小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで

この章の概要

★時代区分:昭和時代、平成時代、令和
★取り扱う年代:1926年(昭和改元)以降

戦争への道
1926年昭和天皇が即位し、元号が「昭和」となりました。
日本経済は、第一次世界大戦終結後、長く低迷を続けていましたが、1929年に世界恐慌が起きるとさらに景気が悪くなりました。人々の一部は、中国東北部(満州)の開発で、これを解決しようとしました。こうして、中華民国との間に対立が生まれ、1931年から戦争状態となります。全世界を見ても、世界恐慌から回復しようと自国を優先した政策をとるようになります。こうして、世界は第一次世界大戦前のような状態になってきました。特に1917〜21年のロシア革命で生まれたソビエト連邦(ソ連)に対しては、日本はドイツ・イタリアと同盟するなど各国から警戒されました。こうした中、1939年ドイツはポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まりました。1940年、ドイツはフランスに侵攻、1941年にはソ連に侵攻するなど戦争が拡大しました。日本は、中国との戦争を非難するアメリカ合衆国との交渉がうまくいかず、1941年ドイツ側に参戦し、アメリカやイギリスと戦うことになりました。この戦争は、戦車や飛行機といった最新の強力な兵器が使われ、大量の犠牲者が出ました。日本も、中国をはじめとしたアジア各地で住民に損害を与えた一方で、戦争の後期には、日本各地で空襲を受け、沖縄は全土が戦場となり、そして、広島・長崎に原子爆弾が落とされるなど、歴史上見なかった被害を出して、戦争に敗れました。
民主国家日本の誕生と発展
日本は、戦勝国であるアメリカ合衆国の占領下に入り、その下で、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を三大原則とした日本国憲法が制定されるなどさまざまな民主化政策が行われます(GHQによる五大改革指令)。そうして世の中が安定すると、日本は品質の高い工業製品を世界中に輸出することで、経済力を回復し(高度経済成長)、国民生活が向上すると同時に、国際社会の一員として復帰しました。その象徴が、1964年に開催された東京オリンピックパラリンピックです。その後も、万国博覧会、2回の冬季オリンピックやサッカーワールドカップなど世界的な催し物を開催できるようになりました。2021年世界中がコロナ禍で沈む中、2回目の東京オリンピック・パラリンピックを開催したことは記憶に新しいところです。

世界の変化4 編集

この章では、1925年に日本が昭和となってからの歴史を述べます。
しかし、この時代になると、日本も国際社会の登場人物の一人として振る舞わないといけないようになっていました。そして、世界中を巻き込んだ戦争が世界を大きく変えます。昭和以降の歴史は、その世界の歴史の一部です。
この節は、前の節同様、小学校で学習する範囲を超えていますが、昭和以後の日本の歴史に大きく関わる第二次世界大戦がなぜ起きたのか、その後、「世界」はどうなったのかということを理解できていないと、昭和以降の日本の歴史を深く理解することはできません。また、別の機会に学ぶ、「我が国の政治の働き」について、日本国憲法の成り立ちや、そこで強調される国民主権、平和主義、国民としての基本的人権が、決められた経緯などは、まさに、この歴史的な動きの中で成立したものです。
この節では、「世界恐慌・大恐慌」「ファシズム」という言葉がキーワードになります。
 
1924年、フォード車生産累計1000万台達成時の記念写真。ヘンリー・フォードの両側に、1896年の最初の試作車と、1000万台記念のモデルTが並ぶ。
 
食料配給に並ぶ失業者たち。
 
ヒトラー(前を歩くヒゲの人物)とナチス幹部
第一次世界大戦後のアメリカの好景気
第一次世界大戦後にあっても1920年代を通して、米国は、ヨーロッパにおける復興の需要などがあって景気を維持していました、そのため、米国においては、生産力を増大させるための工場などの投資が引き続きなされ、庶民の間ではローンを組んでの住宅投資などがなされました。また、ヘンリー・フォードは、1908年に大量生産によって価格を安くして一般人にもT型フォードという自動車を発売し、それが、1920年代の好景気を受け、急激に普及しました。戦争の間、通信の手段として一般に解放されていなかった無線技術を使ったラジオ放送が1920年解禁され放送局ができて、人々はラジオを買い求めました。また、人々は財産を貯めるために株式を購入し[1]、株式価格も高騰(こうとう)[2]する傾向にありました。
世界恐慌
しかし、第一次世界大戦終了後、10年も経過すると、ヨーロッパ各国も落ち着きを取り戻し、工場なども再建されて、米国での工業生産は余るようになっていました。一方で、好景気が続いたため物価が上がり(インフレーション、インフレ)、中央銀行はこれを抑えようと金利を上げるなどの対策をとっていました。
そのような状況の中、1929年(昭和4年)10月24日ニューヨーク株式市場で一部の株式が暴落(ぼうらく)[2]しました。株式市場で、値が下がり始めると、それから逃れようとして持株を売って現金にしようとする人が増えます。すると、ますます、株式の値が下がるという悪循環におちいります。こうして、1週間ほどで、米国の株式は半分ほどの価格になってしまいました。100万円あったと思っていた預金が50万円になったようなものです。
この大暴落を機会に米国は急激に不景気となります。米国からの投資や米国への輸出で景気を保っていたヨーロッパもこれに巻き込まれます。こうして、世界中が深刻な不景気となりました。これを、世界恐慌(せかいきょうこう)または大恐慌(だいきょうこう)と言います。
世界恐慌に対する各国の対応
20世紀になって先進国各国において、工業化が進んで労働者の数が多くなったことや労働組合のやり方が広く知られるようになったことを受けて、労働運動はますます激しいものになっていました。特に第一次世界大戦後は、徴兵されて戦場に向かった兵士に多く工場労働者が含まれるようになったことで、労働者の発言力が強まりました。また、ソ連の成立が、これらの労働運動を勢いづけたという面もあります。世界恐慌で企業の経営があやうくなると、雇用も不安定になるなど、労働者の立場は不利になりました。各国では、大規模なストライキを含んだ労働運動が展開され、また、あわせて社会主義者や共産主義者の活動が目立つようになりました。
このような、社会主義者や共産主義者の動きについて、ほとんどの先進国の政府は警戒します。また、先進国の民族主義者たちは、政党を作って社会主義運動に対抗し、外国資本の進出に抵抗しました。イタリアでは、ベニート・ムッソリーニファシスト党を、ドイツではアドルフ・ヒトラーナチス党[3]を結成し、社会主義運動と争いました。このような、政党をファシズムの政党といいます。
自国の景気を回復させるため、広い植民地を持つイギリスやフランスは、植民地との結びつきを強くし、その他の国との貿易を関税を高くするなどして制限しました。これをブロック経済と言います。他の国も同様の制限をしたのですが、植民地がほとんどないドイツやイタリアには経済の後退をもたらしました。特にドイツは、第一次世界大戦の賠償金をまだ支払っていたところであったので、国民経済の窮乏(きゅうぼう)が激しく社会問題となっていました。この、ドイツ国民の生活の窮乏に乗じてナチスなどは勢力を伸ばしました。また、ブロック経済は、世界的に見ると経済の循環を悪くさせ、かえって世界全体の景気回復には悪影響を与えました。
景気を回復させる、もう一つの方法として、政府が公共事業などを行うことにより、仕事を作って失業者を減らす方法があります。ヨシフ・スターリンが独裁的な指導者となった、ソ連は計画経済といって、工業生産などを政府が指導して行い、世界恐慌の影響を受けませんでした。米国大統領フランクリン・ルーズベルトは、恐慌対策の一つとして、電力需要の増加に対応できることもあり、大規模なダムと水力発電所建設の事業などを行いました。イタリアではファシスト党が1922年に、ドイツではナチス党が1933年に政権を取りますが、ファシズムは政府に強い権限を持たせる思想であるため、公共事業などを次々に行い、景気を回復させようとしました。例として、ドイツの高速道路網(アウトバーン)の建設があげられます。こうして、ドイツなどは生産力を回復しましたが、ブロック経済などにより、国内の生産物を売る市場が十分ではなかったため、その政策には限界がありました。

