中学校国語科の学習について、総論的な雑感として書きました。

参考書 編集

中学国語の参考書は有用ですね。高校入試対策のためにも、非常に役に立ちます。

最初は易しめの参考書がいいですよ。とは言っても小学生用や中学受験用ではなく、正当な中学国語科参考書推奨です。

少し難しい中学国語科の参考書では、日本語の文法に関する記述の詳しい本が多いようですね。

どういう理由かは良く分からないのですが、小中高と、国語教育では日本語の文法に関する解説はあまり詳しくなく充実していないので、参考書ではそれについて解り易く説明したいという配慮が働くのでしょうね。

それ以外にも難し目の大冊の参考書は、日本語のなかに見られるアイヌ語の例として「ししゃも」を紹介したりとか、「平仮名」とか「片仮名」の仮名(かな)とは、真名(まな)の対義語で、真名とは漢字のことだとか、ちょっと面白い記述も多くて、読み応えのある本ではありますね。

ただ高校入試や大学入試のことを考えると、基本的に国語科では文法や日本語の成り立ちの詳細な内容が出題されることは少なく、文章の読解や漢字や言葉の意味、が 興味の中心になるようです。

詳細な解説が書かれている難し目の参考書の、文法の単元で、本文中でなく、脚注や傍注などに備考的に書かれている内容は、興味深い記述は多いのですが、入試や定期テストの問題にはあまりならない、ということでしょうね。

文法問題のテスト対策としては、標準的なワークブックなどの文法問題が解ければ、充分勉強したという事になるでしょうが、しかしそもそも勉強とは、必ずしもテストでいい点を取る事を目的化してやるものではないので、それぞれの興味に応じて、それぞれ課題を作っていけばいいと思います。

学校で使っている教科書に準拠した、教科書ガイドというのも有用な本ですね。

違う出版社の教科書に同じ文章が掲載されている場合、ガイドによって解釈が異なる場合があるようですよ。しかも、そういう部分に限って、重要で心を打つ内容なので、定期テストで良く出題されるようです。

しかし、そんな事、大したことじゃないですよね。

そもそも国語のテストなんてもの凄く曖昧でいい加減なもので、出題された読解文の作者自身が試験を受けたのに、大した点数取れなかったなんて笑い話があるくらいで、非常に当てにならないものです。

そんなテストに汲々して、1点でも高い点を取りたいなんて、考える事自体、馬鹿げたことだと思う。

教科のバランス 編集

世間では、よく「国語は学問の基礎。」とか「他の教科よりも国語が大事。」とかと言う人がいます。

国語、数学、理科、社会、英語、は、主要五教科ですから、偏向しないでバランスよく勉強することが大事ですし、推奨です。

また、国語自体の勉強も、読書、漢字の書き取り練習、ことわざや慣用句や古語、文法、多様な分野をバランスよく勉強するのがいいですよね。

また、体育や美術・音楽、家庭科などの、実技教科も、おろそかにしないで、課題として勉強時間を取っていくほうが良いですね。

国語の教科、教科書でも、他教科の知識の話題が取り上げられる事は多いですよ。

たとえば、戦争に関する文学や論説などでは、社会科の歴史分野でならう「満州」(まんしゅう)などの歴史的な地名が出ています。中学歴史では、「満州事変」(まんしゅう じへん)という事件について、習いますよね。

教科書を見ると、脚注(きゃくちゅう)や文章中などで、他教科でならう用語について解説していますから、他教科との関連は明らかにありますよね。

中学国語の漢字の分野では、「契約」(けいやく)や「損害賠償」(そんがい ばいしょう)などの、公民科目でならうような漢字も、国語科の漢字として習います。

現代の日本に滞在している外国人が書いた文章作品がいくつか、国語教科書で紹介されており、このような作品の読解では、英語の知識も必要です。

中学国語では、外国について評論した文章もありますし、外国人の登場する文学作品もあります。そのような作品の読解のためには、中学社会科の地理や歴史などの知識も必要ですし、逆にその作品を読むことで、地理や歴史の理解が充実していくはずです。

