内乱記/デュッラキウムの戦い

デュッラキウムの戦いの背景

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デュッラキウムの戦い

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デュッラキウムの戦いの布陣図
アメリカ陸軍士官学校 史料部によるパブリックドメイン画像)





































ポンペイウス勢による強襲上陸作戦

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デュッラキウムの戦いの終盤におけるポンペイウスの強襲上陸作戦の戦況図
『内乱記』第3巻62節63節)(訳者が作成)

『内乱記』第3巻62節63節~)















レスニキア川の戦い

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デュッラキウムの戦いの終盤におけるレスニキア川の戦いの戦況図
『内乱記』第3巻65節66節67節)(訳者が作成)
 
デュッラキウムの戦いの終盤におけるレスニキア川の戦いの戦況図

ポンペイウス勢が、カエサルの二重の堡塁を強襲して突破すると、カエサル勢はポンペイウス勢の攻勢を何とか押し止めたが(64節~65節)、ポンペイウスが海沿いに陣営を固めていることに気づいたので、作戦を変更してポンペイウスの陣営の近くに新たな陣営を設置した(65節)。

その陣営の完成後、カエサルの斥候たちが、カエサル勢が作戦変更により放棄した古い陣営をポンペイウス勢が接収したことを報告した。その陣営は森に隣接し、海から300パッスス(約450m)ほどしか離れていなかった。さらにポンペイウス勢は、その古い陣営をより大きな塁壁で固めて大きな陣営を構築し、さらに給水しやすいように近くの川まで塁壁を延伸させていた。ポンペイウス勢は、いったんはそこから撤収した(66節)。


この古い陣営をめぐって、ポンペイウス勢とカエサル勢の間で戦いが勃発する。その塁壁が延ばされた川の名は、後世の学者によって、ギリシア語で パラムノスΠάλαμνος [1];Palamnos)またはパラムヌス(羅 Palamnus)で、後のレスニキアLesnikiaであると推定されている[2]。このため、このディッラキウムの大陣地戦の終盤で勃発した戦いは、レスニキア川の戦いBattle of Lesnikia river)と呼ばれることがある(アメリカ陸軍士官学校史料部など)。


















関連画像

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脚注

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  1. ^ Dictionary of Greek and Roman Geography (1854), PALAMNUS などを参照。
  2. ^ Guerre Civile par Jules César などを参照。

外部リンク

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