戦争への道 編集

1926年(大正15年)12月25日大正天皇が亡くなり、昭和天皇が即位し、元号が「昭和」となりました[4]

日中戦争 編集

1919年(大正8年)第一次世界大戦が終わると、翌年には景気が一気に冷え込み、多くの中小企業が倒産するなど不景気になっていました。その間に、首都圏が関東大震災に襲われるなどして景気の回復はなかなか見られませんでした。社会不安は進み、社会主義・共産主義などの考えも伝わり、ストライキなどの労働争議(ろうどうそうぎ)なども各地で見られるようになりました。政府は、それを取り締まるため治安維持法(ちあんいじほう)を制定、労働運動を弾圧し、共産党員などを逮捕・収監[5]したりしていました。
日本は、市場や資源を求め、日露戦争でロシアからゆずられた南満州鉄道沿線の開発を進めますが、1911年辛亥革命によって成立した中華民国は内部の対立などが合って政府の力が弱く、治安の維持などが十分ではなかったこともあり、沿線の治安維持の名目で日本陸軍などが進駐しました(関東軍(かんとうぐん))。
 
南満州鉄道での爆発現場を調査しているリットン調査団。
一方で、軍部は世界的な軍縮の傾向によって、軍隊の規模を縮小されたりしていたため政府に不満を持っていました[6]。日本から離れた関東軍などは日本政府の命令もなく、要人を暗殺したり、現地の中国人などによる集団と衝突したりしていました。
そして、1931年(昭和6年)、南満州鉄道での爆発事件をきっかけに、関東軍は軍を進め満州一帯を占領し(満州事変[7])、翌1932年(昭和7年)清王朝の最後の皇帝溥儀(ふぎ)[8]を皇帝とした満洲国として独立させます。満洲国は独立国とは言っても、政府には多くの日本人が入り、日本の影響を強く受けた国でした[9]。中華民国政府は、これを抗議して国際連盟に訴えました。国際連盟は、調査団(リットン調査団)を満州に入れ詳細に調査した結果、中華民国の主張を受け入れ、満州地域を中華民国に返すように勧告しましたが、日本はこれを不満として1933年(昭和8年)国際連盟を脱退しました。
日本国内でも、軍人の暴走が続きました。1932年(昭和7年)5月15日には武装した海軍の青年将校たちが内閣総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害する事件(五・一五事件)が起き、1936年(昭和11年)2月26日には、陸軍青年将校らが約1,500名の兵隊を率いて蜂起し、政府要人を襲撃・殺傷、首相官邸や霞ヶ関の役所街などの一帯を占領するというクーデター未遂事件(二・二六事件)が起こりました。どちらの事件も犯人の逮捕及び反乱の鎮圧で解決しましたが、軍部が国の政治に口を出す大きなきっかけとなりました。このように、軍部が国の政治を主導したことを軍国(ぐんこく)主義といいます。
中国では、中華民国政府と中国共産党などの勢力争いが続いており、満州国以外の上海などといった中国本土の都市で経済活動をする日本人は不安な生活を送っていました。関東軍などの中国に駐留する日本陸軍は、これらの人たちの保護のため、満洲国の外に出て、数千人の軍隊を駐留させました[10]1937年(昭和12年)7月7日北部中国の都市北平(現在の北京)の郊外で日本軍と中華民国軍が衝突し、そのまま、両国は戦争状態となりました(日中戦争、ただし、当時の日本政府はこれを戦争ととらえず、「支那事変」「北支事変」「日華事変」[7]といっていました)。

第二次世界大戦・太平洋戦争 編集

中華民国政府と敵対する日本は、中国に多くの権益をもつイギリスや、多くの中国人移民を受け入れ、また、中国を大きな市場として期待する米国との関係を悪くします。
一方で、ソ連他共産主義を警戒するという共通の目的で、ヒトラーのドイツやムッソリーニのイタリアとの関係を強めます。1936年(昭和11年)にドイツとの間に、共産主義の流入を防止する防共協定(ぼうきょうきょうてい)を締結し、翌年、イタリアもこれに加わります(三国防共協定)。
ドイツは、東ヨーロッパにも領土を多く持っていましたが、第一次世界大戦でほとんど失いました。しかし、そこには、まだ多くのドイツ系の住民が残っていたため、ヒトラーは軍隊を進めるなどして、それらをドイツに取り戻し、欧米各国もこれに抵抗しませんでした(宥和(ゆうわ)政策)。
 