国語とは我々の国の言葉の世界を知る教科ですし、基本的に日本人が最初に出会う言葉についての教科ですから、総合的で、世界そのもの人間そのものに触れていく教科でもあります。

作文 編集

小学校でもあったでしょうが、作文という課題がありますね。

文章は読むだけではなく、やはり自分でも書きたい。そのための課題が作文ですが、授業を使って授業時間で書いたり、宿題として、課題として出されることもあると思います。

作文というのはある意味一つの創作で、気分が乗ればかなり面白くて楽しい事ですから、場合によってはかなり入れ込んで、多量の時間を費やすこともあるかもしれませんね。

前編集ではその行為を戒める指摘がなされていましたが、基本的に人間、自分のことは自分で決める、自分で考えて自分の生活を作った上で、最善を目指すのが妥当ですから、自分の学習生活も自分自身で最善を考え、場合によっては律し、場合によっては奔放に気持ちを解放させて、勉学の生活を作っていくのがいいと思います。

書き取り練習 編集

結局物事を知ることは、ある意味楽しい事ですし、実際にはあらゆる人が、勉強したいという気持ちを、どんな形にせよ持っているでしょう。

しかし実際の勉強は、何かを知るだけではなく、常に何らかの訓練、何度も同じことを繰り返すことによって、慣れとして、体術として物事を覚えるという側面がありますし、勉強の要素を考えるとき、そのことを抜かして、無いことにすることはできないでしょう。

やはり、国語の勉強として、漢字や熟語などの書き取り練習は重要ですね。

古典文学や近代文学を読むとか、あるいは文法を理解するとか、もちろんそれも国語の勉強ですが、しかしスポーツと同じで、体術として、慣れとしての練習、訓練は必要でしょう。

つまり国語の場合は鉛筆、筆記具を使って文字、言葉、さらには文章を書くことですよね。

また、文法の勉強などでも、教科書や参考書の説明を読むだけではなく、市販のドリルやワークブックなども利用して、書き取り練習、実際に行為として書くことが、非常に意義を持ってきます。

市販のドリルやワークブックは、その練習のためのひな型が、本として用意されていますから、非常に有用です。

文章の読解 編集

近代文学とか古典文学とか、いきなり初見で短時間で意味を見出して読解することは、実際問題としては若い初学者達には困難な事だろうね。そしてそういうものは、事実、国文学の研究者や、それ以外の様々な読者たちが、様々な読解を繰り返して、意見を擦り合わせて、ある程度の正当な解釈というのは確立されているだろう。


参考書とかで、そういう正当と言われる解釈を、勉強として読むことはまったく悪い事じゃあないよ。むしろ推奨する。学校の授業でも、教師がそうやって読解して、解説してくれるだろう。教科書自体には、本文はあっても、詳細な解説は普通書かれていないよね。

本文と解説、一度でも何度でも、読むことはまったく悪い事じゃあないし、むしろそれが勉強ですよね。

しかしやはり文章というのはその時々に読むものだし、テストだって、もちろん正当と呼ばれる解釈が頭の片隅にあってもいいけど、基本的にはその時の自分の言語世界、言語精神、世界理解の中で、その文章の正体を明らかにしなければいけないだろう。

中学国語の定期テスト 編集

まず第一点、テスト対策についての話と、普遍的な勉強法についての話は、ちょっと次元の違う話題ではありますよね。

第二点としては…普通学校の定期テストではほとんど授業で話した内容から出題されるということですね。これってある意味当たり前のことで、現実問題事実として、大抵の学校でそうなっているし、本来はそうじゃない方針があってもいいのですが、つまり、授業を離れた普遍的なテスト問題が作られても別にいいとは思うのですが、まあ常識的にそうはなりませんよね。

