「中国史」の版間の差分

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現在の[[w:陝西省|陝西省]]あたりにあった[[w:秦|秦]]は、戦国時代に着々と勢力を伸ばした。勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする[[w:法家|法家]]の思想を採用して、富国強兵に努めたことにあった。[[w:始皇帝|秦王政]]は、他の6つの列強を次々と滅ぼし、[[w:紀元前221年|紀元前221年]]には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王を超える称号として[[w:皇帝|皇帝]]を用い、自ら'''始皇帝'''と名乗った。
 
始皇帝は、法家の[[w:李斯|李斯]]を登用し、[[w:中央集権|中央集権]]化を推し進めた。このとき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する[[w:郡県制|郡県制]]が施行された。また、文字・貨幣・[[w:度量衡|度量衡]]の統一も行われた。さらに、当時[[w:モンゴル高原|モンゴル高原]]に勢力をもっていた[[w:遊牧民族|遊牧民族]]の[[w:匈奴|匈奴]]を防ぐために[[w:万里の長城|万里の長城]]を建設させた。さらに、軍隊を派遣して、匈奴の南下を抑えた。また、嶺南地方(現在の広東省)にも軍を派遣し、この地にいた百越諸族を制圧した。しかし、このような中央集権化や土木事業・軍事作戦は人々に多大な負担を与えた。そのため、[[w:紀元前210年|紀元前210年]]に始皇帝が死ぬと、翌年には[[w:陳勝・呉広の乱|陳勝・呉広の乱]]という農民反乱がおきた。これに刺激され各地で反乱がおき、ついに秦は[[w:紀元前206年|紀元前206年]]に滅びた。
 
秦が滅びたあと、[[w:劉邦|劉邦]]と[[w:項羽|項羽]]が覇権をめぐって争った([[w:楚漢戦争|楚漢戦争]])が、[[w:紀元前202年|紀元前202年]]には、劉邦が項羽を破り、[[w:前漢|漢]]の皇帝となった。劉邦は、始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗したことから、一部の地域には親戚や臣下を王として治めさせ、ほかの地域を中央が直接管理できるようにした。これを[[w:郡国制|郡国制]]という。しかし、[[w:紀元前154年|紀元前154年]]には、各地の王が中央に対して[[w:呉楚七国の乱|呉楚七国の乱]]と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、結果として、中央集権化が進んだ。[[w:紀元前141年|紀元前141年]]に即位した[[w:武帝 (漢)|武帝|]]は、国内の安定もあり、対外発展を推し進めた。武帝は匈奴を撃退し、[[w:シルクロード|シルクロード]]を通じた西方との貿易を直接行えるようにした。また、[[w:朝鮮半島|朝鮮半島]]北部、[[w:ベトナム|ベトナム]]北中部にも侵攻した。これらの地域はその後も強く中国文化の影響を受けることとなった。また、武帝は[[w:董仲舒|董仲舒]]の意見を聞いて、[[w:儒教|儒教]]を統治の基本とした。これ以降、中国の王朝は基本的に儒教を統治の基本としていく。
 
しかし、度重なる軍事行動は、人々の生活を苦しめた。[[w:8年|8年]]には、[[w:王莽|王莽]]が皇帝の位を奪って、一旦漢を滅ぼした。しかし、王莽の政治はよくなかったので、各地で反乱が起きた。結局、漢の皇族の血を引く[[w:光武帝|劉秀|]]が、漢を復興させた。この劉秀が建てた漢を[[w:後漢|後漢]]という。王朝初期には雲南に進出し、また、西域に班超を派遣し、シルクロードをおさえた。だが、後漢は豪族の連合政権的なところがあり、政治は安定しなかった。
 
===魏晋南北朝時代===