第二次世界大戦のヨーロッパ戦域の動画
青色系がドイツなど枢軸国側、赤色系がイギリスなど連合国側です。ソ連は最初のうちは立場が不明確であったため緑色で表されています。
1939年8月23日ドイツはソ連との間に、お互いを侵略しないことを約束する独ソ不可侵(ふかしん)条約を結びます。これは、「防共」の趣旨に反するもので、日本をはじめとした各国を混乱させます[11]
そして、その直後の9月1日ドイツは東の隣国ポーランドに軍隊を進め、同月17日ソ連も東からポーランドに攻め込み、ポーランドは独ソに分割されました。イギリスとフランスはポーランドと相互援助協定があったため9月3日ドイツに宣戦布告しました。こうして、再びヨーロッパで世界的な戦争が起こります。これを、第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)といいます。
1940年になるとドイツ軍は、西側に戦力を投入しオランダ、ベルギー、フランスをせめ、6月までに各国を降伏させました。同年9月日本とドイツとイタリアは、まだ参戦していない米国を警戒して日独伊三国同盟を結びます。これ以降、日独伊側の国を枢軸(すうじく)[12]といい、これに対応する国々を連合(れんごう)といいます。日本は、ドイツの支配下に入ったフランスの植民地である仏領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)に進駐し、フランスに代わって植民地経営を行います。
1941年4月日本とソ連は日ソ中立条約を結びます。ところが、その直後である6月ドイツは不可侵条約を破棄し、ソ連に攻め込み、ドイツとソ連は戦争状態となり、連合国にソ連が加わりました。
日中の争いに米国とイギリス、オランダ[13]は中国を支援して貿易などを制限する立場を取りました。これをABCD包囲網(ほういもう)[14]といいます。日本は、米国とこの制限について解消するよう交渉を続けましたが、米国は、最終的に、日本の中国からの撤退を条件としてきたため交渉は決裂、日本の首相である東條英機(とうじょうひでき)は、米国や英国との戦争を決意しました。
1941年12月7日、日本は米国ハワイの真珠湾基地とマレー半島のイギリス軍基地を攻撃し、両国に対して宣戦を布告しました(太平洋戦争(たいへいようせんそう)[15])。このことで、日中戦争は第二次世界大戦のひとつとなり、中華民国が連合国の一国となりましたし、米国が連合国に加わって、日本に対するだけではなく、ヨーロッパの戦争にも参戦するようになります。
日本は開戦当時、大量の航空機[16]を使った攻撃という今までに見られなかった戦い方などで、米英を圧倒し、米国の植民地であったフィリピン、イギリスの植民地であった香港やシンガポールを含むマレー半島やボルネオ島、オランダ[17]の植民地であるジャワ島などインドネシア諸島を占領しました。また、タイ王国と同盟関係を結んで、英領ビルマ(現在のミャンマー)に軍を進め、さらに、北上して英領インドに進軍する勢いをしめしました。
こうして、1942年年頃までに、世界は枢軸国側と連合国側に大きく分かれ、このころまでは、枢軸国側が、比較的有利に戦いを進めていました。
なお、この頃からドイツ国内やドイツが占領したヨーロッパの地域では、ナチス党の民族主義にもとづく、ユダヤ人[18]の迫害が表立って行われるようになり、ユダヤ人の財産を奪って、強制収容所に送るということがなされていました。強制収容所では多くのユダヤ人が処刑されました。
1942年8月、ドイツおよびイタリアなど枢軸国は、ソ連南部のスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)に攻め込みます。当初は、枢軸国軍の戦車など近代兵器を大量に投入する作戦により早期に枢軸国が占領することになりましたが、ソ連は、国力を上げて、この街を取り返そうとしました[19]。これはドイツとソ連との戦いの中で最も激しいものとなり、ドイツなど枢軸国は約100万人の軍隊を進め、ソ連は約170万人の兵士で守りましたが、戦死傷者は枢軸国約85万人、ソ連約120万人、住民の死者約20万人を数える悲惨なものになりました。結局、翌1943年2月ドイツが撤退し、それ以降、ヨーロッパの東部ではソ連が優勢になります。
1943年に入ると、米国の参入が本格化します。北アフリカに上陸した米軍は、北アフリカのドイツ軍とイタリア軍を降伏させ、このまま北上しイタリアを攻撃。9月イタリアは降伏します。
翌1944年アメリカ軍など連合国はフランスのノルマンディーに上陸し、フランスを回復、そのまま東に攻めていきます。また、東側からは、ソ連が勢いを盛り返して、西に進んでおり、ドイツは挟み撃ちの状態となって、1945年4月ヒトラーは自殺し、ヨーロッパでの大戦は終結します。
日米は、開戦以来、南太平洋で制海権を争っていましたが、1944年米国は初戦で失った艦船に倍増するほどの船を造船し、この年の末までに航空母艦[20]をはじめとした日本の軍艦をほとんど沈め、日本は制海権を失います。米国はこの地域に空港を作って、爆撃機を飛ばして、日本本土の各都市に爆弾を落として攻撃(空襲(くうしゅう))するようになります。
原爆投下の翌年1946年春、米軍映画撮影隊による爆心地周辺の被害状況映像。
日本は海に囲まれているので、制海権を失うと各地での戦争の継続が難しくなる一方で、1945年に入ると米国の攻撃は激しさを増します。同年4月には沖縄本土に米軍が上陸、4月から7月にかけて東京や大阪といった大都市だけでなく、各地の地方都市も空襲を受け焼け野原になります。そして8月6日広島に8月9日長崎に原子爆弾(げんしばくだん)が落とされ、それぞれ、合わせて20万人以上の死者を出しました。また、ソ連が条約を破って満州などの日本軍を攻撃したことで、日本政府は戦争を継続することはできないと判断し、8月15日連合国に降伏しました。これで、第二次世界大戦は終結します。
第一次世界大戦は、協商国側・同盟国合わせて、約1000万人の戦死者、約2000万人の戦傷者、約800万人の行方不明者を出し、民間人も約780万人の死亡者を出すと言う悲惨な戦争でしたが、第二次世界大戦はさらにひどいものとなりました。連合軍側の犠牲者は、軍人の戦死者数約1700万人、民間人の死亡者数3300万人、枢軸国側の軍人の戦死者数約800万人、民間人の死亡者数400万人といったものです。
日本の場合、220万人程度の戦死者と50万から100万人の民間の死者を出しました。空襲で多くの家や財産が焼き尽くされました。また、満州や朝鮮に約250万人程度の日本人が住んでいましたが、その人たちはほぼ全ての財産を奪われ、約40万人が日本へ帰還の際に亡くなりました。多くの人たちが戦争に協力しようと、財産で国債(こくさい)(国の借金)を買いました。しかし、その国債は戦後の極端なインフレーションのため400分の1の価値に落ちてしまいました。戦争はこうして人々の生活に大きなきずあとを残したのです。