テスト対策の勉強法としては、まず学校で習った漢字や言葉の意味、熟語や定型的な言い回しについて、よく覚えておくこと。そしてもう一つは、授業で課題として出された文章を読んで、ノートやあれば教科書ガイドなどで、提示された解釈や考え方を復習しておくこと、の 2点になります。

古文の読書 編集

多くの中学生、あるいはある一定数の中学生は、今後高校入学試験や大学入学試験を受けることになるでしょうが、この項目ではそれを目的化した、その入試対策としての学習効率を重視した、推奨事項、学習法を書いていきます。

古典、近代文学読解問題を練習するのが推奨です。

ただ現編集者の考えでは、少なくとも基本的に読書に関しては、学校の国語の勉強以外の普遍的な意味を持つ行動ですから、どんな立場、職業、肩書、年齢の人間でも、自分の読みたい本を気楽に読むのがいいようにも思いますが、今後の進学、入試に関して、功利的に判断すると、古典、近代文学優先、というのが推奨されるようです。

国語科の勉強方法として、中学授業の標準的な内容を持つ参考書やワークブック、問題集での学習は、有効だし、ごく一般的に行われる学習方法ですよね。

再び入試問題の話になると、古文や漢文で全体のストーリーを知っていないと解けない問題が出ることは多いようですね。ですから明らかに出題傾向が高い古文や漢文の全体の筋を知っておくと、有利なことは間違いないし、その辺に関してはやはり、市販の参考書が一番詳しく、網羅的に解説されていると思います。

また、古文や漢文は実際には様々な作品がありますが、入試に出題されるものはある程度限られてくるでしょう。古典文献に関しては文学以外はほとんど出題されないようですね。歴史書などはほとんど国語の入試問題としては出題されない。日本書紀(にほんしょき)、魏志倭人伝(ぎし わじんでん)、三国志(さんごくし)、孫子の兵法、どれも古典文献として非常に興味深い文献ですが、国語の入試問題としては、出題されないでしょう。しかし平家物語は逆に頻出ですね。でも、源平合戦の歴史知識は特になくても、問題は解けるようですよ。

高校入試として源平合戦の歴史知識が必要になるとしたら、むしろ社会科で、という事になるでしょうね。とにかく前編集者の推奨としては、国語に関して、まあ実際には全教科そうなると思いますが、市販の参考書は非常に有用で、古文や漢文の読解に必要な歴史知識も解説として書かれているだろうし、お勧め、と、いう事ですね。

文芸の読書と参考書 編集

現編集者は基本的に読書好きなので、基本的に他者にも子供たちにも、読書として自分が読む本は、自由に、奔放に選んで、想定外の出会いを楽しんで読んでほしいから、あんまりあれ読めとかこれ読めとか限定したくない気持ちがあります。

でも確かに学校の勉強に役立つ本、あるいはもっと即物的には受験に役立つ本というのは、あるでしょうね。

この項目の前編集では、中学国語・高校国語の参考書に書かれた文芸作品を読むのが、勉強と読書を兼ねて一石二鳥だと、指摘されていますね。

古典作品の場合、参考書でしか入手できないものも多いかもしれません。しかしこの指摘はどこまで正しいか、実際には多くの古典作品が現代語訳や解説付きで単独で出版されています。ただ参考書は学校教育で扱う作品がピンポイントで掲載されているし、解説も詳しく、値段も安い、それを通じて古典作品を読む態度には、明らかに利点がありますね。

入試と文学作品 編集

基本的に現編集者は勉強法について得々と語る奴は、全員インチキ人間だと思っているし、まして、普遍的な勉強ではなく、受験や成績アップに特化した勉強法なんてのも、何の価値もないお金を動かしたいだけの虚無の商売だと思っている。

