学習方法/小学校全般/難関大学進学を考える場合

※ 中高生になってから気づいても手遅れなので、小学校の段階で説明する。

参考書の予習

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学問は、参考書で早めに中学高校に入るべし。

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たとえば、私立中高で「東大合格者 毎年 ●●人」とか出している名門中高一貫校の連中は、もう小学校時代に中学参考書の大半を終わらしている。中学時代に高校参考書に入るのが普通である。

YouTubeの塾動画などで、そういう私立中高一貫校の卒業生の塾講師などからの報告が上がっている。

特に小学校の教科書・参考書は、思考・検証の水準のあさい物が多く、小学校の時点で止まると、表面的な知識になりやすい。なので、なるべく早めに、少なくとも中学レベルの参考書に、入るのが良い。

小学校の6年の算数の文章題とか、すでに塾などで小4~小5から文章題を学んでいた子には、ほとんど効果が無いので、家庭では、さっさと中学の数学を始めるべきである。あるいは、理科で、中学を始めるべき。


さらに予習は、理科を中心とすべき。「理系」ではなく「理科」である。なぜなら、「理科」は99.999%くらいでの絶対の真実であり、しかも世界共通の真実だから、である。

社会科の公民は、しょせんは、先進国での理念の話である。

英語は、アメリカ・イギリスなら、ホームレスでも英語を話せる。


国語は、コミュニケーションの手段でしかない。また、科学技術のない国の言語を学んでも意味が無い。私たちが、アフリカ大陸の小国の言語を学ばないのと同じ。なぜなら、その小国には科学力が無いから。だから理科を優先しなければならない。

明治時代の日本はそうした。


日本は、民主主義の国なので、どんなに学力が低い愚か者でも、投票の権利があるし、政治について発言する権利がある。

同様に、国語や社会科についての発言も、どんなに愚か者でも、権利が与えられてしまう。だからネット上には、中学レベルの公民の知識すらない愚か者の、政治についての批判の発言も多くあり、読むのは時間のムダである。

だから彼ら愚か者との距離を置くために、私たちは理科や数学を、勉強の中心にしないといけない。

日本の工業文明は、理科によって支えられている。けっして、愚か者との対話によって、支えられているのではない。

愚か者の相手をしてあげるのは、体育とか芸術とかのエンタメだけであるし、それらだって決して一人ひとりの愚か者の相手をしているわけではない。


そもそもの、勉強に関する考えかたとして、難関大学を目指す子にとっての「小中高」とは、独学だと内容が偏りがちなので、片寄りを確認して修正するための場所でしかない。

参考書を通読するだけなら1人で出来るので、早く参考書を読み終えるべし。


他のページでも述べたが、どうしても図鑑(ずかん)などを読みふけりたい場合は、まず先に、参考書を通読し終える事。たとえば機械の図鑑など、小学校の理科であつかわない内容の図鑑を読む場合でも、先に中学の理科まで学んでしまう方が効果的だろう。

大学の予習はしない

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大学の学問は、ほかの専門分野の人に教える「普通教育」としては、効果が未知数である。(専門教育としては、効果がある)

よって、大学の予習は、すべきではない。

中高の予習のような感覚で、ついつい大学の予習をしてしまう高校生の子がいるが、しかし私大付属校の高校でもない限り、避けるべきである。

どうしても大学の予習をしたい場合、普通に、発展的な大学受験参考書(文英堂シグマベストや、数研出版チャート式の理科など)に、高校生で分かるような大学の範囲もコラム的に書いてあったりするので、そういう普通の受験参考書を参考にすればよい。

受験参考書や問題集などにコラムですら書かれないような話題は「大して教育効果が無い」と異分野の学者から見なされただけの瑣末な理論である。たとえば、工学の話題が、物理や化学の参考書に書かれないが、資料集にもなく、情報科ですら紹介されないのは、「大して知的ではない」と物理学者・化学者やなどによって見なされたから、である。直接は批判を明言しないが、そういう目で見られている。

法学・社会学・経済学・政治学・国文学など、ほかの分野でも同様である。大学レベルで価値のある話題は、普通に受験参考書にもコラム的に取り入れられている。そうでない話題は、参考書から、外されていく。参考書は、そういう競争の場所なのだ。

副教科や部活など

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体育・芸術などは捨てる

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今の時代、残念ながら、体育や芸術には、すでに参考書を読めるような子には、大した学習高校が無い。これは別に、体育や芸術に価値が無いという話ではなく、単に「今の時代(21世紀前半)ではそう」だという話。家庭科や保健体育や中学の技術科なども同じ、

東大も京大も、入試科目に体育は無いし、芸術もない。それでも東大も京大も困ってない。

私大の早慶マーチですら、一般入試には、体育も無ければ芸術もない。

だから、ああいう体育・芸術の練習は、学校で習う最低限の体育と芸術だけでも良いだろう。それでも、日本の東大も京大も一橋・東工大も困ってない。ああいう所に現役合格する人は、体育とか捨てている。

私立の進学高校でも、高校の芸術の教科の授業中では、歴史の音楽史とか美術史とかいった、大学入試の歴史の科目(「世界史」「日本史」という科目がある)にも出てくるような歴史の文化史の知識を勉強するのに、時間の何割かを当てていたりもするくらいです。

海外の学校って、じつは芸術の授業の時間中に、国語などの勉強をしています。たとえば音楽で歌をならう授業のさい、歌わせる前に、歌詞の書き取り練習をしたりとか、そういうのです。子供の好きそうな音楽や絵などを題材に、国語・社会科などを教えようとするのが、海外の小学校での芸術教育です。