民主国家日本の誕生と発展 編集

戦後社会と冷戦 編集

民主国家日本の誕生 編集

降伏した日本は、米国の占領下に入りました。敗戦に伴って、以下にあげるとおり、日本は大きく変わりました。
  1. 日本国の領土は、明治維新当時のものとなりました。そのため、朝鮮半島は独立し、台湾は中華民国の支配に入り、その他南洋諸島なども日本の支配を離れました。サハリン島南部(南樺太)も放棄し、そこにはソ連が進駐しました。なお、択捉(えとろふ)島・国後(くなしり)島など北方4島は、明治維新には日本の国土であったため、支配放棄の対象ではありませんが、ソ連は不法にこれを占領し、それが、ロシアに引き継がれ、いまだに解決していません。また、沖縄県は、米国が琉球政府を建てて日本本土と別の政治をおこないました[21]
  2. 全ての兵器を差し押さえ、陸軍と海軍を解体しました。
  3. 米国は、日本が戦争に向かった原因は軍国主義にあると考えて、日本の民主化を進めることとしました。
    1. 占領直後に、政治思想や活動を規制していた、治安維持法を廃止し、刑務所に収監されていた労働運動家や共産党員を解放しました。そして、労働組合法が制定され、労働運動は合法的なものとなりました。
    2. 経済を一部の財閥(ざいばつ)が独占していたことで、自由な経済活動ができなかったとして、三井、三菱、住友といった財閥は会社や資本の関係をバラバラにされました(財閥解体(ざいばつかいたい))。
    3. 戦前日本の農業は、農地の所有者である地主に、お金を払って農作物を作る小作(こさく)制度が広く普及していましたが、実際に耕す人の所有になるべきとの考えから、地主の農地は小作人に分け与えられました(農地改革(のうちかいかく))。
    4. これらの改革と同時に、国の政治の根本を見直すために、憲法を変えることになるました。1946年(昭和21年)4月10日、初めて、男女平等の普通選挙による衆議院選挙が行われ、その国会で新たな憲法が議論されて、日本国憲法として同年11月3日に公布、翌1947年(昭和22年)5月3日[22]施行されました。
日本国憲法
日本国憲法は、今、私たち日本人が生活するのに基本となっているルールです。社会科の他の単元でも詳しく学習するものですが、ここでは歴史の流れから憲法を考えてみましょう。
前の章では、明治憲法の特徴について、簡単に説明しました。ここでは、新憲法を明治憲法と比較してみましょう。
大日本帝国憲法(明治憲法) 日本国憲法(新憲法) 解説
天皇 国の統治者。 日本国の象徴であり日本国民統合の象徴。
天皇は、国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない。
天皇の国事行為には、内閣の助言と承認を必要とする。
一般に明治憲法においては、天皇を統治者(=主権者)とされます。一方、新憲法では国民に主権があると定め、その総意に基づいて天皇は日本国及び国民統合の「象徴」と定めました。
国会 天皇に協賛して法律や予算を定める機関。
選挙された議員による衆議院と世襲貴族などによる貴族院で構成される。
改正まで女性に選挙権は与えられなかった。
国権の最高機関。
選挙された議員による衆議院と参議院で構成される。
選挙権及び被選挙権は性別などで差別してはならない。
国民から選挙で選ばれた、国会は国の権力を行使する最高機関です。明治憲法で認められていた勅令のような法律と同等の法令は新憲法では認められていません。
内閣 国務大臣は天皇を輔弼(ほひつ)(助言し助ける)する。
内閣総理大臣は憲法に特に定めがなく、天皇が指名する。
行政権は、内閣総理大臣が長である内閣に属する。
内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で指名される。
明治憲法では、内閣と議会は無関係でしたが、新憲法では、内閣総理大臣を内閣の長[23]とし、内閣総理大臣は国会議員の中から国会の議決で選ばれることとしました(議院内閣制(ぎいんないかくせい))。
地方自治 (定めなし) その地方に住む住民の自治が尊重され、首長や議会の議員を選ぶことができる。 地方自治は、明治憲法では特別の位置付けはありませんでした。そのため、都道府県の知事は政府の役人が派遣されていました。新憲法では、住民による自治が明記され、知事や議員は住民が選ぶこととなりました。
軍隊 軍隊は天皇が直接まとめひきいる。したがって、内閣や国会は軍隊に口を出してはならない。
国民には、兵役(へいえき)の義務がある。
国際紛争を解決する手段として、戦争は行ってはならない。
戦争のための軍隊を持ってはならない。
人権 法律によって制限できる。
(例)
・治安維持法
国家神道
・女性の権利制限(選挙、民法 など)
憲法に定められた人権は法律によっても制限できない(裁判所の違憲立法審査権(いけんりっぽうしんさけん)

新たに認められた権利
・個人の尊重
・男女の本質的平等
・労働運動の権利
・生存権の保障
・厳格な刑事手続 など
新たに認められた権利、「個人の尊重」と「男女の本質的平等」から、家督相続(かとくそうぞく)などを定めた民法の「家制度」は廃止されました。
日本は、新憲法のもと、民主的で自由な国づくりを目指して再出発しました。

世界の変化5 新しい国際社会 - 東西対立と冷戦の社会・南北問題 編集

第二次世界大戦が終わり、社会主義・共産主義を警戒したファシズムが敗北すると、米国やソ連といった連合国は、国際連盟が結局第二次世界大戦を防げなかったことを反省し、これを解消して国際連合がつくられます。米国は、今度は、これに積極的に取り組み、本部をニューヨークに置きました。
 