ただこのページの多くは受験や成績アップを目的とした過去編集がなされているので、前編集を踏まえた文章を書く以上はそのことに触れざるを得ない。

現編集者の本音を書けば、 Wikibooks上の学習方法頁は全部削除したいのだが、実はこうやって地道に時間をかけて再編集する事よりも、それは実現困難な課題だ。

そこで、まず、前項目で参考書を利用した読書について書いたが、西洋の古典作品の場合は、その方法ではあまり読むことができないようですね。

また、西洋文学古典は、入試の読解問題としては出題されないようです。

シェークスピア『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』『ジュリアス・シーザー』『ハムレット』、ドストエフスキー『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』、ゲーテ作品、これらの作品は、高校入試にも大学入試にも出題されないでしょう。

ただ文学史としては、問われることもありますが、直接読んでいなければいけないというよりは、授業や参考書で解説される程度のことを知っておけば良いようですね。

『里見八犬伝』、武田信玄についての『甲陽軍鑑』などの兵法書、織田信長についての『信長公記』、これらの日本古典も入試で出題されることはまずない。

『三国志』『水滸伝』『西遊記』『封神演義』、これらは漢文ですが、試験にはやはりまず出ない。

『変身』(フランツ・カフカ作)、『ガリバー旅行記』(スウィフト作)、『赤毛のアン』(モンゴメリ作)、『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作)、『誰がために鐘は鳴る』(ヘミングウェー作)、『風と共に去りぬ』(ミッチェル作)……読解問題として出題されることはないようですね…。

江戸川乱歩(えどがわ らんぽ)の推理小説、乱歩のペンネームの元になったエドガー・アラン・ポーの作品、近代でも推理、冒険、SF、娯楽、などの小説、おそらくすべて、テストには出ない。

出ないけど…、どれも非常に面白い文芸作品なので、実際にはお勧めです(^^)。

入試と現代文 編集

何度も書くけど学生時代、試験や成績にあまり拘らないで生きたほうがいいと思うけど…、しかしどうしても成績は上げたいという事であれば、国語科の現代文読解の成績を上げるには、問題演習をするのが一番いいでしょうね。現代文学の読書は、もちろん意味のある行為ですが、試験や学校の成績に即物的には直結しませんよね。

参考書を読む 編集

前編集ではまず、一冊の参考書を10回も読み返すな、1、2回でよいなんて書いてるけど…、うーん…まず常識的に参考書をじっくり詳細に読むなら、 1回だけでかなりの時間がかかるし、それだけでかなりの得るものがあるだろう…。その後の回数について議論する意味さえ良く分からんね…。そもそも1回詳細に読んだって、理解はかなり進むけど、記憶に関してはあやふやでいい加減だよね。だから当然何度も何度も辞書のように読むこともあるだろうし、それをわざわざ禁止する意味も全く理解できないね。

とにかく前編集者は 10回も参考書の解説を読むことを禁止したうえで、それをやらないで、問題集や別の参考書の読み比べをやれなんて書いてるけど…、まあもちろんそれも意味あるしそれはそれで得ることも多いけど、しかし一方で、何度も何度も同じ参考書を読むことに意義を見出した人のやり方や行動を否定する意味はないんじゃあないの?効率からいったら問題集や読み比べがいいんだって主張だろうけど、そもそも人間の精神や知性には様々な特性と個性があるから、一概に自分にとって効率よい方法が、全ての人間にとって効率が良いわけではないだろう。

あと参考書の読み比べという前編集者の主張だけど…、常識的に中学生に同じ教科の参考書を何冊も買い与える親なんてそうそういないだろう。まあ図書館とか塾の図書室とか、そういう場所で無料で読めることはあるかもね。それならば、参考書の読み比べ、全然 OKじゃあないですか?

