学習方法/小学校全般
小学校における学習方法についての話題を中心に、割と総合的に、学習、学問について語ります。
学校の勉強における教科のバラエティ 編集
教科の学習は、バランスよく、特定の教科の勉強に偏らないほうがいいでしょうね。
しかし、人生って勉強だけが重要じゃあないよね? 勉強に費やす時間を全くそれ以外に費やして生きたとしても、得るものはいっぱいあるし、充実した意義のある人生なんていっぱいあると思う。そういう意味では偏った勉強も全くOKですよ。
ただ世の中には安易に他人をいい加減な物差しで評価したがる人が多くて…学校のテストの点数ってのも、結局それだよね。そういう意味では偏った教科の勉強では、いい点数は取れなくなるかもしれないし、学年が上がるにつれて、成績は下がっていくかもしれない。ただこの主張も本当に正しい主張かどうかは定かではないですね。仮に日々の家庭学習の時間が同じだとして、学校では事実上バランスよく授業を受けて、学習しているわけだし、家庭の勉強が得意教科に偏ったとしても,学校の点数、成績、学歴だけが重要だと思って生きていなければ、大した問題のない行為だと思う。そもそも小学校のうちから、受験試験にいい点数を取って学歴つけて、いい感じに威張って生きることを意識して生活するなんて、馬鹿馬鹿しい話だ。
一時期話題になって、確かに筆者も聞いたことがあるのですが、数学・算数の問題を解くときに、問題の意味を理解できていないから解答できないことがある。これはもう数学・算数の問題ではなくて国語の問題だ。だから国語の勉強をまずすることが大事だ。こういう主張がありましたね。ただどうですかね。算数の問題の文章は、やはり算数に特化した文章で、この文章に関する議論はやはり算数で行うべきだと思う。生徒の教科理解の広がりを問うより、教師の教科理解の広がりがないことのほうが問題かもしれないよ。
この項目の以前の編集は、小学校で国語ばかり勉強して算数理科社会ができていないと、中学では全教科苦手になる、なんて主張が書かれていたけど…、もちろんそうなることもあるだろうけど、結局は視野の狭い決めつけだと思う。
中学の国語では社会や理科に関する文章もあるから、それについてよく知らないとテストで点数取れないだろう、なんて以前の編集で書かれていたけど、そもそも勉強する、物事を知るってことは、テストでいい点を取ることではないよ。
ともかく世の中の人間は出来る出来ないにこだわりすぎだよ。お前自身が一番何も出来ていない人間だということにいつ気づくのかね?
小学生だろうが、それ以外のどんな人間だろうが、淡々と生活をつづけながらその中で少しずついろいろな事を知って、人生を発展させていくしかないんじゃあないの?
いい加減自分がなんでもできる優秀な人間だという幻想から覚めろよ。
家庭学習での時間配分 編集
多くの学習者は、家庭学習ではある程度長い時間、同じテーマでの学習を続けることがよいことだし望ましいと主張することが多いですね。
事実勉強に限らず、短時間で切り替えて、物事を散発的に行うことはあらゆる場所で嫌われますし、そういう意味で、集中して長時間同じことを続けることは明らかに美徳だと思います。
一方学校の授業は割と短く分割されていて、上位の学校に行くほど一コマのの時間は長くなっていきますが、小学校では…1コマ45分ぐらいでしょうか…。
ですから、家庭学習もその配分を推奨することも多いですが、一方で長時間同じことを続ける美徳や有効性が推奨されることも多いですね。
Wikibooks では、以前の編集の経緯も踏まえて、集中してある程度長時間同じテーマの学習を続ける方法を推奨しますが、しかし結局は努力目標ですね。
と、いうのは結局同じテーマを長時間手掛けていくのは精神的な負担も大きいですし、短時間の切り替えは精神的に解放されて、負担が少なくなるのも事実ですよ。
予習 編集
予習に関しては、Wikibooksとしては、完全に開放的な主張をします。