1959年の世界の様子(色分け)
(ワインレッド = ワルシャワ条約加盟国
朱色 = ソ連の他の同盟国(東側諸国)
青紺色 = 北大西洋条約 (NATO) 加盟国
水色 = 米国の他の同盟国(西側諸国)
緑 = 植民地
灰色 = 非同盟諸国)
第二次世界大戦後、社会主義は世界中の政治に強い影響を与えるようになり、世界中で資本主義勢力と社会主義勢力の争いが見られるようになりました。
戦後ソ連が占領した東ヨーロッパの国々には社会主義の政府が建てられました。ヨーロッパを基準とすると、米国、イギリス、フランスなど資本主義の諸国は西にあったので西側諸国、一方、ソ連など社会主義の国は東にあったので東側諸国といい、資本主義諸国と社会主義諸国の対立を東西対立と言います。ドイツは、ソ連に占領されていた地域が東ドイツ、米国などに占領されていた地域が西ドイツと、国家が分裂しました。ドイツの首都であったベルリンは、東ドイツの中にあったのですが、米国などが占領していた地域があり、この部分は西ドイツになりました。西ベルリンは東ドイツに囲まれた飛地(とびち)になりました。東ドイツ政府は、西ベルリンを囲んで壁を構築し、東ドイツの市民が西ベルリンを通過して西側諸国へ行けないようにしました。これが、ベルリンの壁」といって、東西対立の象徴となりました。また、東西の行き来は困難なものとなったため、西側から見て東側との間には「鉄のカーテン」が引かれているとも表現します。東側諸国は、ソ連を中心にワルシャワ条約機構という軍事同盟を結び、それに対抗して、西側諸国は北大西洋条約 (NATO) という軍事同盟を結んで対立しました。また、中国では、毛沢東(もうたくとう)がひきいる中国共産党が、中華民国政府を攻めて、1947年社会主義の国である中華人民共和国を建国します[24]。朝鮮半島には、1948年ソ連などの支持を受けた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と米国などの支持を受けた大韓民国(韓国)が建国されましたが、1950年北朝鮮は韓国に攻め込み、南北各々米国とソ連・中国の支援を得て激しく戦い、1953年北緯38度線を境に休戦します(朝鮮戦争)。
東西対立には、今までに見られなかった特徴があります。それは、核兵器の存在です。広島と長崎に落とされた原子爆弾の威力は世界中に脅威を持って受け入れられました。米国はこの技術が自国だけで独占されるものと考えていたのですが、1949年ソ連が原子爆弾の実験に成功します。1952年米国はさらに強力な水素爆弾の実験に成功しますが、ソ連も、1955年水素爆弾の実験に成功します(下欄「米国とソ連の科学競争」参照)。その他、イギリスやフランス、中華人民共和国なども核兵器を保有するようになりました。もし、東西に本格的な軍事衝突が起こったならば、大げさではなく、人類が滅亡してしまうくらいの核兵器をもったため、大国同士の戦争はお互いに避けるようになりました。東西は、こうして大きな戦争を伴わないまま国際的に対立しました。これを、「冷たい戦争」、「冷戦(れいせん)」といいます。
一方で、第二次世界大戦で枢軸国はもちろん連合国にあったイギリスやフランスも国力を失い、植民地の独立を止めることができないようになりました。この結果、終戦後数年後には、中東諸国の他、インドやインドシナ半島諸国、インドネシアの諸国が独立し、少し遅れて1960年代にはアフリカの各国が独立しました。しかしながら、これらの国は、まだ国内の産業が十分に成長しておらず先進国に比べて、国民生活は全体的に貧しく、また、貧富の差も大きいものであり、各国は経済発展の政策に取り組みました。また、政策に不満を持つ集団が、政権を倒そうとするなど政治的にも不安定なものでした。このような国々を、先進国に対して「発展途上国(はってんとじょうこく)」と言います。先進国は、欧米や日本をはじめとして北半球に多く、発展途上国は、赤道付近から南の国が多いため、先進国と発展途上国の格差の問題を南北問題と言います。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】米国とソ連の科学競争
 
世界最初の人工衛星スプートニク1号
現在でこそ、ロシア(旧ソ連)の科学力は、米国に遅れをとっているといえますが、1940年代から70年代位までは、国をあげての科学研究を行い、米国をはじめとする、西側諸国をおびやかしたものでした。上で述べたとおり、核兵器の開発はすぐに米国に追いつきましたし、ロケットを使った宇宙開発は、米国に先行していました。
1957年ソ連は世界で最初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功しました。米国をはじめとする西側諸国は、衝撃を受け危機感を覚えました。なぜならば、この技術は、核爆弾を搭載したミサイルを飛行機を使わず、相手国に打ち込む技術があることを意味するからです。米国は、これに追いつくため翌年にはアメリカ航空宇宙局 (NASA)を設立、研究開発体制を見直します。また、一般の教育体制までも見直しが行われました。しかし、ソ連は1961年世界で最初の有人宇宙飛行を成功させるなど、米国の先を行っていました。米国がソ連に追いついたと言えるのは、1971年アポロ11号で有人月面着陸を成功させた時といわれています。ソ連を引き継いだロシアも宇宙開発においては現在でも、世界でトップクラスの技術を有しています。
一方で、ソ連の科学技術は、このような軍事目的などにばかり集中され、一般の人々の生活にはあまり貢献しませんでした。そのため、西側諸国で発展が見られた、自動車や家庭電化製品の発展は遅れました。このことは、半導体の開発の遅れにつながり、コンピューターなどの開発が遅れ、工業力が西側に遅れる原因となります。