あと前編集者はやたら暗記暗記って書くんだけど…、そもそもこの暗記って言葉の意味自体、前編集者はかなり普通と違ったとらえ方をしているように思う。正直今時点では、前編集者がどういう意味で暗記という言葉をとらえているか、今一つ明確に見えなくて、再編集側もちょっと手をこまねいているんですが、一般的な意味で語るなら、現編集者は暗記の必要性をあまり感じていない。

するとしても、常識的な範囲で、最小限でいいんじゃあないだろうか?

そもそも暗記ってどういう意味だろうか? 前編集者は書き取り練習や問題練習をすることによって暗記せよ、なんて書いてるけど、この二つをやったからって明確に物事覚える保証はないよ。暗記って言葉は、結果を求めている言葉で、かなり長期間記憶に定着していないと、暗記をしたと見なされない。

現編集者は、体術や慣れ、ある程度の訓練を否定するものではないけど、暗記と理解に学習を 2分して、理解だけではだめ、暗記せよ、とひたすら主張する前編集者の姿勢と物の見方にはほんとにうんざりでね。

理解の中にも暗記の要素はあるし、暗記の中にも理解の要素はあるんじゃあない?

国語の学習は読解と 漢字・言葉の2つの分野があるだろうか。漢字・言葉に関してはある程度トレーニングが必要だろう。時に年少の時期は…おそらくだけど…。

そして国語科のトレーニングとして、書くことと発声することがあるだろうね。短い文章は発声に適しているようだ。文法の「かろ・かっく・いいけれ」(口語形容詞活用)とか、「く・から・く・かり・し・き・かる・けれ・かれ」(文語形容詞ク活用)とか、音読して覚えるのもいいだろう。

書くことに関しては、あらゆる分野で、トレーニングとしても、そしてそれ以外の知的理解、刺激としても、非常に有効だと思う。

近代文学の読書 編集

まず、何度も書いていることだけど、それぞれの志望校での入学試験に高得点をたたき出すための勉強法と、もっと普遍的な、普遍的な何か、大きな、生活と人生の価値を求めてする勉強とは、話が違うし、カテゴリーの異なる議論だろう。

このページの前編集は、基本的に前者の視点から書かれているから、前編集を尊重して継承して書くのが基本のWikibooks では、あまり明確に視点の定まった記述はできない。

とはいえ、この項目についても、何らかの中学生の学習に関する示唆になるよう、文章をつづっていきたい。

まず、前編集では近代文学より、古典文学の読書を優先すべし、と、示しています。つまり、古典文学の読書をした方が、入学試験でその文章に合う確率が高い、と、いう事でしょう。

近代文学として、有名作品に、太宰治(だざい おさむ)の『人間失格』(にんげん しっかく)なんてありますが、例えば、入試問題として、文学史の問題として出題されることはあるでしょうね。本文が読解問題として出題されることもあるでしょうが、多くの出題される文章は、教科書、参考書、問題集に掲載される部分が多い、と、いう分析がされているようです。

近代作家の芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)の『羅生門』(らしょうもん)、は、高校教科書で頻出ですね。古典の今昔物語集をベースにしたなかなか刺激的な物語で、確かに現編集者も高1 の国語の教科書に載っていて、授業でも確実に話を聞いた記憶があります。

しかしどちらにせよ、近代小説や古典文学にしたところで、学歴や偏差値や成績のためにあるのではありませんから、それぞれの興味に応じて、読んだり読まなかったり、自由に行動を選べるわけで、他人に対してあれしろこれしろなんて、云う権利も、云うだけの人間的な価値も、だれ一人ないと思います。

現代文学の学習 編集

現代文学が参考書に採録される場合は、著作権が生きていますし、作者も多くの場合存命なうえ、その作品にかかわっている出版社もありますし、その作品について紹介するときはそれなりの手間暇や精神力の注入、あるいはお金の動きもあると思います。

