災(かんとう だいしんさい) と言う。 また、地震による被害(ひがい)で、日本の不景気が、さらにひどくなった。

なお、この地震で、「朝鮮人が反乱を、くわだてている」という内容のデマ(「デマ」とは、かんちがいした連絡や伝言などのこと。)が飛び交い、不安にかられた民衆らが、朝鮮人や社会主義者らを殺害する事件が起きたという。殺害された人数については、現代の歴史学では、定説がなく、人数は定まっていない。当事の司法省は230名あまりの朝鮮人が殺害されたと発表した。

東京に朝鮮人がいた理由は、当時は韓国併合後の時代だったので、仕事などで日本に働きに来ていた朝鮮人がいたのです。


震災後の復興では、大都市の公共の建築物は、赤レンガから鉄筋コンクリートに置き換えられていった。(帝国書院の教科書に、鉄筋コンクリートの記載あり。)


※ 小学校コラムなどで習う話題
 
後藤新平(ごとう しんぺい)
※ 小学校の社会科でも、教育出版の教科書で、大正当時の小学校などが(※ 木造などから)鉄筋コンクリートに復興時に立て替えられた事が紹介されている。
内務大臣などとして活躍した後藤新平(ごとう しんぺい)の業績として紹介されている。[1]

復興のさい、火災などの延焼を防ぐため、各地に(建物以外の)公園などを設けた。このような、防火のための、公共の空き地のようなものを、「防火帯」(ぼうかたい)という。隅田公園(すみだ こうえん)は、その役割を持っている。[2]

また、小学校に隣接する公園を増やした。これも、後藤新平などが、関東大震災の復興として主導したものである。

こうした後藤新平らの手法は、その後の災害復興でも参考にされた。1995年の阪神・淡路大震災後の神戸市の復興事業でも,この時の計画が参考とされた。[3]

  1. ^ (pdf) 森田康夫 著『第 4 回:小学 6 年・社会科で学ぶ「自然災害からの復旧・復興」』、建設マネジメント技術、P92
  2. ^ (pdf) 森田康夫 著『第 4 回:小学 6 年・社会科で学ぶ「自然災害からの復旧・復興」』、建設マネジメント技術、P92
  3. ^ (pdf) 森田康夫 著『第 4 回:小学 6 年・社会科で学ぶ「自然災害からの復旧・復興」』、建設マネジメント技術、P92