高度経済成長とその後の日本 編集

終戦直後の日本は、多くのものを失ったところから始めなければなりませんでした。
1951年(昭和26年)、日本は米国他と平和条約を締結し[25]独立を回復、1956年(昭和31年)には国際連合にも加盟しました。東西対立に危機感を覚えた、米国は日本を資本主義の国として復興させるためにさまざまな支援をします。1950年(昭和25年)朝鮮戦争がおこると、国防の必要が認識され戦闘力を有した警察予備隊が結成され、それが1954年(昭和29年)自衛隊となります。
朝鮮戦争では、米軍などの支援物資の需要があり製造業が復興しました。その後、高品質低価格を特徴とする船舶や自動車、電化製品と知った日本製品は世界中に輸出され、日本経済は急激に拡大していきます。また、政府は産業界を指導して投資資金などを効率的に分配し、経済成長を助けました。1955年(昭和30年)頃から、急激な経済成長を見せ、これを高度経済成長といっています。
 
東京オリンピック開会式
復興した日本は、国際的な催し物を開催し、国際社会に復帰したことを世界に示します。1964年(昭和39年)の東京オリンピック、1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会、1972年(昭和42年)の札幌冬季オリンピックなどが代表的なものです。
1972年(昭和42年)、米国が統治していた沖縄が日本に返還され沖縄県となりました。また、この年に日本は中華人民共和国との国交を回復(日中国交正常化)します[26]
経済成長にともない人々の生活は、だんだん豊かなものとなっていきました。1953年(昭和28年)テレビ放送が始まり、東京オリンピックをきっかけにカラーテレビが各家庭に普及しました。その他、電気冷蔵庫や電気掃除機、電気洗濯機が普及して家事が楽になるなど、家庭電化製品は人々の生活を大きく変えました。1955年(昭和30年)ころ100軒に1軒くらいしかなかった電話も、1975年(昭和50年)ころには70%家庭に引かれました。また、1960年(昭和35年)ころ自動車は平均して100軒に3軒ほどしか普及していなかったものが、1980年代には80軒の家は自家用車を持つようになりました。自動車の急激な増加を受け、高速道路網をはじめとした道路整備がなされました。
1964年(昭和39年)には、東海道新幹線が開通し、日本各地で空港が整備され、飛行機による移動も一般的なものとなりました。
1973年(昭和48年)、中東における中東戦争[27]をきっかけに、サウジアラビアなど中東諸国の石油輸出国が共同で石油価格を2倍近くに上げたため物価が急に上がり(オイル・ショック)、高度経済成長はその勢いを失いますが、それから10年程度は、安定した経済成長を続け、1978年には、国の経済規模の尺度である国内総生産GDP[28]は、米国に続いて世界第2位の規模になっていました。
一方で、重工業化が急速に進められたため、公害(こうがい)などが社会問題となりました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】高度成長の影 - 公害
 
工場からの排気の様子
産業革命以来、工場の排気や排水は、工場周辺の住民の生活に入り込み、人々の健康を害してきました。蒸気機関で石炭を燃やす時に出る「すす」はロンドンを「(きり)(まち)」にしたと言われています。20世紀になって、さらに工業化が進み、工場の規模が大きくなると、このような環境を悪くすること(環境汚染(かんきょうおせん))は、さらに、ひどいものとなってきました。このように、工場などが物を生産することに伴って環境を汚染することを公害(こうがい)といいます。
日本も工業化が進むのにともなって、公害が問題になりつつありました。特に、高度経済成長の時期には、工業化の拡大が早すぎ、その対策が追いつかず、全国各地で問題が起きました。公害には、さまざまな種類がありますが、この当時は、環境他に影響を強く与える工場排水と排煙に関する規制が十分ではなかったため、いくつもの公害病を生み出しました。排水に含まれる重金属などが健康をおかした例として、熊本県の水俣(みなまた)病、新潟県の第二水俣病、富山県のイタイイタイ病があり、排煙によるものとして、三重県での四日市(よっかいち)ぜんそくがあります。これらは、あわせて四大公害病と呼ばれ特に深刻なものでした。これらの公害の被害者は、集団で原因となった工場の企業に対し訴訟を起こし、裁判所は、企業の責任を認めて損害賠償(そんがいばいしょう)を命じています。
また、このような特定の工場からの排煙や排水ではなく、おのおのの工場の排煙・排水ではあまり影響を与えないけれども、まとまると、ひどい生活破壊や環境破壊となるものもあります。工場の排煙に加えて、自動車の排気ガスもまとまると環境に悪影響を与えます。東京や大阪といった大都市圏では、しばしば、光化学(こうかがく)スモッグが発生し、人々が健康を害したり、行動が制限されたりしました。
こうした、公害の対策は、個々の企業などに任せていても、解決の期待はできないため、政府が乗り出すこととなりました。1967年(昭和42年)、 公害対策の基本となる公害対策基本法が公布・施行されます。1971年(昭和46年)には、公害対策をとりあつかう環境(かんきょう)[29]が新設され、本格的に公害対策がなされます。
そうして、1970年代には最も重要な社会問題であった公害は、1980年代においては目に見えて解決されていきました。
1990年以降は、深刻な個別の公害問題のほとんどは解決したので、政府は、もっと大きな地球規模の環境問題に取り組むようになっていきました'[29]