ですからそこで紹介されている作品、文章は重要な文章であろうという、前編集の主張があったのですが、まあおそらくそういうこと、そういう考えでいいのだとは思いますが、しかし実際には、手間暇がかかろうがかからなかろうが、お金がかかろうがかからなかろうが、古い作品だろうが新しい文章だろうが、その参考書の編集者たちがその作品を取り上げる意義があると学問者として、教育者として判断したから採録されているわけで、前述の議論に大きな意味があるとも考え難い所があります。

むしろ現代作品として採録の手間暇と経済に個別の差があるかもしれないので、その分、普遍的な価値よりも、コストがかからないことが優先された結果その作品が選ばれてしまう可能性もあるだろう。

前編集にとって紹介の価値のある文章とは、過去に検定教科書に掲載された、それなりの高校の入試問題に出題された、課題図書として推薦されやすい、などのことを示しているようだ。

そして紹介の価値のある文章だから、よく読んだり、その文章の漢字書き取りや言葉の記憶など、よく学習しておくべきだというのが前編集の主張ですが、その文章に関して学習すること自体には異論ないのですが、しかし、文章の読解はともかく、漢字や言葉の練習に関しては、まず第一に優先なのは学校教科書の記述、文章だとも思える。これをみっちり書き取り、記憶学習するだけでも相当大変な事なので、それがよく出来ているなら、そのさらにオプションはもう何でもどんな文章でもいいのではないかとも思えます。

また、前編集で、現代文学は作品数が多いので、そして、そして入試にはほとんど出題されないので、ストーリーを丸暗記するのは勉強法として適切でないと書かれているけど、そもそも現編集者の立場では、暗記は常識的な、重要語句や漢字を覚えるためにするべきで、ある程度まとまった内容のある文章を、噛み砕いて理解することなく丸暗記することは、勉強法として推奨できない。

結局は前編集と同じ結論になるけど、現代文学の勉強に関しては、問題集などで、読解の練習、演習をしておくのがいいのではないでしょうか。

教科書や参考書の評論文や説明文には、ためになる内容も多いですね。芸術、社会、歴史、雑学的な知識が語られることも多いですよね。こういうものは特に成績とか、勉強とか、入試とか、そういうことはあまり気にしないまま、その物語に身をゆだねて、言葉と文章の世界を楽しんでしまえばいいのだと思います。

さて、このあたりで前編集の結論としては、「中学生の勉強では、あまり多くの現代作品を読む必要はない。」と、語られているのですが…。まあそうすること自体は別にいいけど、この前編集者はやたらあらゆる局面で、あれが必要ない、これが必要ないと、断定的に切り捨てているんですが、この姿勢って本当にこれでいいんですかね?

彼は本当にこの世界に膨大に数がいる他者たちの必要と不必要を理解して知っている上で文章を書いているのだろうか?そもそも必要不必要って、誰にとって?

中学国語の参考書や問題集では、現代作品の解説は少ないようですね。もしその詳細な解説を読みたいのなら、高校国語現代文の参考書を読んで見るのもいいかもしれません。小学校の参考書は、読むこと自体得ることはありますが、入試や成績の上昇を目的とする場合は、あまり有効な学習方法ではないでしょう。

現代文学や現代の様々な文章、文献を読むこと自体は、中学生に限らずあらゆる世代の現代人にとって意義あることですが、中学生の国語科の勉強としては、特に成績や入試合格を目的とした勉強では、重要度はそれほど高くないようです。

私立高入試対策としての評論文の学習 編集

まず、表題に関して前編集にのっとり、簡単に推奨の勉強法を書きます。

余裕があれば高校社会科の初歩的な学習をすると、表題の対策的な学習になるようですね。

推奨の本としては、難関高校受験のための参考書、しかしこの場合は国語ではなく社会科、特に公民教科、あるいは高校の「現代社会」科目の教科書、が、有用です。

理由は、敢えて特にくどくど書くこともないでしょう、単に私立高校の評論文課題では、それらの知識があると、非常に有利だという入学試験の分析がされているからですよね。

前編集ではこの理由に関して、世の知識を、中学レベル、高校レベル、大人レベルに、に階層を分けて、世の大人レベルの知識人たちがいちいち中学レベルに合わせて文章書いてくれるかよ、みたいなことを延々と書いていたのですが、しかし現編集者が思うにはそもそもこの中学レベル→高校レベル→大人レベルみたいなヒエラルキーって本当に明確な厳然としたものなんですかね?

