「中学校社会 歴史/戦国時代と安土桃山時代」の版間の差分

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戦国大名たちは、荘園領主の支配を認めず、荘園だった土地を自国の領土とした。people
 
== 信長の台頭 ==
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検定教科書によっては、「朝鮮侵略の際に、儒学の一派である朱子学(しゅしがく)が日本に伝わった。」というような記述もあるが、朱子学じたいは鎌倉時代ごろには既に日本に伝わっている。
朝鮮出兵の当事、朝鮮王朝が官学として朱子学を採用していた。江戸時代に日本で朱子学が、はやることになる。江戸以前は、あまり朱子学は、はやらなかった。儒教についても同様で、古代から日本に伝わっており、けっして朝鮮出兵で日本に儒教が伝わったのでは無い。江戸時代に朱子学のはやるきっかけの一つの可能性かもしれないが、可能性であり、定かではない。
 
== 安土・桃山文化 ==
信長が生きてて影響力の強かったころの安土文化(あづち ぶんか)と言います。信長が安土城(あづちじょう)を建てさせたころの文化だからです。秀吉の時代の文化を桃山文化(ももやま ぶんか)と言います。「桃山」とは、秀吉が築いた伏見城(ふしみじょう)の、のちの時代の地名です。安土文化と桃山文化を合わせて安土桃山文化(あづちももやま ぶんか)と言います。
 
* 茶道(さどう)
[[Image:Sen no Rikyu JPN.jpg|200px|thumb|千利休<br>(画:長谷川等伯)。利休は、のちに秀吉の怒りを買い、自害を命じられ、自害した。]]
室町時代に生まれた茶の湯は、<big>千利休</big>(せんの りきゅう)により、質素さや簡素さなどの「わび」(侘び)を重んじる、「侘び茶」(わびちゃ)とよばれる茶道(さどう)へと発展した。
織田信長のころから、めずらしい茶器(ちゃき)が好まれるようになった。朝鮮出兵のときに陶工を捕虜として連行した理由の一つには、このようなことがある。
 
千利休により、妙喜庵待庵(みょうぎあん たいあん)などの茶室が造られた。(※ ウィキペディアに茶室内部の画像が無いので、外部で探してください。)妙喜庵待庵は国宝になってる。妙喜庵待庵の茶室の広さは、わずか二畳しかない。
 
* 絵画
[[Image:Kano_Eitoku_002.jpg|330px|thumb|left|『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)、狩野永徳。]]
 
ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)が発達した。<big>狩野永徳</big>(かのう えいとく) や 弟子の狩野山楽(かのう さんらく) などの 狩野派(かのうは) の画家が活躍した。ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)を合わせて障壁画(しょうへきが)という。
 
狩野永徳の作品の『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)が有名。
 
ほかの派の画家では、長谷川等伯(はせがわ とうはく)が有名。
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[[画像:洛中洛外図左.jpg|thumb|center|700px|『洛中洛外図』(らくちゅうらくがいず)。狩野永徳の作品と、されている。]]
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* 南蛮文化
南蛮貿易により、ヨーロッパの医学・天文学・印刷技術が日本に伝わる。
 
パン(pão)やカステラ(pão de castela)、カボチャ、カッパ、カルタ(carta)、テンプラ(Temporas)、たばこ(tabaco)、ボタン(Botão)が日本に伝わる。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。「pão」や「carta」などは、おぼえなくてよい。)
 
「カステラ」の由来は、有力な説はポルトガル語でCastelaがスペインのカスティーリャ地方のことだが、カスティーリャ地方のパンケーキという意味でカステラが日本に伝わって、日本語の「カステラ」になったという。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。)
 
逆に日本からの輸出では、銀や刀や茶などが輸出され、catana(「カタナ」、刀のこと)などのポルトガル語の由来になった。屏風がbiomboに、坊主がbonzoに、伝わった。
 
* 芸能
浄瑠璃(じょうるり)と歌舞伎(かぶき)
[[画像:Shitahaku_kejo.jpg|thumb|150px|三線(さんしん)]]
:* 三味線(しゃみせん)と浄瑠璃(じょうるり)
琉球から 三味線(しゃみせん)のもとになる三線(さんしん)が日本に伝わった。日本で 三味線(しゃみせん)として発展した。民衆のあいだでは、三味線の音色に合わせて、人が物語をかたるのを見て楽しむ浄瑠璃(じょうるり)が流行る。この浄瑠璃は、さらに発展し、人の代わりに人形を使う人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)へと発展した。
 
[[File:Izumo no Okuni.jpg|thumb|left|出雲(いづも)の阿国(おくに)。歌舞伎踊り。(かぶき おどり)で、念仏踊りをしている。 『国女歌舞伎絵詞』(くにじょ かぶきえ ことば)]]
:* 歌舞伎(かぶき)
:「出雲(いづも)の阿国(おくに)」という女が始めた歌舞伎踊り(かぶき おどり)が人気(にんき)になる。出雲とは、今でいう島根県。当時は異様な服装や行いをすることを「かぶく」(傾く)と言っていた。
 
のちの江戸時代には歌舞伎は演劇となっていき男だけが歌舞伎を行うことになるが、この安土桃山時代には女が歌舞伎踊りをしていた。
 
 
衣服では、小袖(こそで)が普及していった。木綿(もめん)の衣服が、麻にかわって一般的になった。民家の屋根には瓦屋根(かわら やね)の様式が京都などでは増えていった。
 
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[[Category:中学校歴史|せんこくしたいとあつちももやましたい]]