冷戦終了後の世界 編集

1989年(昭和64年)1月7日昭和天皇が亡くなって、翌日から元号が平成と改められました。
元号が変わったからといって、世の中の動きが変わるわけではありませんが、この1989年(昭和64年・平成元年)は、それまでの世界が大きく変わり、その後30年現在にいたるまで影響を与える重要な年となりました。
ソ連を中心とする東側諸国の崩壊と冷戦の終結
1970年代から80年代にかけて、西側諸国と東側諸国の生活レベルは明らかに差がついていました。その原因は、いくつか考えられます。ひとつには、経済活動を政府が統制するため安定はしていますが競争はあまり起こらないところ、競争に伴う創意工夫がなされず、発展が遅れるというものです。これは、家庭電化製品や乗用車といった民生分野といわれるもので大きな差が出ました。また、これらの製造に不可欠な半導体の開発や工場の自動化などにも差が出ました。また、ソ連が主導した農業政策は、政府の指示が適当ではなかったため東側諸国全体で生産が低迷しました。また、東側諸国は選挙による政権交代がないため、新たなことをきらう役人の性質(官僚(かんりょう)主義)がはびこり、政治による改革も行き詰まっていました。ソ連では、ミハエル・ゴルバチョフが書記長となって、ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)という改革を進めていましたが、うまく進んでいませんでした。
1980年代後半に入って、ポーランドでは政府に抗議する労働組合の運動がみられ、チェコスロバキアやハンガリーからは西側諸国へ違法に移民する人々が目立つようになりました。また、このころ、東欧諸国では衛星放送が普及するようになって、西側諸国の豊かな生活が東側諸国に知られるようになったと言われています。
1989年には、東ドイツで西側への移動を求めた暴動が激しくなり、11月9日東ドイツ政府は自由な移動を認め、それを受け、翌日、民衆はベルリンの壁を壊し東西の行き来が自由になりました。
こうして、東欧諸国へのソ連の支配はなくなり、冷戦が終結しました。
この後、東ヨーロッパの各国は、1990年に西ドイツと東ドイツが統一するなど、社会主義政府から自由主義の国となりました。また、1991年ソ連は崩壊し、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなど15の共和国に分かれました。
中華人民共和国
世界的な社会主義の後退の傾向から、中華人民共和国でも民主化を求めた運動が起こりました。
しかし、中華人民共和国政府は、資本主義的な政策を取り入れながらも、それは、政府が主導するものであって、自由な選挙など民主的な活動を認めないという態度を示して、6月4日民主化を求める民衆を弾圧しました(天安門(てんあんもん)事件)。この後、中華人民共和国は、資本主義を取り入れた政策によって大きく経済成長を達成したのですが、現在においても、自由な政治活動は制限されています。
日本
1980年代、国際経済において、米国の経済力が弱くなっていたことをうけ、西側諸国内で相談し、各国の通貨の交換水準などについて調整が行われました[30]。日本政府は、輸出産業が不利になることを防ぐため事業資金を大きく増やしました。そのため、それらの資金は最終的に不動産や株式投資に回って、不動産や株式の高騰[2]となりました。これを「バブル景気[31]」といいます。1989年バブル景気は最高潮となり、その年の株式取引の最終日の平均株価は史上最高値を記録しました。
しかし、バブル景気の弊害(へいがい)も見られるようになったため、翌年以降、政府は景気を引き締めます。そのため、バブル景気は終わり、反動で日本経済は不景気となります(バブルの崩壊(ほうかい)[31])。日本政府は、その後、景気対策を続けますが、30年以上成功できずに今にいたっています[32]
冷戦後の世界
冷戦が終わり、対立するものがなくなった世界は平和になったかといえば、そうではありません。核兵器を持ったソ連などが、対立の当事者でなくなったため、核保有国以外では戦争が起こりやすくなった側面もあります。
第一次世界大戦後争いの続いたバルカン半島は、第2次世界大戦後ユーゴスラビアとして統一され40年以上安定した状態が続いたのですが、冷戦終了後、各民族が分裂し、内戦状態となりました。
中東では勢力争いが絶えず、また、イスラム過激派などは、米国などを敵視してテロリズムを起こしたりしました。2001年9月11日アメリカ同時多発テロは、その代表です。
アフリカも民族間の対立が各地で起きています。冷戦時代ならば、一方が西側につけば、他方は東側について、戦争になると米ソの争いとなるため、にらみあいで止まったものですが、冷戦後は、そのようなブレーキがなくなったのです。
冷戦後、ソ連は崩壊し、それをついだロシアも冷戦当時ほどの力を失いましたが、それに代わって、中華人民共和国が、世界一の労働力を背景に世界中から工場を呼び込んで、経済力を伸ばしてきて、2010年にはGDPで日本を抜いて世界第2位になりました。
日本は、この間、二つの大きな自然災害にみまわれました。1995年(平成7年)の阪神淡路大震災と2011年(平成23年)の東日本大震災です。日本は、そのほかにも大規模な風水害などを経験しており、自然の脅威に対しての備えを怠ってはならないという教訓を残しています。

今変わりつつある世界 編集

2019年(平成31年)5月1日天皇明仁[33]が退位し上皇となり、現在の天皇が即位、元号が令和に変わりました。
前の節でも述べたところですが、元号が変わったからといって、世の中の動きが変わるわけではありません。しかし、偶然とは言っても、令和になって何年かで起こったことは、今日本に生きているどんな年齢の人たちでも生まれてから経験のないことでした。
新型コロナの流行は、人間は、まだまだ、自然には簡単に立ち向かえないことを痛感させられました。一方で、素早いワクチンの出現に科学の可能性を感じさせられました。また、今までの技術でも可能であったのに、習慣から普及しなかったネットを使った勤務や学習が可能であることも理解できました。このような中で、開催された東京オリンピックとパラリンピックは人々に希望と感動を与えたことでしょう。
一方で、ロシアのウクライナ侵攻やアメリカと中国の対立は、今まさにこの国際社会で起こっている出来事です。日本も、領土問題や東アジア地域の連携などさまざまな問題を抱えています。何が起こっているのか、そしてそれらはなぜ起こったのか、歴史を参考にしながら自分の目で確かめてください。
歴史を学ぶことで、これから、何が起こるのか、何を変えれば、何が起こらないのかを予想し、悪い事態を避けることができるかもしれません。歴史を学ぶということは、そういうことだと理解してください。