高校入学後の国語 編集

2022年度から、高校では国語科目の構成が変わります。2019年以降の中学生が高校に入学する頃には、新カリキュラムが適用されてるかもしれません。

2022年以降の高校国語の必修科目でも、従来どおり、現代の文章に加えて、古文漢文や近代文学なども扱う可能性の高い見込みです。

2022年以降の高校国語では必修科目で『現代の国語』および『言語文化』という科目があり、『言語文化』で古典文学や漢文や近代文学などを扱うことになると思います。なので、結局、必修科目でも古文漢文や近代文学は、あつかわれるでしょう。

また、『論理国語』『文学国語』という選択科目が導入されるようです。

さて…この二つの選択科目に関して、前編集で、「ネット上では文学系の人がデマを拡散しています。」と記述されていたんだけど…。

そのネット上の発言、記述自体を現編集者は見ていないので、事実関係について正しい判断を下すことはできませんが…。

…しかし世の中には確実に、他人を見下したがっている人間というのがいて、何が起こっても、何を聞いても、いちばん安易で簡単な、その事柄に関係する人間たちが馬鹿で愚かな意図を持っているからそれが起こり、その言論がなされると、と、すぐに解釈したがる人間がいるように思います。

実際に世の中で起こっている事や、ある人物の行動や言論は、実際には様々な解釈が可能で、その中には実相に近い解釈も、事実と大きく異なる恣意的な解釈もあると思います。

しかし世の中のある種の人間は、そういう時にいちばん安易な解釈、対象の人間が一番底の浅い考えで愚か者になる解釈を、確信的に、確信する人間が、確実にいるように感じています。

おそらくそういう人物は常に他者を見下して、基本的に馬鹿だと思っているのでしょう。だから常に他人が馬鹿な理由を探していて、その理屈に当てはまる出来事が起こると、常にその解釈だけが事実だと思い、他者を馬鹿にして愚弄して、それと比べて相対的に自分は賢いと、自己満足してうぬぼれに浸るのでしょう。

…という事を書くのは、そもそもほんとにそれはデマなのか?という疑問があるからです。

単に事実認識の間違いかもしれないし、他者の発言をデマと断罪するのは、そう簡単に口にすべきことではないでしょう。

少なくとも、何らかの悪意を持って嘘だと確信して世に吹聴しているのではない限り、デマという言葉を使うこと自体不適切ではないでしょうか。

方言 編集

この国では明治維新の近代化以降、標準語が開発され、整備されていったようですね。

高校受験や大学受験の対策としては、入試問題で方言について問われる事はまずないと思います。

しかし、小学校の国語の時間では、自分たちの地方の方言や、日本の各地の方言について、様々な話をしてくれた先生がいたと思います。中学校でも、教科書に少し記述がありますし、国語の話題として、取り上げられる事も結構あるでしょうね。

方言には、古語の影響もあるし、地域の文化がその言葉の中に込められていますよね。学問としても言語実践としても、方言は重要なテーマになると思います。

文法 編集

中学校で習う現代日本語の文法の理論は、割と古典的な視点で書かれているようですね。現編集者自身も言語学や現代日本語の文法の最先端の議論についてはあまり知らないのですが、現在の最先端の文法理論は、かなり過激で奔放なもののようですよ。