部活とは距離を置く

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たとえば部活の時間とか、そういう難関大学進学者の多い中高では、(部活の時間が)少ない。

YouTubeの塾動画などで、そういう私立中高一貫校の卒業生の塾講師などからの報告が上がっている。

部活は週に2日のみ、1人2時間まで、とかそういう制限がある。

さらに部活の引退が早く、高校2年生の秋で部活を引退する。

よって、部活の負担が重い中高への、進学をさけるべきである。「文武両道」とか「人格形成」とかそういうキーワードの中高は、避ける。文武「」道はギリギリ可。もちろん、最初から主要5教科に専念する学校のほうが、もっと良い。

部活とかああいうのは、気分転換とか、運動不足の解消とか、そういうののために、週に2時間ていど、ときどき少しだけヤレば十分、とでも考えれば充分。


医学部とかだと面接で運動部アピールとかあるが、実態は、国立医学部などの進学志望者は籍だけ運動部においている幽霊部員である。だから「東大合格者 ●●人」とかの高校の部活の大会出場実績は、地区予選あたりで即座に負けるのが実態。

でもそれでも東大も京大も困ってない。なぜなら東大も京大も、スポーツ大学でもなければ芸術大学でもないからだ。

そういう進学校で全国大会とか県大会上位に出てる子は、フェンシング部とかのマイナースポーツばかり。けっして野球部とかサッカー部とかの公立中学にでもある部活で、勝ち抜いているわけではない。マイナースポーツだと、1~2回勝つだけで全国大会に出れたりする。

進学先の選びかた

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進学実績だけで中高を選ぶ

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中学受験先として、進学実績の悪い学校は、避けるべき。「独自の教育方針」みたいなのは、勉強の苦手だったりする子の、敗者復活戦のために、独自の教育をする学校でしかない。

そういう進学実績がイマイチの私立は、「カネ持ちの家に生まれたから塾に通って最低限の勉強はするけれど、でも本音では、勉強があまり好きでもなく得意でもない」という感じの子のための私立である。

けっして、なにか中世ルネッサンスのレオナルド=ダ=ヴィンチだとか、あるいは大正自由教育のような、なにか全人格的な人間形成を行うことを目指した学校ではない。なぜなら東大・京大の人間が、大してスポーツを出来なくても困らないのが現実である。それと同じ。

このような東大・京大などの進学者の統計的な事実がある。その事実から、けっして目を背けてはいけない。都合の悪い統計的現象から目を背ける時点で、人間形成が不十分である。

日本に、全人格的な人間形成を行うことを目指した学校は無い。小中高だけではなく、大学にもない。

リベラルアーツ学部とかあるが、ああいう所はスポーツも芸術もやらないし、理系もあまりやらないし、単に文系科目を複数専攻できるだけである。

もう一度いう。日本に、全人格的な人間形成を行うことを目指した学校は無い


そもそも世の中は、分業で、なりたっている。

なので、そもそも論として、あまり全人格的な人間形成とやらを必要としない。

英語の知識と世界史の知識みたいに、連動する知識であるなら、それは再利用性が高い知識であるので、学ぶ価値の高い有用な知識である。

しかし、体育や芸術は、連動しておらず、再利用性が低い。学校の授業で習う程度は良いが、それ以上は、あまり深入りをしないほうが安全だろう。


難関大への進学実績がイマイチの私立の中高も、普通の人生では遭遇しないような金持ち家庭の子や5教科以外の芸術などの才能ある子に遭遇しがちなのは面白い学校かもしれませんが、しかし医者や弁護士や科学者といった高度技術職に子どもをつけたい家庭にとっては、単純に学力がイマイチなので、あまりお勧めできない学校でしょうか。

自分の進路や志望にあった学校を選びましょう。


世の中には、「身分」(みぶん)や「階級」(かいきゅう)というのがあるのです。法律的・制度的には「身分」が存在しないだけで、実際には民間では身分や階級が存在しています。

自分の人生が、学力を高める事を主軸(しゅじく)とする人生なのか、それとも階級を高めることを主軸とする人生なのか、どちらを自分は目指すのかを、だんだんと決めていかねばなりません。

学力人生と階級人生とで、要求される能力が違います。天皇家に学力はそれほど必要なく、天皇家は例えば予備校の駿台模試や河合模試でも、べつに日本トップクラスではありません。

学力を必要とする職業の志望なのに、学力以外の要素で身分を高めるための学校、あるいはすでに身分の高い家庭の子息が通う学校に進学してしまうのは、ピント外れです。

学校に期待をしない

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勉強は、基本的には、自分で行うものである。

学校は、単に方向性の確認や、独学だと困難な実習などの機会を与えられる場として活用するのが良い。

スポーツ産業などに期待をしない

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だから、公立高校の作っている、スポーツ高校だとか芸術高校とか、ああいうのも、一般人は避けるべきである。なにかそういう才能のある特殊人材だけが進学すればよい。

部活などで、全国大会に出場できそうな才能のある人物だけが、そういうスポーツ高校だとかに進学すればよい。それ以外は、目指さないのが安全である。そもそも、ああいうスポーツとかの業界は、終身雇用ではない。地方リーグだとか2軍とかマイナースポーツなどだと、20歳台の後半とかでプロ引退とかをさせられる場合も多い業界である。

そういうスポーツ高校に進学できない時点で、才能が無いと考え、体育・芸術などは捨てるのが良いだろう。


大手新聞社やテレビ局などのマスコミが、スポーツとかをいくら宣伝しても、でもその大手新聞社の社長とか会長は、スポーツの学歴なんか無い、東大卒・京大卒とか、そんなのだよ。

まあ、サラリーマン社長とかなら別かもしれないが、その場合は別の人間が実権を握っている。