脚注 編集

以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。

  1. ^ 米国の人々は、お金を貯めるのに、日本と違って銀行へ預金するのではなく、株式を購入する傾向があります。それは、現在も同じです。
  2. ^ 2.0 2.1 2.2 「高騰」は「値段が上がる」こと、「暴落」は株式などの値段が、急激に下がることを言います
  3. ^ 正式な名称は「国民社会主義ドイツ労働者党」で「ナチス」は軽蔑(けいべつ)の意味も込めた略称です。しかし、広く使われている呼び名なので、以下、「ナチス党」で統一します。
  4. ^ 昭和元年は12月25日から12月31日までの1週間だけでした。
  5. ^ 刑務所に入れること。
  6. ^ 軍縮によって、職を失った軍人などが社会主義運動などに走ることなども警戒されていました。
  7. ^ 7.0 7.1 「事変」というのは、「事件」・局地的なトラブル程度の軽い意味ですが、お互いの政府が「戦争」ととらえていないだけであって、実際は戦争と変わりありません。戦争というと、当事国以外の国との外交関係などにも影響を与えるため、政府としては大げさなものにしたくなかったものと考えられます。
  8. ^ 清朝は、もともと満州地域を本拠地とした女真族の国でした。
  9. ^ このような国を傀儡(かいらい)国家と呼びます。「傀儡」とは「あやつり人形」のことです。
  10. ^ 「居留民保護」といって、中国に在住者を持つ欧米各国でも数百人から千人程度の軍隊を駐留させていました。
  11. ^ 当時の首相であった平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)は「欧州の天地は複雑怪奇」との言葉を残し、8月28日内閣総辞職します。
  12. ^ 「枢軸」とは、それを中心にして回るコマの軸のようなものを言います。ムッソリーニが、「ヨーロッパをローマ(イタリア)とベルリン(ドイツ)を軸にして回す」という発言が元になっています。
  13. ^ 当時、オランダはジャワ島など現在のインドネシアを植民地としていて、日本はそこから原油を輸入していました。
  14. ^ A(America アメリカ合衆国)、B(Britain;ブリテン、イギリスのことです)、C(China 中国)、D(Dutch;ダッチ、オランダのことです)の4国によるものです。
  15. ^ 戦後の呼び名です。当時は大東亜戦争(だいとうあせんそう)(東亜=東アジア)と言っていました。
  16. ^ 「ゼロ戦」などが有名です。
  17. ^ この頃、オランダはドイツに占領されていて、イギリスに渡ったオランダ王室の配下の政府(「亡命政府(ぼうめいせいふ)」と言います)が治めていました。
  18. ^ ユダヤ人とは、もともと、中東の地中海沿岸(現在のイスラエル)に住んでいた民族で、キリスト教の元になったユダヤ教を信仰する人々です。紀元1世紀ごろ古代ローマ帝国の攻撃にあって、イスラエルの土地を追われ、ヨーロッパ各地に散らばりました。ユダヤ人は、自分たちの宗教を守りぬいて、キリスト教に改宗しませんでした。また、新約聖書によると、イエス・キリストはユダヤ教の宗教指導者が訴えたので十字架にかけられたとされているため、キリスト教徒とは敵対的な関係にありました(なお、イエス・キリストは民族的にはユダヤ人です)。多くのユダヤ人は、長い間差別され土地所有などできなかったので、ヨーロッパの地方では生きていけず、都市生活者となり、そこで生きていくために、商業や金融の能力を高めて成功した者も少なくありませんでした。こうしたことが、ねたまれて民族的差別(現在の言葉で言う「ヘイト」)の対象となっていました。
  19. ^ ドイツが、この街(スターリングラード)の占領にこだわって、ソ連も必死でとりもどそうとしたのかというと、この街の名前のためと言われています。「スターリングラード」は、ロシア語で「スターリンの街(グラード)」という意味です。
  20. ^ 戦闘機・爆撃機など軍用機を積んで発着させる軍艦。
  21. ^ 米国統治の間、通貨としてドルが用いられましたし、交通も、日本本土と逆で米国に合わせての自動車右側通行でした。
  22. ^ 国民の祝日である憲法記念日です。
  23. ^ 全ての閣僚の任命権を有する。
  24. ^ 中華民国政府は、台湾に逃げ込みます。
  25. ^ ソ連との間では、北方領土の問題などがあって平和条約が締結されず、戦争をしないという仮の約束として1956年(昭和31年)日ソ共同宣言が出されました。現在も、ソ連を継いだロシアとの間に平和条約は結ばれていません。
  26. ^ 1947年から中華人民共和国が中国大陸を支配していたのですが、社会主義の国であったので米国や日本は正式に国と認めず、中国の代表は台湾だけを支配する中華民国としていました。しかし、国際的に見て明らかにおかしなとりあつかいで、このころ、米国と中華人民共和国との間が接近したのを受けて、日本は、中華人民共和国と正式に国交を結びます。
  27. ^ ナチス党などで迫害されたユダヤ人は、自分たちの国を求めて、元々の出身地であるイェルサレム周辺にイスラエルという国を作ります。この時、もともと住んでいたイスラム教徒の住民(パレスチナ人)を追い出し、迫害したため、同じイスラム教徒が大多数を占めるエジプトやサウジアラビアといった国とイスラエルとの間で起こった戦争です。
  28. ^ 当時は、「国民総生産(GNP)」という尺度を用いていました。GDPとGNPは、何点か違いはありますがだいたい同じものと考えても、ここでは問題ありません。
  29. ^ 29.0 29.1 2001年(平成13年)、環境省に格上げされ、公害対策だけではなく、家庭生活で生じるゴミの問題から、地球温暖化対策などを含めた地球規模の環境問題まで、はばひろい環境対策をとりあつかうようになりました。
  30. ^ 1985年(昭和60年)9月22日のプラザ合意と呼ばれるものです。それまで、日本の通貨である円と米国の通貨であるドルは、1ドルに対して240円前後で交換されていました。米国は、この交換水準が実際の経済的な実力よりも「ドルは高く、円は安く評価されている」と主張して、「円高ドル安」にするように、日本政府に求めたのです。この合意によって、その日のうちに1ドルは210円程度に、1年後には150円程度に、2年後には120円程度になってしまいました。これは、輸出産業に打撃を与えます。例えば、1ドルが240円の時、240万円で米国に輸出していた自動車は1万ドルを売ることができたのですが、1ドルが120円になると2万ドルで売らなければ損をすることになります。ところが、米国の消費者は、「1万ドルなら買えるけれども、2万ドルでは買えない」ということになって、この自動車は売れなくなります。こうして、日本の輸出産業は大打撃を受けることになりました。
  31. ^ 31.0 31.1 「バブル」は「泡」のことです。泡のように中身がないのに大きく膨らんで、ちょっとしたことではじけてしまうことをたとえています。
  32. ^ 景気が良いかどうかは、GDPが前の年よりもどれだけ大きくなったかということで表します。これを、経済成長率といいます。これは、だいたい3%程度成長していれば、普通に成長しているとされます。高度成長時代の日本は10%程度の成長をしていました。しかし、バブル崩壊後、日本は30年間平均1%程度の成長しかしていません。欧米各国が3~5%成長しているのに比べると異常と言ってよいでしょう。
  33. ^ 天皇の名前を元号で呼ぶのは崩御された後だけなので、「平成天皇」という呼び方は正しくありません。

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