つまり完全に自由^^。自分のやりたい勉強をするのが一番良い。結局勉強嫌いの子でも、知的な好奇心、興味、知識欲というのは誰でも持っていますから、自分の興味のあることを勉強するのがよいのではないか、それを推奨します。
参考書 編集
書店で市販されている参考書は役立ちますよね。図書館でも読めるかもしれませんが、自分のものとして所有してると、いつでもどこでも読めますし、非常に有用だと思います。
参考書では演習問題もありますし、記述も教科書より詳しく、読むだけでも学習の進度は深まっていきますよね。
学校の教科書は学校授業での使用が想定されているので、割と、問題提起型で、端的に解説してくれることが少ないので、教科書、副読本、ガイド類は学習の大きな手助けになると思います。
読書 編集
本というのは昔から知に接するための非常に重要なツールでしたよね。
本に限らず、映画、映像、音楽など、こういうものは一方で間違いなく娯楽なんですが、学校の勉強や学問にも大きくかかわっていて、娯楽、楽しみ以外の要素は必ず持っていると思います。
ですから国語、社会、理科、算数、読んでいる本の教科を想定することもできますし、実際には一つの教科だけではなく、様々な教科に関する話題を語っている本も多くありますよね。
読書について、好きな分野の本というのはあると思いますが、様々な普段読まない分野の本も時々気分を変えて手に取ってみると、新しい発見や楽しみが見つかるかもしれません。
図書館・図書室 編集
町の図書館や学校の図書室には本がたくさんあって、大きな図書館には本だけではなく、CDや映像ソフトなどもあって、単なる楽しみとして借りたり視聴することもできますし、学習にも役立てることができますよね。
ただ図書館の資料というのは、歴史的に古い時代から継続的に収集しているものですし、新しい本も常に購入していますが、最近はそういうものに関する予算が縮小されてしまう傾向もあって、最新の新しい情報や知識に接する目的としては、やや不十分でかなわない傾向があるようです。
ただ最近は新しい情報に関しては、情報機器、インターネットの活用が、盛んになり、使い方を覚えて上手に利用すれば、勉強にもそれ以外にも、有益な知識、情報を手に入れることができると思います。
でも図書館で収集されている古い本、古い情報も、社会や歴史の言葉、知の集積ですから、上手に利用してその意味や成り立ちが理解できてくれば、直接的、即物的に役に立っている手ごたえがなくても、生活や学業に大きな意味のある示唆を与えてくれるはずです。
読み書き、そろばん 編集
小学校では我々の社会生活、文化生活の中で非常に重要な文化的技術の習得が、大きな目標になっています。
ですから我々の国の国語、日本語を読むこと、書くこと、話すこと、それらの課題の中でも最も基本的な事象を学習して練習することになると思います。
日本語の文章はひらがなからカタカナ、そして漢字の書き取りの練習も多くなってきますね。これらはこの国での文化的な生活のために非常に重要な知識、技術ですので、やはり優先して力を入れて学習する必要があります。
そしてそろばんということですが、珠を串で刺したものを並べた、昔ながらの計算機のこと、ただここではもっと一般的に、数の計算のための技術のことですね。これも、我々の生活では非常に重要な技術ですから、その習得や学習には優先的に気を配って力を入れるといいですね。
足し算、引き算、掛け算。そして九九は小学校で習得する非常に重要な技術であり暗記項目です。1から 9までの数の掛け算は今後の発展した数の計算をこなすためにも暗記しておくことを、現代のこの社会は要請しています。
そして割り算、小数、分数。数というものは我々の生活に密接にかかわってきて大きな意味を持っていますから、これらの学習、理解、技術の習得は、重要視して、意欲的に取り組むことが求められています。
小学校高学年の学習 編集
小学校高学年における勉強、自学の姿勢として重要だと思われることを 3点あげるとすると、
- 学校の宿題
- 復習
- 市販の参考書などを利用した補助的な理解を深める学習
になりますかね。
