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===隋唐帝国===
中国を統一した[[w:隋|隋]]の[[w:文帝 (隋)|文帝]]は、[[w:均田制|均田制]]・[[w:租庸調制|租庸調制]]・[[w:府兵制|府兵制]]などを進め、中央集権化を目指した。また同時に[[w:九品中正法|九品中正法]]を廃止し、試験によって実力を測る[[w:科挙|科挙]]を採用した。しかし、文帝の後を継いだ煬帝は、江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために、民衆の負担が増大した。このため農民反乱が起き、[[w:618年|618年]]に隋は滅亡した。
 
隋に代わって、中国を支配したのが、[[w:唐|唐]]である。唐は基本的に隋の支配システムを受け継いだ。[[w:626年|626年]]に即位した[[李世民w:太宗|太宗]]は、租庸調制を整備し、律令制を完成させた。唐の都の[[w:長安|長安]]は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。唐時代には、[[w:ゾロアスター教|ゾロアスター教]]・[[w:景教|景教]]・[[w:マニ教|マニ教]]をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も、唐時代の文学は最高のものとされる。
 
[[w:712年|712年]]に即位した[[w:玄宗|玄宗]]は国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力が置かれた。これを[[w:節度使|節度使]]という。節度使は、後に軍権以外にも、民政権・財政権をももつようになり、力を強めていく。[[w:763年|763年]]には、節度使の[[w:安禄山|安禄山]]たちが[[w:安史の乱|安史の乱]]と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は何とか鎮圧されたが、各地で土地の私有([[w:荘園|荘園]])が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。結局、政府は土地の私有を認めざるを得なくなった。結果として、律令制度は崩壊した。[[w:875年|875年]]から[[w:884年|884年]]には[[w:黄巣の乱|黄巣の乱]]と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜した。このような中、各地の節度使はますます権力を強めた。[[w:907年|907年]]には、節度使の1人である[[w:朱全忠|朱全忠]]が唐を滅ぼした。
 
===五代十国・宋===