中学校で扱う文法理論は割とおとなしい、「学校文法」なんて言われて、ある意味最先端の国語学者からすると、蔑視されているようなところもあるようです。

また、外国人に日本語を教える教育現場で教育されている外国人むけの日本語文法の理論は、日本の中学校で学習する国語文法とはかなり違っているようですね。

ですからある意味不十分な文法理論を学習していることになってはしまうんですが、でも結局、自国語にせよ、あるいは古文漢文、外国語にせよ、どんな文法理論でも、知っていることの利は大きいですよ。

最近よく使われるようになった言葉で、「語彙力」なんて言う人が多くなってきましたが、まあ現編集者の意見では、うんざりするほど馬鹿馬鹿しい言葉だなー、そもそもその語彙力とやらを全く持っていないから、そんないい加減な言葉を振り回して、物事分かった気になって気持ち良くなってるんじゃないの?なんて思うんですが、でも、言葉を上手に使って適切で的を射た表現をするっていう事は、単に言葉の種類と意味をたくさん知っているだけではなく、言葉の仕組みを知っていることが重要ですよね。

その言葉の仕組みが文法という事になるんですが…。

しかし中学校ではそれほど深く掘り下げた最先端の文法は学習できないのでしょうが、しかしそれでも、国語文法の入り口であり入門であり、学習課題の一つとして、将来のさらに進んだ学習につながっていくものだと思います。

敬語 編集

敬語は基本的に、尊敬語、謙譲語、丁寧語の 3分類で考えるのが、昔からあった発想ですが、最近はそれにさらに2種類、美化語、丁重語というのを考える場合もあるようです。

しかし物事、分類というのは選択肢が多いほど、詳細に、子細に分析しているとも言えますが、一方で覚えづらい、理解しづらい、という事になりますよね。

ですから敬語、中学校の敬語理解に関しては、というか、むしろ一般的な理解でも、尊敬謙譲丁寧の 3分類を基本理解として、それより先はオプションの課題とみなすのがいいように思います。

また、前編集では、「二重敬語は失礼」という主張に対して疑義が述べられていたのですが…しかし… 、少なくとも現編集者の常識的な、あるいは個人的な理解では、やはり二重敬語は受け手にとっても侮蔑を受けたように感じてしまいますし、語り手も、やはり相手を敬う気持ちがあまりないからこそ、敬語を重ねるのではないかと思ってしまいますが。

ここまで書いてしまうと、飛躍しすぎな上決めつけになってしまいますが、二重敬語が失礼だという感覚がわからない人は、そもそも敬語を使う意味も、他者を敬うという意味も、大した理解していないのだろう、などとも思ってしまいます。

傲慢な人間にこういう人が多い、などと言うのももちろん決めつけですが、自分と同類の底の浅い人間、タメ語で汚く会話する相手をいちばん尊敬して生きているから、そんなことになっちゃうんじゃないの?なんて、もちろんこれも決めつけではありますが…。

作文と意見文・批評文 編集

皆さんは、作文というとどんな文章だと思いますか?

小学校では良く課題になったと思いますが、自分自身の身のまわりのことについての記述で、文章を書く練習でもありますし、ある意味創作活動でもありますよね。

つまりはっきり言ってしまうと、作文という言葉で規定される限り、それは多くの人にとって文学的な文章を示しているはずです。

そして多くの中学国語科の教科書で、その構成法として、起承転結を大事にしようと指摘されています。

起承転結というのは、もともと、4行から成る漢詩(近体詩)の絶句の構成をそう呼んでいたようですが、面白いことにこの国では、多くの子供たちは4コマ漫画の描き方の文章でこの言葉を知ることが多いんですよね。

しかしどちらにしろ、詩や小説、劇的な娯楽芸術的な文章に求められる構成法で、一方で世の中にはそれ以外の目的を持つ文章もたくさんありますよね。

そしてそれ以外の目的の文章にはやはり、その目的に適した構成法があるでしょう。

当たり前のことですよね。むしろ誰もが知っていることです。

そんなことでいちいちこれが間違いとか、あいつが馬鹿とか、この項目の前編集も残念ながら、全く酷い文章でした。