我々の人類の文明って、今現在かなり進展していますし、歴史の積み重ねも膨大な時間になっています。学問に関する知見も膨大に蓄積されていますし、むしろ時間をかけて発展しすぎて、かなり混とんとした状況になって、不整合や不適切、矛盾などもかなり積み重なっているように感じます。
ですから小学校高学年の学習内容自体、かなり高度な深い内容になっています。学問、学習内容に関してはこのあと中学校、高校、大学、さらにその先にも広がっていますし、例えば高校だけ取っても、普通高校のほかに、工業高校とか商業高校、特定の職業に特化した課題を学習する学校も多いですし、とにかく現代は、学問、学習内容の種類、質、量ともに膨大になっています。
その知と学問世界の出発点、入り口が小学校ですよね。
学校の授業 編集
学校の授業は、教師の個性も多種多様ですし、様々なスタイルの授業が展開されると思います。最近では最新の情報機器を取り入れた授業も多くなり、より授業の多様性は大きくなっていったと思います。
基本的には教師の話をよく聞いて、教師の思惑に乗せられながら学校生活を過ごすのがいいと思いますが、しかし、実は、学問でも生活でも人間性でも、批判精神というのは結構大事なのではないかと思っています。
徹底的にぐれて反抗した学生生活を過ごすのはやはりあまりよくないことだと思いますが、時々は遊び心で物事の見方を変えて、教師や社会、周りの人間の言葉や発想を疑ってみるのも面白いですし、むしろそういう態度は学問や勉強の精神にかなった態度かもしれませんよ。
卒業して いったい何解ると言うのか 編集
…という歌が昔はやったのですが、やはりいずれ、 6年間で小学校は卒業です。やはりこの社会はどちらかというと若年者には寛容で、義務教育なら割とスムーズに卒業に至ることが多いと思います。
学習、勉強に関しては小学校で身に着ける必要がある課題というのはある程度定まっていますが、実際は、普通に誠実に学校生活を送っていれば、もう卒業、十分に必要なことを知ったと考えていいですよね。
ここから先、ちょっと完全に蛇足の話題になるのですが、この文章の筆者が過去ある企業に就職して、企業研修を終えたときに上司にこう言われました。
「研修で言われたことはすべて完全に覚えてください。」
すべて完全かー。まあ大体は覚えるし頭に入っているけど、すべて完全って何かね? ちょっと完ぺき主義で、完全を目指しすぎてるんじゃあないの? 大体お前自身は完ぺきな神様なの? などと当時思ったし、今でも思っています。
とにかく世の中、割と頭の固い人が多いようで、習得課題というのをきっちり決めてそれに徹底的にこだわって、結局は無理が通って道理が引っ込んでいるようなことが、社会のあちこちで起こっているように感じます。
この文章の筆者自身は、突出した凄い偉そうな大学ではありませんが、そこそこ世間でよい大学といわれている学校を卒業した人物ですが、高校卒業時点では、高校での学習内容の半分も理解していないし身に着けていなかったという感慨が、今ではあります。
私見ですが、高校卒業資格を持っている大人はこの国では非常に多いと思いますが、おそらく高校で学習する全内容を、十全に理解して、身に着けている人物は一人もいないと思っています。東大だの京大だの、なんか凄い大学に入学して卒業する人はそこそこ世にいますが、結局彼らも、与えられる試験問題に高得点をはじき出すことができる人間というだけで、高校の全学習内容を、(と、いうのは高校の学習内容自体が、非常に高度で多岐にわたり、量も多いし深い内容を持ついう筆者の感慨があるからなのですが)十全に理解して、知って、身に着けているわけではないでしょう。(※個人の意見です^^)
まあこの記述に関しては批判も否定も受けるでしょうが、学問というのは不可思議で柔軟性が非常にあるものですから、あるゆる方向からのアプローチを許容するし、全く想定外の未知数の対象で、その世界を受け入れるのも、様々な扱いを試みるのも、完全に否定するのも、それぞれの人の人生の